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2010年5月17日月曜日

人間市場 歌舞伎座周辺市



歌舞伎座が遂に終わった。
今は壊されるのをじっと待つ廃屋の親方みたいな姿である。この際にと天津甘栗の屋台の店が店閉まいした。何度も買って食べた。隣のお弁当屋さん「暫」という歌舞伎の演目の名から付けた名店のカレーライスともお別れだ。隣の文明堂でよく珈琲を飲むが何となく店内に元気がない。通り向いの「辨松」というお弁当屋は歌舞伎を観る時よく買った弁当の名品店だ。

あの店もあの店も、あの親父もあのおばちゃんも、みんなしばし元気がない事となる。
「なかむら」という美味しいとんかつ屋がある。入ると黒板があり、団十郎様50とか海老蔵様50とか菊之助様50とか白墨で書いてある。それは何かというとカツサンドの数、楽屋に届ける手筈になっている。公演中はとんでもない数のカツサンドを作っては届けるのだ。カウンターだけ15人位しか入れない店だがとにかく安くて旨い店だ。
その店でとんかつを食べて一幕物の歌舞伎を観るのが好きだ。

知らざあいって聞かせやしょうバンバババンダァーンなんて見栄を切ると、ヨオ、成田屋なんて掛け声がかかる。私はヨオ!カツサンド!なんて声を出しそうになる。

これからは新橋演舞場に移る。
入り口の左斜め前があの有名な料亭「金田中」、ここは高い。おすすめは「金田中」の左斜め前の「くーた」。先日行った時に、隣で四人の女性がお刺身を食べながら大声出して笑い合っていた。一人どこかで見た顔だなと思っていたらすっぴんの松たか子さん(?)だった。

ここは相当に旨い魚の店だ。博多から出店して来た。
旨くて値段がリーズナブルであり、店の応対が凄く気持ちよくて爽やかと、来れば口から口へ評判が広がり今や予約しないと中々入れない店になった。この店を紹介してくれた会社の社長でもちゃんと予約して行ってる。

でもなんだか嬉しい。若い料理人が志を高く持って勝負に出て来てその成果を出している。やっぱり店は評判だ。路地裏の目立たない場所、この頃は成田屋、高麗屋、中村屋などの歌舞伎役者が芝居を終え一杯飲みに寄る。弁天小僧や白浪五人男や弁慶や石川五右衛門や義経たちがジーンズにシャツ一枚でタコやらイカやらアジやら黒サバ(これが抜群)をつまみにワイワイガヤガヤだ。お魚好きの方には是非おすすめだ。

歌舞伎座改修でも一大事なのだから、築地市場を移転する等というとんでもない事は止めて欲しいと思う。市場通りの交差点の角々にあったマグロ寿司だけを食べさせくれた店が今はローソンになっている。それだけでもすっかり風景が変わってしまった。文化は宝である。築地文化は永遠の文化遺産だ。優れた建築家達なら苦もなくいい改修のアイデアを出してくれる筈だ。

「井上」という立ち食いラーメン屋さんがある。行列が出来るが一定のリズムで回転して行く。ここが又、旨い。歌舞伎座一門もここに来て立ちながらラーメンを食べる。人間国宝だって行列に並ぶのだ。チャーシュウの数もメンマの量も平等だ。

おっ、あの立ち食い寿司屋で海老様が海老を食べている、隣の美人は誰だ。そんな光景がアチコチで見られる。私は旅に行くと漁港に行くのが大好きだ。取れたての魚で一杯飲む程旨い話はない。農家に行って採れたての山菜などを食べながら一杯飲むのもいいが、何か勇ましさとか、勢いとか、気合いとかが違う。
えらっしゃいとかハイヨオーとか、チットマッテくれとか日本語が弾けてるからだろう。

そうだ、この頃この国に掛けているのは日本語の弾けだ。
ウソつき、いい訳、サギ、バックレ、シカト、クスブリばっかり。てやんでこのやろう、こうなりゃ矢でも鉄砲でも持って来いってんだ、オイ家の中に引き籠もっているアンチャン、そんなところ潜ってネエでおてんとう様の下に出て来いってんだ。ウジウジしたって始まんないってんだヨオ。

会社行くたくネエなんてゼイタク言ってんじゃネエってんの。
仕事場がありゃ上等だってんだ。会社が嫌なら一人で勝負しろってんだよ。何お客さんが減ったって、だったらどんどん営業しろってんだよ、ベラボーめ。
こんな調子で行くべしだ。

2010年5月14日金曜日

人間市場 蒲焼き市


暦の上で立夏を過ぎた。月日の経つのは早いものである。

夏となればなんと言っても大好物の鰻の季節である。
万葉集に大伴家持(おおとものやかもち)の一首として「石麻呂に我れ物申す 夏痩せに良しといふものぞ 武奈伎(むなぎ)捕り食せ」というのがある。石麻呂があまりに痩せているので、鰻でも食えやと家持が冷やかしたとのこと。この頃既に鰻は滋養強壮の素であった。
「武奈伎」とか胸が黄色いから「胸黄」とか家屋の棟木に似て丸くて細長いから「棟木」と言われたりしていたらしい。近畿地方では「マムシ」なんて恐い言い方もあるとか。

江戸の学者、平賀源内が商売が元気のない時、土用の丑の日をつくり鰻を焼き団扇でバタバタやらしたら、江戸は鰻のいい焼きの香りと煙でいっぱいとなり一大ブームとなったとか。
何とかの日というのが近頃たくさんあるがその原形であるといえる商売繁盛はアイデアだ。鰻といえば何といっても蒲焼きが一番だ。

関東は背開きをする、腹開きは切腹を連想するので止めたのだろうという説がある。
関西では腹開きにし蒸さずに焼く。地方によって様々だが鰻はやっぱり江戸の味だ。鰻に縦に串を打ち、屋台などで焼いていた形が「蒲の穂」に似ているから「蒲焼き」と名が付いたともいう。


その発祥の地が埼玉県浦和市だという。浦和駅前には「浦和うなこちゃん」の石像まであるらしい。この辺りは川や沼地が多く、沢山取れたのだ。今でも浦和周辺には30軒ほどの蒲焼き店があり、さいたま市の伝統産業に指定されている。

鰻を食べる決まりは一時間じっと待つ。お酒をチビリチビリ、お新香をコリコリ、これだけ耳で団扇のバタバタする音を聞き、目で立ち上る白い煙を楽しみ、鼻でいよいよタレが染み込んだ蒲焼きの香りを、生唾を飲み込みながらじっと待つ。間違っても遅いな早くしろなんて言ったら帰って下さいと言われる。あー腹の虫が鳴いて来た。そこまでじっと待つのが掟なのだ。

鰻と掟で一つ恐い話を思い出した。ある恐い筋の人たちの会話だ。
あの野郎山に埋めるか、東京湾に沈めるかどっちかにしようと思ったが、鰻とハマチのエサにしたやった。身体をブツ切りにしてミンチにして養殖場に投げ込むともの凄い勢いで鰻とかハマチが群がり、あっという間に食べ尽くされるらしい。
コレが絶対の処理の方法だなんて鰻重の特上を食べながら話している。キモ焼き、うざく、キモ吸いを旨そうに食べながら、やっぱこの季節は鰻だな、身体が何となく盛り上がって来る感じがするもんな、なんて話している。

一人の男、あっ痛え何だこの固まりは、オイ何だと思うこの金色の固まりは。
もう一人の男の男が言う、金歯のかけらじゃネエか。
えっまさか冗談だろ、だってヨォ鰻が人を食ってりゃ金歯のかけらが入っていたっておかしかネェだろうが。ヤメロって気持ち悪い。
オイ親父この鰻は何処の鰻だ、天然か養殖か。お客さん今頃天然物なんて2%しかありません、98%は養殖です。ウチの鰻は鹿児島県のものです。えっ、鹿児島県・・・オイまさかあの野郎、確か金歯が何本もあったな・・・。

冗談です、カバヤキにちなんだバカヤキな話です。でもひょっとして本当かも。


2010年5月13日木曜日

人間市場 ヒモ市


人間は酸素と愛が無いと生きていけない。
クルマはガソリンか電気が無いと走っていけない。
懐中電灯は乾電池が無いと灯りが点かない。
蒸気船は真水と薪がないと動かない。

幕末、ペリーの艦隊は何故日本に来たか。
それはヨーロッパの大国、英国やフランス、スペインがアジアに進出、中国を手に入れようとしていたからだ。
このままじゃマズイと思ったので艦隊の補給基地が必要となった。真水と薪が必要であったのだ。蒸気船だったから、そこで日本に目をつけ開国を迫ったのが日米関係の始まりであった。

日本は水の国であり、木の国であった。その後歴史がどう動いて日本がアメリカの舎弟分になったかは誰もが知っている。

敗戦国となり、占領政策がとられ未だに占領国扱いである。
現在日本国中134カ所に米軍基地はあり、沖縄だけでも37カ所ある。それに思いやり予算もタップリだ。
普天間基地が危ないというが他の基地は危なくないのかは全く論じない。私の家の上を厚木基地へジェット機が何機も飛来する。もの凄い騒音で話し声も聞こえない。私の家に墜落しないという決まりはない。日本中の基地は危ないのだ。

誰一人正しい普天間問題の分析をしていない中で一人だけ正確な話をしている人がいた。小泉純一郎の元秘書であった飯島勲氏のみが踏み込んだ話をしていた。
それはいわゆる安保マフィアと利権の問題が決してクリア出来ないという本質的な内容だった。野中広務元官房長官も沖縄はあらゆる利権の巣窟だと言っていた。

海兵隊の意味も判らないコメンテーターやお笑い芸人やニュースキャスターがギャーギャー騒ぐ。お前達沖縄の為に何か一つ位ためになる事をやっているのかと言いたい。ノリピーの時と同じだ。一日中ノリピーだらけであった。沢尻エリカがキモイから別れるなんて言うとエリカ一色となり高城ミジメ一色となる。湘南のイベントで高城剛氏の話を聞いたが実に頭のキレる論理的な人間であり、地球のエコに対して正しい認識を持っていた。(ただクスリを相当入れている(?))男と女は昨日までベットの中で愛を語っても、たったひと言とかちょっとした事でバラバラと音を立てて崩れる様な関係だ。

特にお金が絡むと千円、五千円でも争いの種になる。ヒモみたいな男は大嫌いとなる。金の切れ目が縁の切れ目という。(芸能人は見栄と虚飾の世界、お金がかかる人種なのだ)
気持ちイイと言った後に気持ち悪いと変化する。その潮目は突然に来る。
アメリカは日本のヒモみたいな存在である。沖縄の不幸は立地条件が戦争状態になった時に一番動きやすい場所にあるからだ。

戦争産業国アメリカが戦争をしている時は沖縄にジャブジャブ金が落ちた。
しかし観光以外ゴーヤとアグーしかない沖縄は基地の人間から金が落ちないと潮が引いた浜辺の様になってしまう。中身の無い貝殻だらけだ。海兵隊が起こしたいろんな不祥事や犯罪で外出は制限された。

沖縄は平均年収二百万弱という、日本の中でも最貧県の一つになってしまった。

戦争の犠牲になった県にキャンプシュワブという名を付ける。シュワブとは沖縄上陸戦で日本人をバタバタ殺した英雄の名なのだ。なんと無神経な事なのだ。本来ならアメリカは沖縄に対したっぷりお金を支払い続けないといけないのだ。鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしてまるで無知な言葉を発しシラッとして意味不明な言葉を出し続ける。もうマンガを通り越している。

正直に沖縄には巨大な闇の勢力と利権の構造がアメリカを軸に複雑に深く絡みあっていて私ごとき人間にはとてもとても解決なんて出来ません。この問題は全党一致、挙国一致して取り組みたいので是非各党力を貸して下さい。
安保条約は日本全体の問題なのでと、言えばいいのだ。

沖縄の問題は日本全体の問題なのです。まず沖縄の人々の平均年収が三百万から四百万にするにはどうしたらいいかを考えねばならない。カジノ特区でもいいだろう。又、特別無税とか特別迷感代を支払うとか、何しろ沖縄の37カ所は基地なのだから。

一度ひめゆりの塔へ行ってあの洞窟の中でどんな悲劇があったのかを日本人全員が見るべきなのです。(アメリカ人も)唯一の地上戦があった戦地なのですから。(硫黄島以外)
宮里藍、諸見里しのぶ、仲間由紀恵、安室奈美恵、山田優、黒木メイサ、国仲涼子、上原多香子。次々とスターが生まれる。才能の宝庫でもあるのです。
青い海も、サンゴ、ジュゴンも守らねばならないが先ず沖縄の民を守らねばこの問題は解決する訳がない。

沖縄の人から軽くて安くて利を生まない人間と言われた総理大臣には自腹を切るしかない。先ず鳩山家の財産全てを沖縄に寄付するべしだ。
勿論、弟邦夫の分も丸裸になって誠意を見せる事だ。

巨大な闇と戦うには正しい筋道を通すしかない。

コラッ、そこの男、別れる女性にケチケチしたら駄目。全部持ってけ。それ位の器量が無ければいけません。何、財布の中身は空っぽだって?それなら体で返せ、どうやってだって、よく考える事だ相手の女性にとっての真水と薪は何かを考える事だ。

2010年5月12日水曜日

人間市場 会見市


それはまるでお通夜かお葬式の様。
又は特攻隊に行くメンバーを発表する様な記者会見だった。

サッカーのワールドカップの出場メンバーを発表する岡田監督。どうして日本人はスピーチが下手なのだろうか。それに比べて谷亮子は堂々として清々しかった。是非スポーツ省を作って欲しいものだ。

野球といえば長嶋と王、相撲といえば栃若と柏鵬、レスリングといえば力道山、ボクシングといえばファイティング原田で、サッカーといえば三浦知良だろう。

12年前、何故ワールドカップに三浦知良は行けなかったのか。何故今回全然試合に出ていない川口を代表に選んだのか判らないのが岡田監督だ。中学を出てブラジルに渡り本場のサッカーを体験して日本に帰りサッカー時代のパイオニアとなった。
四十を超えてもひたすらサッカーに身を捧げ身体をイジメ抜いている。未だにサッカー少年なのだ。

岡田監督は言った、日本は蝿の様なサッカーをして来ますと。
蝿の様にしつこく付きまとうサッカーなんだと。パパラッチの事を蝿と言うが、何て不細工なコメントなのだとガックリ来た人は多いだろう。
スポーツをただ勝てばいいと思っているのが日本のスポーツ界だ。死ぬ気でやれとか、命懸けだとか、根性だとかまるで非科学的な世界なのだ。

大リーグでは投手によって球数を決めているが日本は肩も壊れようと150球も200球近くも投げさせる。外国の監督の仕事は勝つ事よりもいかに選手の寿命を保つかにその腕前がかかっている。選手一人一人の個性を活かすのが仕事だ。あいつは好きだとか、あいつは嫌いだとか、あいつとは性が合わないとかの理由で選手を起用する事はほとんどない。

あのイチローはチームの中で浮き上がり嫌われ者のNo.1だ。自分の成績ばかり追い、どんなボールでもヒッティングする。大リーグでは一、二番は出塁率が大事だが、イチローは四球が少なくブーイングされる。他のチームもそれを知っているからトレードを申し込まない。自分だけ超高級ホテルから球場に通う。日本では上司にしたい人No.1なんて言われているのが不思議でならない。それでも外国の監督は起用し続ける。高いギャラを支払っているのだから働けという事なのだ。

で、三浦知良はなんで岡田監督に嫌われたのか、それはきっと華があり過ぎた事、オーラが凄過ぎた事による岡田監督のひがみとコンプレックスだろう。チームワークを乱すからという理由ならそれは自ら監督としての器量がないというのに等しい事だ。
人間なんだからいろんな個性がある、それを束ねるのが監督だ。この国のリーダーはあまりに保守的過ぎる。私の大好きな超出っ歯のロナウジーニョだって一度は干されたがちゃんと復活させているではないか。

もしあの記者会見でFW三浦知良と発表していたら日本中が熱狂したであろう。代表に選んだ理由は今日まで日本のサッカーを引っ張ってくれた、ラスト10分にカズの集中力に期待したい。又サッカー少年達に夢を与えたい。
チームの和は私が全て責任を持つ、こう言えば全敗だろうと日本国民はきっと納得するだろう。ラスト10分得点は00、選手交代のコールは三浦知良。どれだけ人々に元気を与えてくれるだろうか。

サッカーは真の国民的スポーツになるだろう。
三浦知良はもしかしたらと思っていたかもしれない。蝿の様なサッカーで戦って来ますなんて言うとんじゃない。岡田監督には到底無理な注文なのだろう。川口能活がキーパーに失敗したら何で起用したんだのブーイングになる。何故なら彼は日本のサッカーを引っ張って来た男ではない。ゴールを守って来た男だからだ。

スポーツは夢を追うためにある。夢を見る為にある。人が人を愛する様に人を育ててほしい。あらゆるスポーツで監督の好き嫌いで潰れていった選手は数多い。才能を踏みつけられた選手も夥しい数だ。

会社ではゴマスリばかりが出世する、困ったものだ。
上司は手柄は俺の物、失敗は部下の物にする事ばかりだから若い人材が育たない。嫌な奴だって才能があればOKだ。その才能を伸ばす事だ。人から嫌われる様になれば一人前と言う事もある。私なんか嫌われ松子の一生と同じだ。嫌いで結構、好かれちゃ困るだ。

キングカズにW杯に行ける機会はまだある。帯同メンバーの枠が45人ある。けが人の状況によっては出場の機会もあるという。五月十七日発表される。
岡田監督の勇断を待つ事にしよう。


2010年5月11日火曜日

人間市場 母の日市

五月九日、今日は母の日である。
花屋さんの中はカーネーションで一杯だ。
カーネーションを母の日に贈るのは、カーネーションはイエスキリストの死を悲しんだ母マリアの涙で咲いた花だからと伝えられている。又、カーネーションは散る事がないからだという。オーストラリアでは菊を贈るらしい。Chrysanthemumのクリサンセマムのマムから来ているらしい。

おっ母さん、母さん、母ちゃん、母上、母君、お袋、ママ、マム、マミー、いろんな母の日がある。

女は弱し、されど母は強しといわれる、我が子を守る為に母は全てを投げ打って頑張ってくれる。佐渡のトキが自分の子が育っていなかった卵をくちばしで一個ずつ落とす場面を見て涙した人は多いだろう。その一方で生後七日の子を自らの手で殺してしまう若い母親がいる。思わずバカヤローと怒鳴ってしまった。
戦後女性と靴下が強くなったと言われた時期があった。厚木のシームレスストッキングが生まれた頃からだ。それまでのストッキングは傷つきやすく、よく伝線が入っているといわれた。

私は美人よなんて気取って歩いている女性にそっと伝線が入っているよなんて言うと、相手は頬を赤らめ感謝とも軽蔑ともいえない目で睨んできた。美人でない人はすでに諦め気取っていないので声を掛けても仕方ない。美人に伝線を言ってあげるかどうかは重要な問題であった。まして自分が初めてデートした相手に入っていたとしたら心は行き場を失ってしまう。


さて女性は本当に弱く、母は本当に強いのか、答えはYESである。
やはり男女平等といってもやはり女性は女性である。男が守ってあげねばならない。それが出来なければ男が子を生む苦しみを担当しないといけない事になる。男は真の母親になる事が出来ないのだ。ならば真の父親になるために男を磨かないとならない。

その前にこの頃言われるところの草食系から脱しないといけない。
チラシを見てスーパーに行き、ポイントカードを集め家計簿をつける若者が多いというがそれはそれでいいと思う。
夢が無い、逞しさが無い、欲望が無い、無い無いづくしだが私はそれが全体像とは思いたくない。恋をし愛を知れば必ず自分の中にある野性が現れてくる。たった一間でもいい、愛する人と二人で生きて行く、そして小さな命をつくり育てる。

その昔、「名もなく貧しく美しく」という映画の名作があった。シンプルイズベスト。
この世には不幸が二つある。一つはお金のある不幸、もう一つはお金の無い不幸という。私は高度成長期の中で生きて来た。だから若い人達に向かって俺たちの頃はなんて言わない。一人一人若者と話すと実にしっかりしている。草食系も肉食系もない。現在進行形でしっかり自分を見つめている。少子化が進み昨年より10万人お母さんになった人が少ないという統計が出た。

人生という靴下に何本も伝線が入ってもいいのだ。自分の愛する人と一緒に苦労を共に出来れば大人の皆さん、側に一人でいる男女がいたら恋愛を勧めてみてください。そしていつの日か自分たちの生んだ子から一本の赤いカーネーションを貰う喜びを語ってあげて下さい。この国にこれから一番大切なのは純愛だと思う。

昔の人がいいました「一人じゃ食えなくても二人では食える」二人の方が無駄が無く合理的かつ経済的なのだ。
若者よメールでメッセージを送らないで、まずラブレターを書きなさい。一行でも二行でもいいんだから。大人も同じ夫婦の間でも一枚のメモを書きなさい。
たったひと言「今日は遅いメシいらない」これだけで十分なのだ。
逆にこんなメモがある場合もある。「もう一緒にいられない我慢も限界」やっぱりそうか、仕方なしだ。

夫婦の間に伝線が入っていないか、考えれば傷だらけの筈だ。一階にいる妻が二階にいる夫にメールを打っているケースもあるという。夫婦とは我慢くらべなのだ。

2010年5月10日月曜日

人間市場 うんざり市

うんざりしなければ連休じゃない、そういうところが日本人なんだが上海万博の中国人の動きを見ているとやはり日本人の先生は中国人なんだと思う。

人が集まるところに集まり、混雑大好き、渋滞大好き。一人があっ何だアレはと空を見ると一斉に見上げ何だ、ただの雲かで終わる。あっ、あそこに何かあると言うと、どっとそこに集まり何だ、ただの猫かで終わる。それでも中国人に比べると日本はルールを守りマナーは良い方だ。

かつて中国の万里の長城に行った時、もの凄い人、人、人であった。
長城の中に人が一人しか出たり入ったり出来ない入り口がある。敵が攻めて来た時に何人も入れない様に作ったのだろう。下から上に階段があり三メートル位登ると上に出れる。
上の人どうぞ降りて下さい、あなたが降りたら私が上がります。こういう風にすれば一人一人スムーズに上下出来るのだが中国人はその入り口に上か下へ、下から上へ一斉に入ってくる。

水道の蛇口に水が吸い込まれる様に入って来るから三メートル位の空間にギッシリ中国人の生温かい顔と顔と顔が詰まって来て身動き出来ない。
ニンニクの臭い、ニラの臭い、体臭、汗臭、風呂に入っていない人達や、チャイナヒゲが私の顔の回りに何個もある。人混み大嫌い、混雑大嫌いな私はもう半狂乱を通り越して気絶寸前。順番にしろ、順番になんて言っても当然通じない。うりゃーどけってんだよなんて言っても上から下から延々と人、人、人、猫が集団で騒いでいる様な人の群れの中で酸欠になってやっとこさ入り口から顔が出る。
うわぁー、な、何だそこにはまたもや人、人、人だ。

中国人は斜め45度、目線ははるか上に、カメラは二眼レフで下から撮影する。そうですあの毛沢東や金日成の様にポーズをとるのだ。ニーハオ、ニーハオ、センセイセンセイとカメラを渡す。何かってシャッターを切ってくれって事だ。一組やってあげると次々にカメラを持ってカップルや家族が来る。いい加減ダメーっと叫んで長城を走る、といっても人だらけで走れない。

二度と来るかこんな所。誰だこんなとんでもない長い石垣の化け物を作ったのはと友人と泣きを入れた。心底泣きが入った。

時間を守らない、約束を守らない、物を盗む、嘘ばかりつく、サボタージュ、袖の下を要求する、手を洗わない、食器はヌルヌル、トイレは穴だらけ、隣に若い女性が平気で座っている。万里の長城のトイレがこれかよと又泣きが入る。

北京飯店(日本だと帝国ホテル級)の朝、ザアーザアーという音、雨かと思い窓を開ける。天安門広場前の100メートル通りに自転車の隊列が何本もの黒い線の様に続いている、窓から見ながらいつかこの国が世界を支配するのかもしれないと体感した。

前日に中国のいろんな学者と話をした。あまりに熱心すぎて話している内に呼吸困難になり隣の部屋に行ってベットに大の字になった。知識人は凄い人ばかり、天才、秀才も又人、人、人。底知れぬ知識人の恐さを感じた。

現在の中国を七面鳥に例える人がいる、頭だけ赤い共産主義、体は金儲け一辺倒の資本主義、習性は全体主義、秘密主義、権力闘争の国だ。世界は間違いなく中国とインドそしてアフリカが中心になって行く。

人海戦術には勝てない、だが中国は日本と同じ必ず公害大国となっていく。日本は中国から文化を学び、中国は成長した日本から技術を学び、日本に低賃金の労働力を提供して発展してきた。かつては苦力(クーリー)として日本が炭鉱労働や重労働を課して来た。その報いを受ける日が近づいて来ている。
日本人が中国人の苦力(クーリー)となるだろう。

三度の飯よりSEXが好きな国、中国。SEXレスとなり少子高齢化の日本。勝つ見込みは100%ない。ローマ帝国はアメとサーカスで滅亡した。飽食と亨楽のツケだ。アメリカと日本も同じだ。歴史上滅亡しなかった帝国は一つもない。アメリカ帝国もアイスクリームとハンバーガーとコカコーラと享楽にまみれた精神と肉体の荒廃で滅亡するだろう。
大日本帝国は65年前滅亡した。65年かけて教育の現場から治さないと、いよいよ世界から取り残される。

友人から電話が入った。上海万博に一緒に行かないかと。もちろん絶対行かないよと言った。あの万里の長城のうんざりとした光景と臭いが一気に甦った。

ある年、ニューヨークの五番街に行ったら日本のオバサン達が目の色を変えてそこら中のブランド品を買い漁っていた。今、東京銀座のブランド店は中国人の群れだ(いずれバブルははじける)アジアの時代の中で日本だけが沈んで行く。出て来い若者よ、夢多き若者よ、恋多き若者よ。

2010年4月28日水曜日

人間市場 監視市

連休中、気を付けて下さい。
路チューから不倫まで丸見えです。あなたの映像が撮られているのです。
「電子監視ネットワーク」です。別名「警察の警察による警察のための監視カメラ」です。正式には「街頭防犯カメラシステム」といいます。繁華街や道路、交差点、駅の改札口等至る所に設置されているのです。データ保存は原則一週間ですがそれが実行されている証明はありません。


よく事件が起きた時に田舎の夜道を二人で歩いているのが監視カメラに写っている。
信じられない程その監視網は広がっているのです。我々には既にプライバシーはないと思った方がいいのです。一家一族が丸裸にされているのです。コンピューターのボタンを押すとありとあらゆる情報が出てくるのです。警察のモニターではずーっとそれをチェックしているのです。

とんでもない冤罪に巻き込まれる可能性があるのです。
特に一度でも警察に指紋を採られた事のある人は気を付けて下さい。たかだか交通違反だなんて思っていると、とんでもない事になるのです。映画や演劇やコンサートのチケットの半券やタクシーの領収書、食事の時の領収書は必ず残しておいて下さい。
何故なら貴重なアリバイの証明になるからです。ちょっと公園のベンチで、路上の隅で、そのままラブホテルへ、そんな事はバッチリ監視下にあります。酔った勢いで風俗の店へ、当然しっかり監視されているのです。それじゃどうしたらいいのと大きなテーマが持ち上がります。

基本は何もイケナイ事はしないですが、それでは人生は味も素っ気もない事になってしまいます。やはり安く行こうとしない事です。一流のホテルに別々に入る、一時間位ずらしてです。が、それでも出入口は監視されています。結局のところイケナイ事はしてはいけないという事なのです。

連休中はとりあえずマジメに家族サービスがいいでしょう。
勿論独身者は自由自在、色々楽しんで下さい。監視カメラに写っている姿を見ている警察の人間は決して見物料を払ってくれません。ニヤニヤしながらズームアップしたりして、オッ、美人じゃない、可愛いじゃないなんて言いながらお茶しているんです。その監視された映像が探偵社や写真誌に流れ、売られたりするといいます。その為に別れた人々や失脚した人をを何人も知っています。

悪い事や嘘はいつか必ずバレるから気を付けて下さい。家族で連休を楽しむ、これが一番無難です。良い連休を。
ブログは510日より再開します。





2010年4月27日火曜日

人間市場 マザコン市


あるベスト10
①炒め物②煮物③カレー④肉じゃが⑤豚の生姜焼き⑥ハンバーグ⑦お鍋⑧鶏の唐揚げ⑨餃子⑩すき焼き。これは夫婦関係が円満にいっているという夫婦の夫が作る料理のベスト10

あるベスト10
①おかずこれだけ②食べた後(無言)③塩が足らない④美味しくない⑤不味い⑥味見したの(?)⑦俺が作った方が旨い⑧失敗したの⑨自分で作ったの⑩お袋の味じゃない。
これは夫婦が円満にいっていない夫婦の夫の不用意発言です。

男は台所に入らないでと言う愚妻なので私の作る料理はない。不用意発言はかなり言っていると思うが全て無視されている。家は料理屋じゃないからと。

一組の若い夫婦が離婚した。
結婚して10ヶ月余りであった。その原因は夫の方が32歳にもなって母親離れしていなかったのだ。自分達の新居の一つ隣の駅に両親の家がある。男は新居に帰る前に両親の家にただいまーと帰ってしまうのだ。そこで風呂に入り洗濯物を出し、着替え、お母さんの手作りの料理を食べ、しばらくテレビを観てから新居に帰る。

新妻は26歳、お帰りなさいと迎える。ご飯は食べてきた、お風呂は入ってきた、洗濯物はお母さんのところに置いてきた。可愛い新妻は部屋に入り泣き崩れる。何で何故、一体どうなってるのと悩み苦しんだ。既にお腹の中に三ヶ月の命が宿っている。
思い切って聞き出すと、だって君の体が心配だから無理させちゃいけないと思ってだよと言う。ああ優しいんだ、やっぱりいい人だった。誤解していて悪かったと心を新たにする決意をしたそうだ。しかしそれからも毎日の生活のリズムは変わらない。新妻は育児の本を読みながら帰宅を待ち、一人で淋しい食事をした。

原因は食事にあったのだ。夫の母親はかなり有名な料理家であった。パティシエとしても名を上げ料理教室を持ち、テレビにも顔を出しホテルで講演もしていた。
小さな頃からその母親の料理と盛り合わせとデザートに慣れた一人っ子は他人の味にどうしてもなじめなかったのだ。結婚前は自分の家でデートばかりしていたのだ。
それをしっかり確信した新妻は料理の本やDVDを買い一生懸命料理の勉強をした。涙ぐましい話であった。栃木出身の新妻は必死に努力した。しかし夫は相変わらず毎日母親の味を求めて実家に立ち寄った。

新妻の母親代わりをしていた私の知人のところにこれ以上続けられないと相談に来た時にはお腹が膨らんでいた。
マザコンをはるかに超えたウルトラマザコン男に私の知人は激怒した。何度も何度も阿呆、阿呆、アナタワオンナオトコを連発していた。

夫婦は元々育ちが全く違う同士、お雑煮だって、ちらし寿司だって、味噌汁だって、味付けや盛り合わせだって何から何までまるで違うのだから出て来たものはうまい顔を演じ合えばいいのだ。その内にその夫婦の味となっていくものだ。

栃木の新妻はその後離婚し
田舎に帰り元気な男の子を産んだ。小学校一年になったと手紙と写真を送ってきた。男の方は今も実家から会社に通っている。もう嫁に来る女性はいないだろう。阿呆なオトコオンナ&ウルトラマザコンが定着してしまったのだから。
夫婦円満ですかというある調査によると39%がまあ円満と答えていた。多分10%はゲタを履いているのだろう。夫婦とは妥協と我慢の同居なのだ。

2010年4月26日月曜日

人間市場 心の握手市


便箋発祥店といわれる、東京日本橋の紙製品販売「榛原(はいばら)」。
1806年創業で、幕末に縦の罫線入りの便箋を発売したという。昭和の初めには蛇腹に畳んで折り目にミシン線が入った「蛇腹便箋」を発売。切り取っても使える一筆箋の様なものになり大人気、それは今も続いている。

職人の腕前を見せる一枚一枚のものは素晴らしい出来栄えだ。銀座の鳩居堂という処にも色んな便箋がある。


この頃は手紙なるものがとんと少なくなった。
パソコンとかファックスとかメールで済ませてしまうからだ。
手紙は、まず便箋を選ぶ。次に切手を選ぶ。そして何より筆記具を選ぶ。万年筆、筆、ボールペン、便箋によって変える。ヤマト糊で丁寧に封をしてポストに入れる。
郵便局でそれを区別し、その先の郵便局に送る。受け取った郵便局はスタンプを押し局員が一軒一軒配達する。その一通の手紙がラブレターだったり、別れの手紙だったり、両親や友人や知人を励ます手紙だったり、なんとか借金を願いたいとか人生そのものが書かれている。葉書や絵葉書、素敵なポストカードなんかも全く同じ過程だ。自分で撮影した写真のポストカードなんかは嬉しい一枚だ。

ある有名な編集者は、葉書や手紙は「心の握手」なんですと言っていた。どんなに疲れていても目を通した原稿の作者や執筆してくれた作家の人達、出会った人達に毎日一枚の葉書を出すという。やがてその「心の握手」は強い信頼感を生み出した。

9.11があった時、イラストレーターの黒田征太郎さんは丁度ニューヨークにいてあの出来事を目の前で見た。その光景を一枚一枚葉書に描いて東京の友人に送り続けた。なんと千通近くになったという。ニューヨークの郵便局から日本へ、そして東京へ。色んな手順を経て毎日友人の処にちゃんと着いた。東京でそれを見て「ホンマ郵便は大変なコトヤナァー」感激するなぁーと話をしていた事を思い出した。

つぶやきというツイッターが流行っている。何とも味気ないやりとりである。つぶやきとはボヤキとかグチとか密告とかの為にやっていた後ろめたい行為であった。
美しい女性や憧れていた女性に通り過ぎる時に耳元で、好きよとかいつもの処でとか今日カッコイイとかつぶやかれたらその日は一日中ウキウキするだろうが、その逆を言われたりすると最悪の日となる。キライとかサイテーとかダサイとかである。

つぶやきひと言で一人の人生が大きく変わってしまう。
この頃葉書や手紙が少しずつ復活しているという。ほんの少しの動きでもいい事だと思う。手書きの手紙、手書きの葉書で是非「心の握手」をして下さい。
文明が異常に発達すると文化はどんどん後退します。人の心も同じです。おぞましい事件の裏に「心の握手」が欠けているのです。
テレビが世の中に出回った時、ある高名な人が「テレビを消す一週間」というキャッチフレーズを出しました。確か伊勢丹の広告だったと思います。「携帯やメールを忘れる一週間」を作ってみて下さい。そして一枚でも手書きの葉書や手紙を書いて下さい。字が上手くないとか下手だからは全く関係なしです。

私はこの国を立て直すには一枚の葉書、一枚の手紙からと思っています。「心の握手」を言ったのは幻冬舎の凄い編集者、石原正康さんです。物静かだが名刀の切れ味の人です。
もしかして大切な礼状を出し忘れたりしていませんか。親しき仲にも礼儀あり。まず親兄弟と「心の握手」をして下さい。難儀な問題、離れてしまった心も少しずつほぐれていくはずです。


このところ季節の便りは凄い寒い、凄い寒い、ちょっとだけ暖かいの繰り返し。何か変ですがこれも自然からの握手なんです。何かを知らせたいのでしょう。

2010年4月23日金曜日

人間市場 写真家市

四月十七日(土)、日本を代表する友人の写真家の処に御祝いに行った。

かねてより鎌倉雪ノ下に居を構えていたのだがそこに新たにギャラリーを建て東京にあった事務所も移転して新設、そしてご本人が何より好きだという珈琲の焙煎をし、お客さんに飲んでもらうという珈琲店も併設した。
小町通りに入ってゆっくり歩いて4、5分、右側に30メートル位のアプローチがありその先が大先生のかねてよりの場所だ。


先生の名は十文字美信さんという。前日がオープニングパーティという事で蘭の花や他の花々が百以上ある。有名女優の名がズラリ様々な業界の花盛りであった。

私は花はいらないだろうからとローストビーフで有名な鎌倉山へ行き、特製のチーズケーキと特製の塩(縁起担ぎに)と特製の飲めるオリーブオイルを買って持って行った。


久々に暖かかったので鎌倉山のレストランもセレブな人達がランチをしていた。近くのお蕎麦の名所、檑亭も人、人、人。日本酒を一杯飲んで盛り蕎麦をと思ったがとてもとても食べれそうになく目的地に向かってと運転手さんに頼む。

着くと和服のよく似合う女性マネージャーがギャラリー奥から出て来て、よく来てくれました、丁度良かった昨日パーティーで忙しかったので今日は一時からオープンにしてたんですよと、時計は一時十五分であった。



いやーどうもどうもと先生、珈琲店のマスター風ファッション。
長いコットンの白いシャツともう一種のシャツを重ね着し、大きめの薄いグレーのやはりコットン風のベスト。えらく格好良く優しそうな笑顔。いつも仕事場では鬼の様な顔をしているのがまるで別人の顔。美しく広い鎌倉庭園がよく手入れされている。

現在六十二歳。マネージャーから是非本人が焙煎した珈琲を飲んで行って下さいと珈琲店の方へ。程よい広さ、センスのいい木材を使った店内、カウンターの中で先生はニコニコしながら仕込み中。若い女性スタッフが確か四人、きびきびと動いている。

凄いですねと言うと前から考えていたんだよ、ギャラリーは若手を育てたいからその場所にしたいんだ。昔から仕事から帰ると深夜でも珈琲豆を焙煎していたんだ。
何か気持ちが落ち着くんだよねと言った。それにしても別人に変わりますねと言うと好きな事をやっているからだと思うよ、映画やっている様でいいねと映画談義。

その内お客さんがどんどん入って来る。いらっしゃーいと先生は明るい声。先生もカウンターの中から出て来て音楽をセット。なんと流れて来たのは、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」だった。
「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる
朝の光りのその中で 冷たくなった私を見つけて あのひとわぁ〜」と静かに店内に流れる。かつて全共闘の学生達が涙を流した曲だ。こんな暗い歌絶対売れないという会社を見事に裏切って大ヒットした曲だ。いいねえーと言うと、いいでしょと笑った。まさか鎌倉庭園を見ながらこの曲を聴くとは思いも寄らなかった。

かなり混んできたので又来ますよと言って帰途に着いた。海岸線を走っているとあっと思った、すっかり感激して先生の珈琲を飲むのを忘れて来てしまった。

鎌倉に行ったら是非お立ち寄り下さい。素敵な人生がそこにあります。現在ギャラリーでは「FACES Ⅱ」を展示してます。コレが又、凄い写真です。ピカソのゲルニカの様です。



1947年、神奈川県横浜市生まれ。
1970年に写真家としてデビューした。人物の顔だけをフレーム・アウトした作品「untitled(首なし)」が1974年ニューヨーク近代美術館にて開催された「New Japanese Photography」展に招待される。広告写真に携わる一方で、独自の体験に基づく作品を数多く発表。代表的作品として、ハワイ日系一世を取材した『蘭の舟』(81年伊奈信男賞)や日本の伝統文化を「黄金」という切り口で古代から近世までを撮り下ろした『黄金 風天人』(90年土門拳賞)がある。3Dによりインスタレーション「日本の王朝美術」がボストン美術館で公開されるなど、国内外で活動を続けてきた。2007年に刊行した『感性のバケモノになりたい』(08年日本写真協会作家賞)は、20代の未発表作品から60歳のデジタルカメラを駆使した作品まで40年間の作家活動を集成したものである。2008年には新作「FACES」を発表。今回展示されている作品は、それをさらに発展させたものである。