惚れてしまえば、アバタもエクボと言う。熱くなった男と女は、ブレーキが効かなくなった列車のように、停まることなく走る。“プッ”と出たオナラでも“カワイイ”とか言う。そうして、ああして、こうなって、私の知る二人は今区役所に離婚届を出そうとしている。Why何故か、いざ一緒になってみれば、いちいち、一つ一つが気に入らない。カワイイと言っていた、お互いのオナラも、ダラシナイサイテーとか、ヤメテヨサイアクとなり、惚れたアバタもただのシミにしか見えなくなる。ある劇作家は、「幸福は、ほんのすぐそばに、息を殺して待っている」と言う。又、「幸福には翼がある。つないでおくのはむずかしい」と、シラーという人がシラーと言っている。長引くコロナ禍の中で、いままでよりお互いを見る時間が増えた。付き合っている男女、同棲中の男女、結婚したばかりの男女。もう、うんざりするほど一緒にいる夫婦。(同性の場合もある)惰性という二文字にその身をまかせている人もいる。コロナ禍でお互いの魅力を新発見して、YESコロナの人もいれば、当然その逆の人もいる。あ~やんなっちゃった、一日中家に居るなんて、亭主は元気で留守がいいのに、あのCMが懐かしいわ、確か“タンスにゴン”だったわと。センベイかなんかバリバリ食べ、ゲームをしながらゴロゴロしている亭主を見ている。キャーヤッタァーとか叫んで見ていたオリンピックは、もう忘れてしまった。遠い昔のイベントだ。“忘却なくして幸福はありえない”なんてことをある作家は書いている。私は民衆は熱狂して、冷めやすいと書いたが、クール(賢い)であることを忘れていた。オリンピックで人気をUPさせようと、大金を使った政権の支持率が、軒並み最低となった。政権べったりのNHKや読売でも支持は落下だ。民衆はクールだったのだ。if(もし)オリンピックを見てなかったら、10%台の支持率が出ていたかも知れない。油断大敵今度の衆議院選挙では、アッとオドロク結果が続出するはずだ。その前に政権は顔を替えるだろう。壁にしがみつく指を、一本一本取りはずすのだ。俺はもっとやりたいんだ、ダメだあんたじゃすでにオプソ(終り)なんだよと。もう、面倒を見きれない。アバタもエクボじゃない。「幸福とは、そのまま変わらないで続いてほしいような、そんな状態である。」(幸福論)一度手にした巨大な権力を、潔ぎよく手放す権力者はいない。よくつく、ずっとつく、しがみつく、なのである。「イカロス」というドキュメンタリー映画を見て、やっぱり合点したことがある。今度のオリンピックで世界新記録が殆ど出なかった。特に陸上十種目競技とか水泳や重量挙げなどだ。スポーツ大国アメリカとロシア(今回は国として出れない)は、散々な記録だった。アメリカは陸上のフィールドで金メダルを奪ったのは、確か1600メートルリレーだけだ。Why何故か、それは、ドーピングをしていないからだ。イカロスという映画は、そのドーピングが国家プロジェクトとして、行なわれていたことを精密に描き出した。科学者たちは命がけでドーピングを行なっていたのだ。又、知りすぎた人間は……。今回ロシアはROCという連盟で出場した。金メダルを奪っても国歌は流れない。「あるアスリートの告発」というドキュメンタリー映画では、アメリカの女子体操選手たちが、一人の小児性愛者の医師による、性的スキャンダルを告発した。体操連盟の医師が治療という名のもと、長い間何千人もの子どもたちを犠牲にした。今回のオリンピックに出場した、スーパースターの体操選手もその一人であった。オリンピック前医師は有罪になっていた。しかし精神的なストレスが原因で、金メダル有望の種目をパスした。最後に平均台に出場して銅メダルを手にした。私はオリンピックというものが、かわいそうになってきた。日本の選手たちが金メダルを一個奪ると1200万円以上も手にすることを知った。フェンシングの選手はスポンサーから一億円をもらった。ヤメロヤメロ、ヤメダ。106人出場して30人位が棄権したマラソン。私はいちばん最後まで走り抜いたビリの選手に金メダルを送りたい。今度のオリンピックが、今度の衆議院選挙と重なる結果を暗示する。マサカ、マサカが起きるはずだ。民衆は、パンとサーカスにだまされない。コロナウイルスにだまされない。誰れが何をしたか、誰れが何を語ったか。混乱を極める。河野太郎、西村康稔、田村憲久を誰れが選んだか。他の大臣たちは何をしているのか。その存在と、その名前すら浮かばない。「人間は本当に落ちるところまで落ちると、もはや、他人の不幸を喜ぶ以外の楽しみはなくなってしまう。(ゲーテ)今やそこまで落ちている。♪~惚れて振られた 女の心 あんたなんかにゃ わかるまい……。森進一の歌を明け方に聞くと、逃げを打つ人間が見えて来るのだ。世の中には死ぬことよりも、つらいものがある。それは生きて行くことだ。最後まで走り抜く、歩き抜く、這ってでも辿り着く。それが本当の金メダルなのだ。あ~、もしもし俺だけど、弁護士を紹介しろってか、いよいよ泥沼に向っている。一度嫌いになったものが、元に戻ることはない。私はヨロズ相談にのっている。そのためにドキュメンタリー映画をこれでもかと見て勉強しているのだ。事実は小説より奇なり。 (文中敬称略)
2021年8月14日土曜日
2021年8月6日金曜日
つれづれ雑草「パンとケーキ」
ノドチンコがブチギレるんではないかと思うほど、アナウンサーは絶叫する。金メダルだぁ~、やったぁ、金メダルだぁ~。私はスポーツ大好きであるから、当然オリンピックそのものは大好きだ。といって私はナショナリストではないので、ニッポン、ニッポンとばかりは応援しない。日本選手よりも小国の選手を応援する。一着に輝いた選手より、一周おくれでも、ヘトヘトになってゴールする選手に拍手する。各スポーツ協会は、莫大な強化予算をもらって、スポーツ選手を発掘して育てる。勿論、恩師や友人、知人、ご近所の人の熱い支援もある。オマエウルセイんだよ、と思っている松岡修造は、とにかく暑苦しい奴だ。だから私はこの男が出ると、すぐにテレビを他のに変える。日本人の金メダル候補を見ていると、古代ローマ時代の剣闘士(グラディアートル)を思い起こす。為政者たち(今回の場合は日本国政府とそのリーダーである)は、自らの失政を隠すために、愚民政策をする。食糧をばらまき、剣闘士たちが、死闘するのをコロシアムに集めた大観衆に見せる。人間対人間、人間対ライオンやトラなどの野獣との闘いもある。闘いに負けた者は、為政者が握った拳の中から、親指を出し下に向けた合図と共に、大観衆は、殺せ! 殺せ!の大合唱を浴びせる。そして殺され、野獣の餌食となる。歴史上、帝国や王国と名のつくもので、滅亡しなかったものはない。(形ばかりの王政を残しているが)つまりパン(食糧)とサーカス(娯楽)によって結局は滅びる。(詩人ユウェナリス)観衆とは熱しやすく冷めやすいものである。前回の金メダリストの名を何人憶えているだろうか。強化費という食糧をたらふくもらった各スポーツ協会は、金、銀、銅メダルを追う。今回の日本では金こそがメダルであって、銀や銅の選手は、あの円谷幸吉選手のように、責任を果たせずに申し訳ありませんと涙を流す。金メダルを目指す選手を見ていると、戦時中の肉弾三勇士とか、神風特攻隊を連想する。見事敵をやっつけて金メダルを奪っても、そこに笑顔はない。息をすべて失ったかのように、深い、深い、呼吸をする。銀とか銅だと、もう敗者のように言葉を失う。バカなインタビューアーが、未だゼイゼイしているのに、つまんない質問を長々とする。日本刀でブッタ斬ってやりたいと思う。スケボーとか、サーフィンとか、遊び心でやっていた少女や若者は、笑顔がいっぱいである。金メダルを背負わされていないからだ。金メダルは恋人です、なんて言える。ユニフォームさえ着ていない。これでいいんだよと思う。元々は参加することに意義がある。としてオリンピックは始まったのだから、新聞の各国メダル獲得表も、本当は禁止であったはずだ。私はいちばん下から見る。名も知らなかった小国に、銅が一つ、銀が一つ、金が一つだとよろこぶ。かつてのスポーツ大国や日本は、肉をバンバン食べて、世界中のいいコーチをつけて、科学的に選手を発掘、育成する中国にメダル数で、全然かなわなくなった。この差はどんどん広がって行くだろう。走力、跳躍力、投擲力、スポーツの原点である。十種競技で日本人はそれほど進化していない。オイテケボリだ。卓球とか、バトミントン、テニス、スケボー、サーフィンのように道具を使うものとか、体操や柔道という伝統的なものでメダルの数を増やす。道場とかマット上は畳の上で育ったから得意だが、フィールド競技はダメだと思う。根性論ではなく、食生活も含め、もっと科学的に練習することだ。女子体操の村上茉愛選手が床運動で銅メダルを得た。私はこの選手が立って歩けないほど体中を壊し、負け続け必死にリハビリをする番組を数年前に見た。身長148センチ、決して足は長くない。太くて短いと言ってもいい。が、この選手は底抜けに明るく、前向きで、悔し涙を流しながらも笑っていた。神の代わりがお母さんだった。村上選手に希望を与え続けた。だから奪ったではなく、得たと言いたい。すばらしい笑顔に、いちばん感動を得た。国民というのは冷たい。ずっと日本中を感動させてきた、内村航平選手が、鉄棒でミスをしてメダルを逃した。やっぱり世代交代だ、もう橋本大輝選手の時代だとなる。内村航平選手へのいままでの賛辞はまったくなかった。オリンピックがすすむ中で、為政者は、皇帝ネロになったが如く、次々と悪政を進め、コロナ禍は拡大し、自力にて治療せよとなった。死にそうになった人しか病院に入れない。少年院には、初等、中等、特少(特別少年院)のランクがあるが、コロナ感染者は、特少でないとすぐに病院に入所できない。(他に医療少年院がある)ニッポンガンバレ! は、もうすぐ終り。熱しやすくて、冷めやすい国民は、猛暑の中で我にかえり、ニッポンヤバイ! となる。アーメン・ソーメンどうかコロナ禍が……。と願うのだ。パラリンピックは(?)非情な国のリーダーの目は、すでに自分自身のことしか考えていないようだ。それにしても、何故コロナの問題解決のために、科学者たちを頼らないのだろう。養老孟司さんとか山中伸弥教授、福岡伸二教授とか。多くの分野にすばらしい学識研究者がいる。私は今、チリの映画「盲目のキリスト」を見始めた。実に静かだ。暑苦しい松岡修造がいないのがいい。スポーツはまず、かけっこだ。少年たちの走力が弱くなっていると調査の数字が出ていた。映画を見ながらすする、深夜のソーメンは格別に旨い。白いメダルだ。(文中敬称略)
2021年7月31日土曜日
つれづれ雑草「必死」
つれづれ雑草「必死」
勝負事に絶対はない。と言うよりこの世に絶対は一つしかない。それは“必死”だ。生あるものは必ず死ぬ。これだけは皆平等だ。必死にがんばるという言葉がある。文字通り死ぬ気で目標に向かうという崇高な行為だ。余力を残して決勝で全力をと思って、金メダル候補の瀬戸大也選手が、400メートル個人メドレーで予選敗退した。0秒32の差で8位になれなかった。4種目の自由型を流しながら泳いでいた。他の選手たちは必死で泳いだから瀬戸大也は負けた。以後どのレースでもメダルがとれなかった。調子が狂ってしまったのだ。その逆に奇蹟が起きた。チュニジアの18歳、アハメド・ハフナウーイ選手は予選も必死で全体の8位で決勝に、そして更に必死に泳いで、2位に0秒16の差で勝ち、金メダルをとった。水泳王国アメリカでもオーストラリアでもない、躍進著しい中国でもない。政情不安で国内混乱の中から出場した、チュニジアから金メダルなんて、神も信じられない出来事だった。オーマイゴッドだ。余力を残してという甘い気持ちは、必死抜きによって、水泳ニッポンを金メダルなしに沈めた。ニッポンの負けに選手は信じられないを連発した。バカ者め必死にがんばらない人間に栄光はない。金メダルラッシュといっても、半分はお家芸の柔道だ。その柔道も国の威信をかけ100キロ超級では三位もなれなかった。必死が持続しない。つまりヘトヘトだった。柔道もポイントかせぎのスポーツになってつまんなくなった。スケボーの13歳の少女に専門のコーチはいない。強化費もない。でも少女の栄光は楽しい必死で、大逆転して生まれた。ビーチバレーは砂場の遊びでやめた方がいい。美しくない。必死が見えない。サーフィンは会場の海の色がすこぶる汚いので、見る気がしなかった。六チームしか出場しない野球に何の意味があるのだろう。それもプロの選手だ。やめた方がいい。オリンピックとは“必死の美”が感動を生む。仕事だって同じだ。まあこんなもんでいいかと、勝負に行けばほとんどプレゼンで勝てない。マムシのようにしつこく、一夜にして全部やり直す。必死になってこそ勝てるのだ。勝負は一位が全て、第二位はなぐさめでしかない。“愛の告日”も必死が伝わらないと一緒になれない。現在ほぼ5分に一組ぐらいが離婚をしているらしい。男は浮気をする。女性が不倫をする。がある意味、文学的には健全だ。一人の男性、一人の女性とずっと性生活なんて、ウソ以外何者でもない。男女の不倫は、東京中のホテル、連れ込み旅館の上得意だ。東電OL殺人事件みたいに、超一流企業の高学歴の人間が、夜は着替えて変身し客を求める。金だけではない女性も男も実は変態な人が多い。昼はエリート夜は街に立ちつくす。体いらんかねえ~と。そんな人たちも必死なのだ。解離性同一性障害なのか、自分の中のもう一人の自分が、夜な夜な現れるのだ。昨夜佐野真一の本で読んでいた、「東京OL殺人事件」を題材にした映画を再度見た。ネパール人ゴビンダさんが冤罪で捕まり、何年も刑務所にいたが、必死で無罪を訴えていた人たちの努力で、解放された。つまり真犯人はどこかにいるか、死んでいる。ある賢人は、「モノはね、壊れたら捨てるのではなくて、直すものなんだよ」と言う。“甘い嘘よりも、苦い真実”。陶芸の世界に“金継ぎ”というものがある。壊れた陶器も金継ぎをすればより強くなる。父親も東京電力のエリート、自身も超エリート。プライドというものから、実は必死で逃れたかったのかも知れない。一日の目標は四人の客を引くことだった。きっとSEXすることが金継ぎだったのだろう。克明にノートをつけていた。会社の仕事のように。コロナ禍はいよいよ拡大をする。オリンピックもいよいよ陸上が始まり、オリンピックらしくなる。が、日本人はマラソンか400メートルリレー、競歩位しか期待できない。より速く、より高く、より遠くへ。それに対しては、いくら必死になっても世界には通じない。つまり身体能力は世界のレベルになっていない。昨夜10000メートル競走を見たが、一着のエチオピア選手とは、一周もおくれていた。バドミントンの桃田選手、テニスの大坂選手などは、必死以前の問題があったようで、まるで別人だった。日本にもメンタルトレーナーが必要だ。私の体をメンテナンスしてくれる、平塚の鍼灸の達人は、円盤投げの選手でインターハイに出場したとか。でも日本人は全然世界レベルに達していないので、残念ながら応援する選手はいない。槍投げも、砲丸投げやハンマー投げも。これらの競技こそ肉体の祭典、オリンピックの正当な種目だ。ある雑誌の調査によると、次の衆議院議員選挙で菅政権は終る。与党は大敗するとあった。やはりオリンピックは無理筋だった。菅総理は昨夜会見をしたが、目は死んだ魚のようだった。鯵(アジ)に似ていた。必死を怠った人間は、きっと落選する。歴史が激変する気がする。親愛なるコピーライター、赤城廣治君が、熊本城をビジュアルに使ったポスターに、「籠城じゃ。」家にいよう。みんなで打ち克とう。というコピーを書いて栄誉ある東京コピーライターズクラブ(TCC)の、審査委員長賞を受賞した。この男ほど、必死に仕事する人間はいない。皆さん、必死で家に籠城を、つまりステイホームを。栄誉も栄光も、奇蹟も、必死にやった者のみに与えられる。(文中敬称略)
2021年7月23日金曜日
つれづれ雑草「血だらけのキス」
中国でもイジメの問題は深刻のようだ。2019年製作、デレク・ツァン監督、中国・香港映画「少年の君」は、現代中国の受験問題、校内のイジメ問題、社会の底辺で生きる少年問題や、格差社会を正面から描いた話題作である。中国で興行収入280億円近くを叩き出した。青春映画ジャンルでは、歴代第一位、数々の賞を受賞した。先週日本で封切られた。私は封切りを待ちわびていたので、すぐに新宿武蔵野館に行って観た。韓国映画の名作「息もできない」に匹敵する作品であった。中国でも韓国でも国が映画産業に大きな予算をつけ、有能な人間を世界中に行かせて学ばせている。「少年の君」は、北京大学か精華大学を目指す一人の女子高生と、社会の底辺である、ストリートで生きる不良少年との物語なのだが、この映画は一筋縄ではいかない。暗く、重く、醜く、その先きがない。有名大学に入れたい母親は、犯罪スレスレの事をしながら女手一人で娘を育てている。娘は清楚で美しく成績も優秀である。それ故クラスメイトたちから妬まれている。ある日校内で一人の女生徒が飛び降り自殺する。校庭に横たわる死体を皆は言葉失い見ている。少女は自分の身につけていた服を持って近づき、死体に掛けてあげる。それを見ていたクラスメイトたちは、少女への憎悪を行動で示し始める。イジメられ傷つき家に帰る少女は、暗いストリートで集団暴行を受けている少年を見る。不良グループのリーダーは、血だらけの少年と、そこで起きたことを見た少女をひざまずかせ、キスをしろと命令する。血だらけの少年少女は暴力下の中でそっと唇を合わせる。一流大学を目指す暗い少女と、何も目指すもののなき不良少年は、こうして出会った。この映画には心からの笑いというものがない。未来というものがない。ただ現実というのが無数の受験生の中にある。中国の全国統一大学入試試験を“高考”というようだ。それに挑む生徒の集団には圧倒される。苦難の道に向かう囚人の群れのようであった。トンネルを抜けると、そこはもっと長いトンネルだった。人生というものは、キリストの如く、“苦難の道”である。なかなかイエスとはいかない。だがしかし泣いてばかりではいけない。ボヤイてばかりもダメだ。与えられた運命線の上をガッタン、ゴットン進むのだ。宇宙に旅する時代がすぐそこに来ている。世界の大金持ちたちは、今後こぞって行くだろう。何を感じて地球に帰って来たのかは分からないが、おそらく次の金儲けを思いついたのだろう。オメーラ地獄へ墜ちろといずれ神は命じるだろう。ちなみに地獄へは無料で行ける。税金を払わずに大儲けして来たから、八大地獄へご優待だ。「少年の君」あるいは、「君の少年」誰にも淡い恋の思い出はある。コロナ禍の中でそっと思い出すのもいいと思う。岩井俊二監督の「ラストレター」は、オススメだ。島根県松江市の海岸で、キスの投げ釣りをしていた人に、な、なんと2メートル、125キロのマグロが掛かった。格闘すること8時間、釣り人たちの手をかりて見事釣り上げた。(木曜日のニュース)キスがマグロに大変身した。「CURE」という黒沢清監督の昔の代表作を見た。CUREとは、“治療”という意味がある。主役の役所広司が若々しい刑事を演じている。人間には潜在的に殺意がある。かつて大学で心理学を学んだ一人の男がいる。催眠療法を学んだその男自体が、自分から離脱している。その男と接すると、例えばいままで仲良かった夫婦が、恋人同士や警官同士、会社の仲間が、そして刑事までもが、突然仲間を殺してしまう。人間は大なり小なり身近な存在に、潜在的に殺意を持っている。今では世界的監督となった黒沢清だが、私はこの作品がいちばん不気味だと思っている。小栗旬と中村獅童が、本人と分身の役を演じた「隣人13号」という作品もいい。15年以上前の作品だ。小学生の頃醜いイジメを受けた少年が、オトナになり自分をイジメた奴等に復讐する。イジメのリーダーは若い頃暴走族の総長になり、その仲間の女性と結婚して、堅気になり大工職人となって、息子と妻と三人でアパートに住んでいる。その家族が住んでいるアパートに一人の男が引っ越して来る。部屋の番号は「13」だ。小学校の頃のイジメのトラウマを背負ったその男には、やさしい自分と、凶暴な自分が共生している。井上靖雄監督2005年の作品だ。“反省だけならサルでもできる”と広告界の巨匠が書いたが、私はこのところ過去を思い出しては、サルのように反省している。ヤキが回ったのかも知れない。16年前の小栗旬の全裸のシルエットは実に美しかった。その気がある人にはぜひ。映画も実に良く出来ている。目の前で善意ある言葉をかけている人の中にも、殺意が秘められている。人間とは恐ろしいとつくづく思うのだ。そして呪われたオリンピックが開催される。何が起きるかは、疫病神に電話して聞くしかない。あ~モシモシ……モシモシ……。
(文中敬称略)
2021年7月17日土曜日
つれづれ雑草「柿の種」
先生はやっぱり死んでしまったのだ。7月16日日経新聞の夕刊「追想録」というところに、小林亜星先生と、立花隆さんの二人が載っていた。人間は太ったら早死にするという、医学界並びに社会通念を、見事にバカ言ってんじゃないよと太りまくって、八十八歳の喜寿を生きた。先生の大好物は何(?)と、先生の右腕か左腕の元ドラマーの人に聞いたら、それはですね、“新潟米で出来た柿の種”ですよと言われた。柿ピーじゃないのと聞けば、ピーは無しですと言った。青山にあるという、新潟米の柿の種を見つけ、ご自宅に送ったら、愛妻家の先生の奥様から、葉書が届いた。すっかりごきげんで、柿の種をポリポリしながら時を楽しんでいますと。先生は銀座の夜をこよなく愛していた、“永遠の慶応ボーイ”だったと思う。硬派でもあり、仁を大切にし、義を重んじた。銀座の筋者(ヤクザ)は、先生を見かけるとビシッとあいさつをした。倉本聡さん脚本の映画「冬の華」で、カラオケ大好き(映画では敵対する相手に、マイクを握られつづけ歌わなかった)の親分役を演じた。大きな組の系列の親分なので、相手からマイクを奪ってしまうと抗争になるので、組織のためにジッと我慢する。高倉健主役、池部良、小池朝雄、田中邦衛などが脇を演じた。クロード・チアリのギターが流れる。この映画が大好きである。モーツアルトの“ピアノ協奏曲第一番”を知った。(あるシーンで流れる)どこから浮かんだのか言葉のマジック。マハリクマハソタヤンバラヤンヤン(魔法使いサリー)ボバンババンボンブンボバンバババ(狼少年ケン)don don din don shubi da don(サントリー・オールド)ダンダンデイダンシュビイダアデン、ウイスキー飲みでこれを知らぬ者はいなかった。地球は回って、朝が来る。ウイスキーはそんな男の飲み物である。先生もきっとあの世を一回りして、ドカンと銀座に帰って来られるだろう。何より先きに奥様のところへは掟だ。私は新潟米の柿の種を用意する。これも掟だ。さようならを言うよりも、おかえりなさい親方と、ドラマーの知人と迎えたい。知の巨人と言われた立花隆さんの記事、八十歳没。私の大親友だった亡き友も、博覧強記であって知らない事はないのではと、思う知の巨人であった。カバンの中には、アサヒ芸能や週刊実話、哲学や宗教、宇宙関係などのぶ厚い本が、ゴッソリ入っていて、もの凄い速さで読んでは、ゴミ箱にポイポイ捨ててしまう。唯一住むところに置いてあった本は、“内田百聞全集”だけだった。立花隆さんは読んだ本はちゃんと、とって置いた。一度その蔵書の引越しをテレビの番組で見たが、まるで図書館移動と同じであった。“天皇と東大”という巨書を数年かけて読んだが、チンプンカンプンであった。無学な私には読むほどに分からなかった。一つ分かったのは、戦争を始めたのは、東大法学部卒で、戦争を終らせたのも東大法学部卒。つまり高級官僚は、現在でもほぼ全員東大法学部卒である。この国を奇跡的に復活させたのは東大法学部卒で、現代のように世界一の借金国にして、徹底的に駄目にしたのも東大法学部卒といえるだろう。勉強しかできないバカは、血の通った国をつくれない。立花隆さんが認めていた、最高のジャーナリストは故筑紫哲也さんだったようだ。自分の癌を告知されて喜ぶ人は余りいない。どうやって自分が死んでいくのか、それを知りたかったようである。何かの番組で日本で一番興味深く、おもしろかった政治家は、田中角栄だと言っていた。昨日深夜見たのに題名が思い出せない。スペイン語だったからだ。今夜しっかり探す。1800年代のスペインのひなびた農家に、軍隊が来て二人兄弟のどちらかを兵隊に差し出せと言う。父親は何故か一家の跡継ぎの兄の方を選ぶ。三年余りを経て兄は帰って来る。そしてキョーガクする。仲良かった弟が巨人症にかかっていて、身長が3メートル近くなっていた。一家は貧しい。このままだと食べていけない。弟は何人分も食べてしまう。そこで3メートル近い弟を“見世物”にして稼ごうと考え、街に出る。人々はその巨大さに言葉を失い、オドロキ、コインを投げる。そしてイタリアへ、フランスへと旅をする。実に切なく、悲しい旅だ。名作「道」を思い出す。医師は巨人症は内臓が人の何倍も早く病んで、早死にすると兄に言う。そして弟は死んで巨大な穴の中に埋められる。が、その墓は誰かによって掘り起こされて、取り去られてしまう。医学界の人間たちが、研究のために持っていったのではとの説が伝わる。あるいはどこぞの国の博物館にあるとか。巨大な弟は一度だけ女性とSEXをしようとする。が女性は……。題名は今夜きっと見つける。人の不幸は、密の味の素と言う。同情ぶっている人に、ちゃんと同情している人は少ない。大事故で人が死んだり、殺人事件があって幼い命が奪われたりした時、すぐに花やジュースや、カッパエビセンや、ビールなどを持って行く人々は多い。なんてかわいそう、ゼッタイ許せない、などと言いながらスマホで写真を撮ったりして、知人や友人に送っている。私はこういう人間たちを見るとバケツで水をかけてやりたくなる。同情はつづけてこそ同情なのだ。野次馬たちの同情が次の不幸を生むのだ。インターネットと言う悪い同情だ。(文中敬称略)
2021年7月9日金曜日
つれづれ雑草「ドンマイ・ドンマイ」
お姫様や大奥の女性たちは、きっと強かったという確信を見た。佐賀県のとある市、とある学校の体育館で、剣道有段者(二段、三段クラスの男子と女子2名)と、女子高校生薙刀部(一級、二級クラスの女子)が戦った。先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の各5人ずつ。これが実に面白かった。見応え十分だった。キェ~ィと剣士、ハリャーと女子、掛声はよく分からなかった。試合時間は3分3本勝負。面(メン)、小手(コテ)、胴(ドウ)、そして臑(スネ)だ。剣道に臑はないので、足に防具をつけている。地元の剣道連盟の剣士たちは、竹刀より長い薙刀対策が出来てない。高校生女子たちは、エイ、エイ、エ~イとか、ウキャ~、ハキャ~とか、大声を発しながら、剣士の臑を攻める。オメ~ン、コテ~、ドーと剣士は面、小手、胴を攻めるが、薙刀で防がれる。そしてキエ~イとばかり臑を攻め、一本! を取られる。男子剣士ヤバイ、マズイ、突きは危ないので禁止。長い薙刀を自由自在に操って攻めに攻め、守っては攻める。結局薙刀の3勝2敗だった。時代劇で見ていた、お姫様や大奥の女性たち、武家の女性たちの薙刀姿は、お飾り程度と思っていたが、とんでもないぞと思った。かなり前の映像だった。その次の大会は剣士たちが薙刀対策を練って、剣道の3勝2敗だった。人生を長くやっていると、臑に傷はつきものだ。弁慶の泣き所を薙刀で思いっきり切られると、飛び上がって悶絶するだろう。コロナが収束したら、大人たちの全国大会、それを見に行こうと思っている。剣道と薙刀はいい勝負のようだ。武士道の教本「葉隠」を生んだ佐賀の女性恐るべしだ。戦国時代最強だったのは、薩摩ではなく佐賀だったのではと、歴史家たちは分析している。薩摩は芋侍だが剣術がもの凄かった。佐賀は近代兵器を使用した鉋術に優れていた。話は変わる。去る日曜日近所の小学校に野球の応援に行った。雨のため試合開始が大幅に遅れていて、目指す試合の前の試合を見た。試合時間は一時間半と決まっている。少年たちは互いに整列して、遠く離れて大声を出さず一礼を交わす。公式戦なのでネット裏に公式記録員が三人。主審、副審三人の計四人で、いざプレイボール。ボール、ボール、ボール、打つ、エラー、ボール、ボールそして情は無用と打ちまくる。ボール、ボール、時々ストライク、あとはボール、ガツンとヒット。これを延々一時間十五分続けて一回の表32点入った。一回裏あっさりと終って、試合終了。32対?、監督、コーチ、応援の父兄たちは、ドンマイ、ドンマイ次があると、泣きじゃくる子供たちを励ます。でもって次の試合は私が目指す試合。プレイボールと試合開始、ボール、ボール、ボール、ドカーンと一発、ボール、ボール、バコーンと一発、ヤバイ、この先はつらくて、かなしいので書けない。32点までは取られなかったと思うけど。ドンマイ、ドンマイだ。いつもはいい球を投げるエースと、準エースが調子がよくなかった。最近女子選手もいてよく打ち、よく投げ、よく守る。それにつけてもよく雨が降る。カラ梅雨だと思っていたが、とんでもなかった。近所の名もなき中華店に入って新聞を広げていると、ギャ~、アジィ~と叫ぶオバサンがいた。いわゆる老夫婦だ。小籠包(ショーロンポウ)を一気に口に入れて、大惨劇となったのだ。熱い肉汁が老婆の口の中に充満した。水、水、水を飲めと老主人。目から涙を流す老婆。スミマセンとあやまるバイト風の女の子。ドンマイ、ドンマイとそれを見ている私であった。それにしてもNHKの天気予報士、斉田さんは苦手だ。まったく無感情で無表情。台風に大雨、竜巻に強風、大災害が来るやも知れない。何があっても、何人死んでも、ドンマイ、ドンマイ。◯×です。◯×でしようと、タンタンとタンタンメンなのだ。ムキャンキャンじゃなくて、ムキャンキャクでオリンピックを開催するとか。暗~い顔したこの国の顔。マスク、マスク、消毒、消毒の中でやるスポーツに、安全安心という言葉は使えない。裏社会に“ヤクな奴”という言葉がある。“疫病神”みたいな奴のことを表わす。現在この国で、“ヤクな奴”は誰か。言うまでもないだろう。こればかりは、ドンマイ、ドンマイとは行かない。みんな共倒れになってしまう。昨日東京に出ると、銀座のクラブのヒトが来た。写真家の人と話をしていた。マア座れよと言った。ある大箱店に復帰したとか。もうやってられない。政府や東京都に潰されてしまう。銀座は殆どフツーに営業してますからと言った。そうかがんばれドンマイ、ドンマイだ。でも行けないけどなと言った。
2021年7月3日土曜日
つれづれ雑草「雨音の中で」
私が眠るところの斜め上には、約2メートル位のプラスチックの屋根もどきがある。そこには雨どいがないのでスキ間から雨が落ちる。透明なその部分にドタバタ、バタバタ、バチバチと雨が叩きつけた。午前一時~四時半頃まで映画を見ていた。いつもは雨音も風流なもんだと言っているのだが、今朝のように大騒音となると、やっぱりちゃんとした屋根にしとけばよかったと思う。映画の音量はフツーは10か11なのだが、イジョーな日は18から20にしなければよく聞こえない。私の眠る所は、「方丈記」を書いた「鴨長明」の住まいより狭い。不眠症なので何かを見たり、聞いたり、読んだりと、たりだりを必要とするので、一階のキッチンのテーブルの横で横になる。壁にテレビ画面がくっついているので、それを見ながらが常なのだ。又、冷暖房機が現在2機しか稼働しておらず(一機は愚妻の部屋)四角いテーブル(お客用兼仕事用)と、長方形のテーブル(食事用)のスキ間が、眠る所となる。電気スタンドは自分の部屋にあるが、そこは今は資料室兼仮眠室など、マルチに使用している。(四畳半位だけど)狭い所では足手まといなので、懐中電灯を置く。家の中をアチコチふとんと枕を持って移動したが、今のスキマがすこぶる気に入っている。今日土曜日は平塚から鍼灸の達人の先生が来てくれるのだが、朝早くに電話が入り、平塚が大雨で大変な状態となり、本日は休診にとのことだった。スキ間が治療スペースになるのだが、今日はハリのない日となった。テレビをつけるとすさまじい雨の恐怖が拡大している。午後一時頃熱海の猛烈な山崩れ、土石流は家屋を根こそぎ飲み込んでいる。南極や北極が30度を超えたり、アメリカでは50度近い温度となったりと、地球温暖化の影響は、異常度をウサイン・ボルトより速く進めている。オリンピックはいつの間にか、中止か延期かではなく、無観客か有観客かにすり替わっている。いつもの日本流論点代えだ。雁首揃えていた専門家たちは、無視無視コロコロキンチョール。日当もらってルーチョンキだ。提言に決死の覚悟がない。雁首の中には一度も声を発することなく、まい日バイトの如く、日当もらって帰っている者も多いはずだ。「存在の耐えられない軽さ」こんな題名の映画があった。何度も書くがこの国は、地震帯の上にある国。四方八方が海、国土の半分以上が山の国。山を大切にしない、樹木の手入れを大切にしないから、同じ災害を繰り返す。海に敬意を表しないから同じ被害をくり返す。(被害にあった方々に心よりご冥福をお祈り申し上げる)コロナだオリンピックだと言っている内に、40年以上経った原子力発電所の運転がいつの間にか再開されている。東京電力の社員の給与が上がっている。「オオカミの皮をまとう男」というスペイン映画を見た。“あなたが何を食べているか、それを知ったら、あなたが分かる”美味礼讃にそんな言葉がある。主人公の男は四十歳位だろうか。雪深き山の中一人で暮らしている。家の周りには、粗末な十字架がいくつもある。誰かが住んでいたのか、誰かが来て死んでしまったのか。筋肉隆々、ヒゲもじゃの男は、自分で撃ち殺した獣の肉をむしゃぼっている。オオカミを殺し、その皮を山の下の村に行って売る。ずっと孤独だ。村に貧しい父娘がいる。父は姉を男に売る。生きていくために。娘は雪山の中で獣のような男の相手をする。多くを語らない男、娘は子を宿しており死産となる。娘は実は未亡人であって、子は村の誰かとの子であった。父は村人の噂を怖れて男に売ったのだ。その娘はやがて死ぬ。その遺体を雪ぞりに乗せ、男は山を下り父親にその事を正す。父親は謝罪の代わりに、美しい妹を嫁にと差し出す。村人たちとささやかな婚礼の式をする。父親は山に向う娘に、もしもの時はこれをと毒の入った袋を渡す。男を知らなかった美しい娘は、日々獣のような男の相手をする。そしてある日、雪山の中を逃げる。が山の中で男が仕掛けてあった、獣を奪るための仕掛けに、足をとられてしまう。やがて男に見つかり小屋に連れ戻される。半死半生の体を男は必死に温める。男は何も語らずにひたすら娘のために尽くす。美しい娘の澄んだ目はそんな男を見つづける。娘は何かを感じていたのだろう。しかし男の体には少しずつ異変が起きていた。この男の周辺に何があったのか、それを知っているのは山でしかない。空には不気味にハゲタカが群れを成して飛んでいる。中上健次の小説を映画化した「火まつり」を思い出した。何度見ても何故無理心中したのかが分からない。その答えは血であったのか。人間の本当の正体とは、何故私は私で、あなたが、あなたなのか。科学的に誰も証明できない。ニュースでは都議選のことを少し流していた。何かコントを見ているようであった。“私は当選したらすぐやめます”「議席を減らします党」の立候補者のポスターのキャッチフレーズに笑った。もう一人、“私はバカでしょうか?”京大卒。「愛の力党」都民の皆さん必ず清き一票を。
(文中敬称略)
2021年6月25日金曜日
つれづれ雑草「愛犬」
出血覚悟の食べ物といえば、“ノザキのコンビーフ”だった。長方体の中に小山のような肉の塊りがある。それを入れた缶の底には、変型T字型で大きな横穴のすぐれ物がへばりついている。コンビーフは少年の頃、超のつくごちそうだった。肉が詰まった胴体の下腹部分には、それを一周するように切り口専用部分があった。大きな横穴に入れられるように、下腹部に突起部分がある。アメリカ軍が戦場で缶切りがなくても中身が食べられるように、細密に工夫したのだろう。栄養も満点である。ウワァ~コンビーフだ、とよろこんで、底にあるT字型の先きの横穴に突起物を入れて、胴体の下腹をグルグルと巻く。この時、気持ちが早まると、胴体を切腹させるのに大失敗する。ブチッと途中で切れてしまうのだ。こうなるともう一大事だ。チクショウと短気を起こすと、指先きを怪我して鮮血にまみれる。コンビーフのガードはすこぶる頑丈なのである。なんとしてもコンビーフが食べたいと、道具箱から錐(キリ)とかペンチを持ち出し、血だらけになりながら、悪戦苦闘する。それでも肉の塊には到達できないのだ。初めに大きく深呼吸をし、心をしずかにして、いざお腹を切らしていただきますと会釈して、ゆっくりとおだやかにグルグルしないと駄目なのだ。こんがらがった夫婦間が、元に戻ることがないように、細心に事を運ばなければならない。先日釣り番組のテレビを見ていて、船の上で食べるコンビーフはサイコーだな、やっぱりノザキのコンビーフ。とつぶやいていたら、愚妻が二個買ってきていた。オッオオ、コンビーフだと手にするとかなり様子が変わっているではないか。切腹方式は危険だから(?)と、なんとフタがついていて、それをパコッと外すと、中に肉塊が悲しそうに入っているではないか、肉塊は自己主張を禁じられた、香港市民のように、身を固めている。出血するようなことはない。缶と違って重さも違う。軽くなってしまった。私の中のノザキのコンビーフとは別物であった。なんとなく味まで違ったようにかんじた。オッオオ、なんだ“都こんぶ”ではないか、私が映画を見ながら、むかしは映画館に行ったら、都こんぶをペロペロなめながら、こんぶについた白い粉を指につけてやはりなめる。酢こんぶの味がツーンと鼻に抜ける。映画と都こんぶは極上の味だとつぶやいていた。小さな長方体の都こんぶの箱が三個買ってあった。ヤッホー、サイコーだとよろこんだ。一本映画を見終ると、黒いジャージは白い粉だらけだった。歯と歯の間に入った都こんぶを楊枝で取りながら、お前久しぶりだったなあと言葉をかけた。「A Dog's Way Home ~ベラのワンダフル・ホーム~」愛犬家がこの映画を見たら、涙の洪水となるだろう。子犬の時からかわいがってくれた若者の家から、訳あって600キロも離れた所に連れて行かれる。成長した犬は自分の大好きな若者が住む、“自分の家”に向って苦難の道を行く。山あり、谷あり、狼あり、大雪や飢餓との戦い。車の洪水の中を行く。帰りたいんだよと、ひたすら臭いを頼りに向う。犬の嗅覚は人の一兆倍との説もある。そして二年半の月日を経て、自分の家に帰る。これだ、これが僕の育った毛布だと。若者は……家族は……。おそらく実話を基にしているのだろう。日本でも同じようなケースがいくつかあった。犬は人間を裏切らない。何百キロ離れていても、自分を愛してくれた人の臭いを忘れない。「DOG」という題Netflixで見られる。深夜この映画は見て泣いた。人間は平気で恩人を裏切るが、愛犬は決して裏切ることはない。海の男、ヨットマンたちが見たら、泣ける映画がある。「ダンケルク」だ。1940年フランス北端の町ダンケルクに、追い詰められた英仏軍、生と死の瀬戸際で陸から、空から、そして海から史上最大の救出の作戦が展開される。ドイツ軍は空から猛攻撃、若い兵士たちは桟橋の上で、ビッシリと身を寄せ合って恐怖と闘う。その兵士たちを救ったのが、数多くの民間人、ヨットマンたちだった。彼等はセールを外して救出に向った。空ではメッサーシュミットとスピットファイアが空中戦をする。次々とヨットに乗り移った若い兵士たちが遠くに見たものは、自分たちの故国だった。ドーバー海峡の荒海の上で、若い兵士たちは歓喜の声をあげた。戦争には大反対だが、戦争はいろんな物語を生む、コンビーフも、ヨットマンたちの勇気も。この映画はアカデミー賞を受賞した。名作「戦場のピアニスト」もぜひ。ドイツ軍将校も悪い奴ばかりではなかった。IOCの五輪貴族たちは、悪い奴ばかりだ。その悪臭にDOGたちは、吠えつづけるだろう。帰れ! 帰れ! と。大変お世話になった大巨匠小林亜星先生。正に小林“巨星”だった。先生との思い出は、もう少し月日が経ってから書きたいと思っている。
2021年6月19日土曜日
つれづれ雑草「人類の災典」
雨にも負けて、風にも負けて、権力にも脅しのすごさにも負けて、丈夫でない心を持ち、欲も出し、そっと怒り、いつも自分たちのことだけを考え、一日四合の酒を飲み、たくさんの肉と魚を食べ、あらゆることを自分の勘定に入れ、よく見極めて、そして忘れる。みんなからデクノボォと呼ばれ、ほめられずもせず、見向きもされない。そういうヒトに私はなりたい(分科会一員?)。人類の祭典オリンピックは“人類の災典”となった。政府の選んだ人が雁首を揃えた分科会:会長の尾身茂会長の提言は、予想した通り玉虫色だった。妥協の産物を生む、調整能力に優れた尾身茂会長は、オリンピックは“中止すべき”と断言できなかった。返り血を浴びることを怖れた。東に文句を言う委員がいれば行って麻雀をし、西に一言居士がいれば行って麻雀をしつつ説得をしたのだろうか(?)。否現在麻雀はポンだチーだと声を発するので、禁止かも知れない。ともあれ雁首たちの意見は“研究の成果”として少しは役にたったのだろう。人と人が会えば、ワクチン打った(?)があいさつ代わりとなった。えっ、打ってないの、ヤバイよあの人はと、同調圧力がかかる。この国の民は付和雷同する強い傾向がある。ワクチンではない、ワクチン風の薬の副反応が今後いろんな形で出るはずだ。老人たちの多くがそれを知る頃は、この世から旅立っている。幸い私は“ホタテアレルギー”なのでワクチンもどきを打つことは許されない。会社もやっていけない、店もやっていけない。その一人ひとりの命と、オリンピックの選手一人ひとりの命の重さは同じだ。アスリートはずっとこの日のために、血の出るような練習してきたからカワイソー。そう言うが、我々弱小企業も、レストランのオーナーも、中華店のご夫婦も、クラブやバーのママさんも、テレワークで仕事をするパパさんも、みんな、みんな職業の数だけ、血の出るような過酷な日々を送って来た。アスリート達と等しく“カワイソー”なのだ。カワイソーでないのは、莫大な利権のおこぼれを手にした“悪い奴等”なのだ。より速く。より高く。より強く。がオリンピックの目標だった。初めは未だ人類が未熟だったからだ。そもそもアマチュアが参加する祭典だった。徹底的にバカヤローな組織が生まれ、より多く賄賂を。より高価なプレゼント。より強情に(要求)。五輪貴族たちのための“災典”となった。話は代わって、国土計画に就職した「A」さん。90年代前半に国土計画からJOCに出向して国土計画を辞職後、そのまま再雇用されて経理を担当していた。その「A」さんは長野オリンピック(大赤字)の時、T氏から金庫番を命じられていた。以来ずっとオリンピックの金庫の中の動きを知っていたらしい。その「A」さんが、先日突然列車に飛び込んで死んだ。それを目撃したという人がいるというが、その人は出て来ない。遺書もない。ごくフツーに出社して行ったと家の人たちは言う。Why何故(?)なんだかサスペンス映画みたいだ。昨日深夜「南山の部長たち/KCIA」を見た。韓国映画はここまでリアルに権力と対峙するのかと感心した。今ブタ箱に入っている朴槿恵元大統領の父朴正煕元大統領が、最側近に食事中に暗殺された大事件をイ・ビョンホン主演で映画化した。日本も韓国もアメリカに全て支配されている(同盟国という子分)オセロのイアーゴは誰だ、という言葉が出る。2020東京オリンピックが、無事に終り(ありえないが)万才! 乾杯! ヤッホー、ブラボー、となることはない。イアーゴ(密告者)だらけの大会なのだ。あの店は酒を出しているぞ、あいつはワクチンを打っていないぞなんてことになる。オリンピックの時には、毎回ん十万個のゴム用品が用意されるというが、今回はいくつだろう。濃厚接触は禁止だけど。アドレナリンが多く出る選手は、男女問わず、ハケ口を求める。私たち市井の民はアドレナリンなどもう出ない。ハケ口も求めない。南無無辺行菩薩……南無安立行菩薩。雨ニモマケズ 風ニモマケズの最後は経文で終る。宮澤賢治先生の黒レザーの手帳には、南無妙法蓮華経の文字が、ページの中央にひときわ大きく書いてあった。今回のオリンピックに、仏様は味方しない。(文中敬称略)
2021年6月12日土曜日
つれづれ雑草「石に感動」
「THE STONE/石の仏、神の獣。西村裕介写真展」を六本木21_21DESIGN SIGHTギャラリー3に友人と行く。六月七日(月)である。アートディレクションは、巨匠井上嗣也氏、デザインは稲垣純氏である。全国を訪ね訪ねて撮影した、10数万点に及ぶ写真の中から、選び抜かれた30余点が見事にディスプレイされていた。午後四時頃に行きますと伝えていたので、井上氏、稲垣氏、そして西村さんが会場に来てくれていた。一ミリでなく、一ミクロンにもこだわる井上さん、稲垣さんのグラフィックデザインの最高峰のセンスが、西村さんが撮った、石仏、羅𣿮像、馬、犬、猿、蛇、羊、亀、蛸、猪、獅子、鯰、虎、などなどの石像写真と対決する。感性と感性ががっぷり四つとなり、誰が彫ったか分からない石像たちが、熱い息を発する。久々に興奮する展覧会であった。“石”が“意志”を持ち無言の言語となっている。すばらしい写真集が、リトルモア刊で発売されている。(8000円)会場を出る時に写真界の巨匠と会った。ウワァ~、〇〇さん久しぶりとなった。この写真家を使いこなすアートディレクターは、日本国で二、三人しかいない。猿がウォークマンをつけて、湖のほとりに立っている名作で有名だ。六月九日(水)観ておかねばなら吉永小百合さん主演の「いのちの停車場」を二時十五分から観た。レディースデーで館内は、女性客でいっぱいだった。金沢で訪問看護をする女医さんが主人公。東京の大学病院で救急医をしていたが、ある事で辞めて父親がやっている“まほろば診療所”に帰って来る。さまざまな苦難の病と共に生きる人たちを診て回る。あ~嫌だ嫌だ、なんて人間は汚いんだ、と思っている人は、吉永小百合さんの映画を観ると。あ~なんて人間はいい人なんだと心が洗われる。一年365日看病をしつづける人々は、私から見ると“神の領域にいる。”年老いた父や母、生まれながらの難病奇病、あるいは不慮の事故により、不自由になった夫や妻や、兄弟姉妹、そして愛する我が子。日本国中屋根の下で生きる家族の数だけ、何かしらの病がある。若くして事業に成功したのに、全身麻痺になってしまった男が言う(映画の中で)金はいくらでも出すからと。人は運を買うことはできない。“人生とは不公平なり”という。“好事魔多し”ともいう。“悪い奴ほどよく眠る”とも言う。ネバー・ギブアップだ。希望は人間だけが持てるものだから。今月中に来日すると言ったIOCのぼったくり男バッハ会長が訪日中止、七月に来日をすると延期した。そんな折来年の冬季五輪開催を目指したが途中で立候補を降りた、ノルウェーのオスロが、IOCのバカヤローこんなことやってられるか、という内容がどこからともなく流出した。とにかくゆすりにたかりである。空港は特別にしろ、滑走路で式典風に迎えろ、開会式には国王と面会させろ、その後にカクテルパーティを、その費用は王室かオスロ五輪委が出せ、車移動には専用道路を作れ、ホテルでは支配人が、季節の果実とケーキを持ってあいさつに来い。ホテルのバーは委員用に深夜も営業しろ、ミニバーには必らずコークを、競技スタジアムにはワインとビールを。当然ホテルは一泊ん百万円のツイン、ワインはあれこれ、シャンパンはあれこれと細かい銘柄、きっと毎晩美人とか美男子をと、秘密用語であったはずだ。五輪貴族はうす汚い者共なのだ。ひょっとしたら小池百合子都知事は、五輪返上を宣言するかも知れない。今のままでは、都議選は大敗北(都民ファーストの会)となる。中止を宣言してコロナと闘うと言えば、年を取ったジャンヌ・ダルクになれるはずだ。もっともジャンヌ・ダルクは処刑されるのだが。熱中症で救急搬送される人が増えて来た。救急医療の現場に、吉永小百合さんみたいな医師はいない。コロナで手一杯なのだから。飲食店のオーナーや店主、おかみさんたちの怒りは、頂点に達している。何をチンタラチンタラやってんだよ、早く給付金を振込めよ、何をスットコドッコイの事言ってんだよ。こんな中でオリンピックなんて、できる訳はないだろう。子どもにだって分かるだろう。バカも休み休み言え、こちとらはずっと休んでんだからヨオ。小池百合子はジッと状況を見ているはずだ。親分の二階幹事長も次があるか分からない。二人が組んでコロナ最優先、給付金援助最優先に、とやったら一気に拍手だ。オリンピックはやれないと思ったら、スパッとやめると言った言葉を思い出す。それにしても日本の政治ジャーナリストは、田崎史郎しかいないのか、顔が見たくないから、スイッチを変えるとそこにもいる。又、変えるとそこにいる。局をハシゴしている。収録を重ねている。展覧会で見た犬の石像には、哲理とか、真理を感じたが、政権の犬には、ヌメヌメしたナメクジのような気配しかない。目覚めよ大マスコミよ。奮い立てジャーナリストよ。何んのために政治家になったのか、思い出せよ。“青雲の志”を。昨日深夜「なぜ君は総理大臣になれないのか」という、ドキュメンタリー映画を見た。東大→官僚→さまよう野党の議員、17年間に及ぶ作品だ。国会議員になるということはとにかく大変だ。一家一族、全員、お願いします清き一票をの、積み重ねだのだ。選挙は近い。一言一句が当落に影響する。韓国では36歳の若者が、議員経験なしで韓国最大野党の党首となった。時代は動いている、若手准教授の著作、「人新世の『資本論』」がベストセラーなっている。(抜群にオモシロイ)“絶望は愚か者の結論なり”その教えを噛みしめている。(文中敬称略)