2021年10月23日土曜日
つれづれ雑草「キスしたら」
2021年10月16日土曜日
つれづれ雑草「無の価値」
アメリカの作曲家、ジョン・ケージ〈4分33秒〉は、ステージにでてきた演奏家が、一定時間、音を発しない。何も発さないという指示が書いてある。この作曲家は現代の音楽やアートに大きな影響を与え続けている。例えていうなら、一冊の本を読んでいたら、突然何も書いていない白いページが続く。一本の映画を見ていたら、突然画面が白くなりそれが続く。気短いヒトならすぐに出版社に電話をして、オラー、なんて本を売ってるんだよ、バーロ、何も書いていないページがあるんだよと怒る。又はオリヤーと映写室に行き、何やってんだよ、映画が切れちゃったじゃないか、俺の大好きな女優がちょん切れるなんて許せない、と涙声となる。芸術は奥深い、ジョン・ケージは、突然音をなくすことによって、「無」が生む「有」を表現したのだろう。(と私は思う)無はざわめき、ときめき、予期し予言する。人生という旅をやっていると、この無の状態がある。ざわめかず、ときめかず、予期も予言も出てこない。オーケストラの演奏者が、突然何も演奏しなくなったシーンを想像してほしい。ジョン・ケージの楽譜はアートの作品でもある。人間が一人生まれると、基本的にその日は誕生日となる。私が尊敬していた義兄は一月一日元旦に生れて、元旦にこの世を去った。私たち夫婦の仲人をしてくれた恩師も同じで、一月一日元旦が、誕生日で命日である。私は、人間の死を次の人間へ生まれ変わるまでの、無の状態と思えばいいと思っている。ジョン・ケージの曲のように。亡き私の母は今は誰かになって生まれ変わっているかも知れない。父も、兄も姉も、大恩人、大親友も桜のように散った恋人も、きっと誰かに生まれ変わっているのだと思うことにしている。奇蹟的に生まれた生命は、奇蹟的であるはずなのだ。その日私は大船駅に停車している列車の中から、愚妻に電話を入れた。その日は一年に一度だけある私の生まれた日だった。愚妻はジンギスカン、ジンギスカンが来ているわよ、と言った。息子たち孫たちも待っているわよとコーフンしていた。何! ジンギスカンが来た、蒙古襲来ではないか。弘安の役、文永の役ではないか。時は鎌倉時代であった。歴史的には“元寇”という。日本人にとってジンギスカンといえば、札幌のビール園でのビールとジンギスカンか、元寇である。落ち着けと愚妻に言って家に帰った。とそこに大きな箱が二つ、重いかなり重い。伝票にジンギスカンとか、鉄鍋と書いてある。貧しき家族一同、その箱を開けると、ジャーン、バァーン、ガァーンとビックリ、札幌のビール園がそのまま入っているではないか。たくさんのマトン、マトンといろいろ、そして立派な鉄鍋セット、小樽“北一硝子”の美しい切子のグラスセットまで。かなり遅く帰ったが、ジンギスカン大会の火は切って落とされた。そして2回に分けることにした。一回目のマトンの香りが家中にただよっている。今日は土曜日二回目を開催する。時ならぬ、弘安の役、文永の役である。フビライ・ハーンが日本に襲来した時は、神風が吹いたと歴史にある。私のような人間のために気をつかってくれた、北の家族に神風が吹くことを願って、バクバク食べる。このところやたら人を刺したり、火をつけたり、なんとなく人を殺したかったから、などと言うブッソウな事件が連発している。栄養学的には、“カルシウム”不足なのだ。“小さな魚”を小さい頃から食べさせないさせなくなった。ニボシ、チリメンジャコ、シラス、コウナゴなどだ。カルシウム不足は気が短くなるらしい。最もいちばんの原因は、“無”を楽しまなくなった。一日中ネットとつながっている。起きている間、ずっとネットと関係を持っている。ボ~とする貴重な時間を持っていない。「失意の人は、同類を救う」という言葉がある。ネット上でつながり、言葉はエスカレートする。「愛の中にはつねに狂気が潜んでいる。その狂気の中には、いつも理性が潜んでいる」と、かのニーチェは言っている。理性は私には途方もなく縁遠いが、この頃は、ムッとしても、グッと我慢することができるようになった。赤坂に“塩野”という和菓子屋がある。ここの紅白の大饅頭は、縁起が良く御祝いの品として名高い。一昨日ある方の御祝いに予約しておいた品を取りに行った。長椅子にマスクをして座っていたら、ケータイに電話が入った。で、ついマスクを外して話をつづけていたら、オトコのお客が、スミマセンマスクをして話すか、外に出て話しをと言った。むかしだと、何んだと言ってたはずだが、コロナは私をオトナにした。オオ、_ゴメンゴメンと言って店の外に出た。三十六、七歳の長身の男が買い物を終えて外に出て来た。私がオッと手をあげると、チョコンと頭を下げた。血を見なければ治まらない時代の中で、衆議員選挙が始まる。子どもにはカルシウムを、選挙には清き一票をだ。私は今、“無”の境地を探している。数字の「0」ゼロを発見したインド人は偉大だ。ゼロは全てを無にしてくれる。あらゆる数字、忌しい数字もゼロに掛ければ「0」ゼロ即ち無となる。現代人に今、大切なのは「無の価値」だと思っている。インドは数学の大国でもある。10000000000×0=0
2021年10月9日土曜日
つれづれ雑草「さらば友よ」
この男以上の人間は広告代理店のクリエイターの中にいなかった。その男があの世に旅立つ。今日十時~十一時が告別式だ。悲しいことに家族葬で参列ができない。四十年近く前初めて出会い、いろんな仕事を一緒にした。天才、奇才、一流といわれる人たちも多くいたが、仕事への嗅覚に優れ、企画立案力、判断と決断力。その展開力、交渉力、提案力、表現力、プレゼンテーション力、一つひとつの仕事への熱力が凄かった。長期ロケ、過酷なロケでの統率力、忍耐力、その全てが天才の上を行っていた。私は広告代理店のクリエイターと数多く仕事をさせていただいたが、ついにこの男以上の人間はいなかった。人にやさしく、ロマンチストで、フェミニストであった。声がよく声優もこなしていた。男は顔じゃない。女にモテ過ぎるほどモテたので、私は“歩くモーテル”と言った。逆に私を“歩く迷惑”と言った。なかば決っていたものを私がよく引っくり返したからだ。最高のライバルであり、最高のコンビだった。そして最高の友人だった。今、私の体には脱力の風が吹き抜けている。つい先日に大尊敬していた、師匠が八十余年の生涯を閉じた。稀代の名文家であり、博覧強記の食通だった。この十日間の間に二人のかけがえのない存在を私は失った。実姉、義兄、義兄、師匠、恩人、友人、今年去った人たちの葬儀はない。全て家族葬だ。♪~夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく なにをいまさら つらくはないが……。深夜、小林旭の“さすらい”をしみじみ聞いた。超天才のその男はみんなに愛された。はじめて会った時、私のキーワードは“少年と風”だと言った。少し太目の体、細い目をゆるませ、やさしい声で、“いいネ、いいネ”と言った。そして二年後、某大手飲料会社の大プレゼンテーションを決めた。当時六本木に竜雷太の経営する竜の子という店があった。夜、みんなで乾杯! 乾杯!と叫んだ。みんな若かった。その男が信頼したすばらしい上司、私たちはお殿様と言っているが、お殿様はベラボーに予算がオーバーしても、笑って許してくれた。男のダンディズムの見本だった。やっぱり二案出しますかと言うと、どんな大きなプレゼンでも、いいよ、一案でと言ってくれた。BOSSは私たちコンビを信頼してくれていた。私は今そんな日々を思い出している。さらば友よ、私は死ぬまでクリエイティブに生きる。あの世から大磯の大親友と見守ってくれ。それからお殿様も頼む。骨と灰をもらいに自宅に行くからな。体に力が入らない。心に力が入らないのだ。合掌 (文中敬称略)
2021年10月3日日曜日
つれづれ雑草「気合いだぁ……」
「ベニスに死す」というルキノ・ヴィスコンティの映画がある。名作中の名作だ。原作は故「トーマス・マン」の私小説みたいな映画だ。ヨーロッパでは当時コレラが流行っていた。私はこの作品を「ペニスに死す」と解釈して何度か見た。“べ”と“ペ”の違いだ。トーマス・マンは同性愛者であったようだ。現在ではなんてことはないが、当時はまだ影の世界だった。映画は一人の老作曲家とおぼしき人間が、とある海岸に旅人としてホテルに宿泊する。コレラを避けて来たのか、それとも人生という旅路の終りを見届けにきたのかと思わせる。老作家は富も名声も手に入れていたが、心の中に沈殿している重い心は、老いて行く我が身と、同性への愛の喪失感だった。老作家は海岸で、若さを満喫する少年たちを見る。その中に一人の美少年を見つける。すでに死んでいたような愛への感情が、老作家の心に火をつける。若かれし頃のヒリヒリするような、美少年への想いが燃える。老作家は老いた顔に化粧をし、身を整え美少年の姿を追う。月日とは残酷なもので若さは日々失って行くものである。かつて社交界で踊り明かし、酒を飲み交わし、薬にまみれ、異性も同性の区別もなく、放出したエネルギーは無い。あるのはただ鏡に映る老いたる姿である。そして老作家は一人コレラにて死す。美少年は何も知らず海岸で遊びつづける。一昨夜から昨夜まで(何しろ遅読だ)かけて、「カール・ラガーフェルド」モードと生きて「皇帝」の素顔という本を読んだ。ラファエル・バケ作、山本知子・金丸啓子訳/早川書房刊ちょこらファッション史を調べたいと思うことがあり、アマゾンで入手してもらった。カール・ラガーフェルドは、シャネル亡きあと、モード界の教皇、帝王、そして皇帝(カイザー)と呼ばれている。パリのファッション界は、権力と金、薬とSEX、メディアとモードの交差、そして同性愛であった。世界中の著名人がパリに集った。中でもアンディ・ウォーホルは狂乱していた。ラガーフェルドは自己演出に優れ、ドイツ生まれでユダヤ系であることを隠しつづけた。そのために英語とフランス語を操った。常に美男子を側にはべらさせていた。その中の一人の美男子をライバルであった、イヴ・サンローランと取り合う。勿論日本人の有名なデザイナーも登場する。画家や写真家、作家、詩人、芸術家とは狂った人間である。名声、嫉妬、金、虚栄心、嘘と堕落。イヴ・サンローランは狂って破滅する。およそ美とは程遠い醜悪の世界が、ファッション界、芸術界である。誰が言ったか忘れたが「美は乱調にあり」と言った。「藤沢周」の新刊「世阿弥 最後の花」を読むと、室町時代から戦国大名へ将軍や大名たちが、いかに美少年を我が者にするかに狂っていたかが分かる。足利三代将軍義満に気に入られた十二歳の天才美少年が、政争に巻き込まれ七十二歳で、佐渡島に流される。政争の裏にはもう一人の美少年の存在がある。世阿弥は人間の持つ業の世界を能楽として今日に残している。“秘すれば花”である。正しい人間、何よりも美しい人間、本当の人間というのは、決して存在しない。“人間の長所は欠点があることだ”、という名言もある。人生とは能や狂言を演じているのだろう。私は落語の主人公みたいに生きて終りたいと願って来た。“バカだねぇ”と言われたい。フーテンの寅さんが、初代おじちゃん(森川信さん)に言われたように。銀座を歩くとスーパーブランドのウィンドディスプレイを見るのが楽しみだが、今は全く元気がない。ファッションに目が行くようなヒトも見かけない。大好きなサザンオールスターズの桑田佳祐さんや、人気タレントの綾瀬はるかさんが、ユニクロのCMに出ているのを見ると、とてもつらくなる。かつてジーニストという言葉があったが、今はない。ラングラージーンズの広告や、ビッグジョンの名作を思い出す。男には帰りたくても、帰れない街がある。銀座はそんな街になってしまった。夜の銀座はもう“ペニスに死す”なんていう粋な男はいないのだろう。男の人生を狂乱させてしまう、ファッショナブルな女性もまたいなくなった。ただ人がいて、ただヒトが動いている。これではイケマセン。人間はこの地球上の生き物の中で、唯一夢を追うことができるのだ。文を書き、書や絵も描き、想いを言葉にできる。明日に向ってコロナ禍から突き抜けよう。永田町の政争も予想通りに終った。ジャン・ポール・ベルモンドの大ファンだったが、“勝手にしやがれ”とあの世に旅立った。今夜は“気狂いピエロ”を見ようと思っている。歴史は一人の熱狂から生まれると言う。さあ、熱くなれ、とズキズキ痛む足腰に気合を入れている。(文中敬称略)
2021年9月25日土曜日
つれづれ雑草「茶碗蒸し」
2021年9月18日土曜日
つれづれ雑草「ハンタン」
2021年9月11日土曜日
つれづれ雑草「行間の愛」
「顔じゃない」これは大相撲の世界で使われる言葉だ。上の者が下の者に対して言う。お前は未だ俺と五分じゃないんだよ、顔を洗って出直せ、みたいなかんじに使われている。ヤクザ者の世界では、十年早いとか、貫目が足らない、そんなことを表わす。もっと命がけで自分を磨け、そしたら座布団の位置を変えてやる。子分が親分に独立して一家を持ちたいと話を持って行くと、こんなやりとりがあるらしい。最も今では子分を使って(忖度させて)コトを起こすと、親分の体で償いをさせられる。(死刑もある)でもって親分になりたがらないかも知れない。白い巨塔だろうが、黒社会だろうが、ピンクの社会でも、アタマ(トップ)を奪い合う時は、実に多彩な日本語が使われる。カラ揚げや串揚げより、一時は人気があった、叩き上げの菅義偉総理、総裁がずい分と脆く、わずか一年でやっとこ登りついた山を下りることになった。ギブアップ宣言である。やはり野に置けレンゲ草であった。コワモテであったが、逃げ足は速かった。七年半ウソ八百をつき通した人間とは、その執念とか、遺伝子が違った。役者が違ったのだ。(別にホメている訳ではない)第100代総理大臣は誰か、初代伊藤博文は、病的と言っていいほどの女性好きであったようだ。つまりよく遊ぶだ。若い頃からそうであった。(英雄色を好むとも言う)岸田文雄、高市早苗、河野太郎が九月十日時点で出馬表明した。キモチ悪い目つきの石破茂は、20人が集まらない。いつもの能書きで終わる。石破派は事実上消失だ。野田聖子はダンナが会津小鉄会系昌山組の人間だったと、認定されていたらしいので、論外だ。(スツ堅気になっていても、黒い過去は引きずる)いざ鎌倉! となった時に、どう動くかで人間の器量がわかる。岸田文雄、高石早苗は、余り身近でないが、河野太郎は私たちの選挙区選出である。(私は一票を投じてないが)親分麻生太郎に何度も協力を求めるその姿はイジマシイ。このまま行くと、麻生派少し、二階派少し、石破派少し、菅一派少し、それに小泉進次郎、まるでピカソのゲルニカのような顔になってしまう。もともと麻生派内では、アイツは離れに住んでいる奴(本当の住人じゃない)と言われていた。あ~嫌だ嫌だ。さて、アメリカは次は誰にしろと命じるのだろう。岸田文雄は親中的であった。高市早苗だと中国は国交断絶するとオドスだろう。脱原発の河野太郎は論外。自民党幕府は事実上終ったに等しい。大局観を持った人間が求められる。100代目もすぐ辞める。(来年の参議院選挙で負ける)101代目こそ重要な人間の出番となる。それが与党か、野党からかは国民の清き一票、マスコミの正しい報道から生まれる。小選挙区をやめて、中選挙区にしたほうが人物がでる、それを考える時が来るだろう。かつの「三角大福中」三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘。それなりに「顔」であった。小選挙区しか知らない虚弱な若い議員は、顔を求めて右往左往する。議員会館は広くて美しい。まるで一流ホテルだ。落ちればダンボール箱を持ってすぐに出て行かねばならない。最も敗けて学ぶの格言もある。国家100年の計を持った人が出て欲しいと思う。その意志、岩の如くだ。「ロマンスドール」という映画を見た。画家のためのヌードモデルのアルバイトをしている女性が恋した男は、ダッチワイフを作る会社に勤めるアート職人だった。より本物の女性に近いものを作るために、男はその女性を必要とする。顔より肉体である。女性役を蒼井優、男の役を高橋一生が演じる。本物の女性とダッチワイフ。そのピュアな愛の結末は。「愛を読むひと」を久々に見た。1995年初老の法律家が惰性の生活の中で少年の頃を思い出す。15歳の少年だった時、あるキッカケで市電の車掌の女性と出会う。歳はずっと違う。が二人は強く求め合う。初体験の少年と、愛を知り尽くした女性、文盲で本を読まない女性は、少年に本を朗読してもらう。ホメーロスの“オデュッセイア”“ チャタレイ夫人の恋人”いろいろな本に女性は反応する。小説家は一行一行の間に、本当に書きたいことを書く。つまり読者にイメージを広げてもらうために、本当に書きたいことは書き残さない。“行間の愛だ”、それはある日女性が住んでいた、裏街の安アパートメントから消えることで終わる。そして月日が経ち、再会したのはナチスドイツの戦犯を裁く法廷だった。1922年生まれ43歳であることを知った女性は、被告席に立っていた。女性はアウシュビッツの収容所で、命じられるがままに、殺されゆく人々を選別していた。女性は収容所の中で、若い男を選び本を読ませていた。死の行進の前まで。大学生になっていた男は、勉強のために裁判の見学に来ていたのだった。そして……。スティーブン・ソダーバーグの、名作「セックスと嘘とビデオテープ」を久々に見た。人間は単純にして、実に狡猾に造られている。悪魔はいつも微笑みながらやって来る。ニュース画面では河野太郎が嘘を隠して不気味に微笑している。無期懲役となった女性のところに、本を朗読したテープが差し入れられ続ける。ずっと、ずっと、ず~と。女性は老いて行きながら、文字を学んでゆく、そして……。初老になった男は、毎晩のようにマイクに向かって朗読しテープをつくる。初体験の女性のために。(文中敬称略)
2021年9月4日土曜日
つれづれ雑草「勝南桜」
2021年8月28日土曜日
つれづれ雑草「マナーホテル」
人間が笑っていない。全然笑っていない。長引くコロナ禍で、みんな口をマスクで塞いでいるからだ。それに笑う種もなく、笑っている場合ではないからだ。東海道線の中にはオモシロイ人とか、不思議な人とか、思わず声をかけたくなるような人もいない。そもそも東京に出て行くことも少ない。“ワクチン打った”が合言葉みたいになっている。ホタテアレルギーの私も仕方なく9月8日に打つ、その次は9月28日と決めた。おそらくこのコロナ禍は、来年もその先も、そのまた先もと続く。“本物のワクチン”が見事開発されて、インフルエンザのようになるには、10年近くかかるだろう。地球の緑を守らないと、新しいウィルスが次々と人類へ復讐をする。例えばアボガドが体にいいとブームになり(外国で)アマゾンの緑の大地を、一日で東京23区分を奪っている。アマゾンの大地は地球温暖化を防いでくれているのに。ヤクザ者の中でアイツはタコだと言われる、ハンチクな人間がいる。蛸は自分の足を自分で食べてでも生きるという。タコといわれるヤクザは、自分で自分の体を傷つけて、医療保険や仕事をしていたようなことにして、失業保険をもらったりする。私はずっとむかしそんなタコを何人も見た。地球は今、ヤクザな人類によって、タコとなっているのだ。中国人が豊かになり、松阪牛、佐賀牛、飛騨牛、山形牛、などというブランド牛をモリモリ食べる。湘南にも葉山牛などというのもあるが、味はイマイチだった。先日秋留牛(あきるの)というのを食べたが、旨かった。(三切れだけ)食肉牛を一頭育てるためには、たくさんの牧草、たくさんの餌、たくさんの水が必要となる。でもって緑の大地をバンバン牧草地にしている。我が国の水源の多くは、すでに中国資本に買い占められている。これから先地球は中国人の胃袋を満たすために、大地は荒らされ、やがて砂漠化する。ナァ~ンテというドキュメンタリー映画を見たあと、ウソみたいなホントの話を、95分間のドキュメンタリー映画で見た。映画のタイトルは、「覗くモーテル」80歳になるアメリカの高名なノンフィクション作家のところに、78歳になるモーテル経営者から一通の手紙が届く。作家は“性の研究”を次作のテーマにしていた。(ニューヨーカー誌から出版予定)それを知ったモーテル経営者は、自分の47年間に及ぶ、覗き(ノゾキ)の性生活を、本にしないかと持ちかけたのだ。マンハッタンに住む作家は大いに興味を持ち、バッチリとした仕立てのスーツを着て、コロラド州オーロラにある“Manor House”(マナーハウス)というモーテルの経営者宅を訪ねる。夫婦で作家と対応する男の話は、ビックリギョーテンのマナー違反だった。そしてその男のマナーを取材していく。男は47年前モーテルを買い、自分でコツコツと一年かけて、覗き部屋を作った。部屋にある通気口から部屋全体が見れるのだ。江戸川乱歩の代表作に確か「屋根裏の散歩者」というのがあったが、この男は一年365日毎日この屋根裏の中から、あらゆるカップルのあらゆる行為を見ていたのだ。口伝だがあるヤクザの親分が、自分の経営するホテルの一室に、覗き用のカメラを取り付けて、その部屋で行なわれることを見るのが趣味だったとか。世の中でやってはイケナイことをしているヒトは、十分に気をつけるべしだ。人間はそこに穴があると必ず覗くという習性があるのだから。足利尊氏の執権だった、“高師直”(コウノモロナオ)という悪党(当時は武士を悪党と呼んでいた)が、人妻に恋をして、入浴しているところを覗くというバカなことをした。実力第一だった高師直は、横恋慕の末に塩谷判官(エンヤハンガン)夫婦を遂には殺してしまう。この話は歌舞伎の演目にもある。さてマンハッタンに住む老作家は、「覗き魔・ワース」と言う題名の本に取り組む。そして、ニューヨーカー誌の女性編集長のところへと行く。仕立てのいいスーツで。マナーハウスの経営者は、マナー違反47年、さて、どうなるか……。人の心は、穴をあけて見ることはできない。女性編集長は老作家に言った。あなたもちゃんと覗かないとダメよと、勿論と老作家は応じた。笑ってられない話だ。(文中敬称略)