2021年9月25日土曜日
つれづれ雑草「茶碗蒸し」
2021年9月18日土曜日
つれづれ雑草「ハンタン」
2021年9月11日土曜日
つれづれ雑草「行間の愛」
「顔じゃない」これは大相撲の世界で使われる言葉だ。上の者が下の者に対して言う。お前は未だ俺と五分じゃないんだよ、顔を洗って出直せ、みたいなかんじに使われている。ヤクザ者の世界では、十年早いとか、貫目が足らない、そんなことを表わす。もっと命がけで自分を磨け、そしたら座布団の位置を変えてやる。子分が親分に独立して一家を持ちたいと話を持って行くと、こんなやりとりがあるらしい。最も今では子分を使って(忖度させて)コトを起こすと、親分の体で償いをさせられる。(死刑もある)でもって親分になりたがらないかも知れない。白い巨塔だろうが、黒社会だろうが、ピンクの社会でも、アタマ(トップ)を奪い合う時は、実に多彩な日本語が使われる。カラ揚げや串揚げより、一時は人気があった、叩き上げの菅義偉総理、総裁がずい分と脆く、わずか一年でやっとこ登りついた山を下りることになった。ギブアップ宣言である。やはり野に置けレンゲ草であった。コワモテであったが、逃げ足は速かった。七年半ウソ八百をつき通した人間とは、その執念とか、遺伝子が違った。役者が違ったのだ。(別にホメている訳ではない)第100代総理大臣は誰か、初代伊藤博文は、病的と言っていいほどの女性好きであったようだ。つまりよく遊ぶだ。若い頃からそうであった。(英雄色を好むとも言う)岸田文雄、高市早苗、河野太郎が九月十日時点で出馬表明した。キモチ悪い目つきの石破茂は、20人が集まらない。いつもの能書きで終わる。石破派は事実上消失だ。野田聖子はダンナが会津小鉄会系昌山組の人間だったと、認定されていたらしいので、論外だ。(スツ堅気になっていても、黒い過去は引きずる)いざ鎌倉! となった時に、どう動くかで人間の器量がわかる。岸田文雄、高石早苗は、余り身近でないが、河野太郎は私たちの選挙区選出である。(私は一票を投じてないが)親分麻生太郎に何度も協力を求めるその姿はイジマシイ。このまま行くと、麻生派少し、二階派少し、石破派少し、菅一派少し、それに小泉進次郎、まるでピカソのゲルニカのような顔になってしまう。もともと麻生派内では、アイツは離れに住んでいる奴(本当の住人じゃない)と言われていた。あ~嫌だ嫌だ。さて、アメリカは次は誰にしろと命じるのだろう。岸田文雄は親中的であった。高市早苗だと中国は国交断絶するとオドスだろう。脱原発の河野太郎は論外。自民党幕府は事実上終ったに等しい。大局観を持った人間が求められる。100代目もすぐ辞める。(来年の参議院選挙で負ける)101代目こそ重要な人間の出番となる。それが与党か、野党からかは国民の清き一票、マスコミの正しい報道から生まれる。小選挙区をやめて、中選挙区にしたほうが人物がでる、それを考える時が来るだろう。かつの「三角大福中」三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘。それなりに「顔」であった。小選挙区しか知らない虚弱な若い議員は、顔を求めて右往左往する。議員会館は広くて美しい。まるで一流ホテルだ。落ちればダンボール箱を持ってすぐに出て行かねばならない。最も敗けて学ぶの格言もある。国家100年の計を持った人が出て欲しいと思う。その意志、岩の如くだ。「ロマンスドール」という映画を見た。画家のためのヌードモデルのアルバイトをしている女性が恋した男は、ダッチワイフを作る会社に勤めるアート職人だった。より本物の女性に近いものを作るために、男はその女性を必要とする。顔より肉体である。女性役を蒼井優、男の役を高橋一生が演じる。本物の女性とダッチワイフ。そのピュアな愛の結末は。「愛を読むひと」を久々に見た。1995年初老の法律家が惰性の生活の中で少年の頃を思い出す。15歳の少年だった時、あるキッカケで市電の車掌の女性と出会う。歳はずっと違う。が二人は強く求め合う。初体験の少年と、愛を知り尽くした女性、文盲で本を読まない女性は、少年に本を朗読してもらう。ホメーロスの“オデュッセイア”“ チャタレイ夫人の恋人”いろいろな本に女性は反応する。小説家は一行一行の間に、本当に書きたいことを書く。つまり読者にイメージを広げてもらうために、本当に書きたいことは書き残さない。“行間の愛だ”、それはある日女性が住んでいた、裏街の安アパートメントから消えることで終わる。そして月日が経ち、再会したのはナチスドイツの戦犯を裁く法廷だった。1922年生まれ43歳であることを知った女性は、被告席に立っていた。女性はアウシュビッツの収容所で、命じられるがままに、殺されゆく人々を選別していた。女性は収容所の中で、若い男を選び本を読ませていた。死の行進の前まで。大学生になっていた男は、勉強のために裁判の見学に来ていたのだった。そして……。スティーブン・ソダーバーグの、名作「セックスと嘘とビデオテープ」を久々に見た。人間は単純にして、実に狡猾に造られている。悪魔はいつも微笑みながらやって来る。ニュース画面では河野太郎が嘘を隠して不気味に微笑している。無期懲役となった女性のところに、本を朗読したテープが差し入れられ続ける。ずっと、ずっと、ず~と。女性は老いて行きながら、文字を学んでゆく、そして……。初老になった男は、毎晩のようにマイクに向かって朗読しテープをつくる。初体験の女性のために。(文中敬称略)
2021年9月4日土曜日
つれづれ雑草「勝南桜」
2021年8月28日土曜日
つれづれ雑草「マナーホテル」
人間が笑っていない。全然笑っていない。長引くコロナ禍で、みんな口をマスクで塞いでいるからだ。それに笑う種もなく、笑っている場合ではないからだ。東海道線の中にはオモシロイ人とか、不思議な人とか、思わず声をかけたくなるような人もいない。そもそも東京に出て行くことも少ない。“ワクチン打った”が合言葉みたいになっている。ホタテアレルギーの私も仕方なく9月8日に打つ、その次は9月28日と決めた。おそらくこのコロナ禍は、来年もその先も、そのまた先もと続く。“本物のワクチン”が見事開発されて、インフルエンザのようになるには、10年近くかかるだろう。地球の緑を守らないと、新しいウィルスが次々と人類へ復讐をする。例えばアボガドが体にいいとブームになり(外国で)アマゾンの緑の大地を、一日で東京23区分を奪っている。アマゾンの大地は地球温暖化を防いでくれているのに。ヤクザ者の中でアイツはタコだと言われる、ハンチクな人間がいる。蛸は自分の足を自分で食べてでも生きるという。タコといわれるヤクザは、自分で自分の体を傷つけて、医療保険や仕事をしていたようなことにして、失業保険をもらったりする。私はずっとむかしそんなタコを何人も見た。地球は今、ヤクザな人類によって、タコとなっているのだ。中国人が豊かになり、松阪牛、佐賀牛、飛騨牛、山形牛、などというブランド牛をモリモリ食べる。湘南にも葉山牛などというのもあるが、味はイマイチだった。先日秋留牛(あきるの)というのを食べたが、旨かった。(三切れだけ)食肉牛を一頭育てるためには、たくさんの牧草、たくさんの餌、たくさんの水が必要となる。でもって緑の大地をバンバン牧草地にしている。我が国の水源の多くは、すでに中国資本に買い占められている。これから先地球は中国人の胃袋を満たすために、大地は荒らされ、やがて砂漠化する。ナァ~ンテというドキュメンタリー映画を見たあと、ウソみたいなホントの話を、95分間のドキュメンタリー映画で見た。映画のタイトルは、「覗くモーテル」80歳になるアメリカの高名なノンフィクション作家のところに、78歳になるモーテル経営者から一通の手紙が届く。作家は“性の研究”を次作のテーマにしていた。(ニューヨーカー誌から出版予定)それを知ったモーテル経営者は、自分の47年間に及ぶ、覗き(ノゾキ)の性生活を、本にしないかと持ちかけたのだ。マンハッタンに住む作家は大いに興味を持ち、バッチリとした仕立てのスーツを着て、コロラド州オーロラにある“Manor House”(マナーハウス)というモーテルの経営者宅を訪ねる。夫婦で作家と対応する男の話は、ビックリギョーテンのマナー違反だった。そしてその男のマナーを取材していく。男は47年前モーテルを買い、自分でコツコツと一年かけて、覗き部屋を作った。部屋にある通気口から部屋全体が見れるのだ。江戸川乱歩の代表作に確か「屋根裏の散歩者」というのがあったが、この男は一年365日毎日この屋根裏の中から、あらゆるカップルのあらゆる行為を見ていたのだ。口伝だがあるヤクザの親分が、自分の経営するホテルの一室に、覗き用のカメラを取り付けて、その部屋で行なわれることを見るのが趣味だったとか。世の中でやってはイケナイことをしているヒトは、十分に気をつけるべしだ。人間はそこに穴があると必ず覗くという習性があるのだから。足利尊氏の執権だった、“高師直”(コウノモロナオ)という悪党(当時は武士を悪党と呼んでいた)が、人妻に恋をして、入浴しているところを覗くというバカなことをした。実力第一だった高師直は、横恋慕の末に塩谷判官(エンヤハンガン)夫婦を遂には殺してしまう。この話は歌舞伎の演目にもある。さてマンハッタンに住む老作家は、「覗き魔・ワース」と言う題名の本に取り組む。そして、ニューヨーカー誌の女性編集長のところへと行く。仕立てのいいスーツで。マナーハウスの経営者は、マナー違反47年、さて、どうなるか……。人の心は、穴をあけて見ることはできない。女性編集長は老作家に言った。あなたもちゃんと覗かないとダメよと、勿論と老作家は応じた。笑ってられない話だ。(文中敬称略)
2021年8月21日土曜日
つれづれ雑草「徳之島の夏」
2021年8月14日土曜日
つれづれ雑草「本当の金メダル」
惚れてしまえば、アバタもエクボと言う。熱くなった男と女は、ブレーキが効かなくなった列車のように、停まることなく走る。“プッ”と出たオナラでも“カワイイ”とか言う。そうして、ああして、こうなって、私の知る二人は今区役所に離婚届を出そうとしている。Why何故か、いざ一緒になってみれば、いちいち、一つ一つが気に入らない。カワイイと言っていた、お互いのオナラも、ダラシナイサイテーとか、ヤメテヨサイアクとなり、惚れたアバタもただのシミにしか見えなくなる。ある劇作家は、「幸福は、ほんのすぐそばに、息を殺して待っている」と言う。又、「幸福には翼がある。つないでおくのはむずかしい」と、シラーという人がシラーと言っている。長引くコロナ禍の中で、いままでよりお互いを見る時間が増えた。付き合っている男女、同棲中の男女、結婚したばかりの男女。もう、うんざりするほど一緒にいる夫婦。(同性の場合もある)惰性という二文字にその身をまかせている人もいる。コロナ禍でお互いの魅力を新発見して、YESコロナの人もいれば、当然その逆の人もいる。あ~やんなっちゃった、一日中家に居るなんて、亭主は元気で留守がいいのに、あのCMが懐かしいわ、確か“タンスにゴン”だったわと。センベイかなんかバリバリ食べ、ゲームをしながらゴロゴロしている亭主を見ている。キャーヤッタァーとか叫んで見ていたオリンピックは、もう忘れてしまった。遠い昔のイベントだ。“忘却なくして幸福はありえない”なんてことをある作家は書いている。私は民衆は熱狂して、冷めやすいと書いたが、クール(賢い)であることを忘れていた。オリンピックで人気をUPさせようと、大金を使った政権の支持率が、軒並み最低となった。政権べったりのNHKや読売でも支持は落下だ。民衆はクールだったのだ。if(もし)オリンピックを見てなかったら、10%台の支持率が出ていたかも知れない。油断大敵今度の衆議院選挙では、アッとオドロク結果が続出するはずだ。その前に政権は顔を替えるだろう。壁にしがみつく指を、一本一本取りはずすのだ。俺はもっとやりたいんだ、ダメだあんたじゃすでにオプソ(終り)なんだよと。もう、面倒を見きれない。アバタもエクボじゃない。「幸福とは、そのまま変わらないで続いてほしいような、そんな状態である。」(幸福論)一度手にした巨大な権力を、潔ぎよく手放す権力者はいない。よくつく、ずっとつく、しがみつく、なのである。「イカロス」というドキュメンタリー映画を見て、やっぱり合点したことがある。今度のオリンピックで世界新記録が殆ど出なかった。特に陸上十種目競技とか水泳や重量挙げなどだ。スポーツ大国アメリカとロシア(今回は国として出れない)は、散々な記録だった。アメリカは陸上のフィールドで金メダルを奪ったのは、確か1600メートルリレーだけだ。Why何故か、それは、ドーピングをしていないからだ。イカロスという映画は、そのドーピングが国家プロジェクトとして、行なわれていたことを精密に描き出した。科学者たちは命がけでドーピングを行なっていたのだ。又、知りすぎた人間は……。今回ロシアはROCという連盟で出場した。金メダルを奪っても国歌は流れない。「あるアスリートの告発」というドキュメンタリー映画では、アメリカの女子体操選手たちが、一人の小児性愛者の医師による、性的スキャンダルを告発した。体操連盟の医師が治療という名のもと、長い間何千人もの子どもたちを犠牲にした。今回のオリンピックに出場した、スーパースターの体操選手もその一人であった。オリンピック前医師は有罪になっていた。しかし精神的なストレスが原因で、金メダル有望の種目をパスした。最後に平均台に出場して銅メダルを手にした。私はオリンピックというものが、かわいそうになってきた。日本の選手たちが金メダルを一個奪ると1200万円以上も手にすることを知った。フェンシングの選手はスポンサーから一億円をもらった。ヤメロヤメロ、ヤメダ。106人出場して30人位が棄権したマラソン。私はいちばん最後まで走り抜いたビリの選手に金メダルを送りたい。今度のオリンピックが、今度の衆議院選挙と重なる結果を暗示する。マサカ、マサカが起きるはずだ。民衆は、パンとサーカスにだまされない。コロナウイルスにだまされない。誰れが何をしたか、誰れが何を語ったか。混乱を極める。河野太郎、西村康稔、田村憲久を誰れが選んだか。他の大臣たちは何をしているのか。その存在と、その名前すら浮かばない。「人間は本当に落ちるところまで落ちると、もはや、他人の不幸を喜ぶ以外の楽しみはなくなってしまう。(ゲーテ)今やそこまで落ちている。♪~惚れて振られた 女の心 あんたなんかにゃ わかるまい……。森進一の歌を明け方に聞くと、逃げを打つ人間が見えて来るのだ。世の中には死ぬことよりも、つらいものがある。それは生きて行くことだ。最後まで走り抜く、歩き抜く、這ってでも辿り着く。それが本当の金メダルなのだ。あ~、もしもし俺だけど、弁護士を紹介しろってか、いよいよ泥沼に向っている。一度嫌いになったものが、元に戻ることはない。私はヨロズ相談にのっている。そのためにドキュメンタリー映画をこれでもかと見て勉強しているのだ。事実は小説より奇なり。 (文中敬称略)
2021年8月6日金曜日
つれづれ雑草「パンとケーキ」
ノドチンコがブチギレるんではないかと思うほど、アナウンサーは絶叫する。金メダルだぁ~、やったぁ、金メダルだぁ~。私はスポーツ大好きであるから、当然オリンピックそのものは大好きだ。といって私はナショナリストではないので、ニッポン、ニッポンとばかりは応援しない。日本選手よりも小国の選手を応援する。一着に輝いた選手より、一周おくれでも、ヘトヘトになってゴールする選手に拍手する。各スポーツ協会は、莫大な強化予算をもらって、スポーツ選手を発掘して育てる。勿論、恩師や友人、知人、ご近所の人の熱い支援もある。オマエウルセイんだよ、と思っている松岡修造は、とにかく暑苦しい奴だ。だから私はこの男が出ると、すぐにテレビを他のに変える。日本人の金メダル候補を見ていると、古代ローマ時代の剣闘士(グラディアートル)を思い起こす。為政者たち(今回の場合は日本国政府とそのリーダーである)は、自らの失政を隠すために、愚民政策をする。食糧をばらまき、剣闘士たちが、死闘するのをコロシアムに集めた大観衆に見せる。人間対人間、人間対ライオンやトラなどの野獣との闘いもある。闘いに負けた者は、為政者が握った拳の中から、親指を出し下に向けた合図と共に、大観衆は、殺せ! 殺せ!の大合唱を浴びせる。そして殺され、野獣の餌食となる。歴史上、帝国や王国と名のつくもので、滅亡しなかったものはない。(形ばかりの王政を残しているが)つまりパン(食糧)とサーカス(娯楽)によって結局は滅びる。(詩人ユウェナリス)観衆とは熱しやすく冷めやすいものである。前回の金メダリストの名を何人憶えているだろうか。強化費という食糧をたらふくもらった各スポーツ協会は、金、銀、銅メダルを追う。今回の日本では金こそがメダルであって、銀や銅の選手は、あの円谷幸吉選手のように、責任を果たせずに申し訳ありませんと涙を流す。金メダルを目指す選手を見ていると、戦時中の肉弾三勇士とか、神風特攻隊を連想する。見事敵をやっつけて金メダルを奪っても、そこに笑顔はない。息をすべて失ったかのように、深い、深い、呼吸をする。銀とか銅だと、もう敗者のように言葉を失う。バカなインタビューアーが、未だゼイゼイしているのに、つまんない質問を長々とする。日本刀でブッタ斬ってやりたいと思う。スケボーとか、サーフィンとか、遊び心でやっていた少女や若者は、笑顔がいっぱいである。金メダルを背負わされていないからだ。金メダルは恋人です、なんて言える。ユニフォームさえ着ていない。これでいいんだよと思う。元々は参加することに意義がある。としてオリンピックは始まったのだから、新聞の各国メダル獲得表も、本当は禁止であったはずだ。私はいちばん下から見る。名も知らなかった小国に、銅が一つ、銀が一つ、金が一つだとよろこぶ。かつてのスポーツ大国や日本は、肉をバンバン食べて、世界中のいいコーチをつけて、科学的に選手を発掘、育成する中国にメダル数で、全然かなわなくなった。この差はどんどん広がって行くだろう。走力、跳躍力、投擲力、スポーツの原点である。十種競技で日本人はそれほど進化していない。オイテケボリだ。卓球とか、バトミントン、テニス、スケボー、サーフィンのように道具を使うものとか、体操や柔道という伝統的なものでメダルの数を増やす。道場とかマット上は畳の上で育ったから得意だが、フィールド競技はダメだと思う。根性論ではなく、食生活も含め、もっと科学的に練習することだ。女子体操の村上茉愛選手が床運動で銅メダルを得た。私はこの選手が立って歩けないほど体中を壊し、負け続け必死にリハビリをする番組を数年前に見た。身長148センチ、決して足は長くない。太くて短いと言ってもいい。が、この選手は底抜けに明るく、前向きで、悔し涙を流しながらも笑っていた。神の代わりがお母さんだった。村上選手に希望を与え続けた。だから奪ったではなく、得たと言いたい。すばらしい笑顔に、いちばん感動を得た。国民というのは冷たい。ずっと日本中を感動させてきた、内村航平選手が、鉄棒でミスをしてメダルを逃した。やっぱり世代交代だ、もう橋本大輝選手の時代だとなる。内村航平選手へのいままでの賛辞はまったくなかった。オリンピックがすすむ中で、為政者は、皇帝ネロになったが如く、次々と悪政を進め、コロナ禍は拡大し、自力にて治療せよとなった。死にそうになった人しか病院に入れない。少年院には、初等、中等、特少(特別少年院)のランクがあるが、コロナ感染者は、特少でないとすぐに病院に入所できない。(他に医療少年院がある)ニッポンガンバレ! は、もうすぐ終り。熱しやすくて、冷めやすい国民は、猛暑の中で我にかえり、ニッポンヤバイ! となる。アーメン・ソーメンどうかコロナ禍が……。と願うのだ。パラリンピックは(?)非情な国のリーダーの目は、すでに自分自身のことしか考えていないようだ。それにしても、何故コロナの問題解決のために、科学者たちを頼らないのだろう。養老孟司さんとか山中伸弥教授、福岡伸二教授とか。多くの分野にすばらしい学識研究者がいる。私は今、チリの映画「盲目のキリスト」を見始めた。実に静かだ。暑苦しい松岡修造がいないのがいい。スポーツはまず、かけっこだ。少年たちの走力が弱くなっていると調査の数字が出ていた。映画を見ながらすする、深夜のソーメンは格別に旨い。白いメダルだ。(文中敬称略)
2021年7月31日土曜日
つれづれ雑草「必死」
つれづれ雑草「必死」
勝負事に絶対はない。と言うよりこの世に絶対は一つしかない。それは“必死”だ。生あるものは必ず死ぬ。これだけは皆平等だ。必死にがんばるという言葉がある。文字通り死ぬ気で目標に向かうという崇高な行為だ。余力を残して決勝で全力をと思って、金メダル候補の瀬戸大也選手が、400メートル個人メドレーで予選敗退した。0秒32の差で8位になれなかった。4種目の自由型を流しながら泳いでいた。他の選手たちは必死で泳いだから瀬戸大也は負けた。以後どのレースでもメダルがとれなかった。調子が狂ってしまったのだ。その逆に奇蹟が起きた。チュニジアの18歳、アハメド・ハフナウーイ選手は予選も必死で全体の8位で決勝に、そして更に必死に泳いで、2位に0秒16の差で勝ち、金メダルをとった。水泳王国アメリカでもオーストラリアでもない、躍進著しい中国でもない。政情不安で国内混乱の中から出場した、チュニジアから金メダルなんて、神も信じられない出来事だった。オーマイゴッドだ。余力を残してという甘い気持ちは、必死抜きによって、水泳ニッポンを金メダルなしに沈めた。ニッポンの負けに選手は信じられないを連発した。バカ者め必死にがんばらない人間に栄光はない。金メダルラッシュといっても、半分はお家芸の柔道だ。その柔道も国の威信をかけ100キロ超級では三位もなれなかった。必死が持続しない。つまりヘトヘトだった。柔道もポイントかせぎのスポーツになってつまんなくなった。スケボーの13歳の少女に専門のコーチはいない。強化費もない。でも少女の栄光は楽しい必死で、大逆転して生まれた。ビーチバレーは砂場の遊びでやめた方がいい。美しくない。必死が見えない。サーフィンは会場の海の色がすこぶる汚いので、見る気がしなかった。六チームしか出場しない野球に何の意味があるのだろう。それもプロの選手だ。やめた方がいい。オリンピックとは“必死の美”が感動を生む。仕事だって同じだ。まあこんなもんでいいかと、勝負に行けばほとんどプレゼンで勝てない。マムシのようにしつこく、一夜にして全部やり直す。必死になってこそ勝てるのだ。勝負は一位が全て、第二位はなぐさめでしかない。“愛の告日”も必死が伝わらないと一緒になれない。現在ほぼ5分に一組ぐらいが離婚をしているらしい。男は浮気をする。女性が不倫をする。がある意味、文学的には健全だ。一人の男性、一人の女性とずっと性生活なんて、ウソ以外何者でもない。男女の不倫は、東京中のホテル、連れ込み旅館の上得意だ。東電OL殺人事件みたいに、超一流企業の高学歴の人間が、夜は着替えて変身し客を求める。金だけではない女性も男も実は変態な人が多い。昼はエリート夜は街に立ちつくす。体いらんかねえ~と。そんな人たちも必死なのだ。解離性同一性障害なのか、自分の中のもう一人の自分が、夜な夜な現れるのだ。昨夜佐野真一の本で読んでいた、「東京OL殺人事件」を題材にした映画を再度見た。ネパール人ゴビンダさんが冤罪で捕まり、何年も刑務所にいたが、必死で無罪を訴えていた人たちの努力で、解放された。つまり真犯人はどこかにいるか、死んでいる。ある賢人は、「モノはね、壊れたら捨てるのではなくて、直すものなんだよ」と言う。“甘い嘘よりも、苦い真実”。陶芸の世界に“金継ぎ”というものがある。壊れた陶器も金継ぎをすればより強くなる。父親も東京電力のエリート、自身も超エリート。プライドというものから、実は必死で逃れたかったのかも知れない。一日の目標は四人の客を引くことだった。きっとSEXすることが金継ぎだったのだろう。克明にノートをつけていた。会社の仕事のように。コロナ禍はいよいよ拡大をする。オリンピックもいよいよ陸上が始まり、オリンピックらしくなる。が、日本人はマラソンか400メートルリレー、競歩位しか期待できない。より速く、より高く、より遠くへ。それに対しては、いくら必死になっても世界には通じない。つまり身体能力は世界のレベルになっていない。昨夜10000メートル競走を見たが、一着のエチオピア選手とは、一周もおくれていた。バドミントンの桃田選手、テニスの大坂選手などは、必死以前の問題があったようで、まるで別人だった。日本にもメンタルトレーナーが必要だ。私の体をメンテナンスしてくれる、平塚の鍼灸の達人は、円盤投げの選手でインターハイに出場したとか。でも日本人は全然世界レベルに達していないので、残念ながら応援する選手はいない。槍投げも、砲丸投げやハンマー投げも。これらの競技こそ肉体の祭典、オリンピックの正当な種目だ。ある雑誌の調査によると、次の衆議院議員選挙で菅政権は終る。与党は大敗するとあった。やはりオリンピックは無理筋だった。菅総理は昨夜会見をしたが、目は死んだ魚のようだった。鯵(アジ)に似ていた。必死を怠った人間は、きっと落選する。歴史が激変する気がする。親愛なるコピーライター、赤城廣治君が、熊本城をビジュアルに使ったポスターに、「籠城じゃ。」家にいよう。みんなで打ち克とう。というコピーを書いて栄誉ある東京コピーライターズクラブ(TCC)の、審査委員長賞を受賞した。この男ほど、必死に仕事する人間はいない。皆さん、必死で家に籠城を、つまりステイホームを。栄誉も栄光も、奇蹟も、必死にやった者のみに与えられる。(文中敬称略)
2021年7月23日金曜日
つれづれ雑草「血だらけのキス」
中国でもイジメの問題は深刻のようだ。2019年製作、デレク・ツァン監督、中国・香港映画「少年の君」は、現代中国の受験問題、校内のイジメ問題、社会の底辺で生きる少年問題や、格差社会を正面から描いた話題作である。中国で興行収入280億円近くを叩き出した。青春映画ジャンルでは、歴代第一位、数々の賞を受賞した。先週日本で封切られた。私は封切りを待ちわびていたので、すぐに新宿武蔵野館に行って観た。韓国映画の名作「息もできない」に匹敵する作品であった。中国でも韓国でも国が映画産業に大きな予算をつけ、有能な人間を世界中に行かせて学ばせている。「少年の君」は、北京大学か精華大学を目指す一人の女子高生と、社会の底辺である、ストリートで生きる不良少年との物語なのだが、この映画は一筋縄ではいかない。暗く、重く、醜く、その先きがない。有名大学に入れたい母親は、犯罪スレスレの事をしながら女手一人で娘を育てている。娘は清楚で美しく成績も優秀である。それ故クラスメイトたちから妬まれている。ある日校内で一人の女生徒が飛び降り自殺する。校庭に横たわる死体を皆は言葉失い見ている。少女は自分の身につけていた服を持って近づき、死体に掛けてあげる。それを見ていたクラスメイトたちは、少女への憎悪を行動で示し始める。イジメられ傷つき家に帰る少女は、暗いストリートで集団暴行を受けている少年を見る。不良グループのリーダーは、血だらけの少年と、そこで起きたことを見た少女をひざまずかせ、キスをしろと命令する。血だらけの少年少女は暴力下の中でそっと唇を合わせる。一流大学を目指す暗い少女と、何も目指すもののなき不良少年は、こうして出会った。この映画には心からの笑いというものがない。未来というものがない。ただ現実というのが無数の受験生の中にある。中国の全国統一大学入試試験を“高考”というようだ。それに挑む生徒の集団には圧倒される。苦難の道に向かう囚人の群れのようであった。トンネルを抜けると、そこはもっと長いトンネルだった。人生というものは、キリストの如く、“苦難の道”である。なかなかイエスとはいかない。だがしかし泣いてばかりではいけない。ボヤイてばかりもダメだ。与えられた運命線の上をガッタン、ゴットン進むのだ。宇宙に旅する時代がすぐそこに来ている。世界の大金持ちたちは、今後こぞって行くだろう。何を感じて地球に帰って来たのかは分からないが、おそらく次の金儲けを思いついたのだろう。オメーラ地獄へ墜ちろといずれ神は命じるだろう。ちなみに地獄へは無料で行ける。税金を払わずに大儲けして来たから、八大地獄へご優待だ。「少年の君」あるいは、「君の少年」誰にも淡い恋の思い出はある。コロナ禍の中でそっと思い出すのもいいと思う。岩井俊二監督の「ラストレター」は、オススメだ。島根県松江市の海岸で、キスの投げ釣りをしていた人に、な、なんと2メートル、125キロのマグロが掛かった。格闘すること8時間、釣り人たちの手をかりて見事釣り上げた。(木曜日のニュース)キスがマグロに大変身した。「CURE」という黒沢清監督の昔の代表作を見た。CUREとは、“治療”という意味がある。主役の役所広司が若々しい刑事を演じている。人間には潜在的に殺意がある。かつて大学で心理学を学んだ一人の男がいる。催眠療法を学んだその男自体が、自分から離脱している。その男と接すると、例えばいままで仲良かった夫婦が、恋人同士や警官同士、会社の仲間が、そして刑事までもが、突然仲間を殺してしまう。人間は大なり小なり身近な存在に、潜在的に殺意を持っている。今では世界的監督となった黒沢清だが、私はこの作品がいちばん不気味だと思っている。小栗旬と中村獅童が、本人と分身の役を演じた「隣人13号」という作品もいい。15年以上前の作品だ。小学生の頃醜いイジメを受けた少年が、オトナになり自分をイジメた奴等に復讐する。イジメのリーダーは若い頃暴走族の総長になり、その仲間の女性と結婚して、堅気になり大工職人となって、息子と妻と三人でアパートに住んでいる。その家族が住んでいるアパートに一人の男が引っ越して来る。部屋の番号は「13」だ。小学校の頃のイジメのトラウマを背負ったその男には、やさしい自分と、凶暴な自分が共生している。井上靖雄監督2005年の作品だ。“反省だけならサルでもできる”と広告界の巨匠が書いたが、私はこのところ過去を思い出しては、サルのように反省している。ヤキが回ったのかも知れない。16年前の小栗旬の全裸のシルエットは実に美しかった。その気がある人にはぜひ。映画も実に良く出来ている。目の前で善意ある言葉をかけている人の中にも、殺意が秘められている。人間とは恐ろしいとつくづく思うのだ。そして呪われたオリンピックが開催される。何が起きるかは、疫病神に電話して聞くしかない。あ~モシモシ……モシモシ……。
(文中敬称略)