桜の樹の下には屍体が埋まっていると書いたのは梶井基次郎。吉野の山桜の下を通ると人の気が狂うと書いたのは坂口安吾。桜は軍国主義の花の象徴、日本国の精神の象徴であり続けた。山桜に風情を感じるが人々が花見弁当を持ち、酒を飲んで騒ぎ、歌って踊って喧嘩三昧、席の取り合いシートや畳の広げ具合でモメにモメる。
オレは昨日から来てるんだ、アタシなんて三日前からよなんてわめき合う。
とにかくウルサイ、キタナイ、巨大なゴミの山また山。私は花見の集団が大嫌い、美意識がない野次馬の群れだからだ。車券や馬券や舟券を買う群れにも似ている。
一方はにぎやかだが一方はネズミ色の群れ、予想新聞と赤鉛筆を持った灰色の群れ。
ある夜応援するボクサーの防衛戦があって後楽園ホールに行った。
一階週辺に薄暗い人、人、人。テレビの画面にはナイター競馬の中継。ボサボサの髪、金髪、イガグリ頭、握りしめる新聞と赤鉛筆、座っている者、壁にもたれている者、焼酎のウーロン割とかワンカップを飲みつつウロウロと回るもの、四、五人で何やらヒソヒソ話をする者、様々な職業の者、あらゆる年代の者たち煙草の臭い。
この場所には美意識のかけらも、人間としての誇りもプライドも生きている存在も夢も希望もない。絶望というゴールに向かってひたすら進んでいる、一歩一歩。
満開の桜の下で狂乱する数十万、数百万の人々にも決して希望がある訳ではない。今日一日何もかも忘れ酔って大騒ぎしたいのだろう。ヘドにまみれる若い娘。口から泡を出して倒れている若者。人前で平気で立ち小便をするという不届きなオッサン。みだらな格好で歌を唄うオバサン。大人不信の始まりの様な眼差しでそれらを見ている子供たち。注意をする警官と争う会社員たち。仕事中は元気を出さないがこういう時にはその存在を際立たせる宴会部長。十五人位が車座になって軍歌を放歌する元日本軍人たち。
私はどうしても桜が好きになれない。しかし山の中にひっそり咲く桜は好きだ。一本一本ポツンポツンと決して太くなく大きくもない。樹々の群れの中に静かにそっと咲く一輪の花の様なのがいい。
横浜から列車に乗るとどこの桜を折って来たのか二、三本の桜の木を持った集団がいた。余程ウルセイと声を掛けようと思ったが、ジジババにはもうウンザリしているので連れが言う様にあれも又人の姿ですよの言葉にそうだなと思った。せっかく横浜のグランドホテルでアカデミックな会話を楽しんだ時間が消えて行った。
水戸偕楽園、岡山後楽園、金沢兼六園、京都、奈良、熊野古道、出雲に厳島、行くとこ行くとこ中国人の群れ又、群れ。
梶井基次郎が言った桜の樹の下に屍体があると言ったのは戦争で死んだ無数の人の命、又、無数に殺した他国人の命の事かもしれない。坂口安吾がこの桜の下を通ると人は狂うと言ったのは桜の花ひとひらひとひらにやはり戦争で死んだ無数の命、愛した人の命の数かもしれない。軍歌にはやはり桜なのだ。血の色、血の臭いがする。暫くは我慢の季節だ。絶対に怒っちゃ駄目とも言われているし。なるべく人の群れに近づかない様にと心に決めている。桜を観るなら山の中で二人でしっぽりがいい、黙して語らず一献また一献。そしてスコッチのロックスだ(実は桜にスコッチはよく似合う)。
仕上げはいつものジントニックを一杯、口の中を洗う。
朝もやの中冷気で窓ガラスが曇っている。山のざわめき、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、風の音、窓を開けると遠くの山に薄桃色のしっかり主張した一本の山桜それを観る、これが私流の花見。振り返ると未だ半分寝ている半身の美しい裸体、寒いと、一言これが理想の映像美。いつか映画にしたいと思っているのです。
昼は魚観荘へ行く。広い竹林の中に平屋の屋敷、周りには美しい鯉たちが堂々と泳いでいる。京都、奈良にもない佇まいだ。川魚と鯉料理、全ては離れ造りでいいですよ(でも教えたからもう行かない)
鯉は百年生きると言いますから、百年の恋をする方々はぜひ魚観荘へ。但し、ウルサイジジババは断られますのであしからず。
恋よ鯉です。
0 件のコメント:
コメントを投稿