世にはその膨大な蔵書を写真公開するバカな作家や、評論家たちがいる。本のために家を別に持っていたり、家を堅牢にして、建築用のクレーンで本を上げたり、下げたりする。どこに何があるのかわからない。この人たちが、世の貧しい人々のために、何かをしたという話は聞いたことがない。私は読書家は信用するが、蔵書家は信用しない。
もう全て読まなくなった本を、未練がましくずっと置いて何になる。否、買ったけど殆ど読まずに、インテリアの代わりに置いている。あるいは古書店に売る。そんでもって酒など入ると、読みかじりの話をする。評論家という仕事をする人間に多い。決してその評論の責任はとらない。世にはとにかく評論家と言うバカ者が多い。(小林秀雄という評論の神様(?)がいた)あろうことか広告評論家などという救いがたき者もいる。自分でつくってみろと言いたい。教育、文芸、映画、料理、庭園、植物、動物、落語、演劇、など電話帳に載っている職業の数だけ評論家がいる。一部には高尚な評論の方々もいるが、総じて心がけが貧しい。ギャラさえもらえばいかようにも書く。蔵書はいわばヤクザ者の代紋みたいなもので、相手を身じろぎさせる道具に使う。政治評論家などというバカ者たちは、レッキとした主義主張もなく、あっちこっちの政党の議員のパーティーに顔を出して、ジャッキを入れる(空気を入れること、つまりモメるようにする野次馬)映画館をハシゴして、チョイとだけ見て、星三つとか、二つ半とかヒマならいう映画評論家たちのおかげで、苦労してつくった作品の入りに少なからず影響する。音楽評論家というのも、いい加減だ(吉田秀和なんて凄い人もいたが)もうかなり耳が遠くなっているのに、ある演奏会の評論を書いて、不出来だったみたいに書いてその存在を知らしめる。実は聞いてなかった。これらの人間のポートレート写真のバックには、これでもかと本棚に本がある。過日とある著名評論家の蔵書の大移動の映像を見た。クレーン車が出動していた。この頃すっかりその存在感はない。その逆にこんな映像を見た。一人の文豪の家に取材カメラが入ると、蔵書なし本棚も一つもなし。あったのは小さな文机の上に、原稿用紙と文鎮と、万年筆とインク壺、それとある辞書が一冊のみ。そして座布団一枚。そうだなもう何年も本というのを一冊も読んでないなと、言った。かなり芝居がかって見えたが、かくあるべしと思った。先夜ある評論家と食事を共にした。人のことは言えないが、そのオソマツな人間性に呆れ果てた。自宅以外に蔵書を置いている家を持っているとか。 ただ酒をよく飲み、よく食べやがった。ご友人・知人に高尚な評論家がいる方には、お許しを。(文中敬称略)
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