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2019年5月30日木曜日

「生きる幸福とは」

『私は見た 決定的体験』(文春文庫 1990年9月10日 第1刷)という本があった。グラフィックデザイン界の大巨匠、井上嗣也氏が私に「これ、面白いよ」と数年前くれた本である。井上氏は大変な読書魔でもある。この本は“その人間”と実際に会った人の真実原寸大の話である。この頃、あまりにも異常な殺人事件が多い。そして犯人は自死してしまうケースも多い。生きていれば間違いなく死刑になるはずのものだ。(この手記は昭和27年5月から翌年3月にかけての忠実な記録とするために、日記を基礎にした。[原文ママ])。書いた人は板津秀広生(いたづひでお)さん。当時、名古屋刑務所看守であった。当時は刑務所内でも刑が執行された。以降拘置所になる。当時、毒茶トリオが死刑確定で収監されていた。三人は名古屋市内東京都内で殺人事件を起こしていた。昭和22年名古屋市内では、ある夫婦宅に侵入、出刃包丁でおどして夫婦をしばりあげ、ゆうゆうと正月料理を食べ、現金2万円や衣類を強奪、逃走のさい青酸カリをお茶の中に入れておいた。ご主人はそれを知らず飲み、苦悶の果てに死亡した。捜査陣はその手口から、昭和21年東京都本郷で起きた旅館に宿泊中の洋裁業の男性を青酸カリ入りのお茶を飲ませて毒殺した事件との類似性を感じた。さらにこの事件以後再び名古屋市に戻った。東京で事件を起こした8日後である。そこで3人を逮捕。取調べを進めると、21年に三重県鈴鹿市内でも、煮干加工業の人を殺していた。殺人トリオの手口は残虐であった。死刑からは逃げられない。23年に3人共死刑が確定、以来名古屋刑務所に服役していた。罪を悪と思わない。あれでも人間かと言われた悪鬼羅刹の人間も、死刑が決まり執行される日々を待つ内に、人間的になって行く。読書をしたり法話を聞いたりを続けた結果だ。三人の内の一人N被告は、ネコのように温和になっていた。死を間近にひかえたザンゲなのかも知れない。それでも、「いつでも御座んなされだ。首を洗って待ってるぞ!」とささやいた。二畳ほどの房内には金魚草、カスミ草、ナデシコが咲いている。それらは死刑囚のにおいがした。長年向き合っていると情が通い出し、こんなにも変わった人間を殺すのかという気持ちになるという。死刑囚にとって朝9時〜10時は魔の時間である。執行日にはその時間におむかえが来るからだ。ある朝午前6時、夜勤疲れでドロンと朝食をしていたら、看守部長が、人さし指を首へあてた。ある時と直感した。N被告はある夜、視察窓から見ると、眠れなくてね、本をみていました。考えれば考えるほどむずかしいですね。それはデカルトの本で哲学を学んでいたからだ。肉体が亡びるのは厭いませんが、生きる幸福が何であるか、それを追求したくてね、こうして話している間も、私にとっては、生きている意識を感謝するひとときです。その熱をおび、理知的な表情を見ると、複雑な気持ちとなる。しかし命令があれば絶命させなくてはならない。死刑執行の日、N被告は起床した。型通り本籍、氏名、生年月日、罪名を答えた。かすかに震える額、頬はぐぐっと走ってみえる血管。こめかみ辺りが脈打っている。さあ、食べてくれと、風呂敷包みのそこには、にぎりずし一折り、サイダー1本、ようかん一さおが入っている。みなさんお世話をかけたね、これでお別れだ。仲よくやってくれてありがとうと、ふかくお礼を言った。やがて刑場へ、N被告に冷たい手錠をしてその縄を持つ。青い獄衣を脱ぎ、青い筒袖キモノに着がえる。はきものは紙緒のワラ草履、ふんどしを真新のに替える。ゆらいでいるローソクの火、立ちのぼる線香の煙。しずかに流れる読経。差し出された煙草の「ひかり」をうまそうに吸っていた。そっと眼にかけられる白布、その前に「ひろい空ですね……」と言った。そして“踏み板”の上に、息づかいを荒々しく、必死にナミアムダブツを唱え、合掌した。そして雷鳴のような轟音が、耳をつんざいた。踏み板はパックリと口をあけ、青衣は宙吊りになり、N被告は何回も何回もくるくる回転した。令和になって誰がいちばん先に吊るされるのだろうか。残虐非道に何人もの人を殺すと、人に殺されることになる。この頃こうなるはずの事件が多く発生している。死刑存続か、死刑廃止か。昨夜『私は見た』を「私は読んだ」。本文より抜粋し、私なりに大幅に短縮してある。私もあなたも死刑囚になる可能性を持っている。なぜなら人間というすこぶる危険な生き物だから。



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