笑い上戸である私はずっと腹を抱えて笑っていない。
私の周辺でも腹を抱えて笑っている人はいない。これは極めて健康によろしくない。
なんだか息苦しい、なんだか胸騒ぎがする。
このザワザワ感、ヒタヒタ感はなんだろうか。
私は街や列車の中や海辺などで変な人を見かけるのが好きだ。
別段見張っている訳ではないが、ふとした仕草や不思議な食べ合わせや、カレーうどんを食べそこねて白いワイシャツが黄色くなったりしいているのを見るとジッと観察する。
昨日六時頃銀座の仕事場近くの歩道橋の下にホームレスの男の人がいた。
側にはコーヒーの缶入りがいくつかあった。ジョージア、ワンダ、BOSS、更にUCC。
会社の仲間と歩いていたのでちょっと見であった。
顔は後向きで見えないが多分オジサンだ。
缶コーヒーの中に残っているのをペットボトルに入れてオリジナルブレンドを作っていたのだ。茶褐色の液体が入ったペットボトルを左右の手で持って、バーテンダーのようにシェイクしていた。ペットボトルの中は泡立っていた。
缶コーヒーのライバル同士が混合され一つの味になる。
決して飲みたいと思わないが、興味はある。
一心不乱にシェイクというかペットボトルをゆすぶっていた。
安部公房の「箱男」という小説を読んだ時、一度頭にダンボールをかぶらせ目の見えるように二つ穴を開け、街の中にゴロンと横になり最底辺の位置から世の流れを見てみたいなと思った。
今現在何もダンボールをかぶらなくても最底辺だが、街の中でゴロンと横にはなれない。通勤する時、多摩川にかかる鉄橋を渡る。右手に大きなゴルフの打ちっぱなしがある。
その周辺にブルーシートの村があったが、今は少ない。ポツンポツンとしかない。
ホームレスに詳しい業界の人の話によると、ホームレスは不況でリストラとか、事業に失敗したとか、借金から逃れるために身をやつしていたのだが、ホームレス界も格差社会となりガンガン空き缶を集めた人とか、ダンボールをダンダンに重ねて売りまくり財を成した(?)とか、勝ち組が生まれブルーシート生活を離れて行ったとか。
「お、ねだん以上のニトリ」の似鳥という明るく熱心な社長がテレビに出ていた。
いかに、お、ねだん以上、ここで説明を「おねだん以上」ではない、「お、ねだん以上」だ。
「お」の後に句点を打つことによって、このおはOh!みたいなよろこびの声であり、「ねだん」がそれに続く。実に巧妙な言葉なのだ。
お、やすいじゃんを、お、ねだん以上ニトリにして大成功した。
海外の安い材料を使い、ベトナムなどの安い賃金で作った、安物の商品を売る。
お客はハナからニトリにそれ以上は期待していない。ユニクロも同じだ。
大好きな中川家の礼二さんが漫才のアイデアはすべて人間観察、変な人大好きなのであった。中川礼二さんは人間観察の天才と言っていい。
ある店にマスクをした男が入って来る。そのマスクは小さい。
ラーメンを食べる時、マスクを外して麺をすする、またマスク、マスクを外してスープ&チャーシュー、でマスクをつける。
オモシレーと中川礼二は腹を抱えて笑ってネタをつかんだ。
あなたは最近腹を抱えて笑いましたか(?)えっ、何、バカ者笑ってなんかいる場合じゃないと叱られるのです。
一度新橋でホームレスに500円玉一個あげようとしたら、オレは乞食じゃないと叱られた。「ポンヌフの恋人」という名画がある。一人の女性が橋の下で生活する若いホームレスと恋をする。モノクローム映画、冬の花火がカラーのどれよりも美しい。
主役のビノッシュも美しかった。貧しい恋は何より豊かであった。
二人は橋の上で花火を見て腹を抱えて笑う。