「警視庁物語」全24作を8日間で見た。昭和三十五年頃東映の人気シリーズであった。当時は他の映画との二本立であった。一本長くても90分位であった。「警視庁物語」はほぼ60分である。刑事ものの映画やテレビ番組の原型はこの映画シリーズにあったといってもいい。当時はいまと違って肖像権などはほとんどないから、街の中だろうと、野球場、競艇、競馬場などでも、撮影は撮り放題であったようだ。つまり多くのエキストラを起用する必要がない。むしろ映ってしまった人が、オレ映画に映ってしまったよと、自慢していた。カメラアングルは制限がないのでリアリティが違う。東京の街に高いビルはまだ少ない。タクシーの初乗りが70円であった。ルノーの小型タクシーが数多くあった。昆虫みたいな形のルノーに乗って親友と高校に通っていた。それが見つかって母親が学校から呼び出されて、停学処分になったりしたが、アタマを使って、ルノーで通った。刑事たちは黒塗りトヨタの大型車であった。警視庁物語を見れば今も行なわれている捜査方法が分かる。いわば刑事ドラマのヴァイブル的作品であった。後に高名になる監督が何人も手掛けていて、東映全盛時代の礎となった。今の刑事ものがつまんないのはリアリティがないからだ。デカ(刑事)やブン屋(新聞記者)は、みんなバンバン煙草を喫う。黒いダイヤル電話が、何台もあってジャンジャン鳴る。店屋物を運ぶラーメン屋さんや、日本ソバ屋の店員さんが、ラーメンやもりそば、かつ丼などを何度も運んで来る。これが白黒の画面の中で実にウマソーなのだ。一軒一軒への地取り、聞き込みが基本だ。刑事は現場100回という。何事も解決への元は現場にある。捜査一課の物語だから起きる事件は、“殺人”である。事件の多くは現代社会とそう違いはない。金銭目当てが主であり、そこに愛人がからむ。“事件の影に女あり”と、いまでは差別用語となるが、そのからみが多い。犯人となった人間の原因は貧困、差別、両親の堕落、子どもの頃からの生活環境が生む。不良少年、不良少女。空腹で愛情に飢えた子たちは、悪さを重ね成長しながら立派な悪人になる。そして事件は起きるべくして起きる。格差社会はいつの世も変わらない。落ちるところまで落ちた男と女は、傷をなめ合い、事件を打つしか道がないようになる。警視庁物語の事件と現代の事件との違いがある。今の世は溜ったストレスを目の前の者に発散する。自分が生んだ赤ちゃんを、自分を生んでくれた母親を、老い先短かい老人たち。兄弟姉妹が骨肉の争いの末に殺し合う。しまいには誰れでもいいからとか、死刑になりたいからなどと言って弱い者に刃を向ける。警視庁物語の中には、こんな事件はなかった。貧しさの中でも、ギリギリ人間としてやってはいけない事が少しは分かっていたのだろう。SNS全盛時代の事件は、何が起きるか起きてみないと分からない。「怪物」という映画を観た。是枝裕和監督作品、坂元裕二脚本がカンヌで脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。愚妻と共に観にいったのだが、私よりも愚妻の方がよく映画を理解していた。いつもなら、“マアネエ”とか“ツマンナイ”とか、“キライヨ”などのひと言で表わすのだが、いい映画よ“怪物は大人たち”“学校の先生たち”なのよ。子どもたちは、頼りにする大人がいなくて、などと語っていた。子どもがかわいそうだな、が共通見解だった。かつてはいつか見ていろよ、不良からヤクザになって、きっと立派な親分になるんだとアブナイ夢を語る時代もあった。今では反社会人とされて堅気になりたくてもなれない。ヤクザ者の子どもには何ら悪いところはない。夢も希望もあるはずだ。ある年、高校で一年間一緒だった男が、クラス会があるから一度来いよと言って来たことがある。やだよと言ったが、一度だけでもと言われた。16歳が45歳位になっていた。30人以上が新宿のタカノフルーツパーラーに集まっていた。私は一次会は九時までとあったが、八時半頃に行った。幹事は内緒にしていたようで一斉にオ、オ、オ~となった。私がどうなっていたか、みんなの意見を集約すると、(一)ヤクザになっている。(二)死んでいる。(三)刑務所の中にいるであった。私に退学処分を課した担任も来ていて、ひたすら私にあの時はすまなかった。僕にチカラがなかった。君がしてないことは分かっていたんだ。すまん、すまんと言った。グラスを持つ手がガタガタ震えていた。先生全然気にしなくていいよ、かえってよかったと思っているからと言った。校長とか教頭の立場重視、教師と教師の責任のなすりつけ合い。きっと今でも日本国中の学校で起きているだろう。その後、何度かクラス会の通知が来たが行ってない。ブルブルと震える文字で何度か手紙をくれた担任は亡くなったようだ。みんなと別れ二人きりになった、高校時代の恋人(?)は、医師の娘だったが、確か筋萎縮性側索硬化症(ALS)で亡くなった。家までクルマで送って行って、元気でな、と別れ際握手をした時、その手が氷のように冷たかった。問題児もいい大人たちと出会えば、何んとか生きていける。私は提案する。厚生労働省に「更生庁」をつくって、堅気になりたい人間とか、足を洗った人間やその家族が生きてゆけるようにすることを。(文中敬称略)
2023年7月3日月曜日
2023年6月24日土曜日
つれづれ雑草「九州出張、その(二)」
2023年6月19日月曜日
つれづれ雑草「九州出張、その(一)」
2023年6月17日土曜日
2023年6月12日月曜日
つれづれ雑草「半分半分」
「ドン」といえばひとは何を連想するか。“学界のドン”“政界のドン”とか、“財界のドン”。今映画でヒットしている“ハマのドン”など、その世界に君臨している人物を称する。“ボス”という言い方もあったが、サントリーの缶コーヒー“BOSS ボス”で市民権を得て、ボスといえば矢沢永吉を連想する。ドンはどんでも「丼」となると、ヒトそれぞれに、オレにとって、アタシにとって、ボクにとって、ワシにとって、オイラにとって、丼は熱愛される。もし丼物が好きでないという人間がいたら、どこまで行っても会ってみたい。丼は食堂界のドンでありボスである。天丼、うな丼、親子丼、海鮮丼、中華丼、カニ玉丼、カレー丼、牛丼、豚丼、かつ丼、海老丼、ウニイクラ丼、鳥そぼろ丼。丼はどんどん食欲を満たしてきた。数をあげたら切りがない。牛丼も食べたいし、となりの人が食べているカレー丼も食べたい。そんな人には相性丼というのがあって、半分牛丼で半分カレー丼というのを、ハイヨッとつくってくれる。食べ物を決める時、人間の性格が分かる。あ~腹減った、私は夢の中にいる。やっと今日はじめてのごはんだと、築地の場外市場を歩いていると、私という天邪鬼で、食いしん坊で何か人と違うものをとの迷惑な性格がでる。築地の場外市場は長いつき合いで、いわば庭みたいであった。大好きだったラーメンの店「井上」は、先年火事で燃えてしまった。海鮮専門の小さな店のとなりに、スパゲッティナポリタンだけの店があった。親子丼を見てクラクラとしていた。海老丼を見てグラグラッとした。牛丼を見ると決めた覚悟がゆれた。当初の目的は海鮮丼(ホタテ抜き、アレルギーなので)一本でバッチリと決めようだったが、私はダメな人間である。赤いスパゲッティナポリタンが強烈に目に入り、緑色のピーマンと玉ネギが、タコ形の赤いウィンナーと共にフライパンの上で仲良くくっつき合い、励まし合い、救け合い、支え合っている。場末の純愛みたいだ。よし、これだ。だが海鮮への想いも忘れられない。店のオジサンに、ちょっとあそこの店で、海鮮丼の半分をつくってもらってくるから、そのよこに半分スパゲッティ入れてくれると言った。あ~いいよ、だけどどんぶりは洗わないよと言った。大丈夫ちゃんとするからと言った。で完成したのが、“海鮮スパナポリ丼”新鮮な海老、コハダ、イカ、マグロ、イクラ、玉子焼きの横に、アツアツのナポリタン。日本の伝統美に、ナポリタンの赤ベタの組み合わせは最高であった。海鮮店の夫婦が、おいしそうと言った。お客さんみたいなヒトはじめてだよと言った。海の幸とパスタはよくあるメニューだが、海鮮丼とパスタはないはずだった。主人たちは実に誠実で、料金はハーフ&ハーフだったのでおまけしてくれた。それじゃ悪いからと、コーヒーでも飲んでと迷惑料を払った。この頃外国人さんが多いからこんなメニューもあるなと、海鮮丼の主人は笑った。私はこういうバカなことをアチコチでやってきた。“丼”と何を組み合わせるかを考えるとじつに楽しい。私はイロイロな定期検査前で食事を抜いている。それ故食べ物への思いが浮かび、アタマの中で“作り話”を作っている。シャネルのバックを持っている若い美人女性が、金曜日の夜八時頃、銀座の吉野家で丸椅子に座り、牛丼を食べている。赤い口紅に赤い紅しょうが、夜の世界の女性ではない。こんな美人が何故、花の金曜日に一人吉野家で、丼には謎めいた物語があるのだ。(これは実話)ちなみに、横浜のドンを描いた映画「ハマのドン」はかなり面白いと見た人々が言っている。スパゲッティナポリタンは、横浜の高名なホテルのシェフが進駐軍のために開発した和製料理らしい。初めてイタリアに行った時、レストランでスパゲッティナポリタンをとオーダーしたら、…………(?)(?)(?)であった。そんなのねえ~よというかんじだった。同行していたコーディネーターが、トマトソースと言ってくださいと言った。とってもとても恥ずかしかった。スペアリブを知らなかった私は、アメリカのグランドキャニオンに初めて行った時、夕食が夜遅かった。カウボーイ(牧童)たちが、♪ ローリング、ローリング、ローハイド……と店に来る。同行のコーディネーターが、スペアリブを食べましょうと言うから、OKよろしくとなった。店内は、かなり暗い。何やらゴッツイ肉の塊りがきたので、言われた通り、塊の両端を持ってベタベタしながら、かぶりつくと、ガツンと固い骨、なんだこりゃ、骨ばかりじゃんと大声を出すと、カウボーイたちは、腰に手を当てた。ガンベルトには拳銃が入っている。以来スペアリブは警戒をすることにした。下手をすれば撃ち殺されてしまう。スペア丼をつくるとすれば、骨付の肉と拳銃の弾のハーフ&ハーフだ。ライクーダーのギターとかケニー・ロジャースかなんかが流れたら、少しばかり歯がガタガタになっても食べ尽くすだろう。あ~腹が減った。鳥そぼろ、牛豚兄弟丼が食べたい。BGMは「無法松の一生」だな。さあ、ど~んといってみよう。(文中敬称略)
2023年6月10日土曜日
2023年6月3日土曜日
つれづれ雑草「ある原因」
10年ひと昔というが、現代社会では一日ひと昔だ。かつて「24時間戦えますか」という栄養ドリンクのコマーシャルがあった。その頃私は48時間働いてますよであった。今思えば狂っていた時代なのだろう。ひと月に何回徹夜したのかを“ジマン”しあった。あなたは24時間前に何があったか、正確に言えますか。すでにG7サミットがあったことなど憶えちゃいない。市川猿之助事件のこともあたらしいことではない。そういや市川中車なんていたな香川照之だったっけ。熱湯風呂に入る上島竜兵が死んだのは忘れがたいが、ガーシー元議員の話なども誰れも言わない。えっ上岡龍太郎が八十一歳で死んでいたんだ。確か横山ノックかなんかとトリオを組んでいたな。横山ノックが選挙カーの中で女性スタッフのオシリを触ったりして大阪知事をやめた。パンパカパーンと。岸田総理ファミリーたちが官邸内で大ハシャギしていたことが突然週刊文春に出た。秘密を握っている人間は、その秘密のカードをずっとかくして持っていて、ここぞの時にマスコミにリークする。首相官邸を仕切っている人間や元その任にあった者は、国会議員は勿論のこと、その家族一族郎党の秘密をすべて握っている。当然、マスコミ各社や、財界人たちや知識人、文化人、有名人、芸能人、ヤクザ者、警察内部、裁判所関係者、みんなみんな調べ上げている。24時間働いてますよ、なのだ。危機管理という名の元で、重箱の隅をつっつくよりしつこく調べる。個人タクシーは官庁の人間がタクシー券で朝帰りするのを狙って、ズラリと霞ヶ関に並んでいる。ロング一発! で売上げバッチリとなる。かつておしぼりとビールを出したりすることが問題になった。みんなもう忘れている。今は、アメ玉位らしい。男が女性を好きになる時代はもう古いが、執念深い女性とは近づかないほうがいい。何しろ決して忘れないからだ。あの時確か╳╳とか、あそこで確か╳╳とか、あの中で確か╳╳とか、一語一句を憶えている、ソーユー相手は人生列車を脱線させる。この頃は男と男、女性と女性の関係もそれほど秘密ではなく、社会に受け入れられている。ファイト一発! でよいのだ。しかし刑務所内では許されていない。マッサラ(新入り)の美男子、筋肉系は“リボンチャン”といって大歓迎される。新宿二丁目辺りでは、“タチとネコ”といっていた。“ゲイは身を救ける”のよと、まっ紅な口びるのヒトが言っていたのを思い出す。現代社会は新入社員をハレ物に触れるように大事に扱う。残業しろ、なんてもっての他。“痛くなったらすぐセデス”じゃないが、暗くなったらすぐ帰りましょうだ。それでも東海道線は新橋、品川からでは座れない。東京発でないと、酒臭い奴とか、ニンニク臭い奴とか、メチャ強い香水のヒトとかと接近密着しなければならない。痴漢と間違えられないように、両手をホールドアップする。チャイナヒゲを生やしたオッチャンの顔なんかが密着してくると、頭突きを一発入れたくなる。横浜まで行けばどどっと出て行って、座ることができる場合が多い。台風の影響で雨がじゃんじゃん24時間働いている。雨は天の命ずるままに雨降りという仕事をする。今は六月三日の午前五時十八分四十八秒だ。久々に名作「クレーマー・クレーマー」を見た。むかし見た時とずい分記憶が違っていた。ダスティン・ホフマンと、メリル・ストリープが若い。アカデミー賞を受賞したこの作品は、夫、妻、子ども、仕事、家事、性生活、子育て、ヒステリック、会社、出世、離婚という夫婦間の永遠のテーマをよく描いている。夫婦はきもちいい間は決して別れない。雨の中レインコートを着て、家のすぐそばのコンビニに酒一合を買いに行く。薬だけじゃ眠れないよと体が記憶しているのだ。丸っこい体のコンビニの主人が一人でいる。よく働くね、24時間働いてんじゃないのと聞けば、大丈夫昼にしっかり眠ってるからと言った。中国人がたくさん働いていたが、今はいない。キオスクにも、ニューデイズにもいない。時々、顔がムクんで、コロッケみたいにアブラぎっているオバサンがいるが、半分眠っているような顔をしている。そういや夕飯は何を食べたっけ、12時間位前のこと、そんな昔のことは憶えちゃいない。ニュースを見ると今日は大雨のち曇りのようだ。よし、これから八代亜紀の歌を聞こう。「舟唄」は朝からしみじみするので、♪~ 雨々ふれふれ もっとふれ……。のほうにしよう。それにしても、ルフィは誰れか(?) 元ガーシー議員は(?) ある党の女性区議会議員が、先日当選したが、メルカリでニセブランドを8000円で売って、選挙資金にしたとかで辞職した。なんだか切ない話だ。人手不足が深刻な時代となっているが、国会議員とか、県、市会議員は多過ぎだ。少子化問題も深刻だ、冗談でかつての“禁酒法”じゃないが、“禁ゴム使用法”をつくればと言ったら、バカじゃないのと言われた。そうです、私はつける薬もないバカなんです。離婚の原因の第一位は、性格の不一致と決っているが、性格が一致する訳がない。正しくは“性の不一致”だろう。私のかわいがっていた、後輩が世界水泳大会の金、銀、銅メダルのデザインコンペで、金メダルを受賞した。名は「小林大助」という。すばらしい男だ。個人会社名を「助太刀」という。いざという時声をかけてください。福岡にいます。(文中敬称略)
2023年5月27日土曜日
つれづれ雑草「盲亀流木」
旅の男には過去を聞いてはいけない。人間は一人ひとり背負うもの、思い出したくないもの、話したら命をかけなければならないものがある。ある旅を経た人を紹介してくれたのは、私の親愛なる男である。この男はあらゆる筋の人間と縁を結んでいる。その人脈は底知れない。いままで万金に値する人を紹介してもらった。その中の一人が銀座を捨てて密教の修行に入った。“想像を絶する厳しい修行”というありきたりの表現しかできない我が身がつらい。今では高名なお寺の住職となり、毎月一回タブロイド判の“◯△だより”が送られて来る。ご自身で書いて印刷されている。そこには毎号勉強させてもらう、仏教の教えといい話が書かれている。真白いアート紙に黒い活字の一文字一文字が、汚れた私の心を洗ってくれる。現在住職をするかたわら、高野山大学大学院に入り勉学にも励んでいる。過去に何があったかは聞いていない。第52号にこんないい話が書いてあった。「盲亀流木(もうきふぼく)〈有ること難し〉」大海に住む盲目の亀が百年に一度海中から頭を出し、そこへ木が流れてきて、亀がちょうど偶然にもその浮木の孔(穴)に出逢うという極めて低い確率の偶然性を表わす比喩譚。人間として生をうけることと、また仏法に遇うことの難しさをたとえる話とあった。人間として“有ることが難しい”「ありがとう」の語源なのですと書いてあった。私たち人間は偶然の中に生きている。生まれてすぐに命をなくす悲しい命があれば、99.9%命は危ないという中で生を得た神の子の命もある。117歳まで生きた命もある。それがよかったか否かは本人に会っていないので分からない。スポーツで鍛えた強烈な体を持つ金メダリストがあっけなく死ぬこともある。年に二回も入院して健康チェックをしていた健康オタクが、四十代でポックリ死んでしまう。なんでこんな話を書くかというと、私の恩人、知人、友人、親類縁者が、肝臓癌、子宮癌、胆管癌、乳癌、すい臓癌と闘っている。二十代から七十代まで。私には何もしてあげることができない。私は「盲亀流木」大海で流木の孔(穴)に出会った亀のように。どうか名医に出会ってと願うしかない。必ずセカンドオピニオンをと願うしかない。高名な大学の教授が名医とは限らない。現在の上皇の心臓を手術した教授は無名に近い人であった。私の友人の奥さんは、過食と拒食をくり返した。太っている時は80k以上、やせている時は30k台、その差50k、お金持ちだったので、有名大学病院を何院も訪ねて入院治療したが、原因はどこも分からずであった。どこで聞いたか山陰地方の大学病院の助教授を訪ねて入院治療をした。結果ウソのように治った。原因は教えてもらえなかった。患者は医師を選ぶ権利がある。米倉涼子主演の「ドクターX」ではないが、有名大学だから、お金持ちがいく病院だからで選んではいけない。私にはとても信頼している先生が二人いるので、その先生の命令に従う。これを書いている午前四時三十三分十三秒現在、眠ることはできない。原因が私自身の問題だからだ。外はかなり明るくなってきた。「ライトハウス」という映画を見た。モノクロフィルムで撮った最高傑作といっていい。ランボーの詩を映像化したみたいであり、ギリシャ神話の如くでもある。「ニューイングランド」の孤島にある灯台に、カナダで木こりをやっていた青年が、金を稼ぐために四週間働きに来る。そこには老人の灯台守一人しかいない荒れ狂う海、乱れ飛ぶカモメ、燃料に石炭を使う重労働、老人と青年とのうす暗い生活が始まる。食料を運ぶ船は四週間来ない。1881年頃に書かれた灯台守のマニュアルに従う。いままで見たことがない白黒の世界は宗教画のようでもある。二日続けてこの映画を見た。主演の一人が私の好きなウィレム・デフォーである。老人は言うカモメを殺すなと、海鳥は海の男の魂だからと。だがしかし青年は狂っていく。そしてカモメを殺す。そこに待っていたものとは。○╳一錠、○╳一錠、○╳一錠を服用した。朝刊がポストに入った音がした。読んでいるうちに少しは眠れるだろう。残念ながら酒はない。あの映画を見ていて思い出した。「盲亀流木」の話を。荒れ狂う波の中に亀はいたのだろうか。流木の孔(穴)に運良く入れただろうか。老人は言った。帆を操る海の男にとって、いちばん不運なのは、無風なんだと。人の命はすべて偶然に支配されている。神はいるのだろうか、信じる者は救われるのだろうか。灯台の光は海の男にとって神に近い。(文中敬称略)
2023年5月20日土曜日
つれづれ雑草「白い手袋」
2023年5月13日土曜日
つれづれ雑草「山の中にて」
松本清張になったような気分である。奥多摩の御岳山その頂上近くの宿坊にて書いている。朝六時に自宅を出発して来た。山の天気は変幻自在である。憩山荘(いこいさんそう)にひと息つく。天気晴朗だったのが灰色になり、やがて黒々となり、ピカッピカッと光りドドーンゴロゴロと雷鳴が激しく私を出迎え雨がザザッと降り落ちてきた。雲に近いだけ雷鳴に迫力がある。推理小説の大家である松本清張のドラマだと、エリート官僚が浮気の相手である人妻を殺すために山の中に誘い出す。青梅線青梅駅、御岳山に登るケーブルが発着する滝本駅、そのケーブルから降りると、その先は急な坂道が曲がりくねる。人妻は指定された通りに行動して山荘を目指す。男は執拗な人妻の愛に我が身の行方の不安を積み重ねている。官僚にとって最大の関心はライバルより出世をして、肩書きが光り輝いていくことでしかない。そのためには利用できるものはすべて利用する。人妻は先輩の妻であり二人の関係が露呈すると男の家庭は崩壊し、出世どころかどこへとばされるか分からない。夫から逃避して情念の火がついた女性は、理性的であるほど激しく燃える。殺すしかない。あの場所であの方法で。宿坊の窓の外の墨絵のような幽玄的な風景を見ていると、なんだか気分が松本清張なのだ。コクヨの原稿用紙と万年筆がしばし作家気分にしてくれた。実態は自主映画制作のためのロケハンで来た。酷い腰痛なのでコルセットでがっちり固めている。プロデューサー、監督、マネージャー(小鳥のようにかわいい女性)カメラマン、メイキングを頼んだ仲間と一緒であった。超低予算の映画づくりは、みんなの支援金によって制作する。それ故いっさいの無駄はできない。この作品は私の遺作となるはずだ。グラフィックデザイン界の大巨匠浅葉克己先生に主役をお願いしている。相手方となる女優さんは私がぜひと願っている人、前向きに検討してくれていて、最終的には脚本を読んで決めますとのことである。もう一人鍵を握る男役には、イメージ通りの若い俳優さんが出演をしてくれる。撮影は九月を予定している。それまでは資金集めとなる。私の懐には残がない。寒風が吹きつのっているのだ。京王電鉄グループの元御岳山登山鉄道の社長さんだった人が、ずっと以前から協力をしてくれている。善い人の見本みたいな善い人で、長いおつき合いをしていただいている。世の中には「金」にしか興味なく、「金」しか信用せず、自分のため以外には、金を死んでも使いたくないという人間も多い。当然芸術などへの関心もないのでクラウドファンディングに参加してくれない。それはそれで、その人の生き方哲学であり、私のようなバカな人間は学ばなくてはならない。広告業界の絶対的存在、“人間国宝”ともいえる親愛なる一人の侠(おとこ)が、ゴッツイ支援をしてくれている。何も言わずコレを好きなように使ってくれ、と言ってくれたこの侠のためには、命をかけねばならないと心に誓う。御岳山の中には山の掟がある。作家浅田次郎さんの従兄弟の方が親切に相談にのってくれている。カンヌ国際映画祭の短編部門や国内での映画祭を目指す。上映会もアチコチでしたいと思っている。天才中野裕之監督の作品と共に。浅田次郎さんの従兄弟の方によると、山の中に来るのは山登りを楽しむこととか、御嶽神社にお参りに来る人たちだけでない。会社をリストラされた人間や、人生に追いつめられた人間も多い。スーツに鞄を持って山に来て時間をつぶす。きっと女房子どもには出社していると言っているのだろう。そんな人間の中から、頂上からずっとずっと下ったところにある滝のそばで“自裁”する人間が出ると言った。人生とは残酷なものである。金さえあれば倒産も破産もせずに、自裁せずに済んだはずだ。世の中は銭ゲバが生き残る。(但し地獄に堕ちる)やはり松本清張的世界の話があるのだ。“死を人質”にとった作家といわれるのが、太宰治である。何度も無理心中をしたが、それは小説のネタ探しでもあった。蜷川実花監督の映画「人間失格」を出発前に見た。太宰治役を小栗旬が演じていた。ファーストシーンは、無理心中して女性は水死するが、生き残った太宰治が“やばかったな”とうすら笑いするシーンだ。もと文学少女や知性とか理性あふれるお金持ちの女性や、家柄や社会的地位の中で生活している人妻や、未亡人などが、太宰治的破滅型の男に命をかけてしまう。銀座のホステスさんみたいに、したたかに逞しく生きている女性は、ちょっとやそっとでは体を許さない。お客は大切な金ヅルだから、手も握らせない。その客が飛んでしまうまで(会社を潰す)小鳥のようなさえずりとモナリザの微笑で誘惑をつづけるのだ。不貞が多いのは圧倒的に堅気の女性だ。三十代、四十代。五十代の人妻は、欲求の不満とエラソーにする夫への不平と、その先に夢も希望もない目の前のオトコに、熱気を感じない。そして松本清張の作品の主人公となる。青梅駅→八王子駅→橋本駅→茅ヶ崎駅と電車を乗り継いで我が家に着いた。足腰がヘロヘロ、ガッタガタ。日本中が地震でゆれている。何か不吉な予感を感じているのは私だけだろうか。(文中敬称略)