現代社会の発展(?)の楚であるアダム・スミスは、「神の見えざる手」を論じたがSNS社会を予言していなかった。マーシャル・マクルーハンの方が遥かに予言していた。先週末土曜日から月曜日午前四時にかけて、11本の映画を借りて来て見た。3本は大いに裏切られ、2本は予想通り裏切られた。残った6本の中に、カンヌのパルムドール(最高賞)を受賞した「万引家族」があった。友人がプロデューサーとして参加している「スマホを落としただけなのに」。これは怖かった。友人とは星野秀樹氏。久々にスマッシュヒットを生んだ。万年映画青年である。外国人から見た三船敏郎のドキュメンタリー映画が良かった。ナレーターはキアヌ・リーブスであった。かつて人が眠っている間に働いている店は潰れないと言われていた。お豆腐屋さん、パン屋さん、新聞配達所、牛乳屋さん、などである。先週近所に住む義弟、七十一歳のパン職人が家の周りが工事中でクルマを入れられず、夕方から夜中の1時まで眠りに来た。義弟は目覚まし時計を1時にセットし、愚妻の作った手料理を食べて熟睡した。お礼にと、売れ残りのパンをサンタクロースの袋のようにして持って来た。家中にパンの山ができた。パンは粗利がよく特にバケットは儲かるのだと、しかし24時間営業のスーパーやコンビニの出店ラッシュで、全然売れなくなった。パン職人の労働時間は毎日14時間だ。義弟はまるで煮干しのように、脂気がなく痩せ細っていた。だがプロの職人魂は健在で、おいしいパンのために働き続ける。「万引家族」は、出色の作品であった。安藤サクラとリリー・フランキーは特筆すべき演技力であった。この物語も24時間営業のスーパーやコンビニが生んだ悲喜劇である。万引き行為はその中で生まれた。家という入れ物の中にいるのが〝真の家族〟とは言えない、ずっと前〝山岸会〟なるものがあって、家族でない家族が共同生活をしていた。(現在もどこかにあるらしい)自給自足が原則だったから、万引きはしない。したとしたら家族という厄介な関係を万引きしたようなものである。アダム・スミスは資本主義の進化を語ったが、「家族の資本」というものが、やがて家族主義を破壊することは、予知していなかった。「スマホを落としただけなのに」は、一個のスマホを落とし忘れ、それを拾った者が異常なハッカー(?)スマホの万引き屋であった。異常が生むのは当然大異常であり、その人の過去、周辺の知人、友人の過去を全て手に入れてしまう。「家族の資本」である。SNS社会が人間の心身を異常にして行った。バーチャルの中でこそ自分の存在があつた。(孤独な凶器を生んだ)ヒットゲームを生む天才プログラマーは30歳〜45歳前後にその仕事を離れ、多くはその世界に戻らないという。人間の頭脳は前頭葉の退化によって、認知症を生む、物事を考えなくなった人間はやがてアルツハイマーのようになり、記憶が定かでなくなる。「殺人者の記憶法」という韓国映画を見たが、自分がいつまで自分で何人殺したか、今も人を殺しているのに、自分が誰だか分からない。正常なのに異常を演じていた映画「カッコーの巣の上で」主人公ジャック・ニコルソンは、前頭葉を手術で切り取られてしまい、本当の異常にされる。さて我々は、本当は誰なのか、これから何をしでかすのか、記憶法を見つけねばならない。権力者は貯め込んだ財産を失う恐怖に慄き自己分裂をする。一族が争うシェークスピアの「リア王」のようになる。400字のリングは本日より休筆する。10日間×24時間、つまり240時間を有意義に使いたいと思っている。最後に「三船敏郎」は、日本映画界が生んだ最大の役者である。あの黒澤明監督も三船敏郎には、演技を付けなかったという。何故なら、ミフネはクロサワを超越していたのだ。ふたりは二人でこその存在だった。三船敏郎は黒澤明の映画以外では、ただの役者であり、黒沢明監督も三船敏郎と別れてからの作品は、絶対的な精彩を欠いた。ファインダーを覗きながら、あ〜三船だったらと思い続け鬱状態となってしまった。人がヒトを必要とする時代に戻りたい。人間が今より人間的であった。皆さん良い連休を。いい映画を見てください。(文中敬称略)
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