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2011年1月18日火曜日

湘南の嵐便り 「一兵卒」


軍隊でいうと一兵卒とは二等兵である。
その二等兵が党代表、党幹事長即ち軍の親玉と参謀総長が何のケジメも付けない。

又、全ての軍幹部が敬語を使う「お」がつくのである、「ご」がつくのである。おっしゃって、ご自身で、ご判断を、御自らとなる。民主軍は完全な壊滅である。又、野党は国会へ国会へといい世論を操作する。立法と司法の役割がまるで分かっていない。

例えば小沢一郎なる者を国会証人に引っ張り出してもその件は司法で語る内容でお応え出来ませんと連発するだろう。そのむかし記憶にありませんで突き通したのと同じである。
かつて田中角栄は三木武夫に比べたら福田や大平はセーラー服を着た女子高生だと言い放った。
田中角栄氏※HPより
三木武夫氏※HPより
 田中の生涯で一番手強かったのがバルカン政治家三木武夫であった。米国と協力して三木武夫は田中角栄を拘置所に送った。政争とはこういう激しいものなのだ。


何の物的証拠もない事件、とんでもない嘘つき、水谷建設のいう事に何の信憑性もない。三権分立をしっかりしないとこれからとんでもない事になる。例えば今政治とカネで問題を起こしている小沢元代表は国会で証人として出るべきでしょうかと聞けば、余程三権分立を知らない人は答えとして国会に出るべきと答えるだろう。大マスコミの世論調査ほど恐いものはない。行き着くところ大マスコミ優先主義、米国服従主義、日本全土基地化、日本金ヅル主義である。

何も私は小沢一郎を弁護する気は毛一本もない。
ただ三権分立をしっかり守れ。かつての軍国主義に走るなと声を大にしていいたいのだ。

マッカーサー元師※HPより

この国は完全に滅亡に向かっているのは間違いない。かつて占領国のアメリカ(GHQ)は日本人は一生懸命よく働く、だから米国のファクトリー(工場)にしよう。そのためには一血一族の象徴である天皇陛下を殺すわけにはいかないとマッカーサーは判断した。


小沢一郎が国会に出て来てひたすら何やらやましい事はないと連発したら今の政治家の中で五分で戦える人はいないであろう。小沢一郎は自分の値打ちをしっかり計っている。(小心だが)
大勝負を賭けるとき、一気に勝負に出て来るであろう。その全ては米国が握っている。
どっちが得か損か、戦争資本主義の米国はしたたかに値踏みをしている。

ただ今の民主党はホトホト稼ぎの悪い奴等だと決めている。
それ故にTPPへの参加を協力に命令して来ている。

毒を盛って毒を制す?

もはや政界再編しかない。毒を盛って毒を制すともいう。
ドイツを始めEU諸国は連立が当たり前である。
やがて日本はもっと仕分けされる。日本の銀行や郵政、通信、弁護士、流通の様に。

日本は永遠に占領国なのだ。

ミズリー号調印※HPより

2011年1月17日月曜日

湘南の嵐便り 「再生のヒント」


気の使い過ぎだから病気になったりするんですよと云われる事がある。
気を使う、気を使わない。この問題は渦巻く鳴門海峡の様に険しい。

人間と人間の関係は「人の間」という位気使いで成り立っている。
使い過ぎれば先方に負担をかけるし気を使わなければ人の道が分からない奴だという事になる。


私は気を使うことによって自らの心にケジメがつき、気を使わなければ寝付きが悪い。
だったら自らのケジメをつけて少しでも寝付きのいい方を選ぶ事にしている。
気が利かない奴だといわれるよりは、よく気を回してくれる人といわれている方が楽な性格なのである。何かをしたら何かがきっと返って来る、こんな邪悪な気持ちは必ず相手にも分かってしまう。実は世の中は永遠なる義と理の間で成り立っている。


まだまだ子供だと思っていた親戚の子から、もしもしオジサン○×です春から大学一年生です、お年玉ありがとうございました。なんて男っぽい声を聞くと嬉しいものだ。そ
うか大学生か楽しみだなと思いを馳せる事ができる。

少し心を病んでいる友人の娘さんにちょっとしたネックレスとピアスを送ってあげたらとてもご丁寧な手紙を貰った。すごく嬉しいですと書いてあった。お世辞でも嬉しいものだ。
難病で何年も家から出れない人に下手な絵を送ったら震える字で元気が出ましたと書いて来てくれた。


私の事を気を使い過ぎという人もいれば、よく気を使ってくれる人だという人もいる。私はこれからこの国を再生して行くには先ず家族愛、そして隣人愛、そして地域愛、そして故里愛つまりは遠い昔の良き村社会の在り方を見本にするしかないと思っている。




かつて白樺派の武者小路実篤達が作った「新しき村」の様な理想の追求である。

鹿児島に「柳谷」という小さな300人程の集落が一人のリーダーの熱意によって笑顔の絶えない集落として再生した。「やねだん」というその集落は「奇跡の村」として今世界でも注目されている。
勿論日本各地の首長達がリーダーの主宰する創世塾という処に学習に来ている。胃癌を手術した時残りの人生を何に使うか悩んだ末にリーダーはこの集落の再生にかけた。このドキュメントをある日曜の深夜観た時私は泣いた。

※やねだんHPより


そうか、これが本当の気使いなんだと確信したからだ。
人間は人間によって再生できる。ケチな権力争いなんかは無い。
人に会ったら挨拶をする、困った人がいたら助け合う、荒地や雑木林はみんなで畑にする。

みんなで作った迎賓館※やねだんHPより


やねだんブランド焼酎※HPより



この「みんなで」というのが基本テーマだ。かつての日本人はみんなで問題を背負いみんなで考え、みんなで解決していった。自分だけが、自分の家だけがよければいい、隣なんて誰が居るのか分からないのだから関係ない。なるべく関わりたくない回覧板さえ回せばいい。
笑い声の聞こえない関係はこうして増殖化してしまったのだ。

※やねだんHPより

気使いの使い方を学び直そうではないかニッポン人。
時間は掛かるがこれしかないと私は思っている。年を取ったせいであろうか。
近々鹿児島の柳谷に行こうと思っている、一学生として。

先日、元資産家で有名だった二人の中年姉妹がマンションで亡くなっていた。
一人はなんと栄養失調でありお腹は空っぽ、所持金は90円であったというではないか。






やねだんホームページ

やねだんの概要記事

2011年1月12日水曜日

湘南の嵐便り 「正月に想う」


正月観たテレビは主に箱根駅伝とラグビーだけであった。
勿論ニュースは見たがこれは楽しむためのものではない。今やテレビはその役目を終えようとしている。本格的地デジ化となるとただの電視箱となる。


どのチャンネルをだしてもまとめてドンみたいにお笑いやオカマやニューハーフやフグの巨大化した男だか女だか分からない生き物がペリカンの膨らんだ口、顎袋みたいな顔から毒を出す。バラエティという名の異様な番組。


もう馬鹿を通り越して大馬鹿になるように仕掛けられたチンドン屋さんには失礼だが(この人達は立派な芸人)家の中に土足で入り込んで来たチンドン屋系の悲しくも哀れな芸人の集団である。

世の中はネット帝国という見えない帝国に確実に犯されている。
そしてこの帝国は決して滅亡する事のない世界史上初の帝国である。歴史は創った者によって滅びるという格言が正しければ間違いなく人間社会、地球社会はネット帝国によって滅亡させられる。誰も信じられない、何も信じられない。

かつてピーター・ドラッカーが云った「断絶の時代」が変形して形となってしまった。
恐ろしい社会の中に我々は入った。テーマパークのお化け屋敷の何十倍も恐い社会だ。汝隣人を愛せではなく、汝隣人を疑えなのだ。


そして巨大な隣国中国は日本中の山と水を買い占め始めている。見えない処で動いている社会の現実。それはテレビ、新聞等で見られ読まれている世界と情報ギャップは大きく恐怖を通り越して処刑を待つ死刑囚の如くである。

※写真はイメージです
徹夜して福袋を買うために行列して飛びつくオバサン達を見るといよいよこの国の終わりを感じる。元々20004000円のカニを10000円位に値付けして、さあ2000円だ持ってけドロボーみたいに売り込む人間達。分かっちゃいるけど止められない人間。


で、まあ、そんなこんなうんざりしあきれ返りながらTSUTAYAに行って鬼平犯科帳をごっそり借りて来てずっと観ていた。このドラマには一話ずつ教えがある、人情がある、食がある。善と悪に対する意志がある、物事に対するケジメがある。


私はこれからの社会は「逆化」すると思っている。「男と女」「善と悪」「高と安」「大と小」「旧と新」「街と村」「富と貧」「強と弱」「常識と非常識」すべてが逆化し始めるだろう。既に「テレビとネット」は逆化した。「男と女」も逆化した。値下げ競争をしている企業は滅び始める。新たな「逆化価値社会」が生まれ始める。

かつて栄華を極めたカタカナ産業はワーキングプアとなり、医者になるなら歯医者が一番といわれた歯科医は続々と医院を閉めている。信じられない「歯医者復活戦」である。

(※ちなみに私が通院している銀座鳩居堂裏の「深水歯科」は先生もスタッフも最高でオススメです)


「小児科」も同じである。中でもジゴロ的ジャーナリスト、たかり的ジャーナリストなどはネット帝国の出現でただのスケこましとなり果てている。


新しき年、まず一人一人が自分を見直すしかない。
自分のオナラは人のお尻からは決して出ないのだから。

2011年1月11日火曜日

湘南の嵐便り 「つもり人間」


新年明けましておめでとうございます。本年もこのブログを宜しくお願いいたします。


賀状を出すつもりだった、ちゃんと作るつもりだった、御礼をするつもりだった、お詫びするつもりだった、読むつもりだった、見にいくつもりだった、手紙を出すつもりだった、お見舞に行くつもりだった、会いに行くつもりだった、励ますつもりだった。

世の中大概の人はつもりだった人間だ(私も勿論そうだが)。

水嶋ヒロ(本名齊藤智裕)がポプラ社の大賞を獲り、賞金2000万円を辞退した。
いいではないか、何か文句あるのかといいたい。書くつもりだったのを実行した事が素晴らしい。100万部売れている、素晴らしいではないか。



ゴーストライターがいるのではとか編集者が書いたのではとかやかましい。
今、世の中に出ている新人作家なんて出版社に持って行けばみんなボツ。ちょっと面白いぞと編集者が見抜けば(氏素姓、人生の歩き方に対して等だが)後は編集者が段取りをつけ書き手を用意してくれる。本人の書いた元の原稿なんて真っ赤っか、空の雲の上の様に朱が入り元の原稿がほぼなくなる。誰でも始めは新人である。


ただ優秀な編集者?がたった一行に、わずかな状況描写に、人物や人生や死生観や体験に興味を示すモノがあればいいのだ。だからモノ書きになりたいという志を持ったらまず「書くつもり」ではなく恥を承知で書いて書いて恥をかいてかきまくるのだ。

猿のなんとかみたいに頭がボー然となり思考回路が変わり果てる迄、指にタコが出来るまで書きまくる。何もしない者共は批判ばかりする野次馬、暇人達だ。
せいぜいテレビの前にかじりつきお茶を飲みながら煎餅などをかじり、お尻をぼりぼり掻きまくっている。私だって書けるわとか、下手くそだなどうせ誰かが書いたのだろう俺だって書けば書けるさなんて言う「カゲロウ」の様な人間達なのだ。


文藝評論家ほど(なんとなく小林秀雄、江藤淳、奥野健男あたりは別として)いい加減な連中はいない、斜め読みで終わり。出版社から概要をFAXかなんかで送ってもらってから読むだけ。で。出版社書評は褒めるのけなすのなんて指示を受ける。
モノ書きになれなかった「つもり人間」の成りの果てだ。


本なんて読んだ人が面白いと思えば面白い、つまらないといえばつまらない。ためになったし少し物知りになった。若い女性と恋愛したくなった。
古女房(駄目亭主)でも今夜はするか、そんな思いを読者が持ってくれればそれでいいのだ。難解な本は難解な人に読んでもらってしまう事だ。


誰だって小説家になれるのだ。書くつもりでなく一行でも二行でも書けばいいのだ。
水嶋ヒロがあんまりカッコよすぎてジェラシーを感じている悲しき人々よ、今日からせめて日記に一行でも書きなさい。ずっと続ければ積もり積もって立派な本が生まれるはずだから。歴史小説とか戦争小説とか宗教とか哲学とかに挑戦するには山ほど資料を読まねばならないが「私小説」は紙と鉛筆一本あれば十分なのだから。

この頃純文学、私小説が生まれない。近々私は挑戦しようかな思っている「つもり」である。
先日、近所の開高健記念館に行ったら既に大先生より十年近く年を食っている事に気付いた。何たる才無き人生、何たるナマケ者であったかを思い知った。
「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」そんな教えを書いた葉書を100円で買った。

今年こそ「つもり人間」から自覚して何か行動を始めましょう。

2010年12月24日金曜日

湘南の嵐便り 「水天宮のジュース」


目尻を治して、小ジワを消して、唇の乾きを消して、シミやソバカスを消して、耳のうぶ毛を消して、体のホクロを消して、陰毛を整えて、おへその周りのシワは全部消して、すべすべに、おへそをキレイに凹ませて、爪の割れを直して、いかり肩を治して等々20代を過ぎた女優やタレントから次々と注文がくるらしい。


友人が写真の修正会社をやっていて大変苦労しているらしい。
毎夜ふしだらな生活をしている売れっ子は特に修正が大事でありついにはCG(コンピューターグラフィック)で直し、シワ一つ、シミ一つないツルツルの顔になってしまう(化粧品のポスターみたい)


先夜ある仕事で主役を張っている20代、30代の女性と友人四人でブリシャブ、マグロシャブ、カワハギシャブを食べた。
仕事を離れた女性はストレスから解放されメイクも落としすこぶる美しく魅力的である。


今男性の四割近くが結婚せず実家にパラサイトとなっているらしい。又、女性も三割以上が結婚しない。ウエディングを迎えるのは約三割のデキちゃった結婚であるというではないか。

※写真はイメージです


デキちゃったなんてほとんど酒の席の後の間違いである。

実は大嫌いな男女がすっかり酔っ払って気が付くと全裸になりラブホテルに一緒に寝ている。女性は明け方痛い頭を擦りながらカーテンのこぼれ陽の中に異様な男のヨダレ顔を見る。キャー、ギャー、イヤー。慌てて友人にメールする。
友人も又どこかで同じ様になっている。エー、ウソー、ホントー。

※写真はイメージです


そのままだったのか分からない、でもそうみたい気持ち悪い、毛深い、クサイ、ダサイ、サイテー、もう死にたいウワーと叫ぶが前夜一発心中、貴重な命が宿ってしまった。
堕ろすに堕ろせないと迷っている内に五ヶ月、つわりは酷く会社は休みが多くなっていく。いよいよお腹が出て来た。そして退職だ。


あーあなんて事、よりによって目やにはあるわ、歯は汚いわ、服はダサイは爪はいつも伸びてる、靴はなんとクラリーノ、服はコナカか青山、ブランド志向の私が何でと頭を抱えるがお腹の中の小さな命は確実に命を育んでいる。お風呂で動く、乳房は大きくなり、乳首は黒ずんでくる。そして母性は目覚めてくる。私の赤ちゃんだ。

でもあの男に似ているかもとゾッとする。


男がガラガラを買って来たり、竹細工の小さなロッキングベッドや何やからを毎夜毎夜買って帰ってくる。小さな毛糸の靴下、ベビーパウダー、赤ちゃん読本、いつしかプライドの高い女性の心は開き始め、区役所に行き母子手帳を貰うと思わず涙ぐむ。

あの合コンの一夜、もっとも嫌いだった男の知らない間の一夜。ベッドの下に脱ぎ捨てられた黒のショーツと黒のブラジャー、本当はあの人のための勝負下着だったのに。


コンビニのTシャツとコンビニのパンツの男。
何のために国大の文学部まで出たのかと思い未だ一度しかないSEXの恐さを知る。


二人の親と水天宮にお参りし帯を貰う。不思議にカメラを持つあの男にいいようもない愛しい思いが湧いてくる。何故か分からない、ただとてもいい人に思えて来た。
二人でピースサインを作って写真を撮った。ジュースを買って来てくれた。これが結婚なのかと思った。


今夜はクリスマスイブ、又忘年会の最後のヤマ場アルコールが入る夜、ビックリするような朝をとんでもない姿で迎えない様に気を付けて下さい。


今年のブログは今日にておしまいとさせて頂きます。来年111日より始めます。どうか皆様良い年を迎えて下さい。

2010年12月22日水曜日

湘南の嵐便り 「ノーベルは終わり」


ノーベル

ノーベル賞はノーベル本人がダイナマイトを作り本人の意志と違って戦争の道具になってしまったので、しまったこんな筈ではなかったと自身の賞を作った。
そこまではいいとして今のノーベル賞はまるでアカデミー映画賞の如くである。


科学者や物理学者はともかくなんで平和賞、文学賞があるのに映画賞や陶芸や建築や彫刻や絵画賞がないのか。何もかも不可思議になってしまった。


ノーベルの残した資金は様々に投資されたりして維持されている。
例えは悪いがかつて戦争反対をして命を掛けた日本共産党が何で自民や民主より遙かに多い250億近いお金を持っているのか。

エスカレーター付きの党本部にいる事が出来るのか、どこが貧乏人の味方なのか90歳頃まで赤旗を配っていた亡き母になんと説明出来るのか。戦争反対を叫び治安維持法に反対し続け投獄を繰り返した貧乏弁護士の亡き父になんと説明出来るのか。

ノーベル賞の晩餐会
ノーベル賞の途方もない晩餐会のパーティーを見ると心からこれでいいのかノーベル賞と思った。まるでドイツのヒトラーやかつてのソ連の共産党が豪華なパーティーをしている様であった。ノーベル賞は確かに素晴らしい才能と人類への貢献である。
科学と物理と医学、この三つだけで十分なのであると思う。


モンドセレクション金賞なんて受賞しない方が難しい賞であり金を払って参加すれば殆ど受賞できるというではないか。

日本人ほど賞の好きな人間はいない。もらう事ばかり考えないで、建築工芸と(宮大工)とか庭師とか屏風絵師とか左官とか石工とかに世界中に参加させる賞を作り世界をリードすればいい。


私がそもそも不公平で気に入らないノーベル賞は生きていないと受賞出来ない事だ。
徳川家康が弱虫で疑い深い人間だから70数年長生きした事に歴史的意味が生まれた。ならば長生きし天下国家を動かす人間に徳川家康賞を作ればいい。
キリシタン大名で最後までイエスキリストを信仰しその最後をフィリピンで迎えた戦国大名高山右近にイエス大賞を作ればいい。人々の心の平和を願った法然、蓮如、親鸞賞を作ればいい。
だがしかし世界中では誰も知らない。


タキシードに老妻を従えもう早く帰りたいと言った科学者がいた事が救いであった。
もうノーベル賞の役目は終わった。アカデミー賞を作ってアメリカ映画が衰退した様に確実にノーベル賞によって物理、科学、医学は商業化が進み進歩が歪んでしまう。
文学賞とか平和賞とかまるで意味が無い。


ならばイエスキリスト、チャーチル、スターリン、毛沢東、周恩来、ルーズベルト、ドゴールはノーベル平和賞だろうか。宮本顕治はノーベル平和賞だろか。すでに政治利用されている。小さく静かに音も無く食べ物もなく一杯のワインかペリエ等で乾杯、勿論自腹でいいのである。


名もなく苦しく、悲しく、切なく家族と国を思い捕虜となり平和のために骨と皮になり死んで行った平和愛好者は数知れない。



名浪曲師三波春夫は捕虜収容所の中で明るく歌って勇気を与えたという、これこそなんと心得るかを論じろと言いたい。
あんなとんでもない豪華な晩餐会で飲むシャンパンや料理が美味かったなんて言ったらその人はお終いである。

2010年12月21日火曜日

湘南の嵐便り 「世界のオザワと魚久の粕漬け」


岩城宏之さんという指揮者が亡くなって四年になる。
亡くなる前だったと思うがその年の暮れにベートーベンの第九を約十時間位にわたって指揮をした。第一、第二、第三と進めながら控え室で酸素ボンベから酸素補給をし続けていた。命懸けであったのだ。

そしていよいよ第九、合唱付き「歓喜の歌」だ。人みな歓喜を迎えよとクライマックスとなる。


その岩城宏之さんがある人との対談で子供達からオーケストラの指揮者って何でいるんですかと聞かれて言葉を失ったという。
私も実はある年までそう思って来た。沢山演奏者が居るが誰も見てないし、例え居なくても問題ないんじゃないのと思っていたのだ。


指揮者が変われば同じ曲も全然違ってしまうという意味が分かっていなかった。
指揮者が作曲の中にある心をどう理解するかでオーケストラの演奏は一変する。仮に100人の演奏者の内一人の奏者が音を外すと指揮者は直ぐに分かる絶対音感を持つ。
リハーサル中その人を指さす、外しちゃ駄目よと。バーンとシンバルを鳴らすと違う違うそんなに強く叩いちゃ駄目、何故なら戦いに破れた様な気持ちなんだからと。


もっと静かに部屋の中に幽霊が忍び込む様にだよ、人の心の妖しさなんだから等々ひとつひとつの音符を指揮者なりに理解、発展、進化、変化させたり、新しい解釈を加えたりするのだと知った。

奥村土牛の富士
富士山を100人描いたら100人違うのと同じだ。奥村土牛の富士、横山大観の富士、梅原龍三郎の富士、中川一政の富士、片岡球子の富士それぞれ全く違う。
私も富士をよく描く。自分の富士が一番だと不届きにも思っている。
片岡球子の富士


食道癌を手術した小澤征爾がNYカーネギーホールで40分間ブラームスの交響曲第一番をサイトウキネンオーケストラで指揮した。
その姿に死を覚悟した武士の姿を感じた、テレビのニュースを見て涙が止まらなかった。
丁度知人から頂いた「魚久」の京粕漬けの鮭とイカを食べていた。大好物の上手さに涙も出たがしばしテレビに釘付けとなった。



目の前の愚妻はあなた泣いてんの?WHY何故?みたいな顔をして無言で箸をすすめていた。「感動を知らない奴」だなというと何でも感動しすぎよとつれなく言い放った。
ついさっきまで魚久は最高だ最高だといって感動してたじゃない。



無礼者、粕漬けと小澤征爾を一緒にすんなこのボケカスと言って会話はお終い。
生きる目的を持っている人間の凄さを世界は見た。サザンオールスターズの桑田佳祐が再起したらもう涙の大洪水となるかもしれない。深夜一人桑田さんの一人紅白歌合戦のDVDを観る事とする。一人で何と紅白に出る全員の歌を唄った三時間以上のDVDだ。

2010年12月20日月曜日

湘南の嵐便り 「三行半」



必要ないモノ要らないモノはすっぱり捨ててしまう「断捨離」というのが女性の中で流行っている。「新・片付け術」ともいうらしい。
想い出の机、想い出のタンス、想い出の椅子、想い出の夫婦茶碗、想い出のベッド、そんなものをどんどん捨ててしまってスッキリさせるのだ。


今、「メール離婚」という行動が行われ始めたという。
ある日会社や仕事で働いている者に、あるいは競馬場やパチンコに興じている者のメールに「もう別れたいの、もうやっていけない、もう我慢も限界」。30代妻の三分の一が「メール離婚」で行動を起こすのだ。

かつては「愛してる」なんてやりとりをしていたメールに、「あなたはもう要らない×」とか入ってオジャンとなる。
大体実家とか友人宅や旅先から送るらしい。これを現代の三行半というらしい。

昔の三行半

「三行半」とは、離縁の際に夫が妻の家族に出した離別状の事。
離婚を決めたという宣言と妻の再婚許可が三行半にまとめられたからそう表現された。やっとこさ60年で定年、これからゆっくり自分の好きな事をやるぞと思い公園でブランコなどに揺られていると「あなたと第二の人生まで一緒にいたくはありません」などとメールが入りブランコから放り出されるのだ。

60を過ぎた女性の6割以上が離婚を考えるという。
その逆に6割以上の男は妻に側にいてほしいという。結婚は目利きの問題である。



私はテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」が好きである。目利きを頼まれた人達は二ヶ月以上時間をかけて真贋を見極めるらしい。茶の湯の世界では二種類の目利きが存在するという。

良い道具をコレクションする数奇者と道具の売買で収集を仲介する道具商だ。
目利き40年の中島誠之助の著書に「ニセモノはなぜ、人を騙すのか?」というのがある。
世の中はニセモノだらけ。8割から9割はニセモノ、ネットオークションに出回る物はゲテモノ。目利きの骨董商は実は優れた贋作師であるという。
骨董の世界では「ひっかける、ひっかかる」という言葉があるという。


「断捨離」の思いも、「メール離婚」ももとはといえば選ぶ相手や選んだ者の目利き違い。
あの日引っかけたら上手く引っかかって来た、その結果なのかもしれないのだ。


ちなみに千利休は目利きだったかという問いに千利休は自ら美の創造をしたのだから目利きは重要ではなく、利を得る手段だったのだろうという答えをしている人がいた。

結婚もただのモノとモノとの出会い位に考えておいた方が何とか上手くいくものなのだろう。相性具合が良ければ終生離れないかもしれない。
暮れの大掃除のついでに捨てられませんよ。