私は「筋肉」である。私筋肉には人に見せるほどの筋肉はない。しかし世の中には余りある人も多い。私筋肉が思うに、筋肉は有り金に似ていて、一度身につけたら金輪際離したくないようだ。人に見せたい筋肉は日々の鍛錬とプロテインを飲むことにより生まれる。通常の運動によって作られた使う筋肉と違って、ボディビルダーが如くのようになる。それは一見して分かる。こうして作られた筋肉は人に見てほしくなっていく。白いタンクトップを着ることを好み、ハチ切れんばかりの両腕や、肉体に砲丸が入ったかのような“チカラコブ”を自慢する。胸の筋肉は両腕の動きとともにビクビクンと動き、その下の腹筋は、モナカアイスのように分割される。あ〜なんて美しいのだと鏡の中の自由に魅入る。さらに両足はとなると、両ももは巨大な手羽先のようであり、両ふくらはぎは、柳葉魚(シシャモ)の大親分みたいになる。二つのお尻の山はまるでスイカだ。こうなるとやはり体は褐色というか、小麦色でないとマズイ。オイルを塗っては、日焼けサロンの紫外線を浴びる。タンクトップ(Tシャツ)を着ると、スカスカしていたのがウソのようになる。ズルズル、ブカブカしていたジーンズはパチンパチンと両足にへばりつく。オオ〜ついた。“アーノルド・シュワルツェネッガー”になったぞよとなる。道を歩く時は人の視線が気になって、道の隅を下を向いて歩いていたのがウソみたいになり、さあ〜見てみろと、全身の筋肉を脈打たせる。ショーウインドーに写る自分に見とれて、時を忘れる。私筋肉はあるジムに通っていた時、そんな大筋肉の人たちを見た。そこは○×気なとこだと聞いて、エッ、ナニッ、ソ、ソウなのと知りジムをやめた。そう言われてみれば、みんなやけに鏡を見ていたなと思った。私筋肉は昨夜、作家三島由紀夫のドキュメンタリーのフィルムを見た。天は三島由紀夫にありとあらゆる才能を与えた。さらに確かな家柄と、不足なき財力も与えられた。天才としての要素を全て持っていた。当然のように語学力にも優れていた。だがしかし天は一つだけ三島由紀夫に与えなかった。それは生来の肉体的コンプレックスに対して、私筋肉を持たないことだった。歴史にもしがあるとしたらと私筋肉は思う。もし、三島由紀夫が生まれながらに、長身であり、運動神経に優れ、スポーツを愛し日々練習によって、“自分の筋肉”を持っていたなら、全く違った人生を歩きつづけたのではないかと。軍隊の入隊検査で丙よりも下で不合格になった。つまり国家に役立たないと苦悩した。ならば思想でと右翼的思想を持ったにせよ、もっと違った行動をとったのではないか。私筋肉はドキュメンタリーを見ていてそう思った。あまりにも純粋すぎて、あまりに劣等感に満ち満ちていた。今朝少しばかりのウォーキングした。近所の海岸の側にある、ウッドデッキのところに立ちつくし、深呼吸などをしていた。そこへ一人の浅黒い筋肉隆々の小さな老人が、ひと息つきに立ち止まった。短パンにタンクトップ、ビッシリと筋肉がついている。きっとロングランニングの途中だろう。オッイチニ、オッイチニと声をかけながら体をほぐしている。私筋肉はひと言声をかけた。オジイちゃん、いい筋肉してるね、“ミシマスキ”と言った。オジイちゃんはタオルで汗をふきふき、ナヌッみたいに私筋肉を見た。もう一度“ミシマサンスキ”と聞くと、“アリヤーオオシマだ”と言った。確かに遠くに大島がぼんやりかすんで見えていた。天才というのは実にややこしく生き、そして市ヶ谷の自衛隊内でと思った。筋肉さえついていれば。私筋肉はこのコロナ戦争を三島由紀夫なら、どう論じるだろうかと思った。老人は富士山に向って走り去った。プーマのランニングシューズが音もなく見えなくなった。(文中敬称略)
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