秋田県「島海山」の中で熊を追う。「島海マタギ」と呼ばれる人がいる。その中で一番熊を撃って来た60歳のマタギの家族と、マタギ仲間のドキュメンタリー「熊を崇め 熊を撃つ」を見た。(NHK Eテレ)都会人はまい日忙しいようだが、まい日同じことをしていると、急速に劣化して、野生を失う。生きて行く智恵とか感性を失っていく。冷暖房完備の中、気がつくと、まい日同じ人たちと会い、同じ話をし、同じ時間を失う。生きて行く智恵を金儲けばかりに集中し、過去の成功体験に落ちつく。周辺はあ〜またかとなる。クリエイティブはまい日、違った生活をした中からしか生まれない。「鳥海マタギ」は熊を“神様”と言う。代々、代々、代々、受け継がれて来た。“神様”を撃つことによって、山の神に感謝する。熊を食べるために熊を撃つ。かつては100数十人いた鳥海マタギは、今では10数人。かつては一年に3頭撃てば、一年間一家が食べていけた。熊の皮は高価に売れ、熊の肝は金と同じ価格で取り引きされるほど、貴重な薬となった。しかしその熊の肝は、政府によって販売をとめられた。鳥海マタギの家には、受け継がれて来た。秘伝書がある。数百年以上それは守られて来た。マタギとハンターは違うと名人は言う。31歳の息子は町で床屋さんをしながら、父からマタギの伝承を受ける。今はマタギだけでは生活はできない。農業や林業と兼業する。銃の手入れは欠かさない。鳥海マタギは熊を撃つために、賢い熊と智恵の出し合いをする。撃たれずに冬眠しようとする熊。それを追う一人のマタギ、猟犬は釣れていない。まるで「白鯨」のエイハブ船長が、モビーディックを、哲学的に追い続けるように、まるでE・ヘミングウェイの「老人と海」で巨大マグロと一人の老漁師が、人生を語り合うように。マタギは巨大熊を追う。それは山を守るための儀式、自分たちの先祖への儀式のようである。家?では一人のやさしいおじいちゃん、お父さん。年老いた母の息子は、銃を手に山に入ると、一人の獣物のような鋭い目、全身に動物性が充満する。一つの足跡、一つの木の傷、一つの木の葉に巨大熊があらん限りの知恵を出し、マタギから逃げているのを知る。そして少しずつ、追い詰め銃声と共に仕留める。無線で仲間に“山の神だ”と連絡する。つまり熊を仕留めたと。熊はマタギたちみんなで雪で清められる。運び込まれた小屋の中で、代々伝わる儀式をして熊を崇める。手を合わせた後、すべては解体され、集落一軒一軒に同じ量の肉が分配される。そしてすべての家で熊を食べ、生きていること、生きていくことへの感謝を熊に語りかける。超一流のクリエイターと超一流のクリエイターの闘いの後の、エールの交換である。敬意の表現である。人々は熊を撃つマタギたち、それをかわいそうと言うが、ならば牛の肉、豚の肉を育て殺すのはかわいそうでないのか。山の神と人間との命のやり取りが生む神聖なエールの交換であり、豪雪の中に村は隠れる。逃げ切った熊は、長い冬眠に入れる。“熊は賢いべえ 自分の足跡をちゃんと人に追いつかれないように するんだ。”熊の皮を買う人間はもういないと言う。神なんだ、 それを全て食べることが、山の神への礼儀なんだ。集落の人間は、 等しい量の肉をビニール袋に入れて帰り、すべての家で熊の肉が調理される。老マタギは幼い孫に言う。食べれ風邪引かねえぞ、と。息子は少しずつ父の後を継ごうと一人山に入っていく。現代人は日々を追いかける金に対して、果たして敬意を持っているだろうか。ホラ、気がつけばいつものメンバーでいつもの話をしている。体から野生はすっかり消えて、気持ちが逃げてしまう。ため息ばかりが出る。すでに精神は死んでいる。私はクリエイティブのマタギを目指す。一発で仕留めるために、日々野生を磨くのだ。銃の代わりは感性だ。
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