東大法学部を出て官僚のトップ事務次官にまでなった76歳の父親が息子を刺し殺した。この事件のニュースを知るにつけ、ふと私が少年時代を過ごしたところを思い出した。私の家の隣に東大法学部卒の弁護士の先生がいた。「お父さま」と呼ばれていた。奥さんは小太りのやさしい女性だった。先生は関西出身で大男であった。出かけるとき、帰宅したときは家族で三つ指をついた。「行ってらっしゃいませ」「お帰りなさいませ」。大きな家であった。その家には長男、長女、次女、次男、三女、三男の6人の子がいた。長男は庭にある離れの部屋に住んでいた。庭は広く大きな四角い池があり、5月には大きな鯉のぼりが風に泳いだ。私の家も同じ6人兄姉だった。両家とも三男三女、歳も近く仲良しであった。外から見ると幸せを絵に描いたようであった。が、一つの歯車が狂って、すべてが狂っていった。長男は父親から東大法学部に入ることを義務づけられていた。性格のおだやかなお兄さんは、一浪、二浪、三浪と受験に失敗した。確か4年目に早稲田大学に合格した。しかし父親は「東大でなければならない」と、4度目の挑戦をさせた。そしてやっと東大の教養学部に合格した。父親は東大の法学部でなくして東大ではないと認めなかった。お兄さんは酒を飲むことを覚え、やがて酒乱となった。バラの花がいっぱい咲いているところに、わざと入って血だらけになって私の家に来たりした。また、池に飛び込んだりもした。「バカヤロー、バカヤロー」と父親をなじった。絵に描いたような幸せは、絵の具と絵の具が混じって、加色混合され、黒い絵になっていった。長女はある会社の息子さんと結婚したが、ご主人が躁鬱病みたいになり若死にした。次男は建設会社を経営したが倒産し病死(?)した。次女は登山家となり、生涯結婚しなかった。三女は韓国の人と恋をして勘当され家を出た。末っ子の三男は何しろ釣りが好きで子どものときから釣りばかりで、結局正業につかなかった(記憶では)。近所のお豆腐屋さんの娘を恋して一緒になったが、父親はお豆腐屋さんとの娘とは結婚は許さないとやはり勘当同然となった。私の母は奥さんと仲良かった。同業同士隣り合わせだったので、すこぶる行き交いをした。酒乱になった長男は父親に反抗していた。奥さんが板ばさみとなり、とてもかわいそうだった。お兄さんが25歳ぐらいで悶絶死した。これから裁判が始まると思うが、元事務次官という超エリート環境の家庭生活が浮きだされるだろう。殺す側の論理と殺される側の論理。父親の異常なプライドへの反抗とか、徹底的に息子を傷つける言動や行為とか、そして被害妄想、加害妄想にいたった。父親の苦悶の日々とか。家族が崩壊するのは、たったひと言であったり、たった一度の暴力であったり、たった一度のトラブルで始まる。大切にしていた一本の釣り竿が折られてしまったり、問題の種は見えない。結局、私の隣の家の先生は一人で90代までたくさんの病気を抱えながら生きて、淋しく死んだ。みんないい人ばかりだった。どこかで三女、三男はいまだ生きているかも知れない。次女が家を守っているかも知れない。どうして家族の無残な事件が起きるのだろうか。我々も渦中の中にいるのかも知れない。
2019年6月4日火曜日
2019年5月31日金曜日
「忘れがたき日」
心の四季を語る。ある人の言葉である。人に接するときは、暖かい春の心。仕事をするときは、燃える夏の心。考えるときは、澄んだ秋の心。自分に向かうときは、厳しい冬の心。この春夏秋冬の心を62年間実践して来た私の大恩人が本日をもって退社する。18歳で入社して以来62年間、80歳を迎えた。東洋羽毛工業(株)のために全身全霊を込めて尽くした。社長、そして会長職を20年勤めた。全国の支社にひと月の内半分近くは出張した。本社に出勤のときは、毎朝7時20分に出社していた。私が7時40分に電話すると、決まってご本人が元気よく出てくれた。朝は4時20分に起きる習慣であった。明るくてユーモアのある奥さまとは中学時代の同級生、誕生日も同じであった。自分を育ててくれた創業者、そして創業者亡きあとは創業者ご一族に全力で尽くした。近年は激痛を極める腰痛と闘いながらであったが、決して弱音を社員の前で見せなかった。気配り、目配り、心配りの達人であった。創業66年の会社を3代目社長として引き継ぎ、最高品質の羽毛ふとんづくりを追い続けた。銀座1丁目にはoluha(オルハ)を出店させた。社長職というのはやった者にしかわからない「非情職」である。人事というのは、毎年やるだけ“ウラミ、ツラミ”を残す。使える社員ばかりではない。一人ひとりの個性を知り、長所短所を見極めねばならない。あるときは鬼にも蛇にもならねばならない。つまり、非情に徹しないと職は務まらない。無数のウラミ、ツラミを背負って行かねばならない。永い間お疲れさまでした。それを言うために今朝がある。私が今日こうして息をしていられるのは、東洋羽毛工業(株)様のおかげだからだ。私には会社勤めは向いてない。というよりできないことを知った。ガキの頃から子分になった経験がなかった。仕事は一人でやろうと独立したが、しかし何のあてもなかった。私は結婚したばかりの妻と青山学院大学の横にある、4階建てのマンションの4階1DKに住んでいた。ジーンズにアロハのチンピラみたいな姿の私に、仕事を出してくれたのだった。1階がショールームだった。私も今年で独立して50年の区切りを迎える。創業者様から現在4代目社長へ。私にできることがあれば、大恩を返すべく身かけて尽くす決意である。令和の時代、何をいちばん大切にしたいですかという、あるアンケートに「睡眠」がいちばんであった。やるべきことは山ほどある。現在午前12時47分02秒、あと7時間ほどあとに、電話をする。きっと元気にご本人が出るはずだ。これからもずっとお付き合いをお願いする。みなさん、いい羽毛ふとんを選んでください。銀座1丁目oluha(オルハ)へどうぞ。私は自分で認めた、この人はという人とはずっと長いお付き合いをして来た。しかし残念ながら、「この人とはダメ」と思いを決めた人とは、ビシッと決別をする。令和元年5月31日は忘れがたき日となった。午前7時40分、電話をしたらやはりご本人が元気に出てくれた。
2019年5月30日木曜日
「生きる幸福とは」
『私は見た 決定的体験』(文春文庫 1990年9月10日 第1刷)という本があった。グラフィックデザイン界の大巨匠、井上嗣也氏が私に「これ、面白いよ」と数年前くれた本である。井上氏は大変な読書魔でもある。この本は“その人間”と実際に会った人の真実原寸大の話である。この頃、あまりにも異常な殺人事件が多い。そして犯人は自死してしまうケースも多い。生きていれば間違いなく死刑になるはずのものだ。(この手記は昭和27年5月から翌年3月にかけての忠実な記録とするために、日記を基礎にした。[原文ママ])。書いた人は板津秀広生(いたづひでお)さん。当時、名古屋刑務所看守であった。当時は刑務所内でも刑が執行された。以降拘置所になる。当時、毒茶トリオが死刑確定で収監されていた。三人は名古屋市内東京都内で殺人事件を起こしていた。昭和22年名古屋市内では、ある夫婦宅に侵入、出刃包丁でおどして夫婦をしばりあげ、ゆうゆうと正月料理を食べ、現金2万円や衣類を強奪、逃走のさい青酸カリをお茶の中に入れておいた。ご主人はそれを知らず飲み、苦悶の果てに死亡した。捜査陣はその手口から、昭和21年東京都本郷で起きた旅館に宿泊中の洋裁業の男性を青酸カリ入りのお茶を飲ませて毒殺した事件との類似性を感じた。さらにこの事件以後再び名古屋市に戻った。東京で事件を起こした8日後である。そこで3人を逮捕。取調べを進めると、21年に三重県鈴鹿市内でも、煮干加工業の人を殺していた。殺人トリオの手口は残虐であった。死刑からは逃げられない。23年に3人共死刑が確定、以来名古屋刑務所に服役していた。罪を悪と思わない。あれでも人間かと言われた悪鬼羅刹の人間も、死刑が決まり執行される日々を待つ内に、人間的になって行く。読書をしたり法話を聞いたりを続けた結果だ。三人の内の一人N被告は、ネコのように温和になっていた。死を間近にひかえたザンゲなのかも知れない。それでも、「いつでも御座んなされだ。首を洗って待ってるぞ!」とささやいた。二畳ほどの房内には金魚草、カスミ草、ナデシコが咲いている。それらは死刑囚のにおいがした。長年向き合っていると情が通い出し、こんなにも変わった人間を殺すのかという気持ちになるという。死刑囚にとって朝9時〜10時は魔の時間である。執行日にはその時間におむかえが来るからだ。ある朝午前6時、夜勤疲れでドロンと朝食をしていたら、看守部長が、人さし指を首へあてた。ある時と直感した。N被告はある夜、視察窓から見ると、眠れなくてね、本をみていました。考えれば考えるほどむずかしいですね。それはデカルトの本で哲学を学んでいたからだ。肉体が亡びるのは厭いませんが、生きる幸福が何であるか、それを追求したくてね、こうして話している間も、私にとっては、生きている意識を感謝するひとときです。その熱をおび、理知的な表情を見ると、複雑な気持ちとなる。しかし命令があれば絶命させなくてはならない。死刑執行の日、N被告は起床した。型通り本籍、氏名、生年月日、罪名を答えた。かすかに震える額、頬はぐぐっと走ってみえる血管。こめかみ辺りが脈打っている。さあ、食べてくれと、風呂敷包みのそこには、にぎりずし一折り、サイダー1本、ようかん一さおが入っている。みなさんお世話をかけたね、これでお別れだ。仲よくやってくれてありがとうと、ふかくお礼を言った。やがて刑場へ、N被告に冷たい手錠をしてその縄を持つ。青い獄衣を脱ぎ、青い筒袖キモノに着がえる。はきものは紙緒のワラ草履、ふんどしを真新のに替える。ゆらいでいるローソクの火、立ちのぼる線香の煙。しずかに流れる読経。差し出された煙草の「ひかり」をうまそうに吸っていた。そっと眼にかけられる白布、その前に「ひろい空ですね……」と言った。そして“踏み板”の上に、息づかいを荒々しく、必死にナミアムダブツを唱え、合掌した。そして雷鳴のような轟音が、耳をつんざいた。踏み板はパックリと口をあけ、青衣は宙吊りになり、N被告は何回も何回もくるくる回転した。令和になって誰がいちばん先に吊るされるのだろうか。残虐非道に何人もの人を殺すと、人に殺されることになる。この頃こうなるはずの事件が多く発生している。死刑存続か、死刑廃止か。昨夜『私は見た』を「私は読んだ」。本文より抜粋し、私なりに大幅に短縮してある。私もあなたも死刑囚になる可能性を持っている。なぜなら人間というすこぶる危険な生き物だから。
2019年5月29日水曜日
2019年5月27日月曜日
「フレーズの時代」
昨日は、日本国が永遠に米国の従属国であり続ける姿をまざまざと見た日。戦勝国に無条件降伏した国の無為無策を改めて見るべく、「映像の昭和」を再び見た。悪夢であり、真実であった。日本陸軍の階級は、陸軍士官学校の成績上位者から決まっていったという。満州国をつくった山形県出身の石原莞爾は最上位の成績であり、陸軍大臣の身でありながらピストル自殺をできなかった東条英機は、それよりもずっと下位であった。石原は終生、東条を見下した。海軍は日本陸軍を世界情勢をまったく知らない無知無能の根性論者(終戦時はとくに)で、外交とは何ぞやを知らない者たちと評していた。陸・海・空がバラバラに動き、戦争時の最大重要問題である。食料物資を補給することを無視して“現地調達”を命じた。これはすなわち、現地にて略奪せよとのことである。日本軍の戦死者は、数百万人になった。その死因の70%近くは餓死であった。空腹を極めた元職人さん、元農夫、元先生、元学生、元床屋さん、元魚屋、元八百屋、元そば屋、元乾物屋さん、職業の数だけ生まれた軍人たちが、骨と皮になり、木の根をかじり、雑草を食べ、ネズミ、昆虫、トカゲなど動く物すべてを食べ、最後の命令「玉砕せよ」の命令下、抜刀してひたすら突撃をし、戦勝国の近代兵器によって、撃ち殺され、焼き殺され、爆死させられた。そんな日本軍に対して戦勝国は人間の狂気を見た。「頼むからジュネーブ協定があるんだ(捕虜を守る)。白旗を上げてくれ、ギブアップしてくれ」。神をも恐れぬ異常な姿に、若い兵士たちは気を狂わした。戦後はいまだ73年である。それはいまだ戦後ではないことを物語っている。戦争を体験した人々がたくさんいる。「外交とは術である」と“勝海舟”は晩年、記者たちに語っている。術とは知識、胆力、気迫であるのだろう(外交は相手にナメられたら負けだぜと)。ゴルフ、大相撲、炉端焼き、微笑外交である。すでに事務レベルで主要な答えは出ていて「“とりあえず選挙後”までは待ってやるよ」と、伝えられただけなのだろう。占領下にいる日本人の一人である私自身を確認した日でもあった。深夜、自分のライブラリーのドキュメンタリーを見た。そこには、ボブ・ディランが、ジョーン・バエズが、サイモン&ガーファンクルが、イーグルスが、ビートルズ、U2などが出て名曲を歌っていた。人間は何故に戦うのか、人はどこまで残酷になるのか、国は何故に分断されるのか、人間はどうしてチューンガムをかみながら雑草を焼き払うように人々を焼き殺すのか。そして原子爆弾を落とせるのか。人間は賢者になれないのか、愚かなままか、滅び去るまで狂気の世界でドラッグにまみれるのか、人間は人間によって救けることができるはずではないか。私はフォークソングの復活を確信した。ダンスリズムの時代からフレーズの時代になると思う。「戦争と平和」が目の前に突きつけられて来たのだから。シンガーソングライターたちは、今こそフレーズの翼を広げよ。さて、日本国政府の本音は、トランプに八百長は付きものだ。本当に政治オンチの迷惑なツイッター野郎だぜ。まあ利用するだけ利用するか。あと一日、みなさんおつかれさん、あいつが帰ったらポーカーでもするか、それともゴルフでも。何か賭けるか、えっ、この日本をかい(?)。有史以来、日本人は好戦国民である。一方トランプは、「しっかり貸しをつくっておいたぜ。かなり脅しを入れたから、選挙が終わるまで待ってくれだとよ、ジョーカーはいちばん高いときに使うさ」。こんなところかも。(文中敬称略)
2019年5月24日金曜日
「それでもかつては少女だった」
私はこの世で何が苦手かというと、旅行帰りのオバサンの集団だ。何十羽もいるニワトリの小屋の中に入れられた気分になる。今朝、熱海方面から来た列車の中の3分の1ぐらいがオバサンたちによって占拠されていた。背中に痛みがあったのでグリーン車に乗ったら、そこは「ギャハハハ」「グファファファ」の大合唱。なかには缶ビールを飲んで二日酔いを治めているヒトもいる。靴を脱いだ足を出して豪快に飲んで、大声で笑う。きっと何かの大会かなんかに出たのだろう。賞品らしき物を広げてはギャハハハ、ギャハハハ。大の苦手だが、人間の生態を観察するのが仕事でもあり、興味もあるので隣の車両に行かず、真ん中の空席通路側に座った。このヒトたちもきっと数十年前は少女だったのだろうと思うのだが、イメージがわかない。「チョット、ウルサイワヨ。他のヒトにご迷惑よ」なんて言うヒトもいる。が、昨晩の宴会での何かしら面白いこと、恥ずかしいこと、イケナイことを思い出し合っては、数十羽のニワトリが一斉に羽ばたいたように大騒ぎとなる。小田原の鯛めし弁当とかを食べているヒトの顔にはデンブが付いている(鯛めし弁当の中に入っている)。臭えと思ったのは、列車が大船に着いた頃。漁師さんのところで買ったというアジの開きとかイカとか金目鯛の干物などを広げて、ビニール袋に分けて「アンタ、コレモッテカエッテ」と言ったときだ。プーンと干物の臭いが朝刊を読んでいる他の乗客や、PCを打っている乗客やお化粧をしている乗客たちに襲いかかる。すでに“ハジライ”とか“マナー”とかは忘れている。“オソダチ”なんか知るよしもない。背中が痛いから振り返りたくても振り返れない。大船、戸塚、横浜と少しずつオバサンは減っていった。静かになったそのあとには、ゴーゴーとイビキが聞こえた。もう一度考えた。このヒトたちも数十年前は青春時代の中にいて、恋やら愛やらを感じていたのだろう。みなさん、いい週末を。温泉旅行なんかを是非。
2019年5月23日木曜日
「ノータリンとノーリターン」
オマエたちもう少し能はないのかと怒りを通り越して悲しく、情けなく、馬鹿らしくなる。それが朝のモーニングショー。何かが起きると、全局それ一色に染まる。今朝はどこもかしこも元カツーンだか、ガチョーンだか、ガツーンだか知らないが、たかだかチンピラタレントカップルの大麻問題だらけ(女性は現在、個人事務所の役員)。こんな問題より、今日本国は大きな政治課題、激動する国際情勢の中にいる。この夏の選挙、消費税の是非、対中国、対台湾、対韓国、対北朝鮮、そして最大の問題、アメリカとの貿易問題、対トランプ問題、貧富の格差、教育問題、年金や老人介護、児童問題、若者たちの恋愛問題、少子化、脱結婚化、そしてさらに官邸支配による(外国に対してはペコペコだが)国家乗っ取り等々、とても元カツーンだかガツーンだかに時間をかけている余裕はない。全局、官邸の顔色を見て政治経済問題からは、一歩も二歩も365歩も遠ざかっている。辛口のコメンテーターは全員テレビから退場。かろうじてテレビ朝日・報道ステーションの後藤謙次ぐらいしかいない。これはものすごく危険な状態と言わざるを得ない。テレビ朝日の羽鳥慎一フリーアナウンサーなどを見ていると、何だか唇に紅みたいのをつけて、タイコモチみたいのを演じている。だからバカでアホな親不孝者長嶋一茂みたいな男とか、坂上忍とか、見苦しいヒロミとかのほうが、よほどシッカリ物申しているように思ってしまう。宮根誠司なんかはヤル気なしがミエミエであり、日本テレビ、TBSなどは競馬か競艇の予想屋然としている。朝から昼を経て夜まで、ワンパターンを垂れ流す。国家権力とはつくづく怖いと思う。日本は段々とファシズムになっているのではと実感する。羽鳥慎一を見ると気持ちが悪くなってしまう。元朝日新聞の記者であった星浩なんかは、気の抜けたビールになってしまった。早くテレビから退場して物申せと言いたい。カツーンだかガツーンだかの大麻問題より、はるかにトランプの大相撲ジャックとか、強迫外交とか、やることなすことすべて成果なしの日本国外交の問題のほうが重要であり、科学技術大国だった日本がなぜに世界から置き去りになったのか、まったく検証されていない。中国は今やアメリカをも超える科学技術立国になっている。アジアの大学ランキング(イギリスのクアクアレリ・シモンズ社2019年版)で東京大学は11位、京都大学は14位である。教育に投資しない国に未来はない。日本と対中国を比べると、横綱と十両ぐらいの差になってしまった。国家にビジョンがないからだ。資源のない国である日本が今日まであるのは、先人たちの未来への投資であった。ノータリンとノータリンとノータリンたちが、各省庁の利権争いをしているという。いまだにバブル気分が国力を弱めて行く。そして、ウソ、カイザン、インペイとなる。つまり東大法学部卒の人間たちの本性なのだ。大麻問題もそれはイケナイことだが、国家百年の計を論じないマスコミは猛省すべきときに来ている。朝から晩までやって、ウンザリしているワンパターンを見てアレコレ話題にする、オバサン相手、ヒマを持て余しているオジサン相手、スマホに見入るヤジ馬相手を止めるときに来ていると思った。イラン、イギリス、イラク、アフガン、南北朝鮮、アフリカ諸国、台湾、インド、トルコ、イスラエル、フランス、ベネズエラ、メキシコ問題、そしてUSAのイカサマトランプ。世界は激動しているのにこの国はすっかり認知症的になってしまった。根性出せ、根性を、それがジャーナリズムなのだ。床の間の置き物みたいな論調をしている場合ではない。それにしても羽鳥慎一の尖った唇の赤さは、とても気になった。メイクが下手なのだ。まるで明太子みたいだ。「トランプにつるべとられて もらい水」。これが今の日本だ。ケンカはしないのが兵法の第一。ナメられたら終わり、やるならブルッたら負け。(文中敬称略)
2019年5月22日水曜日
「金平糖」
ごく近い人の話である。ある地方都市で病院を経営していた。すでに高齢となり、足腰も思うようにならず自分自身も車椅子を使って病院へ通っていた。ライオンズクラブだかの会長をしていた。少子高齢化により、この頃は老人施設にして医師である長男とともに、地方に貢献していた。ある年、内閣府よりある賞の受賞の通知が来た。「さあ〜大変」となった。一人で行くことままならず妻も同行となった。まずは二人で礼服を買った。靴下も靴も、ワイシャツにネクタイも、東京のホテルも予約した。褒章の通知が来たと同時に、ゴッソリと額縁屋のカタログが送られて来た(内閣府と通じている)。比較的大きな賞なので、天皇陛下ご本人より受け取った。ここに行くまでも大騒ぎ。東京駅の地下はやはり皇居とつながっていて、いきなり皇居内となった。侍従がアレコレ指示を出して入念にリハーサルをしたらしい。すでにヘトヘト。そして菊の御紋の入った「金平糖」を頂いた。これからが大変。まず県のパーティがあり、市のパーティがあり、出身校のパーティが続いた。招待客のリストづくりや挨拶状の配布、引き出物を何にするか、などなどこれまた大騒ぎ。それでも第1回目は経験したことのないことを経験できたので、テンションが上がった。とにもかくにも事は済んだ。ところが、それから数年後、また受賞通知が来た。今度はかなり大きな褒章である。妻や娘は辞退を勧めたが、本人はこの手のことが決して嫌いではなく、でっかい勲章をもらった。当然のように第1回目以上のパーティが行われた。額縁もドーンと大きくなった。春と秋の約4000人以上の褒章はある種のイベントである。ヘトヘトになった親戚一同はもう二度といらないと言っているようだ。私の尊敬するデザイン界の巨匠は、二度受賞しているが、オフィスの中に埋もれて大きな額が置いてあり、半分ぐらいしか見えない。褒章→額縁→胡蝶蘭→礼服→ホテルにパーティ会場など、すべてがつながっている。辞退は自由なのでご辞退する人もいるらしい。ちなみに織田信長は、大の金平糖好きだったらしい。でも本人に会った人は、今はいない。
2019年5月21日火曜日
「北海道の水ダコ」と「忘却」
昨日朝、訳あって銀座和光に入った。別名服部時計店(SEIKO)である。11時店内はマバラであった。さすがの和光だけあって、スタッフ一人ひとりのあいさつ応対がすばらしい。とても感じいい。時計を買うわけではないが、ちょっとショーウインドーの中を見た。私は高級時計とかに縁はない。というより興味がない。というより買う資金がないと言ったほうが正しい。「オッ、いい時計だな」と一つの腕時計を見ると、やたらに数字が並んでいる。(21,490,400)(にせんひゃくよんじゅうきゅうまんよんひゃくえん)であった。感じのいい女性店員に「昔は、4~5万円の物からあったんじゃないの?」と聞いたなら、「今はその手のクラスは、カタログで見ていただいて、あったらありますよ」と言った。「こんな高い時計、売れるの?」と聞けば、微笑みながら「もちろん月に何本かは売れます」と言った。「あちらにはもうヒトケタ違うほどの物もあります。1億、2億、さらにダイヤモンドがキラキラ光り輝くのは、4億」(これはティファニーの本店にあるらしい)。「腕に2千万円以上もの時計をつけていたら、ブッタ斬ってその時計を売って映画をつくるよ」と冗談を言った。高級時計は今ブームで、中国人や東南アジアの大金持ちがズドーンと買うらしい。銀座にはたくさんの高級時計店が出店している。また、雑誌や新聞広告にバンバン出稿しているのは高級時計だ。ケタ違いの時計を見つつ階段で上に行き、3000円のハンカチーフを2枚、お使い物として買って和光を出た。10人ぐらいがキチンと「ありがとうございました」と頭を下げた。かなり気恥ずかしいが止むを得ない。時計か映画かとなれば映画に決まっている。「忘却とは忘れ去ることなり 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。これは有名なラジオドラマ「君の名は」のセリフである。菊田一夫の原作だったと思う。私は今朝、昨夜どこかへ忘れてきたケータイを探せばならない。完全に忘却している悲しさだ。電通の友人、元東急エージェンシーの友人、会社の仕事仲間たちといろんな話を楽しんでいるうちに、すっかりどこかに忘れていた。「君の名は」それは「ボクのケータイ」なのである。すべてを頼り切っていた天才的凄腕万能女史が去って以来、ずっと何かを探している。まるで迷子みたいな日々が続いている。確かスブタ、シュウマイ、カニタマ、チャーハン、ワンタンを4人でシェアしたのは忘れていない。それとお店の女性が「故里の北海道から送って来たからぜひに」と出してくれた「ミズダコの刺身」。これをショウガで食べたのが絶品だった。私たちの会社の金庫番の女性が、赤ちゃんを生む予定日が昨日だった。きっと連絡をくれるはずだ。やっぱりケータイを探し出さねばならない。きっとゴッタ返しの机の上のどこかにあると思うのだが。大したことのないものを、考えて、書いて、創るしか能がない迷惑千万の人間なのだ。
2019年5月20日月曜日
「見城徹という出版人の謝罪」
多くの作家たちが怒りの声を発している。我が国は思想の自由を憲法で認めている。右翼的であろうが、左翼的、あるいは中道リベラルであろうが自由である(テロリズムは暴力行為だ)。出版不況の中、現在、我が国で数少ない大きな利益を上げている出版社の一つが幻冬社である。社長の見城徹は思想が何かはわからない。出版社社長が国家権力ににじり寄ってしまっては、もはや政商である。その見城徹は出版社として決してやってはならないことをやり、謝罪をした。見城徹の兄弟分だか、親分、子分だか知らないが、百田尚樹なる怪奇な作家がいる。この作家も国家権力ににじり寄っている。国家権力側としては、利用できる者は当然利用する。見城徹と百田尚樹は国家権力者の一人にでもなったかと思い違いをし、NHKやテレビ朝日に人事介入したり、経営にくちばしを突っ込んだりしている。いつの世にもいる小判鮫である。私はネット上のことは一切わからないが、先週末の朝日新聞や東京新聞が見城徹の出版人としてのあるまじき行為を載せていた。それは作家百田尚樹が著した「日本国紀」という本に、他より引用している箇所があり、その引用の出典を明記していないと、作家の津原泰水さんがツイートした。津原泰水さんは文庫本を出版する予定だったが、見城徹は「僕や営業局はこの本を出版することに反対だったが、担当者の熱意に押し切られて出版した。その結果、実売は××でした」などとツイートで反論した(××の部分に実数があった)。出版界のルールとして「実売部数」は公表しないのが慣例であった。なぜなら、本の価値が売れたか売れないかで決まってしまう。100部、200部の出版でも名作は名作として残る。出版社は作家への最低限のリスペクトとしてそう決めてきた。ずーっと売れなくても名作はいくらでもある。「みなさん、この本は現在××しか売れていませんよ」と出版社は言わない。映画界でもヒットしたから賞をもらえるとは限らない。カンヌの受賞作などは難解なものが多く、日本ではほとんどヒットしない。だがしかし、名作は名作として歴史に残っていく。見城徹はもはや“出版人”ではない。自分自身が著者で女性にモテないコンプレックスの塊だと言っているから、金に物を言わせる。または国家権力に近いことを吹きまくる。だが権力は甘くはない。利用価値がなくなったら、ポイッと捨てられる。出版社の社長がもっとも大切にすべき作家に対して、ツイートで怒り、ツイートで謝罪とは、これ以上の恥はない。出版人ならちゃんと活字で反論、謝罪すべきだ。見城徹は一度身を引くしかない。また、作家百田尚樹はしばし断筆するしかない。かつて見城徹は反骨の人だった。(文中敬称略)
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