“物書き風情”に惚れやがって出て行け、家を出て行け、お前なんか俺の娘じゃない、とっとと出て行け。
なんて親から嫌われた職業が、物書き風情といわれた自称小説家だった。
小説ではメシは食べて行けない時代(今でもそうだが)文学少女たちに、ややこし文学論をショパンとかモーツァルトの流れる薄暗い珈琲店で延々と語り続ける。
キミに分かるかな、今ボクがどれほど文学に悩みもがき苦しんでいるか、いかに生活が困窮しているか、あーボクはもう駄目だ、ボクは生きている価値がない。
ボクと死んでくれ、なんて新派の劇みたいに演じる。
純情な文学少女はそんな男に、出来ることならなんでもする、お金ならきっと何とかする、なんていってついには身を滅ぼしていく。
物書きはヒモみたいなのが殆どだった。
それでも必死に小説を書き出版社に持っていったり、編集長に送る。
その結果99.9%がボツですという返事を受ける(返事すら来ない場合も多い)。
0.01%に選ばれた小説は編集者によって朱を入れられて、真っ赤っ赤、空の雲みたい原稿は真っ赤になる。原型をとどめない。
これじゃボクの書いた小説じゃないと叫ぶも、編集者はいう、キミねえ、本気で書いているの、この程度で世の中に出して売れると思ってんの、主人公の存在感が日常的すぎるんだよ。
文句あんなら一から書き直して見なさいよ、持って帰ってよく考えてよなんていわれる。
チキショーバカにしやがって、あんな奴にボクの(あるいはオレの)小説が分かるかと安酒を煽ってクダを巻く。
かつての文学少女は厚化粧の女となり、これからよ頑張って、私も頑張るからと物書きに尽くす。小説家は100%編集者によって作られていく(自費出版以外は)。
画家は画商によって見い出されなければ路上で売るしかない。ヘビー級チャンピオンはマフィアが生み出すといわれている。
お笑い芸人さんが書いた作品「火花」が芥川賞の候補作になった。
私は立ち読みでパラパラとめくったが、こりゃ駄目だと思ってしまった。
世にはいい小説を書くが残念ながら世に出れない物書きがいる、いい編集者との出会いがないために。そんな物書きの影に、必死に尽くす女性がいる。
小説はかつては文学作品といわれたが今では“文学製品”となっている。
私もそんな製品を恥知らずに出している。全然売れていないのでほっとしている。
お笑い芸人の作品が芥川賞を受賞することを願っている。
その次の作品をじっくりと読ませてもらう。
佐藤泰志というすばらしい作品を書いた北海道の小説家は、芥川賞の候補に四度なりながら受賞出来ず、やがて自ら命を断った。
太宰治はなんとか芥川賞を下さいと審査委員に手紙を送った。
その頃は芥川賞に文学的価値があった。いい小説ははじめの一行で決まる。
ちなみに文学少女に年代の決まりはありません。
文学を愛する女性は等しく文学少女なのです(?)
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