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2020年3月6日金曜日

第32話「私は未来」

私は「未来」である。反意語は“過去”である。私未来は絶えず過去につきまとわれ、追われている。私未来は過去からの逃亡者でもある。“未来”この2文字ほど人を裏切るものはない。が、人は未来に向かって行かねばならない。一時期“ファジー”という言葉が流行った。“曖昧”(アイマイ)という意味だ。さほど長続きはしなかったが、何かにつけてそれってファジーだなとか、この問題はすこぶるファジーだなんて言った。ファジーな飲料なんかも多く売り出された。昨日帝国ホテルのカフェラウンジで、出版社の女性編集とそのスタッフ、そして一人のシンガー・ソング・ライターのヒトと、実にファジーな打ち合わせをした。いつもは東京駅みたいに混んでいるロビーに、人は少ない。いつもは席が空くのを待たされるのに、空席ばかり。入り口のアチコチにアルコール中毒液。珈琲カップを持つ手からアルコールの臭いがする、ファジーな打ち合わせとは、すべてが新型コロナウイルス姿第だから、話の結論が“アイマイ”となる。やろう、やれたら、やるならば、やれるまで待とうかとなる。タクシーに乗ったら、お客さんが5割から7割も減ったとか。私未来は、未来が暗いトンネルの中にいるように見える。未来は切り拓くものだから、と思うのだが、スコップもハンマーも、ドリルもダイナマイトも見えない。長いトンネルを抜けると、そこはもっと長いトンネルだった。そんな気分になる。だがリングの上では、ネバーギブアップで闘っていかなければならない。タクシーの中で新聞を広げたら、ある本の広告が載っていた。そこに一行、こう書いてあった。「創業した会社を潰したのは、創業者である」と。1100円を払ってタクシーを降りた。外は風が強くファジーでなかった。なんだか気分が重い、映画でも見るかと思ったが、ガランガランのはずだから止めた。早目に帰宅しようと思った。午後九時二十八分〇二秒、家に着いて時計を見た。手を洗え、手を洗えと言うから、ウルサイ分かっていると言った。会話はそんなものである。午前一時頃から映画を見た。「マリッジ・ストーリー」アカデミー作品賞候補作であった。離婚を決意している男と女のファジーなストーリーだ。離婚調停を引き受けている弁護士は、三度離婚していた。離婚の最大の犠牲者は、幼い子どもである。幼年期でいちばん大きなトラウマは、親の離婚だという。映画は延々と男と女の煮え切らない会話を見せる。途中で止めて、「フェイク」を見た。アルパチーノがマフィアか、潜入捜査官か。フェイク(ダマシ)役を演じていたが、すこぶるつまないので、又、「マリッジ・ストーリー」を見出した。午前三時やっぱりグダグダやっているので、映画は止めにして、大好きなお笑い芸人。「中川家の寄席」を見た。これが実に面白い。主婦になった中川弟の細部にわたる人間の観察眼には、いつもながら舌を巻く。次にレディー・ガガのプロモーションビデオを五本見た。一本製作するのに数億をかけているのだから、見応え十分。圧倒的なアイディアに気分が晴れる。ハリウッドのスタッフワークは驚異的だ。特に編集が抜群だ。おでんの残り、コンニャク、シラタキ、チクワ、大根、玉子、昆布を温めて食べた。カラシをつけすぎて、目から涙がツーンと出た。コンニャクにカラシをつける時は要注意だ。あっそうだ私未来は、未来を語らねばならない。男と女は一緒に暮らし始めたその日から、離婚を考える。あとは我慢比べと諦念と観念と、ファジーだ。そう、結婚とは“アイマイ”の月日なのだ。長く続けるにはそれがいちばんなのだ。“忍耐と我慢との違いを見つける月日でもあるのだ。ファジーはこれからのコンセプトとして、復活させられるかも知れない。過日名古屋駅で食べた熱くない“カレーそば”なんかはファジーであった。私未来に、未来が浮かんだ。メンタルクリニックの医師の悩みは、自分のメンタルを相談する、いい医者がいないことだと聞いた。(ビッグアイデアのヒントだ) 

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