2022年3月5日土曜日
つれづれ雑草「いないかね俠客」
2022年2月26日土曜日
つれづれ雑草「情念の女性」
2022年2月19日土曜日
つれづれ雑草「わかるかなあ~」
先年亡くなったロシアの大巨匠に「アンドレイ・タルコフスキー」という人がいる。大作家トルストイやドストエフスキーに並び称される人だ。その監督の遺作に「ノスタルジア」という作品がある。タルコフスキーは難解を極める監督で有名であり、水の表現をする。カンヌ国際映画祭の受賞常連者で、「ノスタルジア」もこの作品の創造における審査員特別大賞を受賞している。“ノスタルジア”とは帰りたくても帰れない故郷(タルコフスキーは亡命していた)であり、“病んでいる国”と同意義でもある。つまりタルコフスキーの帰りたい故郷ロシアは、病んでいて帰れないのだ。この長編の映画のラストは息をするのも忘れるほど、圧倒的なメッセージ性に満ちている。現在ロシア vs NATO=アメリカの一触即発の戦争状態、又、その先が見えない人類に対して、一人の敬けんなクリスチャンは、民衆に向って大演説をする。そして全身にガソリンをかけて焼身する。つれづれなるままにその演説を、映画を見ながら、止めては書き、止めては書いたのでそれを書く。「語りかけるのは誰か、私の頭脳と肉体は、同時に生きられない。だから一個の人格にはなりえない。私は同時に無限のものを感じることができる。我々の時代の不幸は、偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。無意味と思えることにも耳を傾けよう。例えば排水溝のことや、学校の壁や、アスファルト、奉仕活動に忙しい人や、虫の声にも耳を貸そう。我々の視覚と聴覚、そのすべてで感じることが、我々の大いなる夢の始まりなのだ。だれかが叫ぶべきだ。ピラミッドを作ろうではないか。重要なのは完成ではない。願いを持続することなのだ。我々はあらゆる意味で、魂を広げるべきだ。まるで無限に広がるシーツのように。もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じり合うことだ。健全な人も、病む人も、手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる。人類はすべてが崖っぷちに立っている。転落する運命にある。それを直視し、ともに食べ、眠る勇気がないなら、我々にとって、自由は何の役にも立てない。いわゆる健全な人が世界を動かし、破滅に直面する。人間よ! 従うのだ! 君の中の火に、そして灰に、灰の中の骨に、骨と灰に。私はどこに存在するのだろう。現実にも空想にも存在しない。太陽が夜中に昇り、夏に雪が降れば、強者が滅びて、弱者が生き延びるだろう。混とんとした世界を統一するのだ。自然を観察すれば、人生は単純だとわかる。母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほえめば、風はそっと動く。原点に戻ろうではないか、単純な原点に。道を間違えた場所まで戻るのだ。愚かな人間よ、君たちがさげすむ、愚か者から、恥を知れとののしられる。さあ、ここで音楽を、巨大な像の横に組み立てられた演説台の上で、男は頭からガソリンをかけ、ライターで火をつけ、火だるまとなる」難解なタルコフスキーの、黙示録だ。わかるかな~、わかんねえだろうなあ。私は何度か見る内に少しわかって来た気がする。現在のウクライナ情勢、世界的なコロナウイルス禍、健全な人をプーチンなどの権力者に置きかえてみる。世界を動かしている、資本家に置きかえてみるのだ。「わかるかなあ~、わかんねえだろうなあ」で大人気を得た“松鶴家千とせ”師匠が亡くなった。八十四歳であった。CMに出演してもらったり、私の主催のパーティに、南州太郎師匠とともに出演してもらった。出演を依頼しにとある団地の公園に行った。アフロヘアーの中にちっちゃな目をパチクリして、何んで俺なの、わかんねえなと言った。俺が英語だった頃、弟は単語だった。妹は英文法で、母親はグラマーだった。わかるかなあ、わかんねぇだろうなあ……(?)。マアこんなかんじでと頼んだ。南州太郎さんは、私にとって神に近く、ただひとこと、“おじゃまします”でいいですと頼んだ。大巨匠タルコフスキーも、大師匠松鶴家千とせさんも、その存在は地球の財産だった。心より合掌する。死は分かりやすい。もう起きることはないのだ。“無”となるだけだ。但し国の死は、そう簡単ではない。思考せよ、徹底的に思考せよ。オリンピックの裏で進んでいる世界情勢を。カーリングで床掃除をするのを見ながらでもいい。戦争と平和は、コインの裏表なのだ。
2022年2月12日土曜日
つれづれ雑草「道、物語り」
そうして、こうして、こうなったと、雨音を聞きながら思った。家の前を通る子どもたち、幼稚園児、小・中・高校生(すぐ隣りにアレセイアという学校がある)みんな、みんな、みんなマスクをしている。自分がガキだった頃を思い出した。朝になると、と~ふ、と~ふ、納豆、納豆の声と共に、ラッパの音がした。末っ子の私はお鍋を持って、おとうふ三つと納豆を六つ買う役であった。新聞配達のおじさんが、新聞をいっぱいたすきがけにして持って、一軒一軒新聞を配達する。その足音は強かった。同時刻には牛乳配達のお兄さんが、自転車に白い牛乳瓶をたくさん積んで、一軒一軒牛乳箱に入れていく。その音はガラスとガラスがぶつかり合うので、ガチャン、ガチャンと騒がしかった。家の前の一本の道。そして朝が始まった。一本の道は運動する場であり、遊び場であった。缶けり、面子、ベーゴマ、キャッチボール、馬とび、コマ回し、女の子はゴム飛びや、石けりをしていた。みんなでダルマさんが転んだをした。夏には金魚売りの人が荷車を引いて、金魚え~金魚と、大きな声を出して歩いた。風鈴売りのおじさんは、色鮮やかな風鈴を鳴らしながら、荷車を引いていた。冬にはたき火をして、イモやクリ、ドングリを焼いて食べた。ご近所の家で畳替えがあると、一本の道に畳屋さんが来て、太い針を太い腕で畳に刺していた。ヒジでギューギュー太い糸をしぼり上げた。布団の打ち直しの季節になると、布団屋さんが、うすい茶色い紙で打ち直した布団の綿を、いくつも包んで運んでいた。新築や改築をする家があると、大工さんたちが来て、長い木材をカンナで削っていた。木の香りはいい香りだ。カンナくずをもらって、たき火に使った。電線工事があると、赤線が切り落とされる。ずっと、ずっと工事について行って、道路に落ちた赤線を集めて、くず屋さんに売りに行った。10円は大金でコロッケが三つ買えた。魚を売る人がいろんな魚を持って売り歩き、包丁を使って、刺し身や切り身にしていた。一本の道は、ご近所同士が顔を合わせ、声をかけ合う場所であった。今、一本の道にはマスクの人間が通るだけだ。文明が発達しすぎて、大きなものを失って来た。便利すぎて逆に不自由になった。監視カメラがそこら中にあって見張っている。竹馬の友という言葉があったが、それは一本の道で友だちと、竹馬の高さを競い合った仲だ。現代社会ではスマホの友であろうか。私は現代文明を好まない。徹底的に嫌悪している。当然多くの人に多大な迷惑をかけまくっている。私はいくつになっても、少年の風を愛す。一本の道が生む物語りの方を愛すのだ。文明を拒否している種族がうらやましいと思ったりしている。私は縄文時代がいちばん、この国が幸せだったのではないかと思っている。故岡本太郎画伯は一度お会いした時、縄文時代のままでよかったんだよと言った。有名な太陽の塔は、縄文そのものだ。こんな思いを強くしているのは、きっとコロナ禍の中で、多くの人を失ったからだろうか。人間がどんどん言葉を失っている。仕事柄一日中テレビをつけていて、多くのCMを見る。心に響く言葉、心に刺さる言葉、言い得て妙な言葉、心を揺らす言葉がない。たった一行、たったひと言で、大作家たちから、ワシらには絶対書けないと言わせた言葉がない。いい言葉のない広告は、いい商品ではない。10年前ある広告団体の50周年記念イベントで、選ばれたプロフェッショナルと一般の人々が、この50年でいちばんいい、と思った広告の言葉として選んだのは、ダントツで、仲畑貴志氏が書いた“チョコラBB”のものだった。それは、“桃井かおり”さんが河辺にしゃがんでつぶやいた。「世の中バカが多くてつかれません?」であった。このエーザイのCMはすぐにクレームがついて流せなくなった。と、バカをおりこうさんに変えて流した。「世の中おりこうが多くてつかれません?」書き手にとってどっちにしても、疲れる世の中を書いた。変更して流すことを許した。スポンサーは偉いと思った。あれから10年今どんな言葉が選ばれているのだろうか。一本のCMで世の中を斬ってほしい。もうすぐバレンタインデーだ。昨年ゴディバというチョコレートの名門ブランドが、新聞全ページ広告で、“日本は、義理チョコをやめよう。”こんなキャッチフレーズの広告を出した。その通り、愛のない変てこな義理チョコはやめよう。マスクなしの子どもたちが、家の前の道を歩ける日はいつ来るのだろうか。アメリカのワクチンメーカーの売り上げが超、超倍増して5兆円近い。これからも期待できるだと、つい本音を言って喜んでいる。アメリカの薬品マフィアは何んでも有りだ。おそらくウイルスの犯人はこの国だろう。国会では、おバカと、おりこうさんぶっている人間が、二年以上同じ問答をして、三年目に入っている。臭い匂いは元からたたないとダメという格言がある。それにしてもガキの頃の一本の道の物語りがなつかしい。その頃は東京都杉並区天沼三丁目六〇〇番地である。そうして、こうして、今日も朝が来た。昨日金曜日は、「嫌国記念日」であった。梅の花がポッ、ポッと咲きはじめた。私たちはワクチンの治験者になっている。数年後きっと驚くような副反応の結果が出てくるだろう。「無」はありえない。そしてこれから、アフリカの最貧国からコロナは広がり始めるのだ。ウイルスに国境はない。一本の道にチンドン屋さんが来て、チラシを配りながら、お店の開店を告げて回った。その後をずっとついて行った。広告屋人生の始まりだった。私はチンドン屋でありたい。