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2015年4月15日水曜日

「悲しきピカチュー」




悲しき雨音、悲しき街角、悲しき少年兵、悲しき十六才。

私が十六才の頃ヒットしたポップスの曲には“悲しき”がついたのが大ヒットした。
当時のポップスはアメリカから輸入した曲に日本の題名をつけたので、原題とまったく違うものがほとんどだった。

昨夜うんざりする雨の中、家の前の公園を歩き抜けていると木製のベンチにピカチューの人形が横になってずぶ濡れになっていた。どの人形もシュールである。
笑っているが笑ってはいない。
ずーっとまばたきもせず、ずーっと同じ姿勢で、ずーっと遠くを見ている。

公園で横になっているピカチューはずーっと雨が落ちて来るのを見ている。
目にたくさんの雨が入っても目は閉じない。人形はとても悲しい存在だ。
公園はどろんこ状態だった。

あまりにかわいそうなので手に取ったら雨をたっぷり含んで重かった。
小さな屋根の下にあるベンチに座らせて。不気味に笑いながら私を見ていた。

ピカチューは悲しき十六才かもしれない。
悲しき街角から逃げて来たのかもしれない。
今の世の中は“悲しき”という詩的言葉が使われない世の中になってしまった。
日本人は詩情豊かな国民であったはずなのに。

小学生の頃雨が大嫌いだった。授業が終わるとみんな誰かが傘を持って迎えに来てもらえる。私は母が働いていたので誰も来てくれない。
昇降口で来るはずのない誰かをずっと待っていた。
そして一人だけとなり誰かの傘の中に入れてもらった。
ピカチューを見ていたらふとそんなことを思い出した。
私たちは人形みたいに無感情でずーっと生きてはいないだろうか。

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