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2018年2月13日火曜日

「オーバーコート」



銀座の泰明小学校制服に、ジョルジオ・アルマーニをと、校長が言って物議を呼んでいる。泰明小学校の今を知っているヒトは知っているだろう。
外から見ると廃校のようである。すぐ前にコリドー街、レストランBar、古い飲食街には私が時々行く、「青葉屋」という、スキヤキ・しゃぶしゃぶの店があり、その隣りには故立川談志さんとその一家が通ったBar「美弥」があった。その前の泰明庵というそば屋さんは有名である。小学校の隣りにはBarなどが並ぶ、つまるところ、銀座の片隅の飲食街の突き当たりである。ジョルジオ・アルマーニなんかとても似合うロケーションでない。何しろ狭くて暗いからだ。他のブランドに断られてアルマーニが作ってくれるという結果らしいが、「服育」という言葉には共感する。貧しき家庭に育った私は、兄姉たちが着古したニットを集めて近所の「セーター編みます」の張り紙の家に行って、色とりどりの毛糸で編んだセーターを作ってもらって着た。今ならかなりオシャレだ。又、兄姉が着古した服の切れはしを集めて、「洋服作り直します」の張り紙のある家に行ってパッチワークのような服を作ってもらった。
今なら相当オシャレである。当時は恥ずかしかった。しかし母親の深い愛情を感じた。つまり「服育」であった。一枚の布に穴をあけポンチョみたいにしてデビューしたのが、イッセイ・ミヤケであり、野良着や東北地方に伝わる裂織を生かしてファッション界に新風を呼んだのもイッセイ・ミヤケである。修道院で育った貧しい女の子が、やがて黒い服(修道院で着る服)をオートクチュールとして世界のファッション界にデビューした。葬式に着る服だと酷評を浴びたが、今ではスーパーブランドの中のスーパーブランド、「シャネル」である。古い物を新しくがイッセイ・ミヤケであり、暗い服を斬新にしたのが、ココ・シャネルである。これも又、「服育」であろう。
校長がどこまで分かって服育を語ったかは定かではないが、アッチコチのブランドに断られた末のジョルジオ・アルマーニだとしたら、それはアルマーニに失礼である。
私など下々には手の出ない高価なブランドである。
エンポニオ・アルマーニとか、アルマーニ・エクスチェンジとか、少しがんばれば手の届くファミリーブランドはあるが、ジョルジオとなると別格である。
私の近しい友人は、服はジョルジオ・アルマーニとか、ベルサーチ、時計はフランクミュラー、靴は不明。仕事柄ハリウッドのスターや、それを仕切るマフィア、又日本のトップクラスの芸能人と接する仕事なので、着ている服身につけている品でナメられたら交渉がスムーズに行かない。そのために投資しているのだろう。過日仕事場のハンガーに黒いオーバーコートを私と友人が掛けていた。
渋谷で打ち合わせがあり私は急いでオーバーコートを着て向かった。打ち合わせ先の事務所はまるでホテルのようであり、入り口には厳しいチェックをする受け付けがある。
暗証番号を打ち込まないと鍵は開かない。売れっ子のアートディレクターだけのことはある。そこに電話が入った。もしもし、兄弟、オレのオーバー着て行っているだろう、えっ、と思い脱いだ黒いオーバーのタッグを見ると、ジョルジオ・アルマーニであった。改めて触れてみると、すばらしいカシミアであった。やわらかで軽い。私のオーバーコートの10倍はするだろう。ワルイ、ワルイ急いで間違ってしまった。と言って詫びた。仕事場に帰る時は着ないで手に持って帰った。私は銀座泰明小学校から出て来た、ジョルジオ・アルマーニの制服を着たガキに出会ったら、きっと何かするだろう。(愛情を込めて?)

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