ならば永田屋は何を売るかといえば嘘八百と裏切りと寝返りを主に政治を売る。
国民のみんながこんな大変な国難の時に永田屋は何をやっているんだと怒るが、そこがこの国民のおめでたい処だと思う。決して怒り続けない。
何故なら電機メーカーはこんな時でも新商品を生む事を考え、お菓子メーカー、ゲームメーカー、飲料メーカー、食品メーカーも自動車メーカーも然りである。
政治メーカーは政局を作るのである、それが仕事であるからなのだ。
大化の改新以来政治とは権力闘争であり人間と人間の習性のぶつかり合う当然の姿なのである。
スポーツにはルールがありそれを犯せば反則となり、失格となり出場停止などのペナルティがある。
しかし政争にはルールも信義も筋道も仁義もない。
あるのはただ権力と利権の中心に近づく為に手段を選ばない何でも有りの世界なのだ。
ケンカにルールはない、刃物を使おうが拳銃を使おうが丸太を使おうが木刀やチェーンを使おうが勝てばいいのだから。ケンカにキレイも汚いも無い。
日本人は政治のリアルな姿、権力闘争という人間の習性をもっと知って貰う必要がある。
様々な会社内でも一年中権力争いをしている。自分達の隣で人間がどんな悲惨な目にあっていても、自分が部長になるか局
長になるかはたまた誰が役員や社長になるかの方が関心が高いのである。
そのために組織の中には永田屋人間もいれば技術屋的人間や営業屋的人間、総務や広報的人間がいる。
誰が創ったかしらないがこの人間という生き物は極めて非情であり無情であり薄情かつ無原則で厄介な生き物なのだ。
永田屋の若ダンナ後藤田正純なる男が六本木のバーで女性の乳を揉みディープキスを重ね、あろう事か議員宿舎に女性を泊めている。本来なら鋭く政治を断罪しなければならない大新聞や大マスコミの中心人物は官邸費による接待漬けで古漬けの漬物の如しとなっている。
真面目に取材し記事にした勇気あるスクープは上層部に握り潰されてしまう。
「やってられねー」とわめいたのは福島原発の吉田さんという骨のある所長だ。
水野真紀さんという女優がいる、古い話だが二度一緒にイタリアにロケに行ったことがある。イタリア人とフレンチキスをするシーンがあったが気持ちよく?引き受けてくれたとてもいい性格のいい女優さんであった。そのダンナが六本木でベタベタしている。
「気持ち悪い、もうやってられない」といっている姿が目に浮かぶ。
美人が本気で怒ると恐い。この世は「やってられね〜」が多いが生き抜くためにやる事はやらねばならないのだ。生きていくためにはそれぞれの分野でそれぞれのやり方で目の前の相手の器量と度量と人間的センスと生き様を見抜く力を持たねばならない。花のお江戸は嘘八百八町だから。
被災地の映像風景にある芥川賞作家が(私はファンです)哲学的、宗教的、教育的、極めて難解な文学的言葉をつけていたが何か虚しくミスマッチだ。所詮は「言の葉」でしかないのだろう。
映像があまりに凄絶過ぎてさすがの大作家のボキャブラリーも追い付いていかない。
ここに一つのおにぎりがある。ずっと仲良い友達、知人、先輩の四人がいる。もう何日も空腹に耐えている。そして遂に一つのおにぎりに対して血みどろの争いが始まる。そこにはルールも何もない。最後には人が人を食う「ヒカリゴケ」の世界それが人の世なのだ。人間は動物だから。
さて誰が生き残るのか。
五味川純平の「人間の条件」と同じ状況なのだ。大岡昇平の「野火」もまた同じだ。
永遠のテーマなのだ「人間と空腹」は。
自分は何を売りにするかをよく考えたくましくないと生き残ってはいけない。
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