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2015年6月23日火曜日

「裏も表も」



ある親分が書いた新刊本を読んだ。
正確にいえば元親分六十九歳、今は代を譲り堅気になっている。
過去に三冊自費出版しているのだが今度の本は有名な出版社から出されている。

題名は「ヤクザとシノギ」。シノギとは食べていく手段だ。
ヤクザ社会では引退し堅気になった人間は的にかけない(手を出してはならない)という決まりがある。あくまで正しいヤクザ(?)であればの話だが。
254頁の中に波瀾万丈の侠(オトコ)の人生がある。

読むと若い頃私が数年間勤務した一般会社社会と同じである。
上司への不信、上司への裏切り、仲間との出世争い。
利権の取り合い、人事への不満、金の貸し借り(バクチや賭けゴルフで)組織防衛(MAみたいなものから)これらはいつの世も会社人間が日々直面しているものだろう。
違いといえばヤクザ者が下手を打ったり、モメゴトの仲裁に失敗した時には指を詰めることだ。この本の書き手である元親分も三度指を詰めている。

一般社会ではそんなことはありえない。上司は部下を見捨てる、部下は上司を見限る。
チクリ(密告)と風を吹かせる(ネットなどにガセネタを流したり、針小棒大にする)ことに仕事を忘れる。ネットカフェに入り浸る会社人間はほぼこのことに熱中しているといっても過言ではない。会社とは社会の逆文字だから、正しいことの逆が多い。

あのバカヤロー仲間のみんなが心配しているのに裏切りやがって。
とんでもない反社会行為をしやがって。
久々にいつものグラスで飲む酒も悲しくまずい夜がある。

ヤクザ者の世界ではキッチリとけじめをつけるのだが一般社会ではケジメはファジー(曖昧)のまま終わることが多い。表社会を学ぶには裏社会を学ばねばならない。
元親分の本はその教科書となる。

高校とか大学の教科に「裏学科」を作るべきだと思っている。
暴対法でシノギが減った人々の仕事場が生まれる。
「裏学科」で、喧嘩道、博打道、女道&男道、人事道、裏切り&ケジメ道、シノギ道などを重点的に教えるのだ。

現在午前四時三分五十一秒、なにやら酔いが回ってしまった。
国会は長期延長、内閣支持率がついに30%台の危険水域に(朝日新聞調査)そして9月末まで大幅会期延長となった。かなりキナ臭くなってきた。
親分を裏切る者共がこぞってスタートラインに立ち始めた。
政界の一寸先は闇に向かって、もうすぐヨーイドンだ。

2015年6月22日月曜日

「三國連太郎の役は、三国連太郎」




「悪魔みたいな人間」という存在は多く知っている。
私も人から悪魔の如く思われている存在の一人だ。

さて、「善魔」という存在を知っていますか。
とにかく徹底的に善い人なのだ。
純粋で、純朴で、素直で、気高く、慈愛にあふれ情愛が噴出しまくるのだ。

こんな人がいるのかいないのかを描いた映画が木下恵介の「善魔」だ。
撮影は勿論名人、楠田浩之なのだ。1951年松竹の作品だ。
名優三國連太郎の新人第一作であり、若い新聞記者役である。
その記者役の名が三国連太郎でありその後その名を役者名とした記念すべき作品である。

六月二十一日朝4時頃から観た。
その前にアメリカの大学であった実話からインスパイアされた。
「神は死んだのか」を観た。無神論者の教授と有神論者の学生とのディベートだ。
聖書の言葉が次々と出る。

尊敬している友人の教授から送っていただいて以来、青い聖書を仕事場の座右の書としているので出るたびに少しずつ読み、少しずつ忘れてしまう。
私はいつまで経っても不出来なのだ。私にはイエスもノーもない。

さて「善魔」なのだが、劇中新聞社の上司である社会部長(森雅之)がこんな言葉をいう。世の中で素直ほど厄介なものはない。
悪魔は分かりやすいが、悪魔は分かりにくいと。

木下恵介は、大学時代に恋心を持った女性ですら冷徹にスクープの対象とする。
決して悪人ではないが現実的でしたたかな社会部長をより人間的に描く。
一方新人記者の三国連太郎はスクープの対象である女性の妹を徹底的に愛してしまう。
悲しいかなその妹は二十歳を前に病気で死んでしまう。
だが僕はどうしても結婚するんだといって、なんと処女のまま死んだ妹と結婚をする。
姉役(淡島千景)、父役(笠智衆)、妹役(桂木洋子)。

富士山が美しく見えるモノクロームな山の中、社会部長はその場を去って行く。
彼は官僚の力で出版局参与という閑職に追いやられるのだがそれを現実として受け入れて行く。善と悪、現実と非現実とを見事に描いていた。そして結婚とは何かを。
 ある人はいう、世に人に好かれたく善い人ぶっている者ほど始末の悪い人はいないと。
いざという時にいつだって沈黙する神こそ善い人ぶっている始末の悪いいちばんの存在だと(神がいればだが)。

六月二十日(日)早朝映画を見終わりそのまま少々時間をつぶした後、孫の野球の応援に行った。平塚の山の中にある日本トラック協会総合野球場、リーグ戦の第一戦、相手は横浜の港北から来たチームだ。
相手は23人、当方は13人。
00でむかえた最終回一点を取りそれを守り切って10で勝った。
雨の中応援するのは20人ほどのチーム関係者。
コーチや当番のお母さんたち以外では私一人のようであった。

私はどこへでも行く。
雨に濡れますからテントの中に入って下さいとお母さんたちにいわれた。
最終回に神はいたのかもしれない。

2015年6月19日金曜日

「藤井保さんと新良太さん、そして…」


藤井保氏「ぐんげんどう・経(たて)」より
新良太氏、井上嗣也氏の写真集より





天才的な作曲家がいる。
天才的な作詞家がいる。
天才的な編曲家がいる。
天才的な歌手が唄う。
だがヒット曲というのはここ数年アニメの主題歌位しかない。
才能がある人は音楽界にあふれるほどいるのに何故だろうか。

天才的な画家がいる、だが売れない。
天才的な陶芸家、天才的な彫刻家、天才的な書家。
だがみんな売れない。

銀座には数多くの画廊があり、個展やグループ展が催されているが、残念ながらこの一年一度も身震いするような作品に出会うことはない。

十数年前通称「通天」といわれる人の大作を見た衝撃はない(この時は心臓がバクバクした)。時間があると画廊を回るのだが、そこには工夫がなくいつも入りにくい。
どこかまったりとしている。いつか見たような、どこかで見たような作品ばかりが天才的(?)に描かれていたり作られている。
「性」がないからだろうか、「狂」がないからだろうか、「死」がないからだろうか。

先日二冊の写真集が送られて来た。
一冊は藤井保さんという広告写真の巨匠の作品である。
葛西薫さんとのコンビで数々の広告賞やデザイン賞を受けて有名だ。

ご自身の故郷島根の民話とか伝承の世界を独特の階調ある写真で語り継ぐ。
藤井保さんと北海道出身の葛西薫さんは階調が合うのではと思った。
作品で表現される色温や色感は生まれ育った地のものだからだ。
二人の作品にスカッ晴れの空はなく、真っ白い雲はなく、緑の大地はない。
だがいかなる絵画より心の深くに迫り来る。
クリエイティブディレクションは佐藤卓氏、デザインは林里佳子氏。
 素晴らしい写真集であった。

題は「ぐんげんどう・経(たて)」平凡社刊、本体5,000円である。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の世界を感じたい人にぜひおすすめしたい。
松葉大吉著の自分史も読める。

もう一冊には言葉を失った。
新良太氏の写真をグラフィックデザインの巨匠井上嗣也氏がアートディレクション&デザインをしている、と来れば常識はない。
月という存在がグラフィカルにデザイン化されている。
北海道で撮ったという太陽は原爆化されている。
未だかつて見たことのない写真集である。
哲学的であり、観念的であり、無邪気な遊戯でもある。
大判の写真集は売るためのものでなく、見てもらいたい人だけの限定であった。

藤井保さん、新良太さんの作品はきっと大きな評価を得ると確信する。
本当の天才は実にひっそりとしていることを改めて知った。
残念ながら絵画ではそんな人を味わっていない。
但し今私の手元には一人の天才的画家の絵がある。
友人からその発表を託されている。

六月十六日ある画廊のオーナーと打合せをした。
来年の三月に世に出すことを確認した。すでにイメージの中でセレクションをはじめた。話題を呼ぶであろうと思う。画廊の世界観とはまるで違う、スポーツマンのようにステキなオーナーも興奮(?)していた。ご期待されたし。

2015年6月18日木曜日

「浅間山と恋」




昭和二十一年製作といえば敗戦後直ぐにである。
「わが恋せし乙女」という70分ほどの映画だ。

監督は木下恵介、撮影は楠田浩之というやがて日本映画史上に名作を残す名コンビの出発点といっていい作品だ。私はこのところ木下恵介を研究中。
モノクロ作品で木下恵介と名人楠田浩之の絵を超える作品はないと思っているからだ。

映画の舞台は長野県浅間山を見上げる牧場だ。
その牧場には数十頭の牛と馬が放牧されている。その牧場の入口に赤ん坊が捨てられる。
母親は投身自殺をする。
牧場の夫婦は二人の男の子がいるがその赤ん坊を我が子として育てる。

やがてその赤ん坊は美しい娘となる。胸のボタンを一つ外すとすっかり大人っぽい。
白いスカートから見える両の足は躍動する。
体全体が快活であり笑顔はどこまでも無邪気だ。
やさしい兄を実の兄でないとは露ほど知らない。

村の青年たちは戦争から解放された自由を歌で、踊りで、祭りで満喫する。
娘は乗馬も楽しむ。兄はそんな妹を眩しくみつつ恋を感じる。

楠田浩之のカメラはロングで、真俯瞰で、クローズアップで移動車で自由奔放に撮る。
浅間山からは白い噴煙が上がっている。戦争のない日本はどこまでも美しい。

兄は母からもう本当のことをいってもいいよといわれその機会を待つ。
もう一人の兄は戦争に行って帰って来ていない。
今日こそと思った日、妹は好きな人がいるのと兄に相談する。
その相手は戦争で片足が不自由になった、年の離れた小学校の教師であった。
兄は二人が手をつないで牧場の側を歩く姿を丘の上から見る。そして…。

この先はTSUTAYAで借りて下さい。映画屋たちは戦争に負けてなかった。
さて、浅間山で噴火し始めたとニュースで報じられている。山は怒っているのだ。
戦争参加に突き進む愚かな者たちに。

この国は小松左京の日本沈没によると、浅間、白根、富士山が大噴火しやがて日本列島が消失する。難民となった日本人の少数はどこぞの国を走る列車の中に詰め込まれる。
何やらそんなストーリーがリアリティを持って来た。

2015年6月17日水曜日

「大関は横綱」




俗世の小説家などと違って本を売ることとか原稿料のこととか、印税がどーしたとか、あわよくば文学賞でもとかにまったく関心も興味もない。

魚料理が自慢のご主人とか、おでん屋のご主人、珈琲店のマスターたちが書いた小説やエッセーにこれぞ名文というのが多い。
誰の手も借りず欲がないから文章に汚れがない。青空のように澄み切っているのだ。
それらはお店の目立たないところにそっと置いてある。

私が住んでいる家の側に湘南工科大学(高校もある)がある。
その斜め前に「とんかつ大関」がある。これ以上はないというほど旨い。
一ヶ月半に一度位この店に行く。

人気があるのでいつも外で待つことになる、またはレジ前の空間で。
一階に五十人位、二階の座敷に五十人位が入れる。
入り口に大相撲の番付表が貼ってある。
長い間通っているのだがお店の名前はきっと大相撲好きだからと思い続けていた。

六月十四日(日)夜久々に行った。
おじさんは小柄でメガネをかけている。
頭髪をいつもキレイに手入れしてある。テキパキ度120%位でお客さんをさばいていく。
何しろ見事なのだ。

で、とんかつの話ではなくおじさんが名文家であることをはじめて知った。
よく相撲談義をしたりしていた。
その夜息子たち家族と行って、あ〜やっぱり大関のとんかつは最高だなと思いつつ二階から降り、レジにいたおじさんにごちそうさんでしたといいお勘定となった。
さて、帰るべしと思ったら、ちょっと、といって私の名前を呼んだ。

あいよどうしたと思っていたら、これをといってB4判の茶封筒を渡された。
いや〜いつも、いつかと思っていたのだが恥ずかしいからずっと控えていたんだがぜひ読んでよといった。
えっ、何!というと、オジサンが書き続けている湘南新聞のコラムや、江ノ電沿線新聞に書いているコラムだった。
へぇ〜すばらしいぜひ家に帰って読ませてもらいますよといって店を出た。

家に帰り四篇のコラムを読む。おじさんの名は「大関好司」さんであった。
昭和九年生まれであることを知った。
ということは八十歳か、私はずっと七十四・五歳位と思っていた。昭和三十五年に東京・田端で店を構えた後、神奈川・辻堂に来たことを知った。

コラムは六十一歳で亡くなった友人のこと(八百屋さん)。
辻堂の歴史、欲しい茶飲み友だちのこと。駅弁のこと(峠の釜めし)が実に清々しく書いてあった。とても嬉しくなった。おやじとんかつも旨いが、文章も上手いぞと思った。

とんかつの好きな人はぜひ一度食してほしい。
東京中のとんかつ屋さんで大関に勝てる店はないと断言できる。
日本とんかつ界の横綱だ。15002000円でキャベツ山盛り、豚汁、お新香二種付。
私の悪名をいえばきっと大関好司さんはコラムを渡してくれるはずだ。


「北野里沙さん」






六月十三日(土)午後四時十分〜六時三十分、大手町よみうりホールで「北野里沙」さんのコンサートに行った。

写真家の新良太さんと友人三人であった。読売新聞本社ビルはまるで超高級ホテルのようである。一階フロアにある電光掲示板に流れるニュースを見なければ誰も新聞社とは思わないであろう。長いエスカレーターの先にホールがある。

500席の客席はほとんど満員に近かった。お世話になっている広告代理店の社長から新宿の小さなライブハウスで存在を知らされてから三年近く経っている。
前回は渋谷であった。

F1レーサーの中野信治さんと久々にお会いした。
相変わらずカッコよくてステキだ。
二人で出羽三山の2500段近い石の階段を登った日を思い出した。

12日(金)恵比寿で世界スーパーフェザー級チャンピオンの内山高志選手の写真展のレセプションがあり、チャンピオンとお会いした。
よみうりホールにチャンピオンが来たのでご挨拶をした。
内山選手はスポーツマンのお手本のような人である。
品格、人格共、別格である。
内山選手はいつかこの国を正しく鍛え直す道に進んでほしいと願う。

北野里沙さんは国立音大出身、単身イタリアに渡り、一人で唄うストリートライブを行い続けたど根性のある美人アーティストだ。
メジャーデビューを遂に果たしたあとの第一回目のコンサートだ。

ゲストに吉武大地さん、平林龍さんという日本を代表する若きアーティスト。
オペラをそれぞれデュエットで唄った。クラシック出身なのでマイクはいらない。
とびきり歌唱力にすぐれていることを証明して見せた。
新しいジャンルの曲にも挑んでいた。「香港ナイト」という、とてもいい曲であった。
 
美しい歌声に“人生のザラツキ”が加わったとき更に進化をして行くと思う。
それには恋愛を重ね、挫折し、絶望し、傷を負わねばならない。
その傷口から流れる赤い血と、滴り落ちる泪が混ざり合い一筋の川の流れとなる。
その川に身を沈め、そして立ち上がり目を見開き、希望への思いを唄い出すとき。
傍若無人と自らいう魂に、未だ見ぬ世界が生まれて行くのだろう。

北野里沙さんのメジャーデビュー曲は、クラウンレコードから発売されている、「母からの手紙」。芸術とは負の術である。私はそう思っている。
何度も何度も絶望を経験した者だけがその為す術を身につけることができる。
一人の歌姫が誕生する影には、無償の愛の応援が静かにある。
私はこれを“影の光”といっている。

2015年6月12日金曜日

「鋭いね、木村草太」



防衛大学特任教授「森本敏」、民主党政権の元防衛大臣である。
特任教授なんて代物は肩書ほしさだけ。
一年の内に一度位どうでもいいことを話しているだけ。

今度の戦争法案がまるっきり法案の体を成していないのは一人の国家リーダー以外みんなわかっている。
それ故TV局が出たがり学者に連絡しても腰が痛いとか、頭が痛いとかいって断りを入れる。TVに出れば下手を打ってしまうからだ。

で、森本敏なのだが、あんたは一体何なのかねと思ってしまう。民主党政権でホイホイしてたが、政権が変わるとTVに出まくってペラペラしてた。
戦争法案が出ると無理筋の法案を正当化しようとTV局をハシゴする。いつの世もこんなスヤイ(安い)学者がいるもんだ。

こういう輩を“御用学者”という。
ある番組で「中谷元」防衛大臣とペアを組んで、今売り出し中の首都大学の准教授・憲法学者「木村草太」と小泉政権の元内閣副長官補「柳澤協二」のペアと論戦をした。
論戦といってもまるで論戦にならない。
木村、柳澤ペアの冷静且つ正しい指摘についていけない。
やられっ放し、何しろ国民の6080%が抜け穴だらけ、ツギハギだらけの法案に反対している。

官僚言葉でどうにでも拡大解釈が可能な作文をオウム返しするだけで、さすがに司会者も苦笑する。中谷大臣に至っては目が泳ぎまくって油汗をかいていた。
森本敏は懸命に自論をいうのだがひたすら恥をかくばかり。
若き憲法学者木村草太は鋭く看破していた。

一方的に成立させられると思っていた戦争法案(平和法案という人もいる)が日増したその行方が怪しくなって来た。
きっと強行採決をし、来年の参議院選挙は衆議院選挙と同時に行うだろう。
得意の戦法だ。これで信を得たというやり方だ。

森本敏は次はどっちにつくかをまた考えることとなる。
官僚にもなかなかの人物がいると思ったのは柳澤協二だ。
鷹の様な鋭い目で森本敏を圧倒する、この法案は駄目だと。

中谷元はディベート下手で有名、体はでかいがハートは小さいのでオロオロ感が際立ってしまう。中谷元防衛大臣の首にはすでに秋風が吹いている。
森本敏は性懲りもなくTVに出まくって恥の上塗りをしている。

それにしても木村草太という男は久々に出来る学者だ。
正宗の刀のように切れ味が鋭い。(文中敬称略)


「朝日は夕陽へ」




テメェ〜このヤロー白状シロ、テメェ〜このヤローと背負い投げ、一本背負い。
テメェ〜このヤローやったといえ、顔面を殴る、倒れたらボカスカ蹴飛ばす。
朝から晩まで繰り返す。

このヤロー他のヤローは白状したんだ、こうして冤罪は生まれていった。
しっかりとしたアリバイもある男が死刑を宣告され本当にやった男は無期となる。
まったく何もしてない三人の人間が十二年の刑となる。

無期になった男の単独による強盗殺人事件は警察の見立て違いであったがそれを認めるわけにはいかず犯人を作り上げる。前科が一つあったというのが原因であった。
一度悪いことをした奴は二度やる、三度やる、何度もやるという思い込みが冤罪を生んで来た。

主犯の男は嘘つきの典型であり、友だちに罪を被せた。
どうやっても五人の犯行でないのは分かっていたが、第一審、第二審の裁判所は警察と検事の見立てを正しいと判断した。


社会派の巨匠、今井正監督の「真昼の暗黒」という映画を観た。
おっかさんまだ最高裁があると面会室で叫ぶ無罪の男、若き弁護士は決意を秘めた顔でそれを見る。
「八海事件」をモデルにした名作である(最高裁でどうなったかはここでは描かれていない)。憲法や法律を裁判所が守ってくれるという保証はない。

政治という権力によって解釈が左右されるケースも多い。
憲法学者の90%が違憲だと判断しているのに、戦争に対する判断は政治家がするんだと、法を守る弁護士出身の政治家が声を大にして言っている。
完全なる自己否定といえる。

三人の憲法学者が政府に呼ばれて「違憲です」といった日、朝日、毎日新聞は一面を避けた。逃げたといってもいいだろう。
両紙はインテリ紙を自負しているが、いざという時は腰が砕ける。
冤罪を生む原因は新聞報道によることが多い。警察や政府の発表を裏付けもとらず誤報を流し続け読者を煽るのだ。

「八海事件」の時も新聞は誤報を書きまくった。
この事件は一人の公正な裁判官が法を守って結末する。
それまで20年近い月日が必要であった。

ジョージ・オーウェルは「伝えるべきことを伝えるのがジャーナリズム、そうでないのは、ただの広報だ」といった。私は朝日新聞の宅配をやめようと思っている。
朝日はすっかり落ちてゆく夕陽になっている。
一度でも警察で指紋をとられた人は、いつ冤罪に巻き込まれるかもしれない。
気をつけあれ。

2015年6月11日木曜日

「思い出の打ち直し」




私にも子どもだった頃がある。
一年中朝から晩まで働きに出ていた母親を手伝った日がある。
それは年中行事の一つで何より母親と一緒なのがうれしかった。

その一日は障子紙の張り替えの日、何枚も変色した障子を庭に出し、私は紙の部分を破り水でしっかりと紙を取る、母親はごはんの残りをブリキの洗面器に入れ水でもってそれを糊状にしていく。
私は障子を洗ったり、そこを持ってなさいとの言葉に従い障子の茶色い外枠の部分を持つ。母親は大きな刷毛で正方形の仕切り枠のところに糊を手際よくつける。
乾かない内に巻紙状になった障子紙を張っていく。
全部を貼り、霧吹きで障子紙に霧を吹き込むと1時間もすると真っ白になった一枚の障子が、陽を浴びてピーンと出来上がる。
これはどの家でもやっている季節の光景だった。

学校から帰ると縁側に薄茶色の膨らんだ袋がいくつか重なり並んで置いてある。
あっ、ふとんの打ち直しだ。ふとん屋さんに出しておいた傷んだ綿が生まれ返っていた。きっと今度の日曜日はふとんの作り直しだとよろこんだ。
大きく広げた木綿布のはしっこを持っていなさいといわれる。
母親は真っ白くなった綿を布の上に手際よく広げていく。
母親も私も日本手ぬぐいで口と鼻をふさいでいた。布を上手に引っくり返すのを手伝う。母親は四隅にしっかり綿を入れていく。
そしてふとん屋さんのように針と糸で重点ポイントを縫っていった。

どこの家のお母さんもこんなことをフツーに行っていた。
縫い上がったふとんを外に出し竹の棒で叩くのを手伝った。
母親との共同作業の日は忘れがたき思い出である。

いよいよ梅雨本番へ、シトシト、ジメジメとする。
ダニアレルゲン物質の登場となる。皮膚炎やアトピーなどにお悩みの方や汚いの大嫌い、キレイ大好きな方にぜひoluha(オルハ)ショップ(銀座一丁目キラリトギンザ3階)へのご来店をおすすめする。古くなった羽毛ふとんの生まれ変わりをおすすめする。
ぺったんこになったどこのメーカーの羽毛ふとんでも、ふんわり、ふっくらとした新品同様に再生してくれるはずだ。
夏の間に寝具のお手入れをするのは日本人のよき習慣なのだ。


六月二十日(土)oluha(オルハ)ショップで「寝具のお手入れのコツ」と「実は怖いダニアレルギー」をテーマに睡眠改善インストラクター國井修店長のセミナーがある。詳しくは03-5579-9710へ、ぜひご参加あれ。

また不定愁訴にお悩みの方、自律神経の不調などで快眠できない方はご相談してみて下され。私のような性根の悪い人間を打ち直すことは難しいが、古くなった羽毛ふとんは直すことができる。ダニと一緒に眠る生活はやめましょう。
イライラの多い生活はやめましょう。
枕を変えただけですごくスッキリ眠れたという人もずい分と多いようです。

正座をしたひざの上に新しい綿の入ったふとんをのせ太い縫い針で縫いながら、時々針を髪の毛に触れさせた、何をやってるのと聞くと、こうするとよく縫えるかえらといった。子どもにとって母親のちょっとした仕草が大切な思い出になる。

2015年6月9日火曜日

「過去という花びら」


「男はつらいよ」一作目


大好きだったNHK日曜日の「のど自慢」を二年近く見ていない。
大好きだった「なつかしのメロディ」も見ていない。
大好きだった演歌番組はずっと見ていない。
何故か見る気になれない。

少年の頃、あるヤクザ者にいわれた言葉がある。
「男は長生きと、ため息をつくんじゃない」と。
そのヤクザ者が死んだという話を聞いた。

中学時代の先輩だった。
その先輩のアパートの一室でNHKの「のど自慢」を一緒に見た日々がある。
渋谷になあ、すごい流しが居るらしいぞ、そんな話をした。
私の知っている流しは「上原げんと」の弟子であった。やはり渋谷の流しの話をした。

当時は三曲唄って100円だった。
流しの一流は400曲を覚えていなければ駄目だといっていた。
人間ジュークボックスなのだ。
お前ガキのくせしてやけに「のど自慢」とか演歌が好きだなといわれた。
そんなことはないよといった。ロックもフォークもモダンジャズも、クラシックもウェスタンも、津軽三味線も浪曲も民謡も好きであった。
小さなレコードプレイヤーにソノシートとかドーナツ盤でいろんな曲を聴いた。

渋谷で有名な流しの名は「北島三郎」だと聞いた。
目黒にあった野口進ボクシング教室(ジム)にキックボクシングの大スター沢村忠選手がいた。その沢村選手がかわいがっている歌手が抜群にうまいという話を聞いた。
真空飛び膝蹴りで無敗だった沢村選手がある夜TVスタジオ内につくったリングの上で、一人の歌手を紹介した。その名を「五木ひろし」といった。

私の仕事場の前に手焼きせんべいの「田吾作」という小さな店がある。
そこに行ったら沢村選手の色紙があった。
オヤジに何故と聞いたら時々いらっしゃるんですといった。穏やかな日々を送っているらしい。なんだかうれしかった。

大好きな歌手「ちあきなおみ」はどうしているかと時々想う。
美空ひばりと五分の勝負ができた歌手だ。
♪〜新宿二丁目裏通り・・・
もう一度ナマで聴きたいものだ。

いい歳になると過去という花びらがハラハラと降りて来る。
だからだろうか懐メロとか演歌を避けるようになったのは。

♪〜私のなみだも知らないで あの人は 何処へ何処へ行く どんなに冷たくされたって いいえ私はついて行く・・・西田佐知子の「灯りを消して」という曲だ。

思い出したくないあの日、荻窪にあったBAR「角笛」の有線放送から流れていた。
ヤバイ、すっかり長生きをし、ため息をついている。気合を入れてもう一勝負だ。
勝負はこれからだ。みんなはじめは無名だったのだ。

遂に渥美清主演の「泣いてたまるか」全2040話を見終わった。
最後の作品の題名は「男はつらい」脚本が若き山田洋次さんだった。
このあと「男はつらいよ」シリーズが生まれていった。

「カタクチイワシだって」




「五ろ引網」が地引き網を入れる。いわゆる観光網だ。
一網15万位だと聞いた。

六月七日(日)早朝に網をおろしたものをユンボでジワジワと引く、二本のロープをお客さんみんなで引く。辻堂海岸にいくつものテントが張られていた。
多くは地元の建設会社の社員家族慰労のためであった。
孫たちの野球のチームも参加していたので見に行った。

老若男女その数200人以上はいただろうか。
すでにビール、日本酒、ワイン、ウィスキー、焼酎、ジュース、コーラ、カルピスなど大騒ぎだ。漁師さんの数は六人だったと思う。天ぷらを揚げる漁師の奥さんたちが数人いた。

相模湾は魚の宝庫だったが今や魚がいない。
この日は特にいなかった。みんなでセーノ、セーノと引いた。
網を取りに海に漁師さんが入る、首まで入る。コラーしっかり引けと老漁師が怒鳴る。

みんな運動会の網引みたいに引っ張った。三十分位してやっと魚の入った網が見えて来た。ズッズ、ズーと砂浜を引きずられて膨らんだ網が現れた。
子どもたちはワァー、ワァーとよろこぶ。
漁師さんが水色のプラスチックの大きな桶を何個も用意する。

網を数人で持ちドバァーと出て来た魚は、カタクチイワシばかりであった。
シラスも少なかった。シラスはおばさんたちが釜茹でにする。
漁師さんが手際よく魚を分別する。
だが入っていたのはアジ一匹、小さなスズキ一匹、黒鯛の子が七匹だったと思う。あとトカゲを少し大きくしたようなサメの子が一匹であった。

かつてはアジ、カマス、サバ、イシモチ、キスや見たこともない珍魚がたくさん入っていた。海の上に黒いものがたくさん浮かんでいた。サーファーたちだ。
波はそれほど大きくないからじっとしている。

むかし有明海でみたムツゴロウの漁を思い出した。
ドロ海の上を細く長い板みたいなのを滑らせ、長い竿の先に付いたフックのような釣針でじっとしているムツゴロウをピッと一瞬で釣り上げる。あっとおどろくタメゴローのように、あっとおどろいたムツゴロウは時すでに遅しと釣り上げられる。

黒いサーファーたちが釣り上げられたという話は聞いたことはない。
カタクチイワシでもお頭つきの立派な魚である、みんなビニール袋や小さなバケツに入れてもらっていた。イモだかカボチャをおばさんたちが天ぷらにしていた。

先週はヨォ、カマスが4,50匹入ったんだがよ、と老漁師はいった。
私はカシャッと使い捨てカメラのシャッターを切った。

2015年6月8日月曜日

「日曜日に観た、ある日曜日」


※イメージです


六月七日、日曜日。
早朝地引き網を見る、深夜TSUTAYAから借りたDVDを観る、渥美清主演「泣いてたまるか」全20巻に挑戦して遂にあと4巻となった。全部観ると1800分近くだ。

いい人ばかりが出るドラマだったのだが第15巻「ある日曜日」にはじめて嫌な人間が出て来た。脚本は大巨匠となった「木下恵介」だった。

主人公は渥美清、市原悦子が演じる夫婦(一人の男の子、一人の女の子)。
結婚して十年になる家族であった。嫌な奴とは隣に住む夫婦の妻と、その居候の弟、妻の母親だ。50年ほど前の社宅、壁一枚で話は筒抜け、野心家の居候の弟は小説家志望で、渥美清家を二階からいつも見ている。

“ある日曜日”渥美清家はデパートに行くこととなり子どもたちは大喜び、妻もこの日はと一張羅の着物を来てお出かけとなった。
お隣の家に「すみませんちょっと横浜まで出かけますので留守をします、何ぶんよろしく」とご挨拶をします。
隣の妻と母(主人は養子で無言)は、なんだね横浜行くのがそんなに嬉しいのかねと嫌味をたっぷりという(当時は留守にする時お隣さんにひと言いっていた)。

事件はデパートで起きた。
買い物をしていた時、下の女の子(四歳位)がハンドバックを持って動きだしてしまった。母親はダメよ返してらっしゃいといって叱りバッグを持っていたら万引きと間違えられてしまったのです。その姿をお隣の居候に見られてしまいました。
居候はそれを姉や母にしゃべり、それを聞いていた子どもたちがご近所にふれて回ります。社宅みたいなところはそんな話はあっという間に広がってしまいます。

意気消沈した奥さんはダンナに私が無実だったことを説明して回ってと強くいいます。
人のよいダンナさんはそんなことをする必要はないよ、ちゃんと無実が証明されたのだから。母は四歳位の娘にきつく当たります。
あんたがバッグを持って動いてしまったからよと、娘は泣きじゃくります。

そんなシーンを隣の居候は「日曜日の悲劇」という題名の小説にして懸賞小説に応募して入選します。出版社がカメラを持って取材に来ます。
姉と母は魚屋から鯛を出前させて御祝いをします。
居候の彼女は人の不幸を本に書く男に嫌悪感を持ち別れの手紙をよこします。
渥美清の妻は悶々とします。

そして、その日ふとんに横になり下の娘とガス自殺を図ります。
上の男の子が学校から帰り、ぐったりしている母と妹を見て、大変だ、大変だとご近所に助けを求めて事なきをえたのです。

渥美清と市原悦子夫婦は故郷に引越をします。
渥美清は仕事があるので単身となり、アパートの一人住まいへと引越します。
お隣のご主人が申し訳ありませんでしたとお詫びに来ます。
柱時計を外し風呂敷に包んで渥美清は道をトボトボと歩いて行きます。
後姿に無念が浮かんでいます。

たった1つの誤解、子どもの無邪気な行為が大不幸を生んだのです。
そして噂の拡散。

現代社会はメールとかツイッターとか、ラインなどというものが人の大不幸を生んでいる。ちなみに居候役は「新克利」だった。
♪〜上を向いたらきりがない 下を向いたらあとがない 匙をなげるはまだまだはやい 五分の魂 泣いてたまるか・・・が渥美清の後姿にかぶり、遠くに横須賀線が走っていた。

かつてこの国には隣人同士“おすそ分け”などというあったかい習慣があった、私の家もお隣さんから時々おすそ分けをいただく、私はそんな時子どもの頃を思い出す。
隣のおばさんからもらった水戸納豆の味を思い出す。

2015年6月5日金曜日

「ああ、沼津行」




だから沼津行は嫌いなのです。
東京発2102分、ベルは鳴る鳴る、階段をオリャーコリャーと気合を入れて登りグリーン車に滑り込む。

車内はすでに満員状態であった。
チキショウめと思って探したら四席空いていた。
一席は女性らしくない女性なので辞め、一席はパソコンを叩いているのでやめ、一席はすでにビールのロング缶を二缶と、宝缶酎ハイを飲んでおり、お決まりのつま味を食べているのでやめ、で、残りの一席しかない。

後から三番目通路側、窓側のメガネをかけたおじさんはじっと目を閉じている。
とりあえず息を整える、新橋を過ぎた時、取り寄せてもらっていた松本清張の「山中鹿之介」を読むべしと思いバッグから出して読み始めた。
隣は沈思黙考、ぜひこのままでいて下さいと思っていた。 

56頁「泥子を討って、隆元の弔いをせよ」のところにいった時、おじさんの目がバチッとおっぴろがった。列車は田町辺りを過ぎていた。
足元にあったバッグを膝の上にのせてチャックを引いた、中にはワンカップ白鶴が、ウィスキー(サントリー角)のポケット瓶が二つ、駅弁(牛肉ど真ん中)、焼売、焼鳥、貝柱くん製、それと柿の種などが続々と出て来た。

出しては入れ、入れては出し、まずウィスキーをラッパ飲み、プーンとウィスキーの臭いが来た。続いて焼売の臭いが、続いて貝柱、もう山中鹿之介どころではない。
品川から川崎を過ぎたあたりでウィスキーは終り、次はプーンと日本酒の臭い。
いつの間にか靴を脱いでいた。ヤローいい加減にしろと思いつつ列車は走る。

おじさんは六十五・六だろうか、否七十二・三歳かもしれない。
おやっと思うと手にはスマホを持っている。
私はすでに活字を追う気力は臭いで失っている。目はおじさんのスマホ画面に、お、なんだ、指を広げたりつぼめたり、上にしたり、下にしたりしている画面には、若い女性の姿が何分割かにされていて夥しい数である。おじさんは時々その中の気に入ったもの(?)を拡大する。

日本酒を飲む、貝柱を口に入れる。次にいよいよ柿の種の袋をくわえて破った。
目、口、左手、右手を総動員、足はズルズルとした靴下、かゆいのか足で足をかく。
慣れない読書なんかするのがいけなかった。

山中鹿之介は58頁でやめて私はじっと目を閉じた。
忍の一字だ、怒っちゃダメだと言い聞かせる(果たして怒る権利は有るや無しや)。
二分前の湘南ライナー(21時丁度発)に乗っていたらこんな事にならなかったと思った。

列車はやっと横浜を過ぎたのであった。オッと空席が出ている、私はおじさんの隣の席を立ちいそいそと移動した。目の前の網の中に缶ビールの空缶と、夕刊フジと、いかくん製とチーかまの食べ残りの袋が入っていた。
確か女性らしからぬ女性が座っていたはずだと思った。

2015年6月4日木曜日

「役柄」



六月朝の雨は泪のように光っていた。
花弁をいっぱいにした薄青い紫陽花はまるでくすだまの様であった。
公園の片隅に咲いているくすだまたちを見ていて緑の葉っぱたちの方が美しいなと思った。不規則な木の部分が逞しいなと思った。
背の低い紫陽花の根の部分を見るとふてぶてしいように力強く見えた。
紫陽花は絵を描く人たちのよき題材であった。

その日久々に絵を描こうと思った。ノオトにスケッチを描いた。
私が紫陽花を描こうと思っているのは根の部分だけだった。
花弁は画一的でつまらないと思った。

根の部分には生きていくための必死が見えた。
根の下を掘って見てみたいと思った。
小さな子どもたちが遊ぶ公園の下には生き残っていくための根と根が無数に絡み合っているのだろう。

人間も同じだなと思った。
人にはそれぞれ役柄がある。土の下の根の役、土から出た木の役、そして咲く花の役だ。私が土の下にて乱れに乱れる根の脈になりたいと思うのはいうまでもない。
美は乱調にあるという。

2015年6月3日水曜日

「夢のポスター」




六月一日(土)ある用があってタクシーに乗り茅ヶ崎の産業道路を走っていた。
午後一時半頃だった。

腹がへったなメシでも食べるかと顔なじみの運転手さんにいった。
ハイ!食べますといった。産業道路にはこれといった店はない。

一軒の和定食屋さんがあった。中に入るとかなり広い、メニューはやたらに多い。
きっと私が憧れるガテン系の人たちが来るのだろう。
私と運転手さんはいろり形になったテーブルの角と角に座った。

私はつけとろそばを、運転手さんは体が大きいのでもりそばとヒレカツ刺身定食を頼んだ。店内にはむかしのビールのポスターや映画のポスターが貼られていた。
店の女性になんでと聞いたら、先代が好きで貼ったようですよといった。

あっ、私は二枚のポスターに目をやった。
3判を立て2分の1にした日活のポスターだった。いずれも主役は石原裕次郎さんだ。一枚はな、なんと「天下を取る」一枚は石原裕次郎原作「あじさいの歌」だった。
共演は芦川いずみであった。

店の女性に知ってる、今大ブレーク中の藤竜也の奥さんだよといったら、そうですか知らなかったといった。タクシーの運転手さんが「天下を取る」なんて本当にあった映画なんですねといった。

それにしてもまるで夢を見ているようだった。
ほしいなあ、あのポスターがと思った。時間をつくってまた行こうと思っている。
なんとかして手に入れたいものだ。車の中でふとこんなことを思い出した。

あるテレビ番組の人気コーナー“食わず嫌い”で石原裕次郎さんの後継者、渡哲也さんが食う奴の気が知れない、大嫌いですといっていたのが「とろろ」だった。
マズかったなツキが落ちる、他のを食べればよかったと思ったが、時すでに遅しだった。とろろそばは決してまずくなく期待以上に旨かった。

2015年6月2日火曜日

「芸術と技術」






その女性は一〇三歳になっても若返っていく。
墨の芸術家「篠田桃江」さんだ。

書道からはじまり書道を否定した。
書であって書にあらず、大きな硯が生み出す黒色、血管が浮き出た細くしなやかな腕と指がゆっくりゆっくり動くと、千色、万色の黒のグラデーションが生み出される。
硯の上に滴る水の量、硯の持つ個性、墨を持つ力の加減がそれを生み出す。

自分の腕と一体になるように特別に作った筆はとても長い、筆先もだらりと長い。
このだらりが墨を吸い込み書き手と意志を通じ合い金箔、銀箔、和紙の上をまるで蛇がうねるように動き、時に図太く、時に荒々しく、時に細々とそしてさらに極細の線、を生む。また自在の面形を生む。

篠田桃江の世界は妖しい黒から白への無数の階調の世界だ。
「生きている限り、前とは別のものができる」という、昨日と今日は違う。
篠田桃江の人生は「わがまま」を貫き通すことであった。

「お手本通りにすることくらい朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること、アートはまねしたものは偽物です」朝日新聞、著者に会いたいのインタビューに応えていた。

私はNHK ETVのドキュメンタリー番組で見た。
映画監督篠田正浩は従兄弟である。この女性は強烈だ、自分を確信しながらも日々自己を徹底的に研磨する。妖気ただよう美しさがある。近寄りがたいリリシズムがある。
能楽の小面(こおもて)のように、表情があって表情がない、妥協を許さないでくるときっとこうなるという表情だ。究極の抽象画家といえるだろう。

黒い闇の中でバッサリ人に斬られた時、飛び出す赤い血のように時として赤色が黒色を灰色を刺すのだ。芸術とは人のやらないことをやる、それを貫いている篠田桃江はその鏡だろう。何しろ歳を重ねるごとに若々しくなるのだから。
どんなに上手く描いてもそれは技術に過ぎない。これは全ての芸術にいえるだろう。
(文中敬称略)