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2023年5月20日土曜日

つれづれ雑草「白い手袋」

とある男と、とある事で、とあるホテルのカフェラウンジで会った。五月十七日の水曜日、午後一時頃となると、広いラウンジは、オバさんたちでいっぱいである。とある話をするには、前後左右とにかくウルサイ。オバさんたちは、大声で話し、大声で笑う。マスクはしていない。開放感100%である。“ウルセイゾババァ”と心の中で思っているのは決して私だけではない。とある男は久々に会ったのだが、相変わらずオシャレであった。全体を黒でコーディネイトしていた。とある男と私はレトルトカレー10個分の値段のカレーライスを頼む。ドリンクのサービスがついているとのメニューを見て、アイスコーヒーをオーダーする。(食後に)とあるホテルはかなり有名だが、カレーライスは中村屋のレトルトカレー(中辛)のほうがずっとおいしかった。とある男との話に夢中になって、サラダを食べるのを忘れていた。オバさんたちの中にいる二人怪しい男は、とある芸能関係者とか、とある組関係者と思われていたかもしれない。とある男は先進のコミュニケーションの会社を経営している。ケチでチンケな男と違って、ずっとむかしから、仁と義を重んじている。かつて私の会社にて活躍してくれていた。私は、黒にグレーの文字が入ったパーカーを着ていた。外からは見えないが、腰にはぶ厚い腰痛バンドをしていた。舞台裏はすっかりジジイなのだ。とあるホテルのカレーライスは、CoCo壱番屋程度である。二十三、四歳の小柄な若いウエイトレスが、アイスコーヒーを持って来てくれた。顔にマスクはしていないが、両手には白い手袋をしていた。白い手袋で出されるアイスコーヒーは、劇薬のように感じた。私はマスクは外しているのに手袋はしているの、と言うとホントにかわいい顔をしていて、ハイと言った。彼氏と手を握るときは手袋を取るのと聞いたら、ハイ取りますと言った。とある男と私は、いいネ若い人はと言った。私の右斜め前に、六十代位の二人の男性がパスタを箸で食べていた。かなりつまんない顔をしていた。パスタと箸はイタリアへの侮辱だと思っている。寿司をナイフとフォークでみたいだ。やけにマッポ(警官)が多いなと思ったら、そうかサミット前であった。私たちのような業界の人間は職質を受けやすい。みんなトッポイかっこうをして、大きな鞄や袋を持っている。仕事で使うカッターなども持っている。G7サミットといっても、ルーズベルトやチャーチル、ドゴール、ヒトラーやムッソリーニに比べると、スケールが小さい。敵対する中国習近平に比べると、一軍と二軍位の差を感じる。我が国の岸田文雄プライムミニスターは、会社の接待部長みたいのように笑顔をふるまって、コマゴマ動いている。我々ビンボー人には関係なく、株価が高騰している。世界が日本を買い占めるのだ。ガラクタの兵器を増税によって買わされるのだ。とある男は、むかし懐かし、“鍋屋横丁”の和菓子の名品を持って来てくれた。中野坂上に住んでいる頃、自転車でナベヨコ(鍋屋横丁)にあった、小さな映画館によく行ったのだ。“横丁”なんていう言葉はすっかり消えてしまった。とある男との、とある話は、いずれ正体を現わす。正体といえば人はそれぞれ人には言えない、見せられない、とあるものを持っている。それは宿命であったり、運命であったり、宿や業(カルマ)である。とある歌舞伎役者は、天才的な才能と共に数多くの“とあること”を背負いつづけて生きて来た。それは死ぬほど辛いことであったのだろう。人間の心の闇は出口のないトンネルのようである。才能は凶器と同じで、磨けば磨くほど切れ味は鋭くなる。「子曰く逃げるが勝ち」と言う。とある趣味とか、とある愛人とか、とある過去は、誰れにでも少なからずある。はじめは処女の如く、あとは脱兎の如く逃げるのだ。誰れもいない荒野を裸足で走りつづけるのだ。“死んでやりなおせるものはない”生きて地獄の苦しみに耐える者にのみ、救いの手がさしのばされる。とある話をしている裏でG7サミットは、世界を軍拡への道へとひた走っている。ドサクサの中で日本では増税による軍拡予算が衆議院を通過した。軍需産業関係の株価はうなぎのぼりだ。核大国中国、インド、パキスタン、この三国を相手にG7は勝つことはできない。世界史の中で最も性悪の海賊国家、大英帝国の形を見ると、バリウム検査の時、胃の中に広がる黒い影とそっくりであった。とある話は純粋な青春の話だ。とある男とは、又なと手を振って別れた。鍋屋横丁の和菓子は格別にウマイ! それにしてもオバサンたちはウルサイ。人の命さえ奪ってしまう。(文中敬称略)


 








2023年5月13日土曜日

つれづれ雑草「山の中にて」

松本清張になったような気分である。奥多摩の御岳山その頂上近くの宿坊にて書いている。朝六時に自宅を出発して来た。山の天気は変幻自在である。憩山荘(いこいさんそう)にひと息つく。天気晴朗だったのが灰色になり、やがて黒々となり、ピカッピカッと光りドドーンゴロゴロと雷鳴が激しく私を出迎え雨がザザッと降り落ちてきた。雲に近いだけ雷鳴に迫力がある。推理小説の大家である松本清張のドラマだと、エリート官僚が浮気の相手である人妻を殺すために山の中に誘い出す。青梅線青梅駅、御岳山に登るケーブルが発着する滝本駅、そのケーブルから降りると、その先は急な坂道が曲がりくねる。人妻は指定された通りに行動して山荘を目指す。男は執拗な人妻の愛に我が身の行方の不安を積み重ねている。官僚にとって最大の関心はライバルより出世をして、肩書きが光り輝いていくことでしかない。そのためには利用できるものはすべて利用する。人妻は先輩の妻であり二人の関係が露呈すると男の家庭は崩壊し、出世どころかどこへとばされるか分からない。夫から逃避して情念の火がついた女性は、理性的であるほど激しく燃える。殺すしかない。あの場所であの方法で。宿坊の窓の外の墨絵のような幽玄的な風景を見ていると、なんだか気分が松本清張なのだ。コクヨの原稿用紙と万年筆がしばし作家気分にしてくれた。実態は自主映画制作のためのロケハンで来た。酷い腰痛なのでコルセットでがっちり固めている。プロデューサー、監督、マネージャー(小鳥のようにかわいい女性)カメラマン、メイキングを頼んだ仲間と一緒であった。超低予算の映画づくりは、みんなの支援金によって制作する。それ故いっさいの無駄はできない。この作品は私の遺作となるはずだ。グラフィックデザイン界の大巨匠浅葉克己先生に主役をお願いしている。相手方となる女優さんは私がぜひと願っている人、前向きに検討してくれていて、最終的には脚本を読んで決めますとのことである。もう一人鍵を握る男役には、イメージ通りの若い俳優さんが出演をしてくれる。撮影は九月を予定している。それまでは資金集めとなる。私の懐には残がない。寒風が吹きつのっているのだ。京王電鉄グループの元御岳山登山鉄道の社長さんだった人が、ずっと以前から協力をしてくれている。善い人の見本みたいな善い人で、長いおつき合いをしていただいている。世の中には「金」にしか興味なく、「金」しか信用せず、自分のため以外には、金を死んでも使いたくないという人間も多い。当然芸術などへの関心もないのでクラウドファンディングに参加してくれない。それはそれで、その人の生き方哲学であり、私のようなバカな人間は学ばなくてはならない。広告業界の絶対的存在、“人間国宝”ともいえる親愛なる一人の侠(おとこ)が、ゴッツイ支援をしてくれている。何も言わずコレを好きなように使ってくれ、と言ってくれたこの侠のためには、命をかけねばならないと心に誓う。御岳山の中には山の掟がある。作家浅田次郎さんの従兄弟の方が親切に相談にのってくれている。カンヌ国際映画祭の短編部門や国内での映画祭を目指す。上映会もアチコチでしたいと思っている。天才中野裕之監督の作品と共に。浅田次郎さんの従兄弟の方によると、山の中に来るのは山登りを楽しむこととか、御嶽神社にお参りに来る人たちだけでない。会社をリストラされた人間や、人生に追いつめられた人間も多い。スーツに鞄を持って山に来て時間をつぶす。きっと女房子どもには出社していると言っているのだろう。そんな人間の中から、頂上からずっとずっと下ったところにある滝のそばで“自裁”する人間が出ると言った。人生とは残酷なものである。金さえあれば倒産も破産もせずに、自裁せずに済んだはずだ。世の中は銭ゲバが生き残る。(但し地獄に堕ちる)やはり松本清張的世界の話があるのだ。“死を人質”にとった作家といわれるのが、太宰治である。何度も無理心中をしたが、それは小説のネタ探しでもあった。蜷川実花監督の映画「人間失格」を出発前に見た。太宰治役を小栗旬が演じていた。ファーストシーンは、無理心中して女性は水死するが、生き残った太宰治が“やばかったな”とうすら笑いするシーンだ。もと文学少女や知性とか理性あふれるお金持ちの女性や、家柄や社会的地位の中で生活している人妻や、未亡人などが、太宰治的破滅型の男に命をかけてしまう。銀座のホステスさんみたいに、したたかに逞しく生きている女性は、ちょっとやそっとでは体を許さない。お客は大切な金ヅルだから、手も握らせない。その客が飛んでしまうまで(会社を潰す)小鳥のようなさえずりとモナリザの微笑で誘惑をつづけるのだ。不貞が多いのは圧倒的に堅気の女性だ。三十代、四十代。五十代の人妻は、欲求の不満とエラソーにする夫への不平と、その先に夢も希望もない目の前のオトコに、熱気を感じない。そして松本清張の作品の主人公となる。青梅駅→八王子駅→橋本駅→茅ヶ崎駅と電車を乗り継いで我が家に着いた。足腰がヘロヘロ、ガッタガタ。日本中が地震でゆれている。何か不吉な予感を感じているのは私だけだろうか。(文中敬称略)










2023年5月1日月曜日

ゴールデンウィーク中の休筆のお知らせ

 連休明けまで休筆いたします。皆様、よいゴールデンウィークを。


2023年4月25日火曜日

つれづれ雑草「川は流れる」

やんごとなきこと数多き日々、解決の糸口はなきに等しき事、いろんな難問が滝つぼに集まる水群のごとく流れ落ちてくる。やんごとなきことは、労多くして実りはない。♪~ 夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく なにをいまさら つらくはないが 旅の灯りが 遠く遠くうるむよ……。と小林旭の歌などを聞く。♪~ 涙じゃないよと 言いたいけれど こらえても こらえても まつ毛がぬれる 君よりせつない この俺なのさ だから笑顔が ほしいのに さよならが さよならが 霧にむせぶ夜……。黒木憲を歌う。日本酒の「真澄」を一合飲みながら、♪~ 命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が 小枝と別れ 夕べには太陽が 空と別れる 誰も涙なんか 流しはしない 泣かないで  泣かないで 粋な別れを しようぜ……。石原裕次郎の歌を聞く。ミックスナッツの袋から次々とナッツを出し口に入れる。やんごとなきことの先にはもっと、やんごとなきことが待っている。長いトンネルを抜けると、そこはもっと長いトンネルだったとなる。♪~ 義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界  幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹……。高倉健を聞く。男は、「仁」と「義」と「筋」と「道」に命を懸けねばならない。若かれし頃ならば、体は命じるほどに動いたのだが。♪~ 病葉を きょうも浮かべて 街の谷 川は流れる ささやかな 望み破れて 哀しみに 染まる瞳に たそがれの 水のまぶしさ……。仲宗根美樹の歌を聞く。ある人は心冷たく ある人は好きで別れて 吹き抜ける 風に泣いてる。やんごとなきことばかりのこの世の中で、私自身がやんごとなきのことの中にどっぷりといる。私はYOROZU相談室をやっているが、私のYOROZU相談を聞いてもらえる人はいない。この身に流れる血の源は、仲間を裏切ったアノヤロー、今度会ったら必ず地獄の底まで道連れにしてやるという気迫だ。それがずっと私の心の支えだ。苦しみを共有する、楽しみも共有する。一人だけいい子になってはイケナイ。裏切り者が我が世の春と思っているところに、突然現われる。ある年、ある日突然にだ。暴力を使うことは決してない、ただ相手が来れば応じるだけだ。スイセマセン、ワルカッタです。この一言があればいい。それで仲良しになれる。やんごとなきことには、“裏切り”が多くからんでいる。それは、親子であり、兄弟姉妹であり、親の友と思っていた仲であり、誰れから見ても仲良き夫婦だったりする。親族一同はやんごとなきことの主役でもある。財産のある人間が死ぬと、法定相続人と称して、やたらに親族が増える。死体に群がるハゲタカやリカオンのように。昨日の敵は、今日の友、敵の敵は味方とばかりに、財産に群がるのだ。やんごとなき男と女の関係をどう切り離すか。これほどの難問はない。東大の入試より、司法試験よりも難しい。強力なアロンアルファで結びついた強固なものは、KURE CRC5-56をいくら注入してもスパッと別離しない。ならば自由にせよと思うが、やんごとなき相手は、DVを得意とし、その相手はDVを受けて耐えることを愛だと信じている。そして、それはある種の快楽となっている。今まで決して手にしてこなかった、大江健三郎さんの本を読んだ。先日亡くなったノーベル賞作家の本は、難解を極めていると聞いていた。「万延元年のフットボール」のページをめくった。本文全448ページ(解説別)どんな本かいなと読み出すと、11~12ページにこんな一文があった。 この夏の終りに僕の友人は朱色の染料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜(きゅうり)をさしこみ、縊死したのである。やんごとなきことであり、この一冊の本がこれからどうなっていくのか、期待を大いに与えてくれた。一日30ページずつを課して、昨夜読了した。無学の私には読めない漢字ばかりであり、辞典を横に置いて読んだ。四国のある山村で起きた一揆の話があり、その背景には朝鮮人への差別があり、フットボール(ラグビー)のチームをつくっている谷間の若者たちの暴動がある。生んだ子は生まれながらやんごとなき状況にある。妻と弟との姦通。弟と妹との少年少女時代からの近親相姦。暴徒の犯す集団の罪の連鎖。さすがに読みごたえがあり、その後、放心状態となった。今、この国はやんごとなき世になっている。夫婦がキャンプを楽しんでいたら、そこに巨大老木が倒れてきて、妻は死んで夫は重傷となった。何が起きるか分からない世の中である。銀座のママが参議院議員となった。その差わずか300票。“復讐は最高の健康法だ”と言った映画があった。“贅沢は復讐”だと書いた本があった。今の私を支えているのは、自分のケジメをどうつけるかである。私は今、大好きな船村徹の弾き語りを聞いている。♪~ 泣けた 泣けた こらえ切れずに 泣けたっけ……。チクショウ! 人生、負けてたまるかだ。(文中敬称略)




2023年4月22日土曜日

2023年4月15日土曜日

つれづれ雑草「長屋の食事」

ずるずるずるずる……と、情緒のない雨が降りつづいている。こういう雨はじつに気分が重くなる。そうでなくても気が晴れるようなことがない。昨夜息子が食事に来て、インテリアの仕事をしている知り合いが、コロナに感染して、肺炎を悪化させ、四十八歳の若さで急死したと言った。中学一年の子がいたという。なんと悲しいことか。下火になったとはいえ、コロナを甘く見てはいけない。“マスクは「自主的判断」にまかせます”みたいなことになるが、日本人はこのような判断がもっとも苦手な国民である。“お上のいうこと”に従ってさえいればいいんだという習性が身についている。お殿様、御奉行様、御代官様、御役人さんの指示にずっとへいこらと従ってきた。それは何かあった時に、お上の指示に従っただけだという逃げ口上に使える。日本人ほど好戦的な体質を持っている国は少ない。より好戦的なのは、中国と韓国民だろう。日本の文化はこの両国から教わった。共通しているのは、中→韓→日と伝わり、共に、人海戦術で、徹底的に殺し合う。英、仏、米、露、独、オランダ、スペイン、トルコなどは、殺すより生かし奴隷にして、こき使い産業を生み植民地化する。すべてビジネスなのだ。金儲け第一主義だ。戦争の時上官は部下に情況は自分で判断しろ。そして“生きろ”と命じる。日本軍は違う自主的判断は許さず上官は生き恥をさらすな、そして“死ね”と命令する。この国の民は、何より周囲の眼を気にする。体面や世間体を気にする。欧米は生きて帰ることが名誉であり、この国は見事に死んで帰ってこそ名誉となる。なまじ生きて帰ると“村八分”にされた。小さな手帳を持ち、「聞く力」を持ってと言って、芝居がかったデビューをした岸田文雄総理大臣だが、聞く力は国民の声ではなく。米国の声、官界の声、財界の声、今なお安倍派を名のる大派閥の声ばかりを聞いて、軍事費増大OK、原発再稼働OK、カジノ賭博OK、俺の辞書にNOはない、とばかりにあの安倍総理でもOKしなかった重要案件を、オッパッピーと、かってに流行った、パンツスタイルのノリでOKの大連発だ。オッパッピーの小島よしおさんは極めてインテリである。岸田総理はどさ回りの旅人のように点数稼ぎのために、諸国を回ってサミットを迎える。“俺は政局に強いんだ”が自慢のようだが、実は酒の方が強いらしい。和歌山県で選挙の応援中、24歳の若者が何かを爆発させたと、ニュースは伝えている。岩手県六戸では92歳の男が、放火殺人で5人を焼死させたと伝える。幼い子まで殺めるという残酷さに身が震える。自主判断ができない体質の日本人に、これからどんな争い事が起きるか想像もつかない。私は声を大にして言いたい。“死ぬな”“生きろ”そして、殺されるな。私はもう十分過ぎるほど生きているので、命に未練はない。むしろみんなに迷惑ばかりかけてるこの身を恥じる。がどうしても作りたい映画がある。たくあんだけにかじりついても、後世に残したいメッセージがある。いよいよスタッフが決まり、キャストも決まりはじめた。仲間も集結しはじめた。制作費を生み、貧乏に耐えるために、この頃は、メザシと納豆だけ。塩鮭と味噌汁だけ。とろろとカツオ節だけ。こういうメニューの食事をつづけている。江戸時代の長屋の住人の食事を見本にしている。今日はブリのカマと冷奴。早朝、何人かの恩人、知人、友人の健康を祈って、眠り薬と一合の酒を飲む。三時間は眠れるはずだ。楽しみにしていた少年野球の試合は中止だ。20数年前の名作、リドリー・スコットの「ブラックホーク・ダウン」を見る。ソマリアの内戦に米国が介入して失敗した戦争だ。ベトナム、コソボ、イラン、イラク、アフガン、米国は内戦に介入しては軍事ビジネスを栄えさせた。今はその力は無い。世界の番長は中国になった。米軍の主力ヘリコプターの名が“ブラックホーク”であった。先日何かのアクシデントで海に消えた自衛隊の主力ヘリコプターは、ブラックホーク型だという。軍事費を増大して米国の中古品を買わされるというパターンはずっと続くのだろう。後期高齢者の保険料がさらに上がるという。ふざけんな聞く力と言いたい。知り合いの魚屋さんに聞くと、メザシも塩鮭もロシアとか中国からの輸入品、うまそうな蛸だねと言ったら、モロッコ産だとか。鯛のアラ、ブリカマを買った。海老が旨そうだったがメキシコ産だった。魚屋さんはもう一軒しか残ってない。首に難病のある12歳の中学生をロッテ球団が入団させた。こんなステキなニュースを見ると、気分はハレバレする。(文中敬称略)



2023年4月8日土曜日

つれづれ雑草「緋牡丹とヤキソバパン」

午前一時頃外に出ると、一瞬にして全身がずぶ濡れになるほど、猛烈な風と雨であった。傘を持たずに近所のコンビニまで行った。店内に客は一人もいない。バイトの男の子が二人いた。着ていたパーカーとスウェットは家に帰ると、水分をたっぷりと含み、髪の毛はシャワーを浴びたのと同じであった。そこまでしてコンビニに行ったのは、みっともないので書くことはできない。不眠症の私には欠かせないものが家になかったのだ。眠りをとるか、死をつるかといえば、私は“チューチョ”なく死をとる。それは私が予想外に長生きして、恥をさらしているからである。人生はこれからだと思っている人間が生死の間にいる。その男の命の行方を思っていると、私の不眠症は、最早不眠症ではなく、「ずっと起きてるで症」なのだ。なんとか奇跡をと無宗教な私は、亡き父母の写真に願う。“夫婦愛”なんて絵にも描けない、まぼろしの愛だと思っていたのだが、それが生死を握っていると聞くと、私のこころとカラダは、求めてはいけないガソリン(お酒)を求めていた。人生はしらふで生きてはいけない時がある。小さな庭の右奥の隅に、二年ぶりに緋牡丹が二つ咲いた。ブドウ一粒ほどの小さな花実が、イチゴ位の大きさになって、三日後ドバッと大きくなって満開となった。ヨシッ、奇跡は起きる、命は守られると思った。使い捨てカメラにあと6枚フィルムが残っていたので、緋牡丹を撮った。しかし午前一時頃の春の嵐は、美しい花を乱雑なものにした。あと一本ある牡丹の木は成長をすぐやめて、それ以上にならずであった。東海道線内もマスクを外す人がチラホラ出はじめた。先日夜品川駅ホームのベンチに座って列車を待っていると、一人の会社員風の女性が隣りに座った。三人掛けのベンチが背合わせしている。すぐに横にはベンダーがある。ジーンズのスラックスに、白いパーカー、その上にダメージのジーンズジャケットを着ている。薄茶のローヒール。いいセンスである。肌色のマスクを外すとどんなのかと、思いつつ横目で見る。パンパンにふくらんだ名門スーパー紀ノ国屋の袋を開いた。独特の四角い文字のデザイン、青山あたりで働いているのだろうか。時計を見ると特急が来るまであと8分であった。30歳前後の女性がトートバックの中から、出したのは“ヤキソバパン”であった。ホットドックの太いソーセージの変わりに、パンからあふれ出るように、ソースヤキソバがはさまれている。肌色のマスクを外した。期待は予想をはるかに超えて裏切られた。マスクしとけばよかったのに、パンは列車に乗ってから食べればよかったのに。左手にソースパン、右手にファンタレモン、オラオラ、ヤキソバが落ちてるじゃないか。やっぱりマスクは大切な「嘘」がつけるのだ。寝不足がずっと続いていたので、全座席指定の特急小田原行はいい。品川の次は大船そして藤沢、辻堂だ。アレッあの女性は乗らないのか、まだベンチで食べている。指定席券を買っていないのか、反対側列車に乗るのだろうと思った。列車が動き出すと、ぼんやり窓の外を見ていた。やがてスピードは増し一気に川崎駅を通過した。人間の命の行方は一体誰れが、何処で決めているのだろうか。ぶ厚い医学書の中には、ありとあらゆる病気のことが載っている。人間の体の内部は血管や内臓がひしめき合っている。科学的には人間の寿命は115年が限界らしい。百歳を祝ってもらった老人が、テレビのインタビューを受けている。長寿の“ヒケツ”はなんですか(?)、好きな食べ物はなんですか(?)。何んもネエ、何もしないで、食べて寝るだけじゃわ、ウハハハ、好きなものは天ぷら、それと一日一合のお酒じゃ、ウハハハ。ストレスはないのですか、何(?)ストレスって何(?)ウハハハ。何もかんがえんこっちゃ。バアさんはいいヒトだったわい、べっぴんじゃったウハハハ……。結婚を考えているという男女が、結婚っていいですか、と聞いてきたことがある。故「永六輔」さんの言葉を教えてた。“青二才でも結婚すると男らしくなり、娘は女らしくなるもんです。”もう一つ、トルストイの言葉、“急いで結婚することはない。結婚は果物と違って、いくら遅くとも季節外れになることはない。”私はアンチョコのメモ帳からその言葉を見つけて、若い男女に言った。あのソースヤキソバパンの女性は結婚しているのだろうか。生死の間をさまよっている命を守ってくれるには、医学を超えた“夫婦愛”“姉弟愛”が求められている。乱れに乱れた緋牡丹の花が、風に吹かれて揺れている。私といえば残り一枚となったフィルムを深夜まで残しておいて、午前二時過ぎ最後の一枚を撮った。ストロボが光った。仲良い二つの緋牡丹は、深酒した女性の顔のように色気があった。命よがんばれと言いつつ、一合の酒を口から喉に流し込んだ。(文中敬称略)



2023年4月2日日曜日

つれづれ雑草「姉弟のベルト」

「その壁を砕け」中平 康監督/主演「芦川いづみ」、「小高雄二」/製作日活、芦川いづみがまだ20代の初めの頃の作品、1959年の映画だ。自動車修理士の若者が一生懸命働いて念願の車を購入する。うれしくてたまらない。結婚を約束している恋人に会いに、ある地方に向う。心はウキウキしている。修理工役が小高雄二、恋人役が芦川いづみだ。この作品はおそらく実際に起きた冤罪事件を題材にしていたはずだ。社会派監督中平 康は当時日活を代表する一人であった。男は横浜の方から富山の方に向ってひた走る。深夜道路を歩いていた男から乗せてほしいと頼まれ一人の男を乗せてあげ、途中で降ろす。その頃小さな町の中で強盗殺人事件が起きていた。まだ誰も知らない。男はその中でその町を通過する。そして山の中の小さな町は大騒ぎとなる。大事件発生だ。店の老主人は殺され、老主人は頭部に重傷を負う。交番の若い警察官は、初めての大事件で興奮する。刑事たちが続々と現場に集結する。これは流しのたたきだなと推測する。流しのたたきとは、生きずりの強行犯のことである。警察には強力斑という花形部署がある。強盗、殺人、強姦、“強”がつく事件は成績の点数が高い。“強”が二つ付くと長期刑、無期か死刑となる。放火がからみ起訴まで持ち込めば、ぐんと成績が上がり、表彰され昇格する。警察も一般の会社組織と同じで出世争いである。映画の中の事件は、強盗、殺人、殺人未遂であるから、逮捕して起訴に持ち込めば、死刑は間違いない。男が乗っていた車を見たという人間がいた。警察はすぐに手配をする。男は恋人の待つ駅を目指すが、途中で捕まる。厳しい取り調べが始まる。当時は自白が何よりの証拠であった。男は無実を訴える。起訴するには22日以内に自白させねばならない。日が経ち目を覚ました老婦人に男を見せる。(面通し)布団の中からこの男ですと指をさす。よし! 刑事たちはこれで万全だと調書を作り始める。男は無実を主張する。事件があった頃、一人の男を乗せてあげて、途中にあった橋のたもとで降ろしたと叫ぶ。待っていた恋人が来なかった。芦川いづみさんは看護婦(当時)さんであった。結婚するので退職をし、みんなで送別会までしてもらっていた。このままでは、恋人が殺人犯にされてしまう。芦川いづみさんは、刑事専門の弁護士を探し、そして弁護を依頼する。裁判は進む。弁護士は独自に調べて行く。そこからいろんな疑問点や矛盾点が出て来る。ここまではテレビのドラマなどによくある話だ。1960年代の事件で裁判官たちが、警察の調べに不審を持ち、自分たちの目で現場検証をするなどというケースは少ない。裁判官たちは犯行現場を徹底的に再現する。検事の主張は、弁護士の主張によって敗北する。男は無罪を勝ち取る。検事と弁護士の法廷闘争は、勝った、負けたと総括する。ある学者の説によると、人間は10日間一睡もさせない状態で、お前がやった、お前がやったと言い続けられると、俺はやったんだ、私はやったんだ、と思い始める。罪を認めれば、ゆっくり寝かしてやる。かつ丼でも、天丼でも好きな物を食わしてやる。悪いようにしないからなと、言われると、“私がやりました”となる。そして冤罪は生まれる。有史以来、無実で死刑になった人間は数知れない。ボクシングの聖地“後楽園ホール”に行くと、ずっと、ずっと、ずっと前から、「袴田巖」さんを冤罪から救いたい、再審を要求する呼びかけのポスターが貼ってある。そして遂にその時が来た。確か柳田國男の日本人国記によれば、日本でいちばん悪い人が少ないのは静岡県人だとあった。欲深き人間が少ないのだとか。静岡県清水市味噌商殺人事件の真犯人は誰れであったのか。弟のために90歳になるまで、再審を求め闘い続けたのはお姉さんだった。“イワオハ、ヤッテナイ”袴田巖は無実だと。世界で最も長く拘置された元ボクサーは、50年近く容疑者、死刑囚生活を経て、87歳となり正気を失っているが、やってない事は、やってないと分かっているはずだ。兄弟は他人の始まりという言葉があるが。袴田姉弟の絆は太くて強い。そして世界チャンピオンのベルトより価値がある。再審開始というベルトを獲得した。我々一人ひとり、いつでも冤罪になる可能性がある。一度でも指紋を取られた経験のある人は、その可能性はさらに高まる。90歳になった袴田巖さんのお姉さんと、恋人の無実を信じて闘う、芦川いづみさんの美しい顔が重なって見えた。国家権力とは、捏造を生むための権力でもある。何故か元総理大臣故安倍晋三の現場検証は容疑者が同行されずに終った。そこは小さな花壇となった。闇の奥でそれを許されない何かがある。この国は怖しい支配下の中にある。(文中敬称略)



2023年3月25日土曜日

つれづれ雑草「1万円」

春雨じゃ濡れて行こう、であったが少々雨は強かった。前回一分遅刻して観れなかったので、今回は30分ほど前に試写会会場に行った。春雨が強く、全身を濡らした。私は傘を買って持つということはない。そのかいあって今日まで、ロケで雨によりスケジュールを変更したことはない。絶対的な晴れ男である。“プロデューサーは傘を持つな”を貫いているのだ。やさしくて親切な「葛西 薫」さんから、電話があり先日は一分遅れで入れなかったとか、ボクから連絡しときますと言ってくれた。いや私に非があったので、次は早く行きますよと言った。作品名「せかいのおきく」は、ピタッと時間通り始まった。長い間いろんな映画を見てきたが、糞尿をドボドボと桶の中に入れるというシーンから始まったのは、この作品が初めてである。江戸時代の中期、一人の若者は糞尿を肥料として使う農家に売って生計を立ている。もう一人の若者は、紙屑を集めて売っている。映画は底辺で生きる若者の青春映画である。モノクロスタンダードサイズのフィルム(今どき珍しい)で撮影したのは、達人「笠松則通」さん。静かなること山の如しであり、剣豪の如く、近寄り難き凄みがある。糞尿も香り高く美しい。雨のシーンが多いが、それは映画界全盛時代であった、昭和の数々の名作をも凌ぐ。最下層でも明るく生きる二人の若者、武家の娘を演じる「黒木 華」が絶品だ。糞尿売りを「池松壮亮」紙屑売りを「寛一郎」が演じる。この作品は、美術監督である原田満生が発起人となり、気鋭の日本映画製作チームと世界の自然科学研究者が連携して、様々な『良い日』に生きる人々の物語を「映画」で伝えるプロジェクトの第一弾なのだ。人間は飲んで食べて生きる。食べたもの飲んだものは、“糞”となり“尿”となって出る。近代になる前まで、糞尿は畑で肥料としてまかれ、野菜を育てた。人はその野菜を食べ、それはまた糞尿となり野菜を育てた。サーキュラーエコノミー(循環型経済)の最先端が江戸時代の日本の風景にあった。「YOIHI PROJECT」として、今後も運動化するという崇高な志がある。バイオエコノミー監修として、藤島義之/五十嵐圭日子が参加して、今日の物質文明、これからの地球環境問題への底深いテーマがある。自然との共生とは、バイオエコノミーのポイントとは。大金持ちの“糞”は金色ではない。貧乏人の“糞”も大金持ちと同じだ。高貴な娘も、貧しき娘も、糞尿は平等なのだ。あることで声を失ったおきくは、恋をする。彼に伝えたい言葉がある。つらく厳しい現実にくじけそうになりながらも、心を通わせることを諦めず生きて行く。「せかいのおきく」は愛おしい青春物語であった。近々公開(2023年4月28日[金])なのでぜひ映画館へ行ってほしい。私も封切りと同時に映画館の大スクリーンで、美しく、香り高き糞尿を観る。数々のヒット作を世に出してきた、阪本順治監督の代表作となり、デジタルな映画界へ一石を投じるだろう。糞尿まみれの政界を生んだのは、投票者である我々国民だ。ガーシーなる人間に28万余票が投じられたのは、既存の政治家への諦めだろう。国家権力とは恐ろしい力を持っている。自分たちは糞尿まみれだが、議員特権で守られる。ひたすら利権を追う。野党も大マスコミもガッチリ弱味を握られて、糞尿になっている。それらはリサイクルに使うことすらできず、ネット上の情報を、食べて飲んで糞にしてぶつけているだけだ。自分の足で調べている議員は少ない。朝日、毎日、読売などの大新聞も同じであり、気骨ある記者が書いた記事はボツとなり、その身は地方の彼方に飛ばされる。NHKをぶっ壊すと言っていた政党が、逆にぶっ壊わされてしまった。雨の辻堂駅には、各党の市議会委員のサポーターが、手渡しのチラシを渡しているが、それを手にする人は殆どいない。バカ者め市議会委員が、高級車レクサスやアウディに乗っている。選挙が近づくとそれを隠して小型車に乗る。発想がセコイのだ。SUVの大型車に乗っているバカ者が共産党員なんて、私には信じられない。安倍晋三(故人)という強力な後盾を失った“高市早苗”が徹底的にさらし者にされている。森功著「国商」ではJR東海の社長だった故葛西敬之がいかに安倍政治を動かしたか(あるいは動かされていた)が克明に書かれている。又、伊藤博敏著「同和のドン」には、上田藤兵衞(78)がいかに、同和運動、自民党、山口組、バブル紳士、闇社会と共にあったことが克明に書かれている。つまるところ、戦後から現在に至る“深い闇”の世界である。それは生きていた人間が、何人もこの世から消えた、闇の狩人の歴史でもある。金(カネ)と銭(ゼニ)は汚れた人間に、多く渡るようになっている。真面目な人間は馬鹿を見るのだ。税金をしぼりとられて、年末調整で戻ってくるのは、わずか一万円とのことであった。Shit!(文中敬称略)  



2023年3月18日土曜日

つれづれ雑草「子どもたちの夢」

本日土曜日東京発小田原行に乗車した。会ってうれしい花一匁みたいに、14人の仲間と久々に会い、銀座の貸会議室にて、とある作戦会議をした。午後一時半から二時間ほどであった。あと二人はパソコンで出席してくれた。十代の頃100メートルを10秒台で走った快速の男が、私たちの若頭である。今では東京コピーライターズクラブの会員であり、先生でもある。中央大学の法学部を出て、何故か私の会社に入ってくれた。正義を貫く熱血漢でもある。黒髪だった青年は、銀色の髪となり、いよいよこの国の広告界の幹部となってくれるだろう。会議はこの若頭が仕切ってくれた。会議が終り外へ出ると、どしゃぶりの雨であった。やっと来た赤い空車の文字のタクシーに乗って東京駅八重洲中央口へ。改札口から中へ進むとそこは人の渦、えっこんないるのかよと思うほどの状態であった。この国の民はみんなみんなちゃんとマスクをしていた。マスクをしていないのはポツンポツン。外国人たちもみんなマスクをしていた。マスクを外せば四角い顔の人も、三角形に近い顔の人も、まん丸の顔の人もマスク&マスク。恐い顔の人も、つまんない顔の人も、楽しい顔の人もマスク&マスクであった。小田原行に乗ると、隣りに若いカップル。男は26歳位でメガネをかけたマジメな会社員風、女性は同じ位の年令で、ポッチャリ顔の看護師さん風であった。何故顔が見れたかといえば、二人はマスクを外して“おにぎり”を食べ始めたからだ。但し二人はフツーの食べ方をしていなかった。それはおにぎりを“お箸”で食べていたのだ。二人共ビニールみたいのに入れた、手作りの大きめの海苔のついたおにぎりを、お箸で一粒二粒三粒、多くて十五・六粒を箸箱から出した“マイバシ”で食べる。それは私にとって初めて見る、ほほえましい食べ方であった。中に大きな梅干しが入っていたのを食べた時、すっぱかったのか男の人がピクッ、ブルルと動いた。私も釣られてピクッとした。二人はそれぞれ一つのおにぎりを食べ終わるのに、東京→新橋→品川→川崎までかかった。夫婦だろうか、恋人同士だろうか。この世には夫婦の数だけ偶然の出会いがあるのだなと思った。それは奇跡的な出来事なのだ。先日ある調査があった。小学生、中学生、男女に尊敬する人は誰れですかの問いに、小・中学生共に「お父さん、お母さん」と答えた。将来はどんな道に進みたいですか、あるいは成りたいですかの問いに、一位が会社員であった。それも公務員が人気であった。かつてはプロ野球の選手とか、サッカーの選手とかが上位であったが、それは上位にはない。ユーチューバーというのが、男の子の第三位にあった。プログラマーもあった。宇宙飛行士とかがあると思ったが、長引くコロナ禍で家に居る父親がテレワークなどで、自分たちのために働く姿を見たからだろうか、それを支える母親の姿に心打たれたのだろうか。子ども心にリストラとか、廃業とか、閉店とかの現状を見て、やっぱり潰れる心配のない大きな会社に入りたい、公務員になりたいと思ったのだろうか。おにぎりをお箸で食べる二人に子はいるのだろうか、あるいは将来子を持つのだろうか、その頃この国はどうなっているのだろうか、と思いつつ窓の外の雨模様を見ていた。子どもたちの将来の夢が、会社員、公務員なのか、これがいいのか否かは分からない。宇宙飛行士とか、探検家や博士とか発明家が夢であってほしいなと思ったりする。大好きな大相撲大阪場所で横綱を目指していた、大関貴景勝が怪我をして休場となった。これにて昭和以降ではじめて、番付から横綱、大関がいなくなって、関脇が最上位となった。一説によると、怪我が多いのは稽古が厳しくなくなったからだ。むかしのように、気絶するほどぶつかり稽古して、バケツの水をぶっかけられて、又、ガチンガチンに“シゴカレ”る。今ではパワハラでありえないが、実はこうしたやり方の時代の方が怪我が少なかったのだ。「土俵の怪我は、土俵で治せ」が格言であった。子どもたちがプロ野球選手になりたいというのは、かつてはずっと第一位だった。テレ朝とTBSがWBCワールドベースボール・クラシックの放映権を買った。NHK、フジTV、日テレ、テレ東はスルーした。テレ朝とTBSのモーレツな、大谷・ダルビッシュの露出効果で、放映全試合が視聴率40%を超えた。紅白歌合戦以上である。もし、大谷とダルビッシュの両選手がいなかったらと思うと、ゾッとする。日系の外人頼りになっていたかも知れない。いよいよマイアミでメキシコと準決勝だ。ガンバレ、佐々木、村上、アレ次の名が出てこない。そうだ、山本、岡本がいた。吉田だっている。今夜、私はおにぎりをお箸で食べてみようと思っている。中味は“おかか”とやはり“梅干し”だ。ピクッとして、ブルル。ネギとおとうふの味噌汁、それと黄色いたくあんだ。(文中敬称略)