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2013年8月27日火曜日

「雨ガエルさん」


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これは怖い話かそれともちょっと嬉しい話か、少し肌寒くなるかもしれないが本当にあった話をする。

バブル最盛期、私はある広告代理店から大手証券会社のCM作りの殆どを依頼されていた。株価は三万五千円を超えていたのだが、私は株の事は全く分からない。
そこで依頼されていた代理店の責任者の方に誰かアドバイザーがいないかと相談した。

一人いい人がいますよといってその代理店のOBの方を紹介された。
学習院大学出身というがそんな感じはまるでしない。亡くなった父君が有名な宮大工でお寺の仕事も多く手がけていたとか言った。
歯が殆ど無いが頭の中にはたっぷり知識があった。
弟さんがいるのだが殆ど他人状態で孤独な生活をしているとか。

お酒とカラオケが何より好きであった。
朝早い打ち合わせの時はかなり前日のお酒が残っていた。
私はその人と顧問契約をした。実によく仕事をこなして頂いた。よく飲みに行った。
数年間続いた。

ある日の午後、青白い顔をして私の処に来た。
「イヤーまいったなあ、癌だって」と云った。
自分の身体はいいのだが仕事が続けられないかもと言った。
迷惑を掛けたくないので他の人を探して下さいと云った。
えっ、本当ですかと言った。

私は直ぐに信頼する茅ヶ崎の医師のところに電話した。
とにかく連れて来なさいというので二人で先生の処に行った。
一週間入院して検査をした。見舞いに行くとベッドの上で瞑想をしていた。

先生から残念だが半年位だね、癌研を紹介すると云われた。
その人に言うと癌研に行くと云った。ほぼ半年後その人は逝った。
葬式なんていいですよ、無縁墓地にでもと云っていた。

命日は雨が多い季節だった。
私は幹部と相談し、会社葬とする事と決めた。
池袋に父君が建てたというお寺がある事を知っていたのでそこで行う事とした。
広告代理店時代のかつての同僚たちが沢山参列してくれた。
その人がよく通っていたBarのママが猫を抱っこして来ていた。
BGMにその人がよく唄っていた「北へ帰ろう」を流した。

その次の年、命日が近づいた日の夜、我が家の小さな縁側の上に大きなガマガエルが居た。今まで見た事もないのに。愚妻や子どもたちはギャー嫌だ、気持ち悪いと云った。夜になると出て三日間居て消えた。
その次の年も全く同じ頃にガマガエルが縁側の上に居た。

私はきっとあの人が帰って来たのだと思ってその人の名前を言った。
「八木さんでしょう」と。

ガマガエルはじっと私の方を見ていた。
庭師のオジサンにその事をいうと、ダ・ダ・ダンナソレハキット、アイニキタンダヨといった。そして数日後「石のカエル」を持って来てくれて、ココガイイといって小さな池の脇に置いてくれた。

次の年から「八木さん」は出て来なくなった。
ガマガエルは雨ガエルともいうらしい。処暑も過ぎ、久々にまとまった雨が降った。
「石のカエル」に雨があたり心なしか気持よさそうな顔に見えた。
「八木さん」歌を唄ってますか、酒飲んでますかと声をかけた。

茅ヶ崎の先生は今でもよく云う。
「八木さん」ほど思い出深い患者さんはいないな、一週間ほどだったけど何か不思議な霊力がある人だった、と。

「八木さん」と同じ食道癌になったサザンの桑田佳祐は助かって良かった、元気に歌を唄っている。TVからCMとのタイアップソングが津波のように流れて来る。
命の行方は誰がどんな基準で決めているのだろうかと思った。

2013年8月26日月曜日

「ボクサーに栄光あれ」


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不良少年、悪ガキ、問題児、あの子とは遊ぶな、近づくなといわれ続けた少年たちもボクシングと出会い栄光をつかむと不良少年時代は「やんちゃな少年時代」と言い換えてくれる。

世界チャンピオンの殆どは元不良少年、手に負えない存在であった。
学校の番長であり、街の番長であり、県の総番長であったりした。さてボクシングと出会う事が無かったら、どんな人生を送っていただろうか。

ボクシングは合法的な殺し合いだ。それ故グローブをつけた人間は恐怖を知る事となる。ルールを守る事を知る。相手に対して敬意を表す事を知る。ダウンをしたボクサーは先ずどこを見るか、それは自分のコーナーだ。そこに居るやセコンドが味方だからだ。
勿論一発で気絶するか脳にダメージを受けたらコーナーすら見えずノックアウトだ。

一方、イジメっ子(不良少年)にイジメられ続けた少年もボクサーになってその仕返しをすることが出来る。チクショウ強くなりたい、強くなるんだ、チクショウという思いが強いボクサーを生む。喧嘩に強くなりたいという理由で入門する少年は多い。
だが厳しい練習と減量を体で憶え、グローブをつけ四角いリングに上がると喧嘩のバカバカしさが分かって来る、強くなれば成る程。貧乏もまた強いボクサーを育てる。

ハングリースポーツといわれるボクシング。
自分の為に一生懸命働いてくれている父のため、母のため、弟のため、妹のため、おじいちゃんおばあちゃんのために強くなるんだと日夜アルバイトしながらジムに通う。
拳ひとつで夢を叶えるためにボクシングはある。傷ついたボクサーの笑顔程美しいものはない。

ボクサーの寿命は短い。夏の花火の様に鮮やかに人々を興奮させそしてリングを去る。
だが歴史に残る男と男の殴り合いは忘れられる事はない。伝説の主人公となる。

私は仕事する時によく思う。
その仕事に生命を懸けているか、自分の仕事はボクサー程痛い思いをするかと。

八月二十五日夜、ロンドンオリンピックのミドル級金メダリスト村田諒太選手がデビュー戦を勝利で飾った。2R224秒レフリーストップのTKOだ。
相手は東洋チャンピオンだった。何故かチャンピオンは脅えていた。

メインイベントが何故10R8Rでなく6Rなのかはわからない。
ラスベガスの超大物プロモーターが来ていた。いつかボクシングの聖地ラスベガスのリング上で栄光の笑顔を見せてほしい。愛する妻と子と亡き恩師のために。
世界を代表する元不良少年を相手に。

ボクシングは人間を素晴らしくする。
敗者にもまた栄光あれと思う。次に戦えば立場は違うかもしれない筈だ。

ところであなたの仕事は痛いですか。一発で命を失うほど。

2013年8月23日金曜日

「サンダル」


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新橋駅側に汽車ポッポ(SL)がある。
今ではそこはタバコを喫う人の溜まり場で、SLの煙突ではなくSLの横から煙が立ち上る。見た目堅気そうでうら若き女性もうまそうにタバコを喫い、二つの鼻の穴からブハァーと白い煙を出している。

かつては噴水があったのだが今はない。
噴水の代わりにタバコ好きが煙を噴出しているのだ。

熱闘甲子園が終わった日の夜、朝からアンデルセンで買ったホットドッグとカレーパンしか食べてなかったので腹が減り減りであった。
藤圭子自殺というでっかい文字が新聞売りのところにあった。
で、夕刊紙を買った。

列車に乗るつもりだったが記事が気になり、よしメシでも食べるかと思った。
見れば小諸そばの旗、かつやの旗、豚丼の旗がへんなりとあった。
何にすんべいかと思った。

大和鮨というのが目に入った。鮨は三食でもOKという程好きだ。
何しろ早いのでいい。入った事はないのだが高そうでないので入った。
カウンターだけに15人位は入れるだろうか。二階もある様であった。
入ると見える空き席は五席、入り口に一人、予約席が二席であった。その隣に座った。

左上に小さなテレビがありNHKの首都圏ニュースをやっていた。
冷酒を1合頼んでさあ新聞を読むかと思うと、予約席に三十歳位の男と二十五、六歳の女性が入ってきた。予約している位だからきっと常連だと思った。
お通しに数の子が少々出た。つまみにゲソ焼きにツメをつけてと頼んだ。

冷酒も来た、さあ新聞となったのだが男女がモメている。
男、おまかせは高いよ、上にしようと言っている。
女性が何ケチってるのよ特上にしてよと言った。お前贅沢なんだよと男は言った。
予約しといてみっともないじゃない、ただの上なんて、ただじゃねえよと男が言った。だったら並でいいわよと女性が言った。

板さんおまかせは3200円、特上が2800円、上が2000円、並が1600円だったと記憶している。あんまり言い争うので憶えは定かでない。気が散って新聞を読む気になれなかった。二人が如可なる仲であったのだろうか。
女性はアタシちょっとタバコ喫って来ると言って出て行ってしまった。
男はお茶をアチアチとか言って飲んだ。板前がニタッと笑った。前歯が一本抜けていた。

新橋は会社員たちの夜の王国だ。何が起きても不思議でない。
誰が誰とくっついても何ら不思議ではない。オッセイナあの女と男はつぶやいた。
板前がまたニタッと笑った。

私といえば、まずホウボウを握ってもらう事にした。次に新子とアジ次に海老を頼んだ。女性が帰って来た。二人共上にぎりを頼んだ。よく分かんねえ二人であった。笑いながら話を始めていた。女性は片方のサンダルを足から外していた。左だったか右だったかは忘れた。透明状のバンドエイドが踵に貼ってあったのは覚えている。

2013年8月22日木曜日

「熱闘と熱湯」


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熱闘甲子園も前橋育英高校が勝利して終わった。
甲子園のグランド上には日頃忘れてしまった言葉が土煙をあげていた。
母校、校歌、青春、友情、旋風、歓喜、血涙、無念、追撃、悲願、達成、そして勝利と敗北。

私は「敗北」という言葉が好きだ。
敗北こそ人生への応援だ、勝利だけの人生はない。
敗北から何を学ぶかで次の人生は変わって行く。

作詞家であり作家であった阿久悠さんは大の高校野球ファンであった。
スポーツニッポンでその観戦の詩を書いていた。その殆どが敗者を称える詩であった。
その数は300以上に及ぶ。

落球をした選手、失投をした選手、暴走した選手。
それは現実の社会でも当てはまる。
エラーと三振は野球につきものという。 

156センチの選手がファール、ファールで粘った。
ところが審判員たちはそれをバント行為だと決めた。 
156センチの小さな選手は出塁率7割近かったが、その決定を聞いて泣いて悔しがった。

選手それぞれの個性と持ち味、人それぞれの個性を伸ばさないのがこの国の最大の弱点だ。

熱闘甲子園の最後を見た後、赤坂を歩いていた。そこに工事現場があった。
何人ものガードマンのオジサンがヘルメットを被って交通整理をしていた。
きっと地方から出て来た人々だろう。
顔は甲子園球児の様に陽灼けしている。顔には汗がびっしょりとついている。

一度立ち話をした事がある。
オジサンが言うには頭から足の先まで熱いお風呂に入っている様だと言った。
都会の工事現場も「熱湯甲子園」なのだ。地方にゃ仕事がねえ、頑張って仕送りしなきゃなんねえんだと汗を拭きながら言った。車さ来たアブネエベといってくれた。
労働者は決して敗けない。

2013年8月21日水曜日

「タンメンの日」


丸亀市猪熊弦一郎現代美術館



「左うちわ」とはいかない記事を読んだ。

今年ほど「うちわ」のお世話になっているのに何故だろう、香川県丸亀市は全国の「うちわ」の生産シェアの9割近くを占めているといわれている。 

3.11以後節電意識の高まりで需要は急増した。
11年度の販売量は1.8倍の16800万本、12年度は更に増え、17800万本を販売した。
しかし販売の殆どは企業のイベントで配る販促用であった。
今年13年はこれが振るわない。

今年は企業の関心も一服。
景気は回復したというが企業の販促費は絞り込まれた。製造コストも上昇気味。
中国製が主流となった。国内の受注競争は激しい。
コストダウンしても130円が限界だという。

「うちわ」を売る店の話によると消費者は「うちわ」は無料という意識が高いのだと。
そういえば「うちわ」を買ったという記憶はない。

今年使っているのはウイスキーを買ったおまけと、以前富山の風の盆に行った時の物、それと地元の信用金庫の物と、駅で配っていた分譲マンションの物だ。
全然香川県に貢献してないではないかと反省しきりだ。
150円から3000円位の品揃えがあるというから奮発して800円位一本買ってみるかと思っている。

丸亀市は私の絵の先生の先生である、猪熊弦一郎巨匠の出身地だ。
猪熊弦一郎美術館の設計は確か建築界の巨匠、谷口吉生さんであったと記憶している。
入り口の構えが正に広大な「門」の一文字の如しだ。
日本随一と言っても過言ではない。

丸亀といえば「うどん」だが、こちらもうどん競争が激しく「左うちわ」とはいっていない様だ。

日本国の借金は遂に1000兆円を超えた。 
1万円札で1千億枚、積み上げると富士山どころか、あの宇宙ステーションの25倍の天空に届くというではないか。とてもじゃないが「左うちわ」とは真逆だ。
外は猛暑、財布の中は寒々としている。

818日家族六人で後楽園球場に行った。
読売新聞の販売店からもらった内野席の上の上の上の席であった。
三回裏の途中小用でトイレに行くと、入り口から右手二番目の「大」の扉が開いたままだった。老人とか専用で広く、そこの水洗の右上の平らな処に黒いお財布が置いてあった。

とても目立ったので中に入り手にした。
ギザギザ革で長く、チャックでコの字形になっている。
分厚い、かなり入ってそうだった。だがしかし私は迷う事なく、それを球団職員にちゃんと渡した。名前と住所を聞かれたので教えた。相当入っていたのだろう。

その後の話はプライバシーもありとても長くなるので出来ない。
ただハッキリしているのはその持ち主は今日も「左うちわ」で、ああよかった、ああえかった、ああやっぱり日本人は最高に正直だべなと思ってくれている筈だ。
家族の一人は貰っちゃえばよかったのにと言った(笑)。
帰りにラーメン屋でタンメンと餃子を食べたのだ。

2013年8月20日火曜日

「クラゲ」


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この季節になると、必ず思い出すパルコのキャッチフレーズがある。
「ナイフで切ったように夏は終わった」作者は誰であったかは分からない。

この頃夏には切れ味がない。
ただひたすら暑い、蒸し暑い。何もする気にならない。

芸術性のないダラダラした夏だが、江ノ島の水族館で見たアカクラゲはビューティフルであった。
優雅にして繊細、幾何学的にしてすこぶる扇情的であった。
悪女の如くユラユラと誘い込み、漂っていた。

ナイフでスパッと切れない夏は悪態をつきながら未だ未だ続く様だ。
日本列島は細く長い。思いもよらぬ集中豪雨はヒステリーの如くだ。
人間がヒリヒリしているから大自然もストレスを溜めているのだろう。

タコクラゲは愛嬌があり、ユーモアに満ちていた。
ホンワリ、ホンワリ漂っていた。

むかしある道路で見つけた交通標識を思い出した。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く、むかしはみんな歩いていた」
八月が終わると駆け足で月日は進む。みなさん残暑お見舞いを申し上げる。

夏休み見た映画でNO.1は、韓国映画の「牛の鈴音」だった。
ただ苦行する老牛と年老いた農民夫婦と韓国の農民たちが出てくるだけだ。
農民にとって牛こそ無から有を生む命なのだ。

昨年見たNO.1映画は「ニーチェの馬」だった。
それには父と娘とおぼしき女、それと老馬、あとは日々ジャガイモを蒸したものと井戸の水だけであった。

「有」は無に向かうが、「無」は有に向かう。
有る者は無が来るのを日々脅える。何も無い事こそ何よりの希望かもしれない。

2013年8月8日木曜日

「八月二十日迄」




猛暑強烈なれど近所の海岸にはトンボが飛んでいる。
陽の落ちる早さが増している。

人間が笑おうが泣こうが、自然の営みは変わらない。
週末からお盆休みとなる。

故郷ではおじいちゃん、おばあちゃんが愛する息子、愛する娘、その子どもたち(孫たち)が帰って来るのを、首を鶴の様に長くして待っている筈だ。

また竹馬の友や、恩師や知人たちも都会に疲れた君、あるいはあなたの体を癒すべき工夫を凝らしてきっと待ってくれている筈だ。

「書を捨て街に出よう」と言ったのは寺山修司であったが、これからはその逆となるであろう。「街を捨て村に帰ろう、そして書に親しもう」と。

失われた20年は街に生きる人間の心をギザギザのノコギリにしてしまった。
故郷の山、河、雲、風、光、森、林、池、里山がきっとノコギリの刃を丸く研磨してくれる筈だ。

故郷のない人はしばし携帯やスマホやLINEPCの電源を切るといい。
私は父母の墓に参り、友の墓、恩人の墓に参った後は、ひたすら映画を観まくり、下手な絵や具にもならない映画のシナリオを書く事にしている。

400字のリングは八月二十日(火)までお休みです。
皆さん良き夏休みを、よき思い出を作って下さい。良きVACATIONを。

2013年8月7日水曜日

「目利き」


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八月六日夜、あるお願い事があって二人の雑誌編集長とお会いした。

編集長というのは連合軍の総司令官であり、連合艦隊の艦長でもある。
何しろ視野が広い、顔が広い、洞察力が深い、その人脈は山脈の如くである。正に陸・海・空にネットワークが張り巡らされている。

一つのお願いに対して必ず三つ四つの展開案を示してくれる。
雑誌編集長の仕事で一番の事といえば、やはり新人の発掘であろう。

例えばこんなエピソードを読んだ事がある。
河出書房新社に伝説の編集者寺田博という人がいた。
福武書店(現ベネッセコーポレーション)に編集長として引きぬかれた。
「海燕(かいえん)」という文芸誌の新人賞を選ぶ事となった。

ある年、吉本ばななが「キッチン」で応募していた。
しかし下読み段階で「評価不能」に分類され、会社の地下倉庫に片付けられた。
最終候補を決める直前、応募作品の受付名簿を何気なく眺めていた寺田博が突然立ち上がった。応募者の住所に見覚えがあったのだ。

それは吉本隆明の住所で、ばななとは「あの真秀子ちゃん」の筆名では(?)地下倉庫から引き上げてきた原稿を一読した寺田博は「これ、いいじゃないか!」といった。

「海燕新人賞」は吉本ばななに決まりとなり、他の作品と共に一冊の単行本となりミリオンセラーとなった。
寺田博は通常、新人の作品を読むと徹底的に書き直しをさせ、持って行くと原稿を返され、もう一度書き直せば更に注文をつけた。
それが無限の反復にも思われ新人作家志望者は疲れ果てたという。

寺田博は目利きとして知れ渡っていた。
新人作家は毎夜新宿に連れ出され、酒場で罵倒されつづけ、そして何人かが育ち、やがて世に出て流行作家、人気作家、ベストセラー作家、先生、大先生となって来たのであった。大編集長に呼び出されるという事はきっと目利きの目に止まったのだろう。

人を見出して育てるという事は全ての世界にいえる事である。
画家は画商が育て、スポーツ選手はコーチが育て、チームと名の付くものは監督が育てる。会社の仕事とは、社会の役目とは何か。
それは一人ひとりの個性を見出し、人材として育てる事にある。
会社の大小にかかわらず上に立つ者は優れた目利きでなければならない。

八月六日夜、一人の新人を連れて編集長に会って頂いた。
後は本人がどこまで頑張るかだけである。
大作家となった人が若い時、ある編集長からあれを書けといわれた。
あれをどう書くか、その最初の一行が書き出せなかった。
やがて悩み苦しみ旅に出た。命を下されてから三ヶ月余が経っていた。
そして一行を書き始めた。みんな悩んで大きくなって行く。

2013年8月6日火曜日

「黒い雨」




今日八月六日午前八時十五分、広島に原爆が投下された。

一九四五年の事である。
アメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマンはその報告を受けた時、「素晴らしいニュース」と言ったという。
この原爆投下によってアメリカの兵士が戦死をしないで済んだ、その数は当初数千であり、やがて数万となり、現在は数十万となっている。

降伏を許されず抵抗を続ける日本軍と民間人は、沖縄でまさに地獄絵図となる。
アメリカでは広島、長崎での報道写真を二十年は公開をしてはならないという決まりがあった。それ故アメリカ人は原爆の地獄絵をずっと知らずにいたのだ。
現在では日本軍が全面降伏したのは実はソ連の参戦であり、原爆を投下する必要などは無かったというのが学説の主流となっている。

ジョン・F・ケネディがアメリカン大学で行った演説は歴史的に最も素晴らしいといわれている。ケネディは「人類は皆この小さな惑星の中に生きている」だから平和を目指して行こう。核の戦いからは何も生まれない、そんな内容の演説であったと記憶している。

当時アメリカはベトナム戦争の泥沼の中にいた。
その数カ月後、ジョン・F・ケネディは暗殺された。
アメリカの軍産複合体にとって反戦を訴える者は、許されざる者であった。
日本を占領下に置いたアメリカは沖縄返還の時、秘密文書として日本を永久に米軍基地にすると決めた。アメリカにとって日本は基地であり国ではないのだ。

トルーマンに依って軍を追われたダグラス・マッカーサーは、日本の占領政策は自分にとって「最高の作品だった」と語ったという。

昨日八月五日、アメリカ軍ヘリコプターが米軍基地内に墜落した。
それがもしかしてオスプレイだとしても、事実は分からない。
あれだけ大騒ぎしたオスプレイ反対運動も叶わず既に二十四機も配置され日々バタバタ飛んでいる。毎年八月になるとマスコミでは戦争の惨劇や悲劇が語られる。

そして八月十五日の終戦(敗戦)記念日を過ぎると、パタッと忘れられる。
日本は世界の中で唯一の被爆国である。地獄絵の主人公である。
被爆者の人々の血の歴史は今も脈々として流れ続けている。
黒い雨は降り続けている。怨念の血の河を枯らしてはいけない。

だがしかし人の噂も七十五日と言われたが、現在では七十五分だ。
憲法改正の足音がヒタヒタと聞こえて来ている。
日本国は未だに国連の常任理事国になれない。Why、何故か。
日本の首相は未だに米国会議会で演説が許されない。Why、何故か。

何度も記すが、アメリカにとって日本は基地であり、金づるであり、独立国ではないのだ。マッカーサーの占領政策の第一は、五十年かけて日本人を阿呆と馬鹿にしてしまうというのであった。さて、私たちは今どうであろうか。
日本をTPPに参加させるというアメリカの強い意志は、いよいよ日本を全て占領するという事なのだ。

2013年8月5日月曜日

「ある都市伝説(?)」






毎週日曜日夜十一時〜十一時半はTBSの「情熱大陸」という番組を観ている。
だが八月四日は観るのを止めた。

何故なら番組欄にこう書いてあったからだ。
「林真理子!女の野心と行動観察記」であった。
ひと目みただけでもゾッとする程嫌な女なのに三十分近く観ていたらきっと様々な悔いを残して死んでしまうだろうと思ったのだ。

八月九日、お世話になっている会社の創立六十周年の式典を無事終えるために依頼されている事をプロとして完璧にやり遂げねばならない。
林真理子如きの野心のために命を落とす訳にはいかないのだ。
スーパーブランドで身を固め、超高級エステに通い、如何なる化粧品でケワイ(化粧)しても林真理子の精神を美しくする事は出来ないだろう。
「人は見た目が9割」なんていう本がベストセラーになったが、その「不届き心」も林真理子には当たっている気がする。

もとより私自身も見た目の悪さは100%であり、精神の醜い度も100%である。
ただ私は少しばかりは恥というものを知っているつもりだし、如何なる方法を持ってしても整える事が不可能である事を知っているつもりだ。
林真理子はこの頃すっかり売る物が無くなってきたのか、自身の姿、形、その精神を売る事にしている。

自分に近しい女性の共感を狙っているのだろうがそれが「情熱大陸」に出てきてはたまったもんではない。人は決して見た目が100%ではないと「人は見た目が9割」を書いた作家が反省したかどうかは不明であるが「やっぱり見た目が9割」を出版するらしい、というか出版されているやも知れない。
これはあくまで私の推測だが、もしかして私と同様に林真理子の行動というか行状を許し難きと思ったのかもしれない。

過日、私の敬愛する「江頭2:50」が警察で事情聴取されて出てきてインタビューを受けている時、素敵なTシャツを着ていた。
調べてもらうとイギリスの「ザ・ダファー・オブ・セントジョージ」というブランドであった。やはり「江頭2:50」は只者ではない。

ある調査でスタッフと共に東京駅の新丸ビル内を歩き回った。
その四階にそのブランドショップはあった。
店内には女性一人、男性二人のスタッフがいた。
この間テレビで江頭2:50大先生がこのTシャツ着ていたけど、きっと売れなくなったんじゃないの(?)と聞けば三人とも苦笑した。
店内にお客さんはいなかった。

林真理子がテレビや新聞、雑誌などでこの服は◯☓、この靴は☓☓、このバッグは△□という度にそのブランドからお客さんが離れて行ってしまうという都市伝説があるらしい(?)

人は見た目ではない。そうでないと私は外を歩けない。
ちなみに私はスーパーブランドは何も身につけず、所持もしていない。
自重せよ!林真理子よ!