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2012年7月13日金曜日

「目茶苦茶」




その昔、片岡千恵蔵という大スターが東映におりました。
 そのご子息は現在のJALの社長です。その代表作に多羅尾伴内という探偵シリーズがありました。

大スターは拳銃を右手に持ちながら階段を降りて来ます。
ゆっくりと、そしてこういいます。「貴様は誰だ!?」「七つの顔の男じゃよ。ある時はインドの魔術師、ある時は画家、ある時は私立探偵、またある時は片眼の運転手しかしてその実体は・・・・」と七つの職業をいうのです。
その全部を言い終えるまで何故か敵方は構え、拳銃の引き金を引きません。

橋下徹という人間の言動を見ていると七つ以上の職業を持つ事に気が付きます。
完全な分裂気質です。ある時は弁護士、ある時はバラエティの出演者、ある時は市長、またある時は日の丸推進人、ある時は刺青発見者、また、また、ある時は原発反対者、また、また、また、ある時は原発推進者、また、また、また、また、また、ある時は反民主、反自民、ある時は小沢絶賛、そしてまた、また、また、ある時は野田絶賛、民自絶賛と日替わりに自分が変わる深夜からは、ツイッター魔と化すらしい。

家族大切主義者にして、パラノイア、ファナティズム、サディズム、ファシズム、ヒロイズム、ナルシズム。
この人の末路はきっと檻の中かもしれない。一気に駆け上った人間は一気に転げ落ちる。利用できる者は全て利用する。

善と悪も、表と裏も、罪と罰も、権力というカクテルを作るレシピとなる。
悲しいかなこの程度の人間にみんながアタフタ、ガタガタ、ブルブルする。
本人はきっと分かっているはずだ、自分が完全なる分裂気質である事を。その恐怖が自己を制御できなくするのだ。

不安神経症だから、小心翼々なのだ。同じ様な境遇で育った私には橋下徹の心の中が手に取る様に分かる。
攻めていないと恐いのだ。守りに弱い事を誰より自分が知っているから。
もう頭の中がシッチャカメッチャカ、演歌チャンチャカチャンのはずだ。
数年前何人もいる自分の子に囲まれている橋下徹の笑顔は正気で可愛かった。

シェーンカムバックではないが、家族に帰ろうだ。今なら間に合う終列車だ。

2012年7月12日木曜日

「やられたらやり返せ」




イジメ、いじめで小学生、中学生、高校生が死を選んでいる。
何ともやりきれない毎日だ。

教育委員会や学校、教師はいつも逃げまくり責任を負わない。
私はイジメられたら親や学校やイジメ相手の家に殴り込めといいたい。
親が弱そうだと思うと相手はイジメに走り、親が恐そうだとイジメはしない。
目には目を、歯には歯をだ。


 私がガキ大将だった頃、ケンカで相手を負かすと相手の親がドーンと家に殴り込んで来たものだ。おー、恐えー。

でもあいついい親父がいたんだと仲良くなり、やがて恐えー親父さんからキャラメルとかチューイングガムを貰ったものだ。
ガキ大将は決して弱い者をイジメたりしない、イジメる奴をいじめるのだ。

世の親よ、もっと子供のために体を張れ、怒りを行動で表せといいたい。
親は子を守るためにいる。国や警察や教育委員会なんか頼っても役に立たない。
先生などは全く無力の極みだ。生徒のイジメを守るために命を落とした先生など一人もいない。自分は弱いからと思ってる親なら私の処に相談に来て下さい。

2012年7月11日水曜日

「背中」




フランスの名優ルイジューベは背中で演技するといわれた。
超一流の役者でも背中で演技できるのは今はいない。

私はよく人の背中を見る。
人の背中にその人の過去、現在、そしてその命の行き先が見えるのだ。
人の背中は一枚のスクリーンといえる。背中にメイクアップしたり、眼鏡をかけたり、ヒゲを生やしたりはしない。

矢吹健の歌うヒット曲に「うしろ姿」というのがある。
いい曲だ。「帰っちゃ嫌と、言えない私、今夜も来るとは言わないあなた、何でもないよな顔して足音だけが遠ざかる。あ〜あうしろ姿は他人でも今夜のあなたは、私の私の、私のものぉ〜」
何か後ろめたい男と女の感じ、落ちてきた女と、通り過ぎて行く男。その薄い密着感が好きなのだ。

ある男が、ある日、ある夜私に後ろ姿を見せて帰って行った。
私より20歳以上若い男であったが、その後姿に死相が見えた。あいつは死ぬなと思った。
登りつめた人間だけが持つ下相(下り坂の相)が背中のスクリーンに映っていた。

私の家前で長々と私に成功談をして帰ったのだがそこに不吉を感じた。
頂上に登った観覧車は残りの半分は下りて行くだけだからだ。失敗を恐れず失敗を目指せが私の主義である。
成功したと思った瞬間人間は下り始める。


その男はその日から約八ヶ月後死んだ。
名を言えば誰もが知っている男だ、死因は不明にせよと命じていたらしい。
ルイジューベの代表作は「北ホテル」その男が死んだのは「あるホテル」だった。

2012年7月10日火曜日

「集結の先」

 


国家権力は歴史上何によって滅ぼされたか。
全て民衆の蜂起によってである。

プラハの春を成し遂げたのは抵抗する民衆のラジオによってであった。
地下に潜った民衆は地下ラジオ局を作り、そこから情報を発信し勝利した。

ベトコンは地下トンネルによって繋がりゲリラ戦に持ち込み大国アメリカに勝利した。
エジプトの春はツイッターとかフェイスブックによって成し遂げた。

今、日本の金曜日は花金などといって遊びほうけているだけではない。
原発再稼働反対の声を上げる民衆が毎週金曜首相官邸を取り囲む。
そこには連合の旗も、日教組の旗も同盟等の組合の旗はない。赤旗もない。
 正に民衆の民衆による民衆のための集結なのだ。

この光景は安保闘争以来だ。一度蜂起した民衆の波は止む事はない。
ツイッターとかフェイスブックで集結するネット上の民衆は乗り遅れる事を極端に嫌うからだ。
思想的背景は強くなくともみんなと一緒にいないと落ち着かない性分なのだ。この波はやがて日本全国の原発反対運動に広がって行くだろう。

きっと一人か二人の死人が出るまで続く。もうどうにも止まらない。

2012年7月9日月曜日

「フライパンと東大教授」




七月八日(日)朝六時〜六時四十分、TBS日曜放談を見た。
自民党の大島理森(65)副総裁と民主党藤井裕久(80)税調会長との放談だ。

放談だから何を話しても好き勝手だ。
私が何度見ても気に入らないのが、司会の東大教授御厨貴(61)なる人物だ。
オーラル・ヒストリーなる政治学を売りにしているらしい。
オーラルセックスの兄弟分の様な政治学なのだろうか。何でも相手と直接語り合ってそれを元にするらしい。

そもそもTBSは毎日新聞系だ。本来中立的立場でなければならない。
東大という国立大学の政治学者がまるで太鼓持ちの様にシナリオに首っ引きで予定の話を聞き出そうとする。
阿呆、間抜けの様な質問しか出来ない。

で、大島さんとか、藤井さんとか言っているとフライパンのCMが入る。
○×コーティング加工で決して焦げ付かない、ホラ目玉焼きだってこの通りなんてダイヤモンドコートフライパン。
話が途中途中で切れているので繋がらない事この上ない。

大島VS藤井の放談は同床異夢。永田町は黒々と焦げ付いてしまっている。
藤井裕久ジイサンは別名ワンカップ大関ともいわれているという。夕方になるとワンカップでアルコール臭いからだ。
こんな八十歳のジイサンに仕切られている民主党に未来は全くない。

焦げ付いた永田町の現状を分析できない政治学者御厨貴は一日も早くこの番組を降りて公正中立にならなければならない。ちなみにダイヤモンドコートフライパンは買いたいなと思っている。教授と違って極めて優秀であるからだ。

2012年7月6日金曜日

「ああ無常」




知人・友人・恩人が亡くなったら人はどうするか。

「もしもし、○△ちゃんが昨日亡くなったんだよ」
「えっ、何でですか」
「病気でさ」
「・・・・・。」
「お通夜は、告別式は」
「○月×日と○月△日なんだけど」
「あ〜まいったなその日はどうしても行けないんだよ」

なんでという気もない。
その昔なら、最後はどうだったの、苦しんだのかい、穏やかだったかい、ご家族は・・・などの会話に進んだのだが。

今日この頃は自分達が今を生き抜くのが精一杯、今ある仕事をやり遂げるのが目一杯なのだ。
命に対する思いが極めて薄弱となってしまってきた。誰が悪いとか、何かが欠けてしまったのでもない、ただ人間関係が仕事だけで結ばれる時代となってしまったのだ。

あなたは今年になってどれ程の涙を流しましたか。
もしかして一滴の涙も流していないのに気が付くはずです。人の命は儚い世になってしまったのです。
ちなみに人は死ぬと10日間は中空にその魂はあるそうです。そこから誰が何をいい、何をしたかを見れるそうです。
人が人を悼む心を失った時、人間は人間ではなくなるのです。

無常なり。
命より仕事が大事になっていく。

2012年7月5日木曜日

「しのび逢い」




いい役者になるにはまず次の事を学べといわれた。
1、煙草の格好いい吸い方。
1、格好いい歩き方。
1、格好いいトレンチコートの着方。
1、格好いいウイスキーの飲み方だ。

この頃は煙草を吸うシーン等は殆どなくなってしまった。
マルチエロマストロヤンニとかジャンポールベルモンド等は最高だった。
歩き方はジョンウェインが好きだった。トレンチコートといえばやはりハンフリーボガートだろう。

アクアスキュータムとか、バーバリーのコートは憧れだった。
別名ギャングコートともいわれた。レインコートの似合う役者なんて今では誰一人いない。

かつてオンワード樫山の仕事でコートキャンペーンを手掛けた。
人気絶頂の田中裕子と藤竜也を起用した。
キャッチフレーズは「コートはしのび逢いのためにある」ひと目を避けて逢瀬をするスター同士という設定にした。
逗子の日影茶屋で一日、横浜の倉庫街で一日、さすが二人はスターであった。
藤竜也はコートの着こなしも、煙草の吸い方も最高だった。

駅に貼られたポスターは次々と剥がされてしまい急いで増刷りし、芝浦のオンワード樫山で特別にファンに渡した。
六月は雨の季節、しかし銀座にも赤坂にも六本木にもコートの似合う男はいない、というより着ている男がいない。
人目を避けて逢瀬を楽しむ大人たちもいない。全く持ってシネマティックでないのだ。

アクアスキュータムの輸入元はレナウンだった。その名門レナウンが中国人の資本になってしまった。
現実は悲しい。中国人は何百年経ってもトレンチコートは似合わない。
さて、役者の中で、煙草の吸い方、歩き方、コートの着こなし、そしてウィスキーの飲み方。

この全てで満点をとったのは、やはり石原裕次郎一人しかいない。
藤竜也は石原裕次郎がこよなく愛した横浜グランドホテルの名物Barで、今も石原裕次郎の飲み方を学んでいるという。六月はしのび逢いの為にあるのだ。

2012年7月4日水曜日

「一筆多生」





 


六月三十日から七月二日までの三日間、新浦安の市民ギャラリーで行った原田徹さんの絵画「復活」展になんと800人以上の方々が来てくれた。

450通の案内状の発送であったのに凄い来場数であった。
通常は発送数の70%来ていただければ成功といわれる。

難病で一文字すら書くことができなかった原田徹さんが、医師や作業療法士の方々、またご家族の協力を得て、始めは塗り絵、次にペン画、そして水彩、更に油絵と命懸けで描き続けた。その事実に対する共感の輪が広がったのだ。
一日16種類515包の薬を服用しながらである。日々パーキンソン病による幻覚に襲われ続けている。

 会場には同じ様な病と闘っている方々、その家族、その関係者の方々が来場し、ある人は大粒の涙を流し、ある人は嗚咽し言葉を失い、ある人は身を震わし感動した。
中でも21メートルに及ぶ百人一首は正に圧巻であった。
また、その10年間に及ぶ病との戦いの年表に人々は驚嘆の声を上げた。「絶望は愚か者の結論なり」といった哲人がいた。

原田徹は“一筆多生”を行った。一筆一筆、一色一色、一文字一文字に精魂を込めた。
結果一人でも多くの人が生きる勇気を持ってくれたとしたら原田徹さんは満足の極みだろう。
私はこの展覧会のお手伝いが出来た事を誇りに思う。

また、一緒に成功させてくれた乃村工藝社の鈴木敦さん、私のデスク上原有美さん、鈴木ワークスの鈴木智暢社長に心より感謝したい。また、奥さんと二人の娘さん心よりお疲れ様でしたといいたい。

何としても図録をつくってほしいとの声が大きく上がり、その声に応えたいと思う。
かつて原田徹さんと共に作ったキリンビールの伝説のCM、麒麟伝説に一行の言葉がある。
「一枚のラベルにもロマンがある」決して諦めるな、絶望するな、明日のために今日を生きよ。
惰性になるなかれ、この世で人間だけが夢とロマンを持つ事ができるのだから。

PRにご協力いただいた今岡又彦さん、大泉勉さんにも感謝したい。
世も末の様な今日この頃だが、そんなことは決してない。世は常に新しさを求め始まるのだ。
人間は人間を救う事が出来る。

2012年7月2日月曜日

「肝臓の味方」


奈良屋


いい話がとんと少ない新聞記事にも時としてしみじみするものがある。
“しみじみシジミ”の記事であった。

シジミといえばNO1は島根県の宍道湖と決まっていたのだが、今年は遂に青森県の十三湖にそのNO1の座を明け渡した。両方に行ったことがある。

宍道湖にはラフカデオハーンを題材にしたフィルムの撮影に行った。
民話の世界の湖の様に幽玄的な物静かな湖であった。
旅館でシジミのおひたし、シジミご飯、シジミの佃煮、そしてシジミの赤だし、きっとラフカデオハーン(小泉八雲)も同じメニューを食べていたのだろう。

青森の十三湖には旅の友と縄文時代の館がある三代丸山遺跡を訪ね、その足でシジミはやっぱり十三湖でしょうとなり訪ねた。湖というより海の如くであり激しく波立っていた。湖の側にはシジミの売店やらシジミ料理の店が立ち並ぶ。
友人と二人で奈良屋という老舗に行った。お目当ては勿論シジミラーメンだ。
白色薄味のラーメンだがその中に歴然とその存在をしめているシジミに敬意を表す。でかいのだ。
東京なら少し小降りの浅利位の大きさである。旨い。

しばらくは東京へ送ってもらっていた。
奈良屋のシジミラーメン五パック入りをある友人は呑兵衛なので月に4㎏を送ってもらい毎朝シジミ汁を飲んでいる。
宍道湖のシジミはシジミの定番サイズである黒く小さくだ。八丁味噌などで赤出汁を作ると涙がポツンと落ち、お椀の中の赤出汁に波紋が起きる。

十三湖のシジミはフライパンにバターをひき袋ごとドバー、ガタゴロンゴロンと入れ刻み葱と刻みニンニクと共に炒めて貰う(自分ではやらないけど)縄文人も毎日食べて、食べて、食べまくっていたのだろう。
貝塚は山の様になっていた筈だ。ある飲料会社にお酒好きの人たちに「しみじみシジミ」というネーミングの提案をした事がある。今やシジミオルニチンはブームとなっている。

但しいかなるシジミを持ってしても飲み過ぎ人間にはその効果は多大ではない。
大酒のみで週に4㎏を食べ続けた男がいたが、今生きているかそうでないかは不明である。

2012年6月28日木曜日

「スターがいた」


六月某日、その日の中野サンプラザはギッシリ超満員だった。
その数二千人位だろうか。我々四人はステージから六列目であった。

中野サンプラザはその昔陸軍中野学校(スパイ養成所)があり戦後は警察学校であった。
中野にあった高校に一年程通っていた私は学校をサボってはその警察学校の通り向の喫茶店に友人といた。
時々パーン、パーンと拳銃の練習の音がした。

「おい、アキラの新しい映画観たか、主題歌聞いたか、もう覚えたか」が挨拶代わりだった。
当時は日活全盛時代であった。タフガイ石原裕次郎はもう“神であった。劇中に歌われる主題歌は観た日に覚えた。
日活には十代、二十代の若者が押し寄せ扉も開いたまま、映写室から観ている猛者もいた。

第一回目は朝九時半頃始まる。
とうぜんその何時間も前から長者の列となる。
入場!となると学生服や鞄を手にどっと入り込み、どけよ、どけどけと進み空席に服を投げ、鞄を投げ、時には靴を投げてそこは俺の席だと皆争うのだ。みんな学校をサボって来ているのだ。男も女も入り交じり大混乱となる。

膝の上にはノートブック、手には鉛筆が必携だ。
大人達の煙草の煙で館内は灰色となりそれを切り裂く様に映写機からの灯りがスクリーンに向かう。
白い光の帯がタフガイ石原裕次郎を映し出す。

“おれは待ってるぜ“風速四十メートル“赤いハンカチ流れる歌の詞を必死にノートに書き写す。
タフガイの次のスターがマイトガイこと小林旭だ。脳天から発する高音が中・高生の全身を突き抜ける。
映画のストーリーなんて問題外、何しろ都会のキャバレーに突然バンダナを首に巻きカウボーイハットを被りギターを抱えてマイトガイは主題歌を歌いながら唐突に現れるのだ。

みんな必死にノートに歌詞を書く。
勉強のためになんかノートを買う奴はタフガイやマイトガイに会う資格はないのだ。
“赤い夕陽が燃え落ちて〜と始まる。学校に行く予定はないが、タフガイとマイトガイを観るスケジュール予定はバッチリなのだ。誰が先に覚えるかが大事なのだ。

「何?観てないだと」となり話について行けないのだ。
“ダンチョネ節“ツーレロ節“北帰行ノートはタフガイの歌詞をマイトガイの歌詞で真っ黒となる。
喫茶店で声を出して歌い合う。神社に行って大声で歌うのだ。

中野サンプラザに登場したのはマイトガイ小林旭と八代亜紀。二人のジョイントコンサートだった。
何故に行ったかは聞くだけ無用だ。そこに歌があるからだ。“夜がまた、来る。思い出連れて。
俺を泣かせに足音もなく。何を今更淋しかないが、街の灯りが、今日も今日も点るよ〜”いいね、さすらいだぜ。“お酒は温めの燗がいい、肴は炙ったイカでいい〜”ときて“しみじみ飲めばしみじみとぉ〜思い出だけが行きすぎる〜”と続く。

阿久悠はやっぱり大天才だなとしみじみ舟唄を聞く。
二人の大スターはピッカピッカに輝いていた。遠い昔との違いがある。
私は学生服ではなく、ノートと鉛筆を持っていない。タフガイがいない事だ。