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2019年1月22日火曜日

「桜桃の味」

空と同じ広さの広大な黄金色の小麦畑がある。それを見ながら山道を走る1台のクルマ。デコボコ道を進んで行く。運転するのは50代の男だ。見たところかなりのインテリである。映画はラストまでこの男の職業を教えない。大学教授(?)小説家(?)劇作家(?)行き詰まった映画監督のようでもある。男はガタゴト走りながら、時々出会う人たちをクルマに乗せてあげて、一つのことを頼む。ある一本の木のそばにシャベルで穴を掘る。そこに入って眠るから、朝見て欲しい。ちゃんと死んでいたら、シャベルで土をかけて欲しい。お礼にお金を払うと頼む。一人目は少年であった。そんなことは嫌だ、お金なんていらないと断る。二人目は少年兵だった。遠くで兵隊たちが訓練をしていた。少年兵はやはり、そんなことは嫌だと断る。男の顔には汗がにじみ出ている。かなり焦っている。なんで自ら死を選ぶのかはラストまで教えない。そして一人の老人を乗せる。老人は山村へ向かうある職員であった。クルマは美しい黄金色の中、土埃を上げて走り続ける。男はあ木の側の穴に入るから、朝死んでいたらシャベルで土をかけてと頼む。老人はいいよわかった、ちゃんと死んだら土をかけてあげるよと言う。男は生きていることは残酷だと言う。老人は死の方が残酷だ。見てごらん死んだらこんなに美しい風景が見れない、気持ちいい風にも出会えない。美味しい果実を食べることだってできないぞと言う。桜桃の味を、味わいたいと思わないのかい。山村のある施設で老人を下ろす前に、男は何度も死の手順を老人に説明する。目印の木、穴の深さ、死んでいるのか、眠っているのか確認する方法を。老人はわかった、分かったちゃんとしてやるよと。夜になり男はシャベルで穴を掘り、そこに横になる。雷の音、コヨーテかなんかの鳴き声、強く揺れる風音、胸の前 で手を結んで目を閉じる男。暗闇になった画面。さて生きているのと、死ぬとどちらが地獄なのか。先年亡くなったイランの名匠、アッパス・キアロスミタの、カンヌ映画祭最高賞パルムドール受賞作「桜桃の味」である。もう一作「風に吹かれて」とともに現代文明の中の「生と時間」について語りかける。両作品とも黄金色の中での詩である。 1日はあっという間だという現代人。1日たっぷりと長いと思う高原の民。すべての民族にとって太陽は一つ、月も一つだけである。
そして1日は24時間である。人類は何故に分断して行くのだろうか。壊れたテープみたいに「アメリカファースト」 言い続ける壊れたトランプ。白人至上主義の指導者。移民の国アメリカは、ロシアと裏で握っていたギャンブラーに、どんなラストシーンを用意しているのだろうか。自分で自分の墓穴を掘っている男に、シャベルで土をかけるのは、トランプ自身か。もう日本のヨイショも成果はゼロだ。


2019年1月21日月曜日

「イエスかノーか」

何故イエス・キリストの名は「イエス」 なのか、 ずっと疑問に思っている。1月も20日となるのに、今年の言葉が見つからない。誰かが言葉を探すなら「聖書」をめくるといくらでもある。古今小説家や劇作家、映画人など、みんなその題材を聖書に求めた。当然言葉も満腹になるほど、いただきまくった。私もパラパラと日めくりのように、めくっているが、キリスト教徒ではないので深入りはしない。もしイエスが「ノー」であったらどうであろうか。「ノー・キリスト」となる。聖書にはヤコブ、ヨハネ、ペトロとか、ステファノ、ユダとか、マタイ、モーセ、などユダヤ(イスラエル)人の名が出てくる。何故イエスだけが英語圏的な名前なのだろうか、それも肯定語の筆頭である「YES・イエス」である。 ノーセや、ノタイ、ノコブでなかったのか。名は体を表すと言うから、イエスと名付けた大工の親の真意を知りたいと思っていた。主はすべてをゆるす、これは主はすベてにイエスとなる。なんだかあまりに劇的なのだ。イスラエルはもちろん、いまだかつて中東アジア、エジプトなどで、いろんな名が出てくるが、“イエス” と名乗っているものはいない。キリストも然りである。日本でもその名が多い、田中、佐藤、鈴木さんの名を、例えば田中信長、佐藤秀吉、鈴木家康と書くと、歴史的にどうもしまりがよくない。イエス・キリストは何故イエス・キリストの名を持ったのか教えて欲しいと願うのだ。もし、ノー・キリストだったら、キリスト教はこれほど世界に広がらなかったのではと思うのだ。粉末状のほうれん草のスープ、海老味のスープ、コーンスープ、外に出て人にインフルエンザをうつしたらマズイ(二日間は何とか出て仕事をしたが)ので、一日中厚着をして映画を見続けていた。やっぱり宗教的、哲学的、詩的、文学的作品の多い、イラン、ギリシャ、カザフスタン、イタリア、フランス、ノルウェー、ロシア、ドイツ、イギリス、アイルランドなどの名作はドンパチ殺しあわなくていい。死そのものが厳粛である。タイ、ベトナムの映画もよかった。カンヌ、ベネチア、ベルリン、モスクワなどで最高賞を受賞した作品は、何度見てもいい。「マグダラのマリア」これはアメリカ映画(?)だが、いままで見たイエス・キリストがいちばんリアリティがあった。弟子たち漁師だった男たちの集団が、ボロボロの衣服で流浪しながら、ひたすら歩く。川の中での洗礼や、処刑に向かうイエスの姿もいままでいちばん、リアリティがあった。キリスト教の人たちにぜひオススメする。無理を承知で出て行って作ったプレゼンが、大好評で決まり、更に新しい仕事が生まれると、夜電話があった。努力の結果が“イエス”であった。インフルエンザが猛威をふるいついに警報レベルになった。こちらは「ノー」である。私に接近した人たちがインフルエンザにならないことを、切に願っている。イエスさま何とぞよろしく。温かいレモンティーが何よりいいようだ。



2019年1月18日金曜日

「有名と無名」

私のことを広告デザイン界で有名でないからな、と言ったと言う人の話を風の便りで聞いた。若手ベンチャー企業の人だとか。そうです私は無名です、決して有名になりたくなくて、場末でそっと世の中を動かして来たのです。というかステキな仲間とモノ作りをして来た。有名な人が一流の仕事人である保証はない。そのくせギャラは高くて、細かくて、ロイヤリティーがどうのこうのうるさい。私たちプロフェッショナルは、年齢に限らず、真の一流、超一流、名人、達人、天才をいつも追って情報をストップしておく。友達が私に言った、 その人は、きっとミーハーでテレビに出ている有名人を連れ歩くタニマチみたいで、自分を少しでも大きく見せたいという、コンプレックスがある業界音痴の人だよ。そうかもなよくいるよなと私は言った。私が知っている有名クリエイターは、年収から計算すると、1ヶ月20日毎日8時間働くとするとギャラは1時間に100万だとか、それじゃ何をやったかといえば、シロウトのデザインに毛が生えた程度だ。本当の超一流たちは決して目立たずに。ハイ一億、ハイ二億、三億、と契約している。(有名になったらマズイ。カルロスゴーンになる)。最近クリエイターではないが、「朝まで生テレビ」とか、バラエティ番組に、古市憲寿とか落合陽一とか出まくっているが、余程ミーハーの有名人病なのだろう。せっかく天才的なのに、ただのタレントみたいになっている。最もタレントとは、才能の意味だから、別に出てもらっていいのだが、話があまりにガキ的でつまんなくてガックリとする。もっと世の中を勉強しろと言いたい。他にも博報堂の○×研究所員とか脳心理学者とか、 間の抜けたことしか言えない、最悪の弁護士たちが多い。 TBSの「情熱大陸」やNHKの「プロフェッショナル」もネタが尽きたのか、キャスティングがつまらない。ソロソロやめた方がいい。それに出た人を何人か知っているが、とんでもないのがいる。もっともっと日本中を歩いて回ると、スゴイ人たちがたくさんいる。超一流の職人たちは、有名になることなんかに全く興味なく、日々精進である。世の中の有名人(?)が、ちゃんといい仕事をしてくれるなら、私の仕事はやることがなくなる。私たちは若い人材を育てるのも重要な仕事である。超一流すぎて毎日の食事代や飲み代、女性と遊ぶ金に困っている人が多くいる。あの仕事をした人といえば、えっ超有名じゃない、それが本当の有名人なのだ。私の敬愛するの仲畑貴志氏が、先日第38回「白川忍」賞を受賞した。 大変名誉ある賞である。受賞理由は、長年にわたってコピーライター、 クリエイティブディレクターとして、広告業界の第一人者として、社会に大きく貢献した。要約するとこういう記事であった。この第一人者は、自分からギャラの話などは一切しない。有名になることもしない。若い人材をしっかり育てている。ライバルのように見られた糸井重里氏は、有名になることを好み(?)今では手帳で荒稼ぎをして、会社を上場、実業家の仲間入りとなっている。私のコピーは“一文字”100万です、と冗談ぽくテレビで話をしていた。あっそうって感じだ。私はずっと場末の芸者である。ただし、芸では負けない。(文中継承略)



2019年1月17日木曜日

「特効薬とは」

私は自らの体によってバカではないことを証明した。その理由は、記憶がある限り初めてインフルエンザにかかった。昔からバカは風邪をひかないと言われてきた。インフルエンザは風邪の中のエリートだ。体温は40度近く、ガッタガタに震えるほど寒かった。頭の中がガンガンズキズキ痛い。鼻水がポトポト落ち、ギャッファーンという咳が出る。愚妻は自分の部屋に避難した。薬箱を開けると、ロキソニンというのがあった。知り合いに聞くと頭痛に効くという。で、すぐに服用。30分もすると嘘みたいに頭痛が消えた。次の日は大切な撮影が六本木である。私は絶対に行かねばならぬ。二階から大野先生に行ったら木曜日は休診日だから、そうか今日は水曜か、でもって朝9時10分頃、自宅から歩いて数分のかかりつけ医の大野クリニックさんに。すでに満員。大野先生は投薬が実に的確であり、新薬に詳しい。とても評判がいい。順番待つこと約50分で呼び出され、いやちょっと風邪みたいでと言ったら、ハイそれではと長くて細い綿棒を鼻の奥に入れた。ツーンとして不覚にも目に涙が溜まった。世間話しを数分していると、看護師さんが何やらデータを持ってきた。あっA型のインフルです。でも予防注射を打っているから、そんなに酷くなりません。いい薬を2錠服用すれば、27時間で菌は死にます。マスクをしてできれば休んでください。と言ったが、行かねばならない。調剤薬局で、「ゾフルーザ錠」を2錠もらってそこで飲んだ。一日一回のみで十分とか。連休だった過日小二の孫が野球のチームに入って、練習しているからと言うから、ちょっと行ってみようと海岸側のグラウンドに行った。お、いたいた海風が寒くビュービュー。孫はすべり台の横に座り、ガタガタ震えていた。当番の奥さんが帰りたいと言ってるんです、と言った。私が帰りたいと言ったら、ウン帰りたいと震え声で言った。孫はインフルエンザにかかっていた。自転車を引きずりながら手を繋いで私の家に帰った。その前に中三の孫娘がインフルエンザになっていた。二人とも予防注射を打っていたので3、4日で復活した。昨夜眠れないので、ポランスキーの「告白小説、その結末」という映画を見た。これが実に良かった。私にとってやはり映画が一番の良薬で、なかった食欲が出た。私はスープが大好きなので、鍋にキャンベルのビーンズ&トマトスープを入れ温めて飲んだ。みかんを2個。クッキー3切れ。ドライフルーツのあんずを少々。ポランスキーはやっぱりすごい監督だ。インフルエンザも治してくれる。世話になっている知人オーナーが応援している。前田哲監督の「こんな夜更けにバナナかよ」が大健闘している。目標10億まであと少し、是非映画館に行ってください。


2019年1月16日水曜日

「太ったソクラテス」

ひとりで二人分の席を占領している。パンパンに膨れた腹に白いワイシャツのボタンがブチっといつでもハジケそうになっている。丸い肉である。時々発声する声も肉の鳴き声である。分厚い手袋のような左手に結婚リングがくい込んでいる。ウハア〜、ウ〜ン、ハフハフ、ブオ〜と突然声を発する。新年早々の東海道線に乗車していた。会社で新年会でもしたのだろうか。もしかしてパンパンの腹が爆発するかと思い、すっかり寝込んでいる、男の腹にボールペンを突きさしてみた。全く反応なし。もう少し強くさし込んだ。ブバアーブバアーみたいな声を発して、ボールペンをり除こうとした。目は覚めていない。ガアーガアーウハアハアハアと荒い呼吸をした。よし、もう少しやってやろう。黒・青・赤の三色ボールペンの赤を押し出し、 ウルセイナマッタクと言いながら、ブチっとおへその下あたりを刺した。たかだか1ミリ位だが、異常な反応をした。目を白黒させブバー、ブオッ何すんだと言った。 中腰になって私の顔をジィーっと見た。42・3才の男は110kgはある。ゴメンゴメンかった。あんまりすごいイビキなので、死んでしまうかと思い、ちょっと起こしてあげたんだよと言った。何すんのバカじゃないのと言った。そう私はバカなのと言った。でも今のままでは、きっと近い内に爆発死するぞと言った。私はこういう会話のやりとりが大好きなのである。そうなんです、医者から体重減らせと言われ、妻からは一食ゴハン一杯と言われてるんです。私が三色ボールペンをパチパチしていたら、こんなことやめた方がいいですよ、私は大人しいからビックリして終わったけど、他の人なら怒りますよと言った。細かった人間が太くなるには、難解なプロセスがあるそう。足元のビニール袋の中に飲み、かつ食べた缶ビールのロング缶が2つ、タカラ缶チューハイが2缶、ミックスサンド、ドライフルーツが数種類入っていた。なんと同じ辻堂で降りた。ノッシノッシ歩いて昇りのエスカレーターに乗った。どこに隠し持っていたのか、大きな福袋を大事そうに2つ持っていた。きっと優しいパパなのだ。かなりのインテリなのだろう。若い頃はキリギリスみたいに痩せていたとか。又、会いたいと思った。
私の大好きな知人にやはりかなり太った人がいる。今年はぜひ減量に成功してくれるといいのだが。でも太った人には悪人はいない。統計上そう思っている。それぞれ独自の哲学を持っている。食べるべきか食べざるべきか、それが疑問だと。で、食べるのだ。太ったブタより、痩せたソクラテスになれ」なんて東大の学長が卒業式に言ったが。日本を悪くしている官僚たちは、その東大生たちである。


2018年12月21日金曜日

「今年、最終回」

何かを得て、何かを失った。その何かを今400字のリング上で考えている。確実なのは一年という時間を使い、一年という時間を失った。そして新しき年に一歳年齢が加わり、一歳寿命が縮まる。ある本の書き出しにこんな一節があった。「誰にでも計画(プラン)はある。顔面にパンチを食らうまでは」ボクシングヘビー級最強の一人と言われた、マイク・タイソンの言葉だ。ボクシングは殴り合いの単純なスポーツと思われがちだが、ボクシングほど、科学的で理論的で、戦略性と戦術性を必要とするスポーツはない。戦う相手を研究し、自分の長所と欠点を分析して挑まないと、一発のパンチで死んでしまうからだ。もちろん他のスポーツも命がけだが、合法的に殴り殺されるのを許されるのが、ボクシングである。現代社会において使われているようで、実はあまり使われなくなった言葉がある。「生存競争」という言葉だ。進化論で有名な「チャールズ・ダーウィン」が呼んだと言われている。現代社会はこの生存競争という言葉すら忘れてしまうほど、拝金競争になってしまった。生存競争には生き残るための、知的戦略と戦術を生み出す必要性があった。しかし高度に発達したココンピューター社会、又人工知能がなんでもやってくれるこれからの社会。さらにやがて来るであろうIoT社会において、人間のやることはなくなって行く。つまり高度に退化して行くはずだ。リングの上のボクシングより、ゲーム上のボクシングを観戦する人間の方が多くなる。eスポーツなる世界だ。会社は創ったものによって滅ぼされるという格言がある。私はその格言に従いそれぞれ分離独立化を進めた。会社は互いに利用しあえばいい場所であり、分離した者同士がその仕事の個性により、くっついたり、離れたり、分け合ったり、助け合い、励まし合えばいい。会社の名が利用価値があると思えば、それをしっかり利用すればいいと思っている。個人のスキルアップを目指し生存競争に勝ち残るためだ。一人で会社をつくれば立派な社長だ。今年得た言葉で新鮮だったのが「生存競争」だ。親分が親分風を吹かし、朝から晩まで銭の話をしている組は、必ず分裂する。ヤクザ者の社会でも、この頃は任侠道でなく、“金侠道”だとなげく金筋の筋者は多くいる。人間たちによって、生存競争を奪われた、自然界の生き物たちを多く失ったことを知った一年でもあった。東京ではウグイスやヒグラシは鳴かず、日本タンポポの花を見ることもなく。ツバメやシオカラトンボや赤トンボ(アキアカネ)の飛んでいる姿を殆ど見ない。トノサマガエルの観測は取りやめとなった。現代社会での会話の多くは、夢やロマンでなく。陰口や愚痴や、不平、不満、不信である。そんな話ばかりをしていないで、一人で生きる戦略性とそれを成功させる戦術性を学ばなければならない。原始社会がそうであったように。人生とは自分と戦うリングの上での戦いである。戌年のあとは、亥年である。猛進する前に、ジャブを鋭く出さねばならない。ジャブは世界を制す。それには日頃の鍛錬の積み重ねである。一人の会社から数十万人の会社でも起きることは同じだ。会社とは不満の塊である。私は一人でも多くの人材を育てていきたい。人間を創造した(?)神とは戦略家であったらしい。意地悪でずる賢く、謀略好きで自己顕示欲が強く、とても嫉妬深い。(旧約聖書)改めて後藤新平が言ったという言葉に学ぶ。金を残してホメられた人間はいない。即ち「下」。仕事を残して「中」、人材を残してこそ「上」である。400字のリングは今回が今年の最後のゴングである。みなさん、良いお年を迎えてください。※来年は一月十五日頃にゴングを鳴らす予定である。


2018年12月19日水曜日

「ライブの夜」

昨日夜10時40分品川駅より湘南ライナーに乗車した。今年も残り10日と2日だ。当然のように超満員(と言っても座席指定)ライナー券は売り切れなのでグリーン車へ。図体のでかい若い駅員が、グリーン券を見せろという、中年男と二人掛かりである。あいよと、見せると見上げるほどでかい男、黒ぶちの度の強いメガネで見て、あっこれはずっと前に行ってと言う。そうでなくても疲れてイライラしているのに前へ行くと大行列。で、今度はホラこれだとグリーン券を見せると、あっこれはあっちのグリーンの方でというと言う。酔った男女がヘロヘロ、ベタベタ、と並んでいる。渋谷のセルリアンタワーで知人の主催するライブ会場で、スパークリングワインを一杯と半分飲んでいたので、私はほぼシラフ。だが空腹で飲んだので、少々いい気持ちにはなっていた。「北野里沙」さんという美人歌手のニューアルバム発売前夜のライブであった。会場はとてもいいムード。100人位の座席があり、いいかんじのカウンターがあった。この位の会場のライブが私は好きだ。90人以上が来ていて、ほぼ満員であった。私は不覚にも入場料を払ったつもりであったが、 CDを買ったのと勘違いして、すっかり食べて飲んでただで出てきてしまった。先払いでなく、後払いというシステムだった。そんな、こんなの失態があって久々に何かあったら、何かするかもしれない精神状態であった。主催者に迷惑をかけてしまった。コラッあっちに行ったら、又こっちにと言われたぞ、しっかりしろと言った。怒鳴った時の私の声は、かなりただごとじゃないほど、でかい。あっ、スミマセン、申し訳ありませんと謝った。車内は殆ど酔って眠っている。オッヤッター中頃に席が空いていたので、黒いマフラーを外しながら座ろうとしたら、私のマフラーが35・6歳の男の顔をかすったらしく、すこぶる気分の悪い顔をした。ジーンズに黒いロングシューズ、ダウンジャケットを着ていた。かなり酒臭い。あ、ゴメンよと言ったら、さらに気分の悪い顔をしたので、混んでんだよ何か文句あるのかと、太く低く強く言った。足を伸ばしてないで引っ込めろと言ってその男の隣に座った。品川の次は大船→藤沢→辻堂である。品川から大船までかなり不穏な空気であった。私が独り言のように、 オマエ目付きが悪いな、と声をかけたら、黙っていた。何しろイライラしていたので、大人気ないが気にいらないやつだった。せっかくアカデミックな気分だったのに。大船駅に着くと窓側に座っていた男は、小さな声ですいません降りるのでと言った。私は足元に置いていたカバンを取り上げて、足をすぼめて通りやすくしてあげた。その後、睡魔が襲ってきて一気に眠りに落ちた。目が覚めて事件を起こさなくてよかったと思った。相当にアブナイ品川→大船間であった。辻堂駅に着きひとまずトイレに入り、洗面の所で手を洗いながら、鏡に映っている自分の顔を見たらこれ以上なく目付きが悪かった。ただで入場はまずかった。人に借りを作るのが大嫌いなので、さてどうするかと思った。



2018年12月17日月曜日

「アキラと、クイーンとサバ缶」

え、まだ観てないの、何!まだ観てないの、もう3回観たぜとずっと友人から言われていた映画「ボヘミアン・ラプソディ」をついに観た。日比谷ミッドタウン、3時半の回に20分間に合わず、ミッドタウン内で時間を潰した。館内は超満員であったが、いちばん前のいちばん右の席に座れた。スクリーンまでの距離がかなりあるので、広々と見れた。もともと前にアタマがあるのが嫌いなので、いちばん前に座る。前に人がいなければ、2段目か3段目だ。12月12日茅ヶ崎市民会館大ホールで、小林旭ショーを、会社の熱狂的アキラファン2人と見て聞いて久々に、アキラ節に青春時代を思い出した。小林旭は既に80歳(?)2時間以上立ちっぱなしで一気に20数曲を歌った。会場内は、殆ど同年代であった。石原裕次郎と小林旭は、私たちの必須科目であった。映画の主題歌を誰より早くマスターするのが、三度の食事より大切であった。歌とは、なんてすばらしいのだろうか。一曲聞くたびに青春時代にかえれる。アキラは旅から旅へ歌い続けて行く。アキラもいいが「ボヘミアン・ラプソディ」は、最高であった。 クイーンのフレディ・マーキュリー役を演じた俳優は、前歯を数本引っこ抜いて(?)マーキュリーと同じような出歯になっていた。あるいわハリウッド得意の特殊テクニックで。意地悪な女性インタビュアーが、なんで出歯を直さないのと聞く。又、仲間になる時、そんな出歯でロックが歌えるかと笑う。マーキュリーは言う、出歯の分だけ口の中が広い、だから広域の声が出るんだと言う。伝説の名曲がどうして生まれたかが分かる。プロは絶対に妥協しない。曲名はみんな知っているだろう。続々と歌う姿にゾクゾクする。気がつくと足がステップしていた。曲のフレーズが全て文字で出るのが、大成功だった。貧しき者、苦しみ悩む者、ラジオが友だった頃、きのこ雲の下で失ったもの。弱者たちの叫びを曲にしていた。極めて文学的で、詩的なフレーズばかりだった。 CDでリズム感と歌う声だけ聞いていたので、最後のウィーアーザ・チャンピオンを熱叫をしている姿に、涙が流れてしまった。戦え、負けるな、俺たちはチャンピオンなんだ。45歳エイズを告白した次の日に、この世を去った。ハリウッドの撮影、編集、 音響などにドギモを抜かれた。伝説のチャリティーライブは圧巻だった。小林旭も、みなさん年の瀬にたくさんお越しいただき、ありがとうございます。昔の名前で出ている小林旭です。大拍手で始まった。こうして大借金を歌って返した。クイーン時代に稼げたものは今、マーキュリー・フェニックス・トラストとして、エイズ撲滅のために使われている。
日本のロック界よ復活せよ。演歌よ生き返れ。弱者のために。熱叫せよ。男と女の愛を歌ってくれと。サバの水煮缶をパカーンと開けて、いつものグラスに酒を入れた。缶詰は青春の味なのだ。



2018年12月14日金曜日

「無」と「フェルメール」

「世の中は 何にたとえん 水鳥の嘴ふる露に 宿る月影」ー道元禅師ー外国映画のイントロにこの日本語が、フェードインしてきた。超SF的映像世界を見せる、アート・ドキュメンタリー。色々アイデアの源泉になる。(題名不明、外国語版で正確にわからない)世の中を何かに例えるとしたら、水鳥が嘴(くちばし)を水に入れ、それをふると水滴に月影が写りすぐに消える。学のない私は、学のある人に聞いたら、こんな意味だよと教えてくれた。無学な私の先生だった博覧強記の親友が、私より年が下なのに、私より先にあの世に行ってしまった。それ以来私は日々無学の度合いが増している。何んでも聞けば即座に何でも教えてくれた。今、私に課せられた宿題は、10月13日に誕生日のプレゼントですと、会社の女性から、I-PADなるものをいただきそれを使いこなせるようになることだ。アレ調べて、コレ調べてばかり言ってると仕事のジャマをしてしまうからだ。ショートメール位使えるようにならなきゃ駄目だと叱られてもいる。スマホを使えないなんてとも言われている。ずっと長い間凄腕女史に頼り切ったからだ。人生は小さな水滴に映るお月さんみたいに儚いのに、これでもか、これでもかと新しい情報が生まれる。グッドニュースは少なく、うんざりするバッドニュースが星の数ほど氾濫する。超SF的映画の最後は、地球という大宇宙の中の小さな点みたいな存在が、恐ろしく美しく粉々になって散ってしまう。この作品を創った映像作家は、禅の道を学んだのだろう。「無」の境地をアートにした。アートといえば12月15日(土)より恵比寿の三越で「フェルメール 音楽と 指紋の謎展」が始まる。フェルメールといえば「福岡伸一教授」先日お会いした時に、驚くべき推理を話してくれた。フェルメールの絵についた指紋は誰のものか(?)、フェルメールが描く絵には楽器や楽譜が多い。果たしてフェルメールが聴いていた曲とは(?)その楽器とは(?)「宮沢りえ」さんと「小林薫」さんが絶品の音声ガイドをしてくれる。謎を解説する福岡伸一教授は京都大学出身、当然のように京都学派の代表である、西田幾多郎大先生を研究している。西田幾多郎大先生は、禅の道を追求していた。(西田哲学という)まい日、まい日、筆を取りただひたすら 「◯」マルだけを書いていたという。「無」の世界を追っていたのだろうか。無学の徒には分からない。人生でいちばん格好いい人は、スッテンテンになった人だな。広島呉の伝説の博徒「波谷守之」さん。(金庫の中には堅気の人への貸しの証文があったがそのままであった)伝説のVANを生んだファッションデザイナー「石津謙介」さんとか、新宿の伝説の愚連隊で最強といわれた「加納貢」さんだ。「無」は「伝説」になるのだ。週末は「無」になろう。



2018年12月11日火曜日

「新橋の喫茶店」

カルロス・ゴーン容疑者が、起訴され再逮捕というニュースが、昨夜帰宅すると、どの報道番組でも流れていた。最長だと法的にあと20日間勾留される。となると娑婆に出る日は、除夜の鐘がゴーンと108回鳴らされている日になるのかなと思った。否認を続けると、検事は(この事件の場合は検察トップ案件のはず) 徹底的に辛い仕打ちをする。例えば二つ、三つの容疑があれば、それを一括にせずに、一つ、二つ、三つと分けて起訴を続ける。1日でも早く出所したいと思っている容疑者は、もっともこれを恐れる。いわゆる門前逮捕みたいなものだからだ。門前逮捕とはやっと出所して我が家の門に着いた時、今度はこの事件の容疑でと逮捕される。あ〜、やっと温かい風呂に入れる、やっと妻子に会える、 暖かい布団で寝れる。寄せ鍋とかでホカホカできる。久々に刺身などの生ものが食べれる。がすベてがオジャン。かつて男と男が酒を飲む時は、金儲けの話はご法度であった。私が憧れ尊敬する先輩からキツク仕込まれた。仕事をさせてください、それは若い人間を育てるためなのでとか、経験させてやってください、それは言っていいが、ひともうけにからませてくださいとか、ひと口のっけてください、これは絶対に言うなよと。スヤイ男にされるからなと。(スヤイは安いの逆の言い方)男の世界ではいちばん屈辱的な言葉。男と男は天下国家を語らい、夢やロマン、恋愛の歴史や趣味の話、大風呂敷でも壮大なホラを言い合うものであった。 議論風発である。昨今は、金、金、金。新橋駅前ビル3階に、昭和風純喫茶がある。お医者さんが急死してしまったが、その3階にかかりつけの歯医者さんがあった。 予約をとり少し早めに着くと、その喫茶店でコーヒーを飲んだり、夏はアイス入りソーダ水を飲んだ。ミックスサンドが旨かった。今、思えば確かにそれらしき男たちが何人かいて、スポーツ新聞を読んだり、訳あり風な話し方をしていた。森功の近著「地面師」を読むと、その喫茶店が一味の集まりの場の一つであったらしい。今、3階は中国人経営のマッサージ店がひしめき合っている。2階にアロハシャツの小さな専門店があるので、時々いいのが入ったと立ち寄ることがあるが、3階には行かない。♪〜星の流れに身を占って どこをねぐらの今日の宿・・・。こんな古い歌があった。カルロス・ゴーンが今いる東京拘置所の小さな窓から、冬の夜空が見えているのかもしれない。星の流れに我が身を占っているか、自分を売った人間たちを思い出しては、出たら必ず復讐をしてやると思っているかもしれない。否、 出たらゴッソリと貯めた金を、もっと増やす金儲けを考えているかもしれない。地球とは人間を収容する監獄であって、全世界の人間に金儲けという労役を課している。それ故、108の煩悩がゴーンと生まれる。