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2010年7月12日月曜日

人間市場 お弁当市


男子厨房に入らず私は台所に立って料理を作る事はない。
但しお弁当は気が向くと作ってやる。お弁当は料理ではないデザインだからだ。

朝方まで起きていると時々、よし弁当でも作るかという気になる。
和菓子が入っていた入れ物とかお赤飯をもらった時の入れ物とか果物が入っていた籠とか入れ物はアイデア次第で色々考えられる。二人しかいないので残り物が冷蔵庫の中に入っている。少し炒めたり、焼いたりする。材料もあるが決して料理ではない。

私には三人の姉がいた。とにかくうるさい姉達であったが弁当だけは最高に美しく旨かった。三人共に料理と盛り合わせ、盛り付けが抜群であった。
どこから箸を付けていいか判らない程であった。料理と掃除以外は全く自慢出来た姉ではない。中学と高校一年まで弁当を作ってくれた。

小遣い稼ぎのために弁当をよく売ったというより買わせた。
どの友人の弁当より高く値が付いた。ウインナーソーセージ、鮭の切り身三分の一、鰆の西京漬三分の一、昆布少々、京漬け少々、しじみの佃煮、明太子少々、これは角のコーナーに玉子と挽肉のそぼろ、それにシラス

黄色と白と茶色。ご飯は二段仕込み、真ん中に海苔を忘れずに。色合いに赤いプチトマト、緑色のピーマンの千切り、最後にデザートのさくらんぼ、これらを思い思いにレイアウトしていく。イメージは北海道の富良野の大地である。何しろ長年の不眠症なので時々こんな事をする。息子とか息子の嫁さん、愚妻も食べる。
天の邪鬼だし小食だがきちんと食べきっている。どうだ、旨かったろと言うと「うん、まあね」位しか言わない。可愛気のないのである、きっと悔しいのだ。

自分が作るのより勝っているので、愚妻は出かける時よく弁当を作って置いて行く。
私が弁当大好き人間だからだ。息子と嫁さんはグランパのお弁当は最高だよ、凄くキレイと言ってくれる。

デパートの食品売り場で弁当売り場に行くのが好きだ。何だか旅した気分になる。
勿論駅弁大会(京王百貨店)は大好きだ、列車に乗ってる気がするからだ。いろんな物が沢山キレイに入っているのが好きだ。カツ弁とか牛肉弁とか豚ショーガ焼きみたいな麻雀で云うとリーチのみとかリーチピンフウとかメンタンピンくらいでは承知出来ない。
国士無双みたいに十三種位入っているのがいい。食べる楽しみより探す楽しみだ。

ある日、日比谷公園を横切っていると公園のあちこちで左手にコーヒー牛乳片手にパンとか、うら若き女性が吉野家の牛丼とか大の男がプチサンドと缶コーヒーとか几帳面な中年男が膝の上にハンカチを引きジュラルミンの弁当箱を開け右側に小さな魔法瓶を置いている。天を暫く見てからふーと大きくため息をつき、マイ箸を出してやおら食べ始める。少し泣いている様に見えるのは何故だろう、気のせいかもしれない。

更に公園を出て歩いて行くと道路工事の現場近くの日陰の道に工事職人さんが座り込んで愛妻弁当、見るからにご飯の量が多い。首に白いタオル、額から玉の汗、陽に灼けた肌、タフな男の姿だ。

私の息子も職人だ、きっと炎天下やゲリラ豪雨の中どこかに身を隠し愛妻弁当を食べているだろうと思った。弁当は人生の縮図である。コンビニやスーパーが出来て以来手作り愛妻弁当は減ってしまっている。

愛妻弁当を食べている夫婦の離婚率は低い。
1500円から3000円位のランチを食べている夫婦の離婚率はランチの値段が高くなる程高くなっていくらしい。
朝マック、昼マックの行列をしている人達は肥満と不満の行列だ。

さて、私は実は料理は何でも作れる。親が働いていたので自分で作る事を覚えた。
姉たちの料理作りを見て育ったからだ。だが男が台所に立っている姿はヤメテという約束に近い事があり又、疲れてそんな気にもならないので一切しない。


堺正章のチューボーですよという番組が好きである。
料理上手盛り合わせ上手になるにはいい店を食べ歩かないと決してなれない。

2010年7月9日金曜日

人間市場 田植え市


男に色気が無くなってきたなと感じる。遊ばないからだと思う。
遊びに投資する余裕もないサラリーマンの平均小遣い六万円位、昼食代五百円、飲み代月平均31回の飲み代平均四千九百円、これでは何も出来ない。

新橋の機関車広場でインタビューされると、カアチャーンお小遣い上げて下さーい。なんて酔っ払っている。

遊び人(ヤクザではない)は、夜の粋、朝のしらふといい、昨夜した事は全て男の粋だから忘れてくれろ、朝は何事もなかった仲で別れよう。
こんな事が出来なくなった。夜は○×さんツケ溜まってんのよ、朝は全く始発まで寝かせろなんて最低ネとなったりしている。交際費はカット、タクシー代は一切出ないからだ。
朝マックとかネットカフェで仮眠している姿が切なくも悲しい。青山とかコナカとかAOKIのスーツが汗にまみれている。
家に帰ると、あなた臭いとか娘にはお父さんダサイなんて言われる。ふざけんな、俺はヘトヘトになりながらバカだアホだと言われながら働いてんだバカヤローと、決して口には出さない、出したらとんでもない反撃があるからだ。

京都の祇園に伝説の遊び人がいる。
深夜になると化粧を落としたお姉さんや舞妓はんたちがスナックに集まって来る。
そこでおと〜はんは人気者である。祇園で知らない人はいない、土地の親分も一目置く。祇園の事はこの人に頼むと全て可能となる。

何しろ一代で何代も続いた大店を祇園の遊びで潰してしまったのだから。その人と話をした時、何が一番楽しかったですかと聞くと「そうでんな、やはり田植え遊びやろかな」と言った。田植え遊びとは広い部屋に京豆腐をびっしりと置き、そこに一万円札を稲の様にこよりにし、お姉さんたちの着物をはしょらせお尻を丸出しにし、自分も一緒に田植え歌を唄いながら一本、二本と一万円の稲を植え込むのだという。

綺麗でっせ、お豆腐の白い色とお姉さんのお尻。
一万円がずらっと並んだ風景、それを見ながら一杯や、どうやったらいっとうお金を使い切れるか考えたアイデアでんな。商売が嫌で嫌で仕方なしやったんです。おと〜ちゃんこっち来て一緒に飲みよし、今晩うちとこ寝ていってよろしよ、ほなそうさせてもらうわ。なんて会話が自然に交わされている。歳は言わないが七十代であろうと思う。
少し男っぽい歌舞伎役者の佇まいであった。

田植えでは一晩に一千万、二千万を平気で使ったという無敵の遊び人であった。
祇園では芸能人は余り人気がない、ケチであり自分のお金で遊ばない。人の金で遊ぶ男は必ずモテない。

逆にモテるのは一文無しでヒモの様な男、この人は私がいないと生きていけないそんな母性本能をくすぐる男、売れない役者、売れない物書き、売れない絵描き、足を洗えないヤクザそんな男にはとことん尽くすのだ。売れっ娘は売れない男好きという事だ。
後を通っただけ、前に立っただけで体の芯にゾクッとする色気を感じる、そう言わせる為には夜の学校で月謝を払って男を磨かないとならない。飲み代を現金で払ったり、領収書下さいなんて言ってては遊び人にになれない。それじゃ帰り後はよろしくで終わりが正しいのだが。

隣の席で飲んでいる男が今日さぁー電車に乗っていたら前の席に座っている女の子の胸の谷間オッパイバレーていう奴、凄くいいのずっと見とれていたら駅を二つ乗り過ごしてしまいましたよ、なんて一生懸命場を作っている。五人連れの中で一番若い男だ。銀座の高い店に連れて来てもらってすっかりハイになっている。

銀座の女の子は今や獲物を追う獣の様になっている。
目はギラギラと輝き携帯を打ち続ける。祇園とは違う、はんなり感しんなり感が銀座にはなく遊び慣れた私は獲物を待っている処には近づかない。ただしかし若い男たちがどんどんつまんなくなっているのが心配だ。持ち金があれば豆腐にお札をたっぷり植えてこれ持ってけなんて言ってやりたいのだが。
凶作、不作である。

2010年7月8日木曜日

人間市場 寝室市

天上にへばり付いた20Wの蛍光灯が五本、そのうちの2本が寿命を迎え最後の力を振り絞ってピカッピカッと規則正しく光る。蛍光灯の両側が黒く痛んでいる。
六畳の板の間にマットレス2枚、その上にガーゼ地の敷布、タオルケットが私の寝具である。

この場所は寝室ではなく寝る場所である。
マットの周りには読みさしの本、使わなくなったルームランナー、小さな文机、指で押さないと映らない古いテレビ、アロハシャツやTシャツ類を入れた4つのケース、枕元にお気に入りのバカラのグラス、水差しデキャンタがある。足の踏み場はない。

知らない人が見れば物置である。
自然に出来た雑然、私はこうした空間が好きである。降りしきる雨音と死にかけた蛍光灯の光、ピカッピカッという小さな音のフュージョンが何ともいえない私好みの風情となっている。そこで今二人の作家が書いた宮本武蔵を読んでいる。

一冊は六十歳でデビューし現在八十歳の作家、加藤廣氏の「求天記」486頁。
もう一冊は小嵐九八郎氏の「悪武蔵」546頁だ。両作家共私は大ファンである。
「求天記」を読了し「悪武蔵」に突入している。遅読であるので中々先に進まない。





私は寝室という空間が奇妙でならない。
偶然知り合った男と女が毎日一緒に寝る。何となく不気味ではないかと思う。


過日友人の個展で久し振りに懐かしい人に会い一杯飲んだ、現在六十八歳だ。
この人は面白い人で大会社の役員であった。奥さんはミス鎌倉であった。四十二歳の厄年を目途に自らを鍛えたのだ。それは伊賀、甲賀、根来忍者も成し得なかった修行だ。

深夜家に帰るとそっとベッドルームに入り自分のベットに入る。しめしめ女房は眠っている。ベッドに潜り込もうと思った瞬間、隣のベットの中から二つの目がギョロリと睨んでいる。うへぇ〜と潜り込む。翌朝は修羅場となる、又浮気したわねと散々罵られる。

ある日ピッと閃いた、そうだ女房の前ではインポになればいいのだ。
自分がインポである事が証明出来れば浮気はしていないが正論として成立する。それからは無念無想ソープランドへ通い詰めあらゆる手法、口法、体法に対しても反応しない自在な息子を育てあげたのだ。

三年の月日、莫大な経費と精を放出した。その間奥さんは熟れた体を持て余し求めに求めた。当初は心とは裏腹に息子は反応し続けたが鍛錬の結果が出始めた。性豪のあだ名を持つその人はその間当然若い女性を抱き続けていた。そして遂に大願成就した。

あなた一体どうしたの、何をやっても一向に反応しない。インポなんだ駄目なんだ、だから浮気なんか出来る訳ないだろうという事が証明された。奥さんはガックリ方を落とし最低と言ったという。

その話を久々に聞きみんなで大笑いとなった。が、話は変わった。やっとオムツが取れたんだよ、何だかスッキリしてんだと言ってグイと一杯飲んだ。8ヶ月前に前立腺癌を手術していたのだ。もう鍛錬の必要無しだよと言って力なく笑った。

寝室は今でも一緒なのと聞くと、まさかずっと昔から別々、自分だけ狭い処で寝てるんだ。ここが又いいんだよ、物置みたいだけどねとなり、私の物置寝所論と一致し話は盛り上がった。


楽しい酒を飲み別れ際、いま若い子と遊んでいるんだと言った。
色々遊び方はあるものだよと言って駅に向かって行った。やはり性豪であった。
この人は有名である。奥さんはその後どうしたかはご想像に。

2010年7月7日水曜日

人間市場 七夕市


短冊に願い事を書いて笹竹に吊す。
七夕飾りは女性が裁縫の上達を祈る中国の風習「乞巧奠(きっこうでん)」の影響を受けているそうである。


日本に伝わったのは奈良時代、祈る対象は牽牛と織女の二星であった。
これと巫女が水辺の棚で機を織って神を迎える「棚機つ女(たなばたつめ)」の信仰が結びつき、平安時代の宮中では毎の幸や山の幸を五色の糸を通した金銀の針を供えて詩歌や管弦などの技術の上達を祈った。東京大宮八幡宮ではその様子を再現している。短冊代わりにカジノキの葉が使われている。七夕が民衆の間に広がったのは、寺子屋が増えた江戸後期、子供達が手習いの上達を願ったからではないかと思われるという。

仙台、阿佐ヶ谷、平塚が日本の三大七夕祭りという。十代の頃不良に明け暮れた時期、阿佐ヶ谷の七夕祭りは喧嘩祭りであった。あちこちの不良少年少女がたっぷりと集まってくる。それぞれが群れを作り一触即発の雰囲気がヒリヒリとアーケードの中に漂う。やがてアーケードの裏通りや近所の神社で喧嘩が始まる。

それは夜明けまで続く、勿論私はその中心であった。
ここでビシッとした結果を出さないと一緒に連れている織姫さんにも顔向けが出来ない。決して負ける事は許されないのだ。正直痛い事、痛い事。体中の全てが痛い。だがこの痛さが又たまらなく好きであった。

一発一発打たれ口が裂け、鼻血が出、歯がグラグラすると自分の中の狂気が目覚め闘志が沸き上がってくる。両手の拳はヒビが入り指は二三本骨折する。織姫に部屋に帰って氷で冷やして貰う。オキシフルで消毒してもらい、赤チンやヨードチンキを塗って貰う。両手に湿布薬を小さく切って貼り包帯で巻いて貰う。

織姫が今日は七夕、何か願い事をしたと聞かれると何もと言った。何でと言うから何もねえからだよと言った。こんな生活そろそろ駄目かもねと言うからそうかもなと言った。サントリーレッドをコップに入れうがいをする。
口の中、歯茎一本一本の歯まで沁み込み痛みを実感する。体中の打撲の跡に冷たいスプレーをかけてもらう。四畳半、簡易ベッド、小さなタンス、小さな台所、ガスコンロ一台、力なく回る扇風機、ヤカン一つ、小さな電気釜一つ、茶碗二つ、湯呑みが二つ、ただそれだけであった。

母親から長い長い手紙が来ていた。居ない間に自分で持って来ていたらしい。時々訪ねて来た。今でもその頃の手紙をとってある。七夕の頃になると阿佐ヶ谷を思い出し、荻窪のアパートの一室を思い出し、今でも曲がったままの六本の指を見つめる。あの頃のみんなどうしているだろうか、元気にしてろやと願う。

平塚は私が住んでいる街の隣街。越して来た頃はよく行ったがこの頃は行かない。
人混みが苦手になっているからだ。息子達と孫達が行って来た。お小遣いをあげたら喜んでいた。
ワンパクでもいい、おてんばでもいい、元気で丈夫に育って欲しいと心の中で願っている。幸い私の娘と息子は超真面目である。酒も何故か飲まない、人とは争わず見栄も張らず清く貧しく美しく生きている。勿論喧嘩や博打や女遊びもしない。
本当に私の子であろうかと思う程だ。きっと父親が人の何倍もいけない事をしたのでお天道様が悪い遺伝子を断ってくれたのだろう。

そんな私も人生の最終コーナーを回りゴールテープが大きく見えて来た。
どんなズタズタ感でテープに向かうだろうか、又はゴールテープまでたどり着く事は出来ないかもしれない。こんなに長生きするとは夢にも思っていなかった。

自分のラストシーンへのシナリオを今、色々考えている。歴史に残るような劇的なラストシーンにしたいと思っている。無様な姿だけはさらしたくないと思っているのだが。罪と罰がありすぎたからお天道様も大いに迷う事だろう。

人間市場 土下座市

東京の近くのある県に一人の男がいる。
この男の財力の前に政界、財界、芸能界、映画界、ヤクザ界、相場屋界、相撲界、落語界、歌舞伎界、およそ○○界、××界、△△界と名の付く世界の人間が跪き土下座し泣き崩れ、若いアイドルを貢ぎ物に差し出し金を借りる。座長公演などをやるとチケットを売らねばならない。大変な負担が座長にのしかかる。文字通り体を張らねばならない。

選挙資金、会社の不祥事のもみ消し金、買収金、悪い女に食いつかれた財界人の手切れ金、芸能界は見栄と虚飾の世界、お金は幾らあっても足りない。自分の芸の不足は体で補うしかない。

博打で大負けした者、相場で負けた者、若い衆のケツまくり内乱を治めなければならない親分、幹部。映画作りで大穴をあけてニッチモサッチモ行かなくなった男。毎日門前市を成すが如く金を借りに現れるその人間達を土下座させ見下ろす。その快感は見てくれの悪い小太りの小男にとって何事にも代え難き快感である。

私の長い友人がいる。画家である。その友人の娘がある大きな劇団に入った。
政治家とつながりが強い事で有名な劇団である。娘さんは待望の劇団員になれた、すこぶる美人で可愛い娘さんである。

ある日座長の男に一緒に付いて来る様にと言われお供をした。都内のホテル、大きなスイートルームである。そこに小男は現れた。座長はいきなり土下座し、お申し込みの件何卒、何卒と頭を床に擦り付けた。娘は何事かと思った。普段は鬼より恐い人だし、又心より尊敬もしていた。劇団員数百人を率いる人である。

何やら泣きわめき続けているではないか。十九歳の娘も勝手が分からずつい一緒に土下座していた。お〜君はいいんだよ君は、手をあげなさいと抱き上げられた。
小男の腕が娘の胸に当たった。気持ち悪いと思った。やがて二人は隣の部屋に行った。娘は椅子に座らされていた。座長が来て僕は先に行くから君は少し残って先生のお話の相手をする様にと言われた。

えっ、私嫌です一緒に帰りますと言った。小男がいいじゃないかルームサービスで美味しいワインと美味しい物を食べようと言った。いいです嫌ですと言った。バチン、座長は娘の頬を叩いた。特別気の強い娘は受話器に手を付けた。後から又叩かれた。
嫌です、何ですか気持ち悪いといって大暴れした。その後どうなったか、小太り小男は警察に訴えられた。座長は元大臣にとりなしを頼んだ。

当然娘さんは劇団を辞めた。
その父親は私の処にこの話を持って来た。娘はすっかり人間不信となり落ち込んでしまった。許せない、警察に訴えたがとんでもない大物とかで腰が引けて何も出来ない。一部のマスコミが騒いだが一気に押さえ込まれてしまった。娘の友達の話だと何人も被害に遭っている、でも大きな役をもらうためだから仕方ないと割り切っている娘が多いという。

どうしたらいいだろうかと言っても私は必殺仕掛人じゃないしなと言った。
石が浮かんで木の葉が沈むだな。テレビに横綱白鵬はじめ関取ずらり。武蔵川理事長以下理事ずらり、そして最敬礼のお辞儀、誠にすみませんでした。

その頭を下げている中にあの小太り小男に土下座して金を借り続けている者を知っている。何が国技だと思いながら私の親友の娘さんの忌まわしい過去を思い出した。

博打と女は一度はまったら余程の強い意志がないと抜けられない。
私は見事に抜けた。鉄の意志で。酒だけは止める気がない。心はかさねても体はかさねない、特定以外は。汚い生き方はしたくない。決して屈しない。人生は意志との戦いだ。


2010年7月5日月曜日

人間市場 ヘビー級市

七月二日午後四時、二人の女性が来社された。
一人は今年の二月六十二歳で急死した親友の愛した女性。一人は親友のデスクをずっとしていた女性。彼女たちは過日沖縄の海に親友の遺骨を散骨して来たのだ。その報告に来てくれた。青い海に白い影、まるでジュゴンが泳いでいる様であった。





一年に一度彼女と二人でバリ島に行くのが楽しみな男であった。何故妻がいるのに妻がしないのか。夫婦仲は難しいものである。男は神奈川の辻堂に住まいが有り、東京までキャデラックかハーレーで通っていた。子供は男三人、二人は双生児である。花火職人、料理人、庭師であるという。既に三十代中頃だ。

毎日ハードな仕事、ストレスを溜める仕事をする男にとって妻が待つ家はいつか安らぎの場所でなかった。酒も飲まず煙草も吸わず仕事をしている時が一番イキイキしていた。私とは二十代の時からの付き合いでお互いに仕事を頼んだり頼まれたりしていた。

親友が亡くなった後、妻は通夜にも告別式にも来ない。そちらで勝手にやって下さいと言って来た。又お墓もありませんから、どこかに散骨でもして下さいと言うではないか。一体どういう夫婦だったのかと思った。

夫婦とは元々赤の他人と云うがそれにしても血も涙もない。
私の目の前に居る女性は散骨の写真をアルバムにして今なお精神的に立ち直れず少々鬱状態であり、何度もすみませんと言いながら涙を拭った。
聞けば全ての遺品は処理したが小さな引き出しの中に私が出し続けた手紙と葉書をしまってあったと言うとても大切にしていましたと言われ私の目頭は熱くなった。


わずか半年前までは身長180㎝、体重76㎏の男が大きな声で自慢のアイデアを私のところのスタッフに熱く語っていた。僕は時々自分は本当に天才じゃないかと思うんですよと本気とも冗談ともつかぬ口調で語っていた。

私は「よろず相談室」を開設しているので様々な相談が来る。
今気が重いのは70代夫婦の離婚話だ。先週の深夜奥さんから電話、今夜は出張でいないからと約一時間半その内容の重い事。近々お会いする事にした。早く会って下さい、そうでないと私が何かされるか私が何かするかもしれないと言う、物騒な内容だ。次の日それとなくご主人に奥様はお元気ですかと聞くとあの鬼婆と言った。息子さんが私の処に居た事があり私達夫婦が仲人をした。息子は香港にいるのだがこの間離婚した。人生とは一つの歯車が壊れると一気に崩壊を始める。

一人の女性は中堅の画家である。デパートで年六回個展をする。相手の男は私の後輩、先日胃癌の全摘出手術をした。長年の老人介護のストレスと疲れが原因だと本人は言う。彼女は夫婦別れし画業に専念したいと言う、そこにはもう愛のカケラもない。

この歳になって受ける別れ話はヘビー級の内容が多い。
年金、仕事減、介護、老人ホーム、葬式お墓、保険、借金、保証人、裁判等々の言葉がワンツーパンチの様に浴びせられる。
共通しているのは男はオタオタし女は矢でも鉄砲でも持って来いという開き直りがあり男はグダグダ未練がましい姿だ。こんな相談を後二つ三つ受けている。若い愛人を作り金目な物をみんな持って逃げた。かつての良妻賢母、一度の火遊びが眠っていた女の本能に火を付けてしまった。

その逆もいる。石垣直角マジメ一筋で無事定年を迎え、ほっとひと遊びしたのがこの世の終わり。男は未だ行方不明。退職金をソックリ持って早数ヶ月娘さんに時々メールが入るとか。お父さんは今とても幸福だなんて。探して下さいと言うから嫌ですよと断った。


尾崎士郎は人生は劇場だと云ったがまさに一寸先は闇の世界だ。絵に描いた様な幸福な世界はこの世にはない。トンネルを抜けるともっと長いトンネルだった。夢から覚めるとそこは悪夢だった。心を鍛えておきましょう。


2010年7月2日金曜日

人間市場 人物不足市

本物のスポーツライターのいない悲しい国。
もし阿久悠存命ならW杯の結果を何と書いただろうかとつくづく思った。朝日、読売、毎日、日経、日刊スポーツ、報知、スポニチを一通り読んだが一紙も胸を打つ文章に出会えなかった。全てお粗末の一語、ワンパターンであった。戦略、戦術の解説も同様であった。


かつて「江夏の21球」という朝日新聞の天声人語があった。その文章に感動し、切り抜き今でも額に入れて持っている。
16強が凄いのか、16強でしかないのに何を大騒ぎしているのかで今後の日本サッカーは変わる。ただ本田圭祐という久々に言葉の発信力がある若者が出て来たのが収穫であった。
実に冷静に日本サッカーと自らを分析していた。応援してくれた方にも批判をしてくれた方にも感謝したい。もっとハングリーになっていきたい、世界へ出ないと通用しないと語っていた。

やたらとチームワークを強調していた。かつて常勝巨人軍を徹底的にやっつけた知将の三原脩監督はチームワークは作って出来るものではない、勝てば自然に生まれるのだと云った。野武士集団の西鉄は個人集団であった。

事実カメルーン戦に勝ってからチームワークが自然発生的に生まれたと選手は云う。サッカーに詳しくない私が見ていて一番素晴らしかったのは中澤というDFの選手だった。
ゴール前危険な時必ずといっていい程彼の頭、彼の足、彼の体があった。FWと違って地味だが一点を守れば一点を獲得したのと同じである。決して目立たず、主張せず、語らず、怒鳴らず、ひたすらチームを救った。

こんな男が脇を固めてくれたら本当に頼りになるだろう。
一紙くらいその中澤のドラマを書いて欲しかった。

山形の庄内空港から帰って来ると、チワー朝日新聞で〜す、今月で契約が切れますから延長お願いしますよと若い男が来た。朝日の記事はこの頃最悪だから来週来てくれと言ったら、え〜勘弁して下さいよ頼みますよと言って帰って行った。

暫くすると、ちわ〜読売で〜す、今月で契約が終わるので後半年延長たのんますよぉ〜と手に沢山の洗剤を持ったアンチャン、ビーチサンダルであった。お前、もの頼むのにその格好はないだろう、読売はナベツネが嫌いだからもう止めと言うと、ヤベェ〜マイッタナァ〜何とかタノンマスヨォ〜とすね続ける。来週まで考えるから今日は結論無しと言うとビール券持ってキヤスヨォと言う。
いらねえよ、しつこいのキレイナンダと強く言うと、マイッタナァ〜と又来ます、ヨロシク頼んますと言いながらビーチサンダルをペタペタしながら帰って行った。愚妻が逆恨みされると嫌だと言った。

新聞の役目も終わろうとしている、若者達は殆ど新聞をとらない。パソコンやiPadなどでより便利で、より詳しく、より早く情報に接する事が出来るからだ。


山形県には本間家という日本一の豪商がいた。殿様より力があると云われた位の一族であった。その一族が生んだゴルフクラブの名品本間ゴルフがなんと中国に買収されたというではないか。なんたる無様な出来事だ。
何が中国共産党だ。遂にゴルフメーカーまで買収しはじめたか。かつてジャパンイズNo.1なんて云って世界中を買収し続けたその結果、バブルがバーンと弾け今やG20で日本の財政再建は例外扱いにしてやるよ、だからしっかりしろやなんてコケにされてしまった。世界一の借金大国である。

ゾロゾロ九つの党ががん首を揃えてハチャメチャな状態だ。
五人しかいない政党に助成金なんて支払う必要ない。もっと規制すべきだ。少数意見尊重を勘違いしている。三党で十分だ。

日本の財界人の集まりかがあって危機的状況だなんてインタビューを受けている一流企業の代表者達だがその顔相の貧しい事。一人として渋沢栄一の様な風格、見識、教養、哲学等を感じさせるオーラを持った人物はいない。

何しろユニクロの柳井正社長なんか毎晩会社が倒産する夢を見る。居ても立ってもいられないと言う、情けない事この上なしだ。楽天の三木谷社長の処は社内の日常語は全て英語にするという。阿呆かだ。

倒産が恐くて会社をやってられるか。夢を見るならもっと人間の未来や地球の未来への夢を見ろと言いたい。所詮バッタ屋だな、中国の秘密工場で女工哀史の様に安い賃金でコキ使っている。年収数億円のサラリーマン社長屋ばっかりだ。

2010年7月1日木曜日

人間市場 淵野辺市


W杯熱狂冷めやらぬ中、私が最も大切なお付き合いをさせて頂いている会社の社長さんに、いま企画している展覧会へのご協力をお願いに行った。

私が一人で会社を起こして初めて仕事を頂いた羽毛布団の製造販売会社である。その名を東洋羽毛工業という。現在の社長は三代目である、世襲ではない。

この会社の特長は販売先がほとんど医療関係、看護師さん相手である事だ。
唯一、日本看護協会の指定を受けている。日夜過重労働をしている婦長さん以下ナースステーションの人々にとって寝る事は何よりの贅沢。自らへのご褒美である、それ故最高級の羽毛布団を購入する。北は北海道から南は九州、沖縄まで広い販売網を持っている。現在の社長さんとは四十年近いお付き合いである。

人間にいい人という概念がある。それは誠実、真面目、責任感、純粋、奉仕、包容、愛情、温和などがあるがその全てを持って余りある人はいない唯一無二と言っていい位の人格者である。

本社は神奈川県の淵野辺にある。この地はかつて旗本領で烏山藩とも云った。
養蚕が盛んで桑畑が広大に広がっていたと云う。戦時下は日本陸軍の兵器学校があった。

今は若者の街に変わってきた。麻布大学、青山学院大学、桜美林大学等が次々と設立され駅前近辺は学生用のアパートやマンションが建ち並び住宅も建ち始めている。

午後四時に訪ねW杯の話題で盛り上がり、睡眠不足である私は出して頂いたコーヒーで目が覚めた。お願い事をした後、社長が食事を予約してあるからと五時二十分迎えの車に乗った。この会社は残業ゼロである。朝八時半から午後五時半でピタッと終了する。電話も繋がらない。創業者からの経営方針である。

連れて行って頂いた処が素晴らしかった。社長は淵野辺にもこんな処があるんですよと言った。「さ蔵」という。オーナーが石材商を営んでいるとか、まるで平城の様である。門構えは巨大な城壁の様である。花崗岩か安山岩、閃緑岩かと思われる石が迎え入れてくる。料亭の中は広い回廊造りで長い直線は見事な一枚板で演出されている。中庭は広く緑の庭園である。煙草を一服楽しめる様配慮されている。



個室に案内される。掘りごたつ式で足が下ろせる。
社長と私と社長の右腕で凄腕の美人部長(お酒が強い)と話題は尽きず楽しいひとときである。次々と料理の出る事盛り沢山。杯でチビチビ飲みながらチビチビとチーズやクラッカーを食べていたのでお腹が余り空いていない。



外はまだ明るい。いらっしゃいませと入って来たのが何とも小さく可愛い品田楓さん18歳(胸に名札が付いている)本当に小さな卵顔おでこに黒いホクロ。
インドの女性がつけるビンディの様、インドでは結婚している証しとして付ける。楓ちゃんは未だこれから、とても見事なビンディだからきっといい男性と出会えて幸福になるよと言った。ピンクのシャツにジーンズ、ピンストライプの黒のジャケットのあまり変なお客さんに楓ちゃんはいつもと勝手が違うみたいであった。

独身の男の人はぜひ淵野辺の「さ蔵」へ、但し安月給では行けない、店の名は桜の木と店内にある蔵造りの場所にかけてつけたという。
折角のお料理を半分以上残してしまい、天ぷらやらローストビーフはパックにしてもらって夜食のつまみにさせて頂いた。


社長さんは現在七十歳。奥様とは中学一年生の時からの純愛である。私は奥様の大ファン、最高に話が面白く独特の表現力を持っている。趣味は刺し子とか。刺し子をしていれば飽きる事なしという。

昔話やこれからの日本、これからの経営等話は花火の様にパチパチと飛び火して盛り上がった。楓ちゃんが美味しそうな釜飯を持って来てくれたが残念ながらお腹に入らなかった。素晴らしい人格の社長、仕事が出来る美人部長、かわゆい楓ちゃん、笑い声の絶えない三時間であった。誠にありがとうございます、ご馳走様でした。

淵野辺に行ったらぜひ「さ蔵」へ、本物の羽毛布団は東洋羽毛さん(和田アキ子を起用して十年間CMを提供していた)。
いい睡眠は一番の健康法です。

2010年6月30日水曜日

人間市場 名前市

山形県天童市にある「天童荘」という処で書いている。
深夜三時である。昨日「奥山農園」でたわわに実った見事な佐藤錦を友人達と取り合った。

昨年と同じメンバーに一人お人形を追加して来た。F−1レーサーの中野信治さん、相変わらずクールで格好いい。一人は藤原紀香さんお気に入りの写真家菅原一剛さん、相変わらずおしゃれな人だ。一人は山形出身の広告代理店の社長大泉勉さん、それとプラスワン。

大泉さんの高校時代の友人が仙台まで大きなバンで迎えに来てくれた。
さくらんぼは天候の影響で一週間位取り入れが遅いらしい。農園の木に真っ赤な実、それを取っては食べた。
木の上の方が陽を浴びて甘い下になる程酸味が強い。真珠の分け方と同じ方法で大きさを数種類に分ける、小さな四角い板の上に乗ったさくらんぼが微妙な重さをくるくる回転寿司の様に廻りながら選別される。
ぜひ送ってあげたい人に一番いいのを送った。



天童荘」は感動的な懐石料理旅館、明治の頃から現在で五代目、もともとは「鰻屋」さんであったとか。その風格と格調は見事の一語。その造り、広い広い部屋、あまりに静か故テレビのスイッチを点けなかった。

十一時から日本VSパラグアイ戦を見る。夜食が作ってあった。お料理芸術的、お姉さん達が親切な事。山形に来たらぜひ「天童荘」へ。


さて名は体を現すと云う。下手な本を書くに当たって主人公にチョット珍しい名前を考えるため有能な私の右腕上原嬢に調べてもらった。何とも面白すぎる、楽しすぎる珍しすぎるのが送られてきた。その一例をご紹介してみる。
味水 みみず
前明力 まいみょうりき
水毛生 みもう
前伊礼門 まえいれいじょう
水門 みもん
孫左近 まごさこん
水鳥川 みとりかわ
味舌   ました
水穴 みずあな
級久保 またくぼ
水洗 みずあらい
松七五三 まつしめ
水出 みずいで
松鶴 まつづる
水姓 みずうじ
萬里小路 までのこうじ
水落 みずおち
大豆生田 まみうだ
水利 みずかが
回り道 まわりみち
水柿 みずがき
正月一日 あお
水掛 みずかけ
上り口 あがりぐち
水堅 みずかた
春夏冬 あきなし
水庫 みずくら
阿世比丸 あせびまる
水子 みずこ
白水郎 あま
水主 みずし
己己己己 いえしき
水尻 みずしり
猪鹿月 いかつき
水清田 みずせだ
異儀田 いぎた
水溜 みずたまり
砂金 いさがね
水足 みずたり
飲酒盃 いさはい
水垂 みずたる
砂盃 いさはい
水冨 みずとみ
五老海 いさみ
御神本 みかもと
一円 いちえん
御正山 みしょうやま
一番ヶ瀬 いちばんかせ
御簾納 みすの
入南風野 いりはえの
御菩薩池 みぞろけ
十六女 いろつき
弥陀 みだ
浮気 うわき
御滝 みたき
宇津巻 うづまき
御立田 みたてだ
雲丹亀 うにがめ
御旅屋 みたびや
裏隠居 うらいんきょ
御調 おしらべ
漆真下 うるしまっか
光来出 みつくで
雲類鷲 うるわし
民法 みんぽう
延命 えんめい
無敵 むてき
追出町 おいでまち
一番合戦 いちばんがっせ
王隠堂 おういんどう
鬼首 おにこうべ
王来王家 おうらいおうけ
一法師 いちほうし
大炊御門 おおいのみかど


なんかこの様な名前を見ているとその本人に一人一人会いたくなってしまう。
想像力を掻き立てられる。名は体を現す人生を送っているのだろうか。

明日山形出身の写真家土門拳の記念館に行く。この記念館を設計した人が又凄い人なのだ。そしていざ出羽三山へと向かう。都会生活を卒業する時期が近づいている事を一日一日体が感じる。山形は緑一色だ。山には神々が宿っている。

サッカーは死闘であった。クタクタになった本田選手がPK戦の前にじっと手を合わせて祈っている姿を見た時嫌な予感がした。彼にはふさわしくない姿だった。

今度小説を書くとしたら主人公の名前は駒野にする事に決めた。
勝負は残酷だが結果は美しく清々しい。天童市は将棋の駒作りで有名な所であった。何かの因縁だったのかと思った。

2010年6月29日火曜日

人間市場 パラ貝市

六月二十五日(金)、神田三省堂書店八階で友人夫婦の陶芸の展覧会があった。
私たち夫婦と友人夫婦で行った初日のパーティーである。

備前、志野、瀬戸、益子等、大皿から大花瓶、片口茶入、ぐい飲みなど力作、名作、大作が広い会場に展示されている。陶芸教室の生徒さんたちが沢山来てお手伝いをしている。

退職前の会社以来の家族付き合いである。三十年以上になる。
で、パーティーに友人のかつての同僚がお祝いに来ていた。ほとんど私の知り合いでもある。人間十年会わないでいるとこれ程変形してしまうのかと思う人が多かった。何故か谷隼人が来ていて紹介されたがまるで丸太の様に太ってしまっていて識別不能状態、顔立ちだけは面影があった。

頭の毛がほぼ無くなりエシャレットみたいになった人、くわい頭の様になった人、具合の悪いかつらをかぶった人、寿司の軍艦巻きの様に周りだけ毛があり上は無毛地帯の人、又は不毛地帯の人。人間は髪の毛があるか無いか無くなりつつあるかでまるでイメージが変わってしまう。私とより四、五歳上の人達である。

友人の焼き物の話よりサッカーの話ばかり、凄かったね本田、見事だね遠藤、岡田は名監督だねと絶賛の声、W杯が始まる前とはエライ違いだ。やはり勝負は勝った者勝ちだ。
愚妻が花器を二つ買って会場を後にした。

それから友人夫婦とタクシーに乗り赤坂の濱寿司へ。一番若い板前にウルガイとパラガイを握ってくれと冗談を言った。
当然ウルグアイとパラグアイ(次の対戦相手)にかけた駄洒落だ。若い衆は私が相手だと緊張したのか。オヤジさんウルガイとパラガイ今日は入っていませんよねなんて真顔で寿司ネタのケースの中を見ている。板長がお前何やってんだよ、そんな貝ある訳ないだろう冗談をおっしゃってんだよと言った。すいません、間抜け者でと言った。悪い悪い、冗談だよと謝った。

店の親父が赤坂で一番旨い寿司と自分で言っているだけあってやはりどれも旨い。
この店とはもう三十五年の付き合いだ。TBSの側なので役者さんやタレントが多いのが気に入らない、二階を造って以来自民党の森、小泉、中川(秀)一派の御用達になった。森が首相の時SPを何人も連れて入って来た。テレビ局のカメラも数台付いて来て店の中も外も大騒ぎだ。テレビに出たがりの親父はテレビに向かってお辞儀なんかしている。

夜九時頃だった。そこへ私は友人と行った。親父が直ぐ寄って来てすいません、今日はこんな状態なのでと言うからどういう状態なんだよと怒った。
要するに今日は俺に遠慮してくれって言うのか、俺と森とどっちが大事なんだ、えっ応えろと大声出したらSPがガバッと寄って来た。何すんだよどけどけと言って店の中に入った。

カウンターの奥に森と中川、連れ達は二階へ昇る。
親父オロオロ、板長オドオド、若い衆四人真っ青、着物のスタッフ五人ヒソヒソ状態となった。親父にお前ミーハーだからいけねえんだよ、総理大臣なんか直ぐ替わるんだ、辞めれば自分の金でこの店来て高い寿司なんて食う事はないんだよと言った。私は空いていたカウンターに友人と座った。親父はすいませんを連発していた。何にすいませんって言ってんのと言うとすいませんと又言った。

森喜朗が総理大臣を辞任したのはその日から二週間後だった。
商売はな、昔からのお馴染みさんを何より大切にしなけりゃいけないんだよとお説教をした。その後ぱったり森一派は来なくなった(噂では回転寿司に行っているとか?)友人夫婦と寿司を食べながらそんなエピソードを話した。

親父は今度TBSの番組で自分と若い衆三人で有名人が食べる寿司屋さんのコーナーに出ますなんて言い始めた。よせよせそういうの、本当に出たがりだねと言った。本物の店はひっそりとやるもんだよひっそりとな。

愚妻がぽつりと口を出した、あなたこそひっそりしてよだって。もう若くないんだからケンカになる様な事は終わりだって。友人の奥さんが私は人が言えない事や思ったことをズバッと言う処がいいのよだって。