三月六日、七日五反田マックレイスタジオにていよいよ今年のカンヌ国際映画祭に出品する「夢魚」の本編集、ナレーション録りだ。
この映画にセリフはひと言しかない。
「人間は犬以上人間を愛せない」これだけだ。ナレーターは中野裕之監督にお願いする。中野さんは凄くいい声なのだ。
この映画の主題は、言葉の持つ非人間性、暴力性だ。思えば私の人生は言葉によって人を傷つけて来たのだ。神はいるのか、何故この宇宙に人間だけ言葉を与えたのか。
この映画は自省の映画でもある。
主題を観念的に表すものとして次の要素を重層的に組込んだ。詩的世界である。犬、掟、習俗、四つの面、おかめ、小面、ひょっとこ、鬼、それは人間の中に潜む喜怒哀楽である。
犬は人を決して裏切らないが人は簡単に人を裏切る。
一人の女神に悪魔性はあるのか、四人の女神の中に何が潜んでいるのか、主人公はバロック時代の先駆者、天才でありの人殺しでもある画家カラヴァッジョに心酔していた。
無防備に口から発した言葉は銃弾より強く、鋭利な刃物より人をえぐり傷つけている。
たったひと言で一生治らぬ心の病にする事もあり生涯の殺意も呼ぶ。
私は何人の人間を奈落の底に落として来たのだろう。犬以下の人間なのだ。
どうしてもこの主題を作品にしたかった。
監督には中野裕之さんの秘蔵っ子、平間絹乃さん。撮影は名手猪俣克己さん。
音楽は天才伊藤求さん。全体をプロデュースしてくれたのはキッチンの奥野和明君、制作は抜群のキャラクター森美香さん、スタイリストは石川香代子さん。
昨年十一月長野県の標高約2000mにあるJR小海線佐久広瀬駅から始まり御岳山、奥多摩、秋川渓谷そして都内のハウススタジオで四人の女神の撮影、深夜の品川埠頭、新橋の街と進んだ。あきる野市乙津村では皆さんのご協力を頂いた。村の総代の乙津つねよしさんは十六代、なんと関ヶ原の合戦の頃からだと聞いた。撮影中山の中から何回も何回も木を運んで来てくれて焚き火をしてくれた。
餅つきをした後食べたきな粉餅は絶品だった。自費で製作する映画は一銭も無駄に出来ない。スタッフは手弁当だ、映画野郎の集まりなのだ。
マックレイという会社には機材を含め毎度ご協力をして頂き心より感謝する。寒さの中で一日中立っていると若くない体には猛烈にこたえる。
しかしクリントイーストウッドは八十歳で新作を撮っているマンモスだ。
右に死ぬほど愛する女性がいる。左に死ぬほど製作した映画がある。どちらを取るか当然左の映画だ。ならば愛する家庭とどっちを取るかと聞かれたらやはり左の映画と答えるだろう。
映画の中に一匹の鯉がインサートされる。
これは主人公の中の沼の様になった沈殿する思考の動きである。カラヴァッジョは一人の人間を殺し逃亡の末三十九歳で死んだ画家だ。二点選んだ絵は「救い」を表した。遠景のシーンで主人公がかつて心を奪われた女性と再会する。このシーンは大好きな画家ブリューゲルの冬を意識した。言葉を話す人間は掟の中にいて掟に滅ぼされる。
三月十日の出品の為に総仕上げ、フランス語と英語で字幕を入れなければならない。この映画を通し私が傷つけてしまった人々にお詫びをしたい。わずか十二分に魂を込めた。世界の首席を目指す。音楽のコンセプトは犬が付けていた鈴の音、そして賛美歌、日本的習俗性とヨーロッパ的宗教性のフュージョンだ。
私は今度生まれ変わるとしたら人間は絶対に嫌だ。言葉に支配されたくないから。「犬」がいい。心から人を愛せるから。人に尽くせるから、邪心無く。但し権力の犬には決してならない。