岩城宏之さんという指揮者が亡くなって四年になる。
亡くなる前だったと思うがその年の暮れにベートーベンの第九を約十時間位にわたって指揮をした。第一、第二、第三と進めながら控え室で酸素ボンベから酸素補給をし続けていた。命懸けであったのだ。
そしていよいよ第九、合唱付き「歓喜の歌」だ。人みな歓喜を迎えよとクライマックスとなる。
その岩城宏之さんがある人との対談で子供達からオーケストラの指揮者って何でいるんですかと聞かれて言葉を失ったという。
私も実はある年までそう思って来た。沢山演奏者が居るが誰も見てないし、例え居なくても問題ないんじゃないのと思っていたのだ。
指揮者が変われば同じ曲も全然違ってしまうという意味が分かっていなかった。
指揮者が作曲の中にある心をどう理解するかでオーケストラの演奏は一変する。仮に100人の演奏者の内一人の奏者が音を外すと指揮者は直ぐに分かる絶対音感を持つ。
リハーサル中その人を指さす、外しちゃ駄目よと。バーンとシンバルを鳴らすと違う違うそんなに強く叩いちゃ駄目、何故なら戦いに破れた様な気持ちなんだからと。
もっと静かに部屋の中に幽霊が忍び込む様にだよ、人の心の妖しさなんだから等々ひとつひとつの音符を指揮者なりに理解、発展、進化、変化させたり、新しい解釈を加えたりするのだと知った。
奥村土牛の富士 |
富士山を100人描いたら100人違うのと同じだ。奥村土牛の富士、横山大観の富士、梅原龍三郎の富士、中川一政の富士、片岡球子の富士それぞれ全く違う。
私も富士をよく描く。自分の富士が一番だと不届きにも思っている。
片岡球子の富士 |
食道癌を手術した小澤征爾がNYカーネギーホールで40分間ブラームスの交響曲第一番をサイトウキネンオーケストラで指揮した。
その姿に死を覚悟した武士の姿を感じた、テレビのニュースを見て涙が止まらなかった。
丁度知人から頂いた「魚久」の京粕漬けの鮭とイカを食べていた。大好物の上手さに涙も出たがしばしテレビに釘付けとなった。
目の前の愚妻はあなた泣いてんの?WHY何故?みたいな顔をして無言で箸をすすめていた。「感動を知らない奴」だなというと何でも感動しすぎよとつれなく言い放った。
ついさっきまで魚久は最高だ最高だといって感動してたじゃない。
無礼者、粕漬けと小澤征爾を一緒にすんなこのボケカスと言って会話はお終い。
生きる目的を持っている人間の凄さを世界は見た。サザンオールスターズの桑田佳祐が再起したらもう涙の大洪水となるかもしれない。深夜一人桑田さんの一人紅白歌合戦のDVDを観る事とする。一人で何と紅白に出る全員の歌を唄った三時間以上のDVDだ。
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