私は「火口」である。火口といえば噴火口のこと。活火山であればいつかそこから爆発の火柱と噴煙、火砕流があふれ出す。活火山が現在であれば、休火山は過去。死火山はあの世といえる。金曜日から日曜日は気が滅入ることばかりであった。恩人、知人、友人から入る電話は、コロナウイルスの影響で気が晴れるものはない。ただ金曜日の夜、親愛なる兄弟分と久々に会い、男気健在、意気軒昂、流石のセンスと根性に惚れ直した。又、大きな借りができた。(その侠気に)二次会はなしで会食後家路についた。暗く、重く、辛いニュースを見てから、映画を見た。映画の友から、白石一文原作、荒井晴彦脚本・監督の「火口のふたり」がNO1というほど、いい作品だと聞いていた。で、その作品をまず見た。舞台は秋田県である。顔を黒い布で隠して踊る祭りの季節である。それは過去を隠しているとか(?) 結婚式をするために一人の女が帰省して来る。久々に出会った、三十代後半の男と女は、かつて恋人同士であった。男は子を一人持つが、浮気がバレて離婚していた。フリーターである。女は四十代になるまでに子を生みたいと思い、自衛官との結婚を控えている。(子宮を痛めている)二人は若い時から激しい肉体関係を持っていた。その行為の数々を自撮りして、アルバムとして残していた。男と女は女の相手があと5日後に、任務を終えて帰って来る。その後結婚式がある。それまでずっとSEXをしようと話す。私火口は女が大事に持っていた、冨士山の大きな火口を空撮した写真を、女が大事に持っているの見て、映画の題名(原作と同じ)の意味を知った。火口は女性であり、(暗闇のようなその中は子宮という宇宙である)男はそこに熱情を突き立てる。二人は五日間部屋で、走るバスの中で、ホテルで、露地裏で。キッチンで。風呂の中で、ひたすら性欲を爆発させる。だがこの映画は文学作品である。エロ映画ではない。現代版“愛のコリーダ”のようである。私火口は名優柄本明の息子、柄本佑と瀧内公美に賛辞を送る。すばらしい演技であった。二人共全裸で、人間の原点を演じる。タンタンメンを食べ、ギョーザやレバニライタメを食べ、ラーメンを食べ空腹を満たし、又、肉体を消費させる行為をする。きっと冨士山から火が出ていた頃、縄文人や弥生人たちは、生きるための労働をした後、食で腹を満たし、ひたすら子孫をのこすことに励んだのだろう。映画との違いは、男と女は働いていないことだ。私火口は見た。登場人物はほぼ主人公二人だけ、あとはエキストラの作品に、映画の原点を。新藤兼人監督の「裸の島」と同じだ。シナリオが抜群に良く、男と女とのからみの表現も抜群だった。さすがに荒井晴彦だけのことがあった。おススメの一作である。私火口はその後、黒澤明監督の「羅生門」三隅研二監督の「女系家族」という名作を見た。その後ネットフリックスで「汚れた真実」シリーズを見た。アメリカの銀行の腐敗、マレーシアの権力者の腐敗、コロンビアの麻薬王とそれに群がる人間たちの腐敗、チリの森林を伐採し、その地下鉱脈にある金を採出して、莫大な利益にと資金洗浄する、腐敗した人間たちを見た。私火口は思った。大自然を怒らせた人類は、きっとポンペイのように火山の大爆発のようなもので滅ぶのではと。新型コロナウイルスは人類を滅ぼすための、大自然からのメッセージではないかと。不要不急以外出るべからずを守るために、20時間位映画とドキュメンタリーシリーズを見た。「世界の麻薬王」シリーズは見応え十分であった。私火口は三月二十九日日曜日、冷たい雨、時々雪の日、これを書いている。午後三時四十分テレビの画面には、東京都内で最多の感染者が出たことを、テロップで流していた。義兄弟とは、ずっと活火山の関係でいたいと思った。
(文中敬称略)