私は「呼名」である。人の名や物の名自然現象の名、花々の名、動物の名等々、そして職業の呼名(よびな)である。新型コロナウィルスの感染源を追っているニュース報道を見聞きしていて、ふと思った。ニュースキャスターや専門家たちが、タクシーの運転手さんの事を、“タクシーの運転手”と表現する。はじめは違和感がなかったが、何度も聞いていると、タクシーの運転手と呼びつけることに気分が悪いニュアンスを感じた。正しくは感染したタクシーの運転手の方とか運転手さんと言うべきではないだろうか。医師とか教授、博士、弁護士、公認会計士、航海士、建築士等々は、その言葉で社会的地位が分かる。が、塗装工とか建築作業員、警備員、配線工、清掃員とかと呼びつけにされると、何か嫌な気分になる。やはり塗装工の方とか、清掃員の方とかと言うべきではないだろうか。みんなそれぞれ自分の仕事に誇りを持っている。私呼名がいる業界は、“広告屋”と言われていた。保険のおばさんは、“保険屋”と言われた。大きな家の玄関には。“広告、セールスお断り”の貼り紙があった。今ではアドマンとして地位を得ている。私呼名が大変お世話になっている不動産業は“不動産屋”と言われた。例えば文学で見て、広告家とか、保険士とか、不動産家と見ればどうだろう。エロ・グロ小説を書いていても、小説家と書けば、文化人的になる。小説屋だと、文学の知的ニュアンスは消える。私呼名が、タクシー運転手さんの子どもだとしたら、テレビのニュースで、運転手、運転手と呼びつけされたら、テレビに皿を投げつけるだろう。日本語は極めて職業を格差的にすることを、改めて感じたのだ。検察官、警官、監察官、長官など、“官”がつくと、どんな悪徳人物でも社会的地位を感じる。金融業とかヤクザ稼業とか、業がつくと怪しくなる。農業、林業、漁業だけは別格だ。知人にAV(アダルトビデオ)業でしこたま稼いだ奴がいた。しかし天罪が襲った。金のある黄金の日々が忘れられず散財をした後、借金地獄となり、自死をした。肉体は肉片化して飛び散った。片足だけが見つからなかったが、半年後位にある家の物干しをする場所の下に食い込んであった。落ちた洗濯物を探していたおばさんが、ギャーと大声を出して腰を抜かした。“家”と“屋”の使い分けで決して変えてほしくないのが、“映画屋”だ。これが“映画家”になったら、ゴメンなのだ。私呼名は“場末の芸者”と自からを言っている。仕事というお座敷に“上がった”ら、精一杯、芸を売るのだ。少年の頃“クズ屋さん”という職業があった。私呼名の友人の家だった。いろんなものがあり楽しかった。電線などを払い集めていくと、10円をくれた。コロッケが三個買えた。やがてクズ屋さんは差別的だとなり、廃品回収業になった。こんな話がある。ある街に二人のヤクザ者がいた。一人は一人のことをいつもは、○×さんと呼んでいた。ある夜、酒場で二人は出会った。さんづけで呼んでいた男は女性と一緒で酒に酔っていた。そこへ先輩格である男が舎弟たちを連れて入って来た。いつもはさんで読んでいた男が、女性の前でイキガッテ、オ~○×君と言った。“さん”が“君”に変わってしまった。その夜、その男は左腕を斬り落とされた。こんな話を幾度も見た。呼び方、呼び名には十分気をつけねばならない。私呼名は、神社の境内での出来事を思い出した。斬り落とした男は、その後、某私立大学の伝説の応援団長となった。空手をやっていてその応援の姿が見事で、各大学の応援団員が見本として見に来ていた。私呼名は先輩と言っていた。私呼名がお世話になっている。タクシーの運転手さん、新型コロナウィルスに気をつけてください。
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