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2019年11月14日木曜日

「BOXINGは最高だ、そして赤いきつね」

KING OF SPORTS(スポーツの中のスポーツ)と言われるのが、BOXING = ボクシングである。リング上で殴り合って殺しても、殺されても、それを許すスポーツだからだ。モンスター(怪物)と言われる井上尚弥選手と5階級を制覇して来たフィリピンの伝説のチャンピオン・ノニト・ドネア選手との世界4団体統一世界タイトルマッチが先日あった。井上選手26歳、ノニト選手36歳、その差は10歳であった。私はどのスポーツよりもBOXINGが好きである。同じ体重(リミット)内で戦う。そのために猛烈な練習と、猛烈な減量と戦う。井上選手以前のモンスターは、内山高志選手であった。世界チャンピオンの中のチャンピオンにつけられる、スーパーの称号が与えられた。井上 vs ノニトの12R(ラウンド)の激闘が終わったあと、ボクシングファンも、そうでない人も最高の試合だったと感動した。井上選手はノニト選手の必殺の左フックの打ち方を見て憧れ、リスペクトして来た。そして、その左フックを徹底的に身につけた。登って行く26歳の井上選手と下って行くノニト選手。スポーツ紙は早いラウンドで、井上選手がKO(ノックアウト)するだろうと予想した。赤色輝くサーチライトの中、二人の肉体を見たとき、その差は歴然だった。井上選手の体は1gの無駄もなく鋼鉄のように美しい。一方ノニト選手は肉体的にたるみがあり、脇腹はゆるんでいた。私は井上選手の左ボディーが食い込んだら、それにて終わりだと思った。がしかし5階級を制覇して来た伝説のチャンピオンは、とてつもなく強かった。左は世界を制すといわれるのがBOXINGだ。左ジャブ、左ストレート、これを出しつづけないと右は当たらない。井上選手は基本通り1Rから、左、左、左と左ジャブ、左ストレートを出す。2Rに入って相方接近して打ち合いになったとき、伝説の左フックが井上選手の右目にバチーンとヒットした。今まで早いラウンドでKOして来た、井上選手の顔は、傷一つなく美しい。その顔に右目からの鮮血が流れた。この一発で眼底を骨折した。目の上はパックリと切れている。相当効いてダウン寸前。あと皮一枚深くなっていたら、ドクターストップでTKO負けだったと、試合後リングドクターは言った。井上選手は相手が二重に見えるので、ガードを高くして、傷ついた目をカバーしつつ、焦点を絞った。館内もテレビの前も騒然となった。それから高度なBOXINGの打ち合い、守り合い、足の使い合いとなった。BOXINGは0.01秒でKOできる。プロは1秒の間に10発ぐらいのパンチを出せるからだ。クリンチはない。ホールドもバッティングもない。2人ともBOXINGの教科書のように戦う。グローブの握り方、ジャブ、ストレート、フック、アッパーの打ち合い方。ダッキング、ウィービング、ヘッドスリップ、両手をクロスさせたりアームブロックでパンチを防ぐ。1秒たりとも目を離せない打ち合いがつづいた。一進一退、井上選手やや優勢の中で11Rが来た。パンチを出し合ったとき、ノニト選手のボディーが空いた。もっとも効くレバーからキドニーにかけてのところに、強烈な井上選手の左ボディが食い込んだ。フツーなら即悶絶だ。打たれてすぐに効いて、さらに効いてヨロヨロしながら、ノニト選手はヒザをついた。通常ボクサーが後でなく、前に倒れた場合は立ち上がれない。レフリーのカウントがもう10になってKOかと思ったが、大歓声の中ノニト選手は立ち上がり、相打ちを目指し左フックを打った。この感動的な打ち合いは、全世界のボクシングファンに配信された。数億人が感動したはずだ。間違いなく今年のベストマッチだろう。次の12Rは最終回、さらに激しい打ち合いはつづいた。最高峰のBOXINGだった。試合は判定で井上尚弥選手が勝った。そしてすぐにノニト・ドネア選手のコーナーに行き、ひざまづき、ドネア選手にありがとうございます(?)と言った。ドネア選手はやり切った顔で君が強かった。これからは君の時代だと語りかけているようだった。大拍手の嵐、これほど清々しいBOXINGのシーンは、長い間なかった。最強のスーパーチャンピオンだった。内山高志選手の後継のスーパーチャンピオンの誕生だった。私の仕事は減量もなく、猛練習もなく、殴られることもない。なんだか悲しくなるほど考えさせられた。私はまだ全然努力が足りないと思った(何しろ未だ生きている)。11月12日NHKの「プロフェッショナル」を見て、井上尚弥選手の人間性と幼児期よりBOXINGを教えた、父親との愛情の深さに感動した。ハードな合宿から帰ったとき、今何がしたいですかの問いに、「赤いきつね」を食べたいですと言って笑った。この商品のネーミングとパッケージのデザインのお手伝いをした、一人としてうれしかった。
PKGはじめのデザイン



2019年11月12日火曜日

「バカヤロー」

美樹克彦が歌った ♪ かおるちゃん おそくなって ごめんね かおるちゃん おそくなって ごめんね …… 花は 花は 花は ……とつづきラストにバカヤローと叫ぶ歌があった。歌詞が定かではないが、バカヤローだけは今も記憶に残っている。今年も残り少ないことを天気予報の、いよいよ木枯らし一号が吹くかもという予報で、肌身に感じた。本日朝、日経新聞の朝刊を読みながら、つくづく「バカヤローな時代になったな」と思った。茅ヶ崎出身の力士“服部桜”は黒星スタートであった。入門以来2勝しか挙げてないから、もう120〜130敗ぐらいしているのではないだろうか。でも一生懸命がんばっている。横綱白鵬敗け、大関高安敗け、大関豪栄道休場、関脇御嶽海敗け、栃ノ心敗け。横綱、大関、関脇が全員敗け、これは一場所15日制が定着した1949年夏場所以来の二度目の出来事。バカヤローなのだ。何しろでっかくなり過ぎている割りには、稽古をしっかりしないので怪我が多過ぎるからだ。新天皇即位パレードのとき、NHKの中継でなぜか皇室担当ではない政治部の女性記者が中継をした。いくら安倍総理のお気に入りとは言えパレードの政治利用で、やたらに安倍総理のことばかり中継していた。バカヤローなのだ。地方銀行が低金利であえいでいて、福島銀行がSBIグループから出資を受けることになった。ついに地方銀行は合併の嵐を加速する。で地方都市はさらにシンドイことになる(融資が厳しくなる)、政府のバカヤローな金融政策と、日銀のバカヤローな政策がマイナス金利となり、バカヤローな経済を生んでしまった。お金を貸します、お金を貸しますと言うから、それじゃ×××貸せといえば、担保、担保、湯タンポみたいで貸しはしない。バカヤローなのだ。信用金庫によろしくと頼むしかないのだが。香港ではデモ隊に向かって、バン、バン、バンと銃を発砲、かつて天安門事件があったとき、鄧小平は中国にとって、10万人ぐらいの命はどうってことはないみたいなことを言った。14億人近い超大国がバカヤローなことになって行くと、いずれ台湾もとなる。香港のデモはどこぞの国がジャッキ(空気を入れて騒ぎを膨らませる)を入れているはずだ。若者たちは純粋だったはずなのに。街角景気、減速感強く、10月の景気指数急低下増税・台風重荷。パラパラと新聞をめくれば、減損、減益、売り上げ減、大幅リストラ、景気後退確率75.3%に低下、大幅赤字、どこが好景気なんだ、経済の安定なんだ、バカヤローと言いたい。新車販売も、減、減、減だ。我々の業界のNO2でもある大手広告代理店、博報堂DYも、純利益28%減。NO1の電通も、いつの間にか買収したはずの外資に引きずり回されている。バカヤローと言ってやった方がいい。英国の企業家はいまだに海賊である。ワッパ(手錠)をつけたまま脱走していた男が逮捕された。もう疲れたと言ったという。脱走されたのも、脱走したのもバカヤローなのだ。私もすっかりバカヤローになってしまっている。もともとそうであるから仕方がないのだが。私の期待するリーダーが表舞台に登場して、この世を直してほしいと願う。“服部桜”よがんばれ、応援しているぞ。(文中敬称略)




2019年11月11日月曜日

「山中鹿之助と宮本から君へ」

人生とは七難八苦との戦いである。訳あって松本清張の「山中鹿之助」を読んだ。小・中学生のために書いた児童文学的なので分かりやすく、読みやすい。私の学力に丁度いい。“真田十勇士”と共に、私が少年だった頃のヒーローは“尼子十勇士”であった。その中のスーパースターが、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と後世に残る言葉を発したと言う、山中鹿之助だ。「恩と仁と義。忠節の見本」として旧日本軍に都合よく活用された。ここでは山中鹿之助については多くを語らない。作家によっては、山中鹿介と書く。多くの歴史作家がその生き様を書いた。島根県出雲の国の有力大名、尼子家の家臣であった、戦国時代の当然のように、陰謀、調略、裏切り、寝返りの争いの中で、かつては格下だった毛利家の台頭の中で、謀られて殺される。34歳であったと伝えられる。滅ぼされた尼子家再興のために立ち上がったときに、七難八苦の言葉を発したという。私は山中鹿之助の大ファンで少年の頃、貸本を借りて来て読んだ。松本清張は山陰地方の出身である。今の世の中は「恩」も「仁」も「義」も、風の中に舞う言の葉のように飛び散ってしまう。去る10月26日一人の政治家が、あの世に旅立った。享年70歳。この政治家のことは世間ではあまり知られていない。私も新聞記事などで知るぐらいでしかいない。政界では「無名の実力者」と言われていたと言う(名は伏す)。この政治家の追想録を新聞で読んで、少し共感する言葉に出会った。事業に失敗し、借金取りに日々追われていた父親を見て育った幼少期に、父親からこう教えられたと言う。「カネは使えばなくなるが、人へ世話することで得られる、徳や仁義はなくならない」と。今の世の中、こういうことを実践している人は極めて少ない。私が大恩を受けた人の中に、今でも弱き者のために労を尽くしている人がいる。私はその人の徳や仁義はなくならないと思う。残念ながら私はいまだ受けた恩義を返していない。弱き者の七難八苦を引き受けている。きっと幼少の頃からのご両親の教えを守っているのだろう。北国の出身なので粘り強い。叩き上げの人間は、いわゆるエリートと違って、心根も強い。ちなみに山中鹿之助が毛利軍によって謀殺されたのは、私の父が生まれ育った、岡山県に流れる高梁川の地であった。父は、軍国主義に対して徹底的に抗したと亡き母から教えられた。50歳没という短かい生涯だが、弱者を守ることに尽くしたと言う。不出来である私は、どの教えも守ることができていない。そして今年も残る月日は少ない。いろんなデザインの来年用のカレンダーが送られて来る。先週末金曜日の夜8時50分〜11時、渋谷のユーロスペースにて真利子哲也監督の「宮本から君へ」を観た。この映画については後日記す。池松壮亮と蒼井優は、もの凄い演技だった。大森立嗣監督の「タロウのバカ」と今年NO1を争うのではないかと思う。菅田将暉も、またもの凄い演技力だった。強者と弱者の格差が年々大きくなってきている。が、弱者を甘く見るなよである。「宮本から君へ」の主人公は、ひ弱な男であったが、愛を守るために、強烈な男となった。山中鹿之助とダブって見えた。(文中敬称略) 


2019年11月8日金曜日

「夢追い人たらん」

「蟻の一穴」とはよく言ったものである。今年の台風と豪雨、そして洪水はまさに蟻の一穴から増水し大河も小川も氾濫することを、まざまざと見せた。人間関係も、夫婦関係も、親子関係も、友人関係も同じだ。たった一つの目つき、たった一言、ちょっとした仕草、一本の電話、一枚の葉書や一通の手紙で破壊は始まる。人間と人間の関係は脆いものである。自分の目先きのことばかりを考えている時代にとって極めて顕著だ(反省)。近親憎悪というが、近親であればあるほどその結果は醜い。兄が弟に対してあいつは能力がないくせに、勘違いしていると言えば、弟は兄貴はタニマチ気分で終わった人間たちを引き連れていい気になっている。兄貴はコンプレックスの塊だと。不倫をしていない夫に、あなたはウソつきと言ってヤケ酒を飲む、不安神経症の妻。なんでこんな簡単な問題が解けないの、と言ってヒステリーを起こす母親、そんな母親をいい加減にしろと叩く父親。どうしても10万円貸してほしいいんだという学生時代からの親友に、借用書を書いてくれよと言う友。失敗を叱咤されたときにした憎悪の目つき。すがる気持ちで電話をして来ているのに、つれなく応対した電話。もう二度とメールや電話をしないでねと書いた葉書。人の気持ちも知らないで、自分の近況ばかり、自分の成果ばかり長々と書いた手紙。無防備にも不快を表わし、電話をしないでと、人の好意を知らない話。何年、何十年の付き合いも、ジ・エンドとなる。蟻の一穴の代償は時に悲しく、時に悔しく、そして時に残酷なこととなる。私は若かりし頃、話している相手の男が、ゴミ入れに足をのせ靴下のズレを直しているのを見て、激怒したことがある。10年早いと。相手の男はキョトンとして、そして平謝りした。それ以来その男との付き合いは終わった。そのまま付き合っていたら、きっと☓☓☓☓にしていただろう。1日24時間が無駄に使えない歳になってきているので、大切な人間と会うことを心掛けている。今年は大切な人を亡くした。思いもよらぬ人と再会をした。穴ぼこが空いていた人間と元に戻った。ステキな人、すばらしい人との出会いも多かった。その中に、金モウケの話をする人は、一人もいない。みんな夢追い人だ。左官職人、映画、小説、画家、文学評論、歌、建築、大工、陶芸、スポーツ、舞台、オペラ歌手、鮨職人、チェロリスト、ワイナリーオーナー、ジャム、甘酒、焼菓子製産者&オーナー、レストラン&ウェディング、レストランエネコ東京の社長には感動した。みんな目がキラキラと輝いていた。うらやましいほどに。今、あっとオドロクような仕掛けをいろいろ思案している。たとえ夢で終ってもいい。


レストランエネコ東京の店内



2019年11月7日木曜日

「おばあちゃんはやさしい」

10月26日(夜)新進気鋭の美人建築家(いずれ世にその名が出る)から、2本の映画をススメられた。1本は韓国映画の「おばあちゃんの家」、1本は中国映画「胡同のひまわり」である。翌日すぐにTSUTAYAに行った。「おばあちゃんの家」はあったが、もう1本は辻堂店、茅ヶ崎店になく、アマゾンで探してもらったら、あったので購入を頼んだ。映画談義は何よりも楽しい。そのなかでいまだ見ぬ映画を教えられると、居ても立ってもいられないことになる。この頃の韓国映画といえば、強烈な暴力とか、猛烈なSEXとか、陰謀渦巻く政治・経済物が多い。かつては韓流ラブストーリーが多かった。私は韓国映画は相当見ていると思っていたが、「おばあちゃんの家」、こんないい映画を見ていなかった。“すべてのおばあちゃんに捧ぐ”とラストに文字がでる。この作品を生んだ監督の自伝的映画なのだと思う。物語は実にシンプルだ。韓国のとある山の中の停留場に、一台のバスが停まる。女が一人の少年と降りて来る。道は砂利道だ。多分一日に、一本か二本しかバスは来ないところだろう。女は小学校4年生ぐらいの男の子に、おばあちゃんは耳が聞こえなく、言葉もしゃべれないからと言う。こんなところは嫌だ、嫌だと子どもは言う。10軒もないであろう、山の中の一軒家におばあちゃんは一人で暮らしている。腰は直角に曲がって杖をついている。顔はクシャクシャのシワだらけ、動く早さはカタツムリのように、ユックリ、ユックリだ。子どもはソウルから来たらしい。一匹の虫がいるだけで恐いとか叫ぶ、殺してと言えばおばあちゃんは、手でつかんでしまう。おばあちゃんが食べ物をつくって出すと、こんなの食べられないと泣き出す。おばあちゃんは無表情でやさしい。水をくみ取りに天秤棒に水桶けをつけて、ユックリ、ユックリと歩く。子どもはゲームばかりしていて、電池がなくなり大騒ぎとなる。おばあちゃんは、かぼちゃをいくつか風呂敷に包んで、やっとこさ街に行き、乾電池に変えてもらう。子どもはケンタッキーフライドチキンが食べたいと、形態模写でニワトリの真似をする。おばあちゃんは庭のニワトリを絞めて、ゆでて足を切って胴体と共に出す。キャーとオドロキ、こんなのケンタッキーじゃないと大泣きする。こんな日々が続く。ある日、縫い物していたおばあちゃんが、なかなか針の穴に糸が通らない。それを見ていた子どもが糸を通してあげる。いつしかおばあちゃんのやさしさが、腕白坊主に伝わり二人の間に固い絆が生まれる。そして別れの日が来る。母親が迎えに来て都会に帰って行く。ガタガタ道を登って来たバス。土ぼこりの中迎える母親、見送るおばあちゃん、美しい山並み、田舎の高貴な風景、ほとんど文明のない家。言葉を出せないおばあちゃん、かわいくてならない孫。古い型式のバスは動き出す。後部座席から大きく手を振る孫。小さく、小さく手を振るおばあちゃん。静かな映画は静かに終わる。直角に腰の曲がったおばあちゃんは、生きてもう腕白坊主に会うことはないだろう。ユックリ、ユックリと山道を歩いて登って行く。それはまるであの世へ向かうようだった。生と死の行き来を暗示する名作だった。我々は急ぎすぎている。



2019年11月1日金曜日

「首里城炎上」

沖縄の親愛なる友、ナベちゃん(ホテル・フォールームスのオーナー)首里城炎上でさぞかしい衝撃を受けているだろう。何があったのか。私はニュースを見て、米軍のオスプレイがついに落ちたかと思った。ナベちゃんはきっとこれを読んでくれているはずだ。近々時間をつくって行くから待っててな。これ以上の言葉しかない。裏社会には、「ベロン、ベロン」という言葉がある。この意味は世の中や人のことを、ベロベロとナメきっているということだ。日本はアメリカにベロン、ベロンにナメられているのだ。無条件降伏の条件は、沖縄及び日本全土を永遠にアメリカの基地にするというものであった。そして沖縄は徹底的に犠牲になってきた。首里城炎上はその延長線上にあるのではないか、まるで呪いの炎に見えた。大切なものを守るとき、その大切なものを焼き尽くすことのように。失火か? あるいは何かの陰謀か? きっと何かがある。ナベちゃん沖縄に行くから、その何かを調べておいておいてな、CIAは何でもやる(映画の見過ぎかな)。アメリカの命令にはこの国の権力者は、絶対服従だから、一枚噛んでいるのではと疑いを持つ(これもまた映画の見過ぎかな)。日本の金筋のヤクザ者は、ベロン、ベロンにナメられたら、命をかけてもケジメをつける。恥をかいたママでは生きて行けない。 私はこのことを映画「アイロン」にした。天才中野裕之監督は15分の短編に描いてくれた。すばらしい映像美の撮影は名人笠松則通さんであった。「恥」この一文字に鈍感になっているのが、今の世だ。大臣たちが連続して辞任した。メロンだカニだと。今度はウグイス嬢のギャラのピンハネとかジャガイモだとか、恥を知れ、恥を。森友学園事件の籠池被告に求刑7年。サンがけ(3掛)としても実刑5年近くが打たれるだろう。絶対に刑務所に入らなければダメと決まっている。そして刑務所内で変死と(やっぱり映画の見過ぎか)。オトーチャンガンバッテヤと籠池夫人の声が聞こえる。赤落ち(ムショ入り)したら、その身は何をされても藪の中となる。昨夜、ハロウィンだか何だか知らないが、仮面を被った人間が何人かいた。お面を被らなくても素顔がすでにハロウィンだよと言ったら、若い娘がアタリ! ギャハハハと笑った。夜11時近い新橋駅は酔客の群れだった。私はビール一杯と日本酒グラス4分の3だけであった。

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2019年10月31日木曜日

「その後、何が起きたか」

「餃子(ギョーザ)だ ビールだ 最高だ」。これはほとんどの人が大賛成のはず。中華料理店、ラーメン店、餃子専門店であればの話。これを東海道線のグリーン車の中でやられたらどうなるか。昨日品川駅のホームに立ったのは20時15分頃であった。どこかの駅で安全点検があったとかで、列車は遅れ気味だった。停車している列車内は満員ギッシリ状態。私はホームのベンチに座った。かなり重いカバンを持っていた。朝、新橋駅ホームから降りる階段にポスターが何種類か貼ってある。その中の一枚が「餃子だ ビールだ 最高だ グリーン車だ」とグリーン車使用キャンペーンのものだ。湘南新宿ラインがダイヤの中に登場して宇都宮から上野、東京を経て熱海の方まで直行できるようになった(土、日、休日はグリーンは安くなる)。「グリーン車の中は熱海だ 宴会場だ」。こんなポスターもあった。品川駅ホームにいると、何となく嫌な予感がした。あんまり混んでいるので(当然グリーン車も満員)動き出した列車をやり過ごした。なんとしても座って帰りたいからだ。が、やって来る列車は満員御礼状態であった。足腰パンパン、アンパン、カレーパン、クリームパン状態だ。重いカバンを持ち歩いた。列車が到着。ベンダーでミネラルウォーターを買っていざ突入、といっても香港のデモ隊のようにガードが固い。大人なしそうなオジサンが顔をしかめて私を拒否する。中年のOL風も、若いOL風も、三人掛かりで拒否をする。私は仕方なく思い切りショルダーを使って分け入りを計る。ラグビーのモール状態である。万が一にもOL風のヒトの胸とか、お尻に触ったらマズイのでオジサンを攻撃目標にして、グイグイと押して行った。グリーン券を買っていたのだが、私を拒否するヒトたちもグリーン券を持っていて座れずに入り口付近にひしめいている。JRの乗務員はこんな時でも、スミマセングリーン券を見せてくださいと、密集の中から現れる。ヨシ! この乗務員(女性)の後について行けば列車の中に入れるはずだと、ビッタシマークして(マークとは競輪用語でついて行くこと)。と、スポッと列車内に体が入った。最後部のところにはスキ間がある。そこに入れば少し体が楽になる。カバンも置ける。通路もいっぱい。横浜で空くのを目星をつけている。さて、予定通り最後部に入り込んでヤレヤレと思って、前を見ると、餃子をおっぴろげた新聞紙の上に2パック置いて食べている。ニラの臭いがプーンとする。ハゲた頭が一つ、ネズミ色の髪が一つ。窓側の男のヒザの上にはラー油+ショウユ+お酢をブレンドしたタレが置いてある。東海道線利用史上はじめて出会った、餃子だ、ビールだのシーン。と言っても飲んでいたのは、一人はワンカップの日本酒(これがヒジョーに臭い)一人はサントリー角ハイボールロング缶。他にもいろいろありそうであった。東京か新橋あたりから食べ始めたのだろう。まだ数が減ってない。かなりイライラ度が高い私。かなりクセーゾ指数が高い私。ゴルフ場の丸いグリーンみたいに、まん丸にハゲタ頭、そこから臭いがあふれでて来るように感じた。私は大きく、大きく深呼吸をして、あ〜つかれたと声を発し、ハゲた頭の上にフゥーと息をかけた。何、何だ、誰だみたいに餃子を持ちながら後ろを振り返った。目と目が合った。ウマイかいと言ったら、スットンキョーな顔をして、キモチワルイじゃないかと言った。その後どうなったかは、後日にする。ここはラーメン屋じゃネエが、次に発した私の言葉だから、ご想像を。
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2019年10月30日水曜日

「ある記事から、思うこと」

チクショウ手切れ金で、再出発してやるぞと大手電機メーカーを早期退職した男が思っている。2018年秋突然役員の定例会議で発表された数千人規模のリストラ案。58歳で管理職にいた男は、まさかと耳を疑った。社内メールが四方八方に。45歳以上で早期退職募集。応じれば割増の退職金が支給される。役員で定年を迎えたい。あわよくば系列会社の社長で終わりたい、と思っていた見通しは甘かった。1980年代に入社、働いて、働いて、働いたつもりだったが、会社の情況は厳しくなっていた。退職金は最大で1億円と破格だった。つまり年寄りたちは1億円出してもいらない、というのが会社の方針であった。男は気持ちがゆらいだ。会社に残っても一年後の処遇は白紙で先の保証はない。給与は激減しても働き続けるのか悩んだ。同僚に相談すると、妻から家にいてほしくないと言われたというのが多い。65歳まであと7年どこかに飛ばされるか、何も仕事を与えてもらいないのでは、そんなこんな考えていると、すっかり仕事への情熱はしぼんでしまった。そして悩んだ末、退職の申請書を提出した。約2ヵ月後退職を認めるの通知が届いた。再就職を探したが介護などキャリアとは無念の求人ばかり。唯一興味を持った会社は書類選考で落ちてしまった。3月末の勤務最終日。花束を贈られ、拍手の中で職場を去る姿を想像していたが、特段ねぎらいの言葉もなく後輩たちは淡々と仕事を続けていた。社員証を返し、私物を抱えて会社を出ると、守衛の人から「長い間お疲れさま」と声を掛けられ、涙があふれた。今はしっかり家計簿をつけ、外食を減らし、タクシーは利用せず、無駄遣いをやめた。「人生を生き直している」と思っている。退職後、子会社の社長になった元同僚と居酒屋で再会すると、会社のことばかり話す姿に、浮かびかけた羨望の気持ちはすっかり消えた。「失敗が怖いがリスクを取る人生も悪くない」と今、不動産投資や起業の準備をしている。早期退職割増金は「手切れ金」だと思っている。チョクショウきっと見返してやる気持ちと、老後に2000万円残しておかないとが交差している(ここまで記事より抜粋アレンジ)。ゴッソリといる団塊の世代、バブルを経験した仕事人間たちは、しっかり会社を利用して金を残した人間と、散財が身についてついにはスッテンテン人間と、アチコチ病気人間とに別れる。さらに女房たちから、まい日家でゴロゴロしていないでと言われて図書館人間へ。さらには、あなたの仕事生活を支えたから退職を期に別れてと言われて、オロオロする人間になっている。会社にオンブにガッコで生きて来た人間は、潰しが効かない。特に大会社や一流企業にいた人間は、そのプライドを捨て切れない。故山口瞳さんが直木賞を受賞したのは「江分利満氏の優雅な生活」(1963年)であったと思うが、振り返ればあの頃すでに、今と同じであったのだ。ただ定年の決まりが10年ぐらい違う。当時は早期退職割増制度などはなかった。まい日が日曜日は実はつらい。会社にとって正社員ほど、厄介な存在はない時代になってしまった。古い知人が65歳でなんとか再就職に成功、さあ〜新天地でがんばるぞと言っていたら、わずか3ヵ月で、キミはいらないと言われたと電話があった。ひと言多かったらしい。これを読んでいたらメゲるなと言いたい。日本全国、人を求めている地はたくさんある。発想の大転換すればいいんだ。まずつまらないプライドと、キャリアを捨てることだ。「無は有を生む」人生は長い。一日もまた長い。


2019年10月29日火曜日

「麻生哲郎さん35周年」

10月27日、ステキなパーティの出席者は、私を含めて21人だった。山形県旧荘内藩主酒井家18代当主酒井忠久様、ご夫妻もいらしていた。私の隣りは、岩谷産業元社長夫人、岩谷紀子様、前には国立音楽大声楽担当教授秋山理恵様、山梨県勝沼にてワイナリーを経営する中西昇様ご夫妻、住友林業元会長大西和男氏夫人もいらしていた。幅広い麻生さん夫婦のおつき合いを改めて知った。この人たちの中に私がいていいのか、と思う私がその席にいた。水彩画の達人にして、名エッセイスト。86歳になっても新作に挑みつづける麻生哲郎画伯とは35年近いおつき合いになる。名コピーライターでもあった。奥様は高名な料理研究家。娘さんは雑誌の編集長。田園調布に居を構えるセレブである。私とは住んでいる世界も違い、教養度においては比較しようもないほど大差があるのだが、なぜかおつき合いしてくれている(そもそも私に教養はない)。麻生哲郎さんは故郷山形県鶴岡を愛し、パリを愛し(フランス語、英語堪能)、阪神タイガースを愛する。全身知性と教養のおだやかな反権力の人。和菓子の虎屋さんの社長に、その作品を愛され京都の虎屋ギャラリーで個展を催した(このギャラリーは販売せず、虎屋の社長が気に入った作家しか個展は行えないという)。京都御所の前すばらしいギャラリーだ。もちろん個展は見に行った。京都の建築物を描き残してほしいと依頼され、2年後ぐらいに発表するとおっしゃった。闘志満々の画伯である。「é」というタイポグラフィーが画集の表紙に、黒文字でガツンとあった。これはフランス語で「絵」のことであると説明された。パーティ会場の六本木のレンチレストランの名が「ÉdiTion」であった。大切なお客さまなのでと、エッフェル塔がつくられていた。そして「é」の文字も。オーナーシェフはKoji Shimomuraさん、すばらしいフレンチで、オーナーシェフは気さくな人であった。二ツ星レストランであった。無教養な私を、主人の大切な友人ですと、奥様から紹介されて、恐縮の極みであった。娘さんからデザートの時にスピーチを頼みますと言われていたので、頭の中で何を話すかと考えていた。たくさんあるナイフとフォーク、それにスプーンの使い方もドキドキと考えていた。徳川家四天王の一人であった、酒井家の18代目は、やはりお殿様のように堂々として独特の気品があった。山形県鶴岡市にある、致道館の館長をされている。さらに日本美術刀剣保存協会の会長、刀剣博物館の館長もしているとのことであった。庄内藩は戊辰戦争で徹底的に攻められ、苦労をしたという歴史の話をされた。致道館には藤沢周平さんや、満州国をつくった石原莞爾将軍など郷土の出身者が飾られている。小澤征爾さんの二文字は陸軍大将板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」からだと最近知った。指揮者小澤征爾さんには、日本陸軍の音楽が流れているのだ。知ってビックリであった。パーティは3時間余でお開きとなり、記念撮影をした。水彩画の達人、麻生哲郎さんの名を憶えておいてください。2年後ぐらい、京都御所前、虎屋ギャラリーできっといい絵が見れるはずだ。そのときは、ぜひご覧いただきたい。

 
店内


2019年10月28日月曜日

「感動に、ヨーイドン」

少しばかり長いのでご容赦を。10月26日土曜日、いろいろ感動した。薄雲り、時々晴れ間があった。小三の男の子(孫)の運動会の応援に、昼に行く。お弁当タイム。午後3番目の種目80メートル徒競走を応援するのが目的(あとはソーラン節やダンスなので)、昨年は確か50メートル徒競走で、6人中5着だった。走り方が萩本欽一さんのようだった(キンチャン走り)。野球を始めたので今年は少し走り方が良くなっているはずだ。昼のお弁当は体育館の中であった。ギッシリ、ビッシリ人、人、人が弁当箱のごはんのように詰まっていた。私と同じ年代、つまりオジイちゃん、オバアちゃんが圧倒的に多い。みんな、それぞれ工夫のお弁当を食べていた。私の大好きな風景だ。老人大国になっているのをまじまじと感じた。ヨーイドンのピストルの号砲、孫はメガネをかけ一生懸命走った。ガンバレ! ガンバレ。昨年より少し速くなっていた。ウァ〜惜しい。もうちょっとで3着だった(私は3着だと思った)。が、残念ながら6人中4着。でも昨年よりは速かった。「ボク4着だったよ」と言って孫が来た。とても感動をした。それは子どもたちの一生懸命の姿に。大人になっていろんな人生を進み成功する者、あるいは失敗して人を殺したり、殺されたり、人を欺したり、欺されたり、大先生になったり、アル中になったり、親分になったり、子分で終わったりと、人の数だけ人生がある。どんな人間も小学校3年生の頃は、一生懸命ゴールに向かった。先生を信じて疑わず、指示通りに動いていたはずだ。新しい機器に変えにJ-COMの工事が来るので、午後1時半頃に家に戻った。2時からは鍼灸の達人がメンテナンスに来てくれる。サバイバルゲームの私たちの業界で、この3週間いろんな人に会いつづけ、心身ともに42.195キロを走ったあとのようであった。私から夢を取ったら、ただの迷惑者粗大ゴミである。それゆえ、私は夢を追う。達人のメンテナンスを受けながら、テレビでタイガー・ウッズのゴルフを見る。そこにJ-COMの工事の人二人。マットの上で裸になっている私を見て、オッヨヨとなる。「いいですか」といえば、「いいよ」と応える。狭いところで傷だらけの裸体の男、オレンジ色のポロシャツを着た鍼を打つ達人。黒い作業服の若い男二人。かなり異様なシーンであったろう。雨で無観客となったゴルフのトーナメントは、気の抜けたビールみたいというか、インポになったチンポみたいに、かなり活気がない。しかしさすが世界のトッププロは、一打一打プロのショットを見せる。大好きなタイガー・ウッズが首位を守り、その姿に感動する。本来なら多くの観客がコースにいて、タイガーのプレイに大興奮したであろう。手術、手術、大手術からカムバックした43歳のタイガーに感動する。ナイキのマークはやっぱり、タイガーがいちばん似合う。その後、テレビをNHKへ。イングランド VS ニュージーランド、準決勝に感動する。王者ニュージーランドに猛然とタックルをする、イングランドの男たち。日本を強くした、エディー・ジョーンズ、ヘッドコーチはやはり凄い指導者だった。強いものを倒すには、守りの強化しかないと、超、超、超猛練習をして、オールブラックスこと、ニュージーランドの三連覇の夢を砕く。そのひたむきさに感動する。その後映画を2本見て、夜11時NHK「SONGS」を見る。私がその歌声、そのステージスタイル、そのファッションセンスに、いちばん印をつけている「安全地帯」の「玉置浩二」が出演している(番組表でチェックしておいた)。あえて20年ぐらい前の歌を4曲熱唱。白髪のロングヘアー。いつものロングジャケット。中に白いシャツを外して柄のシャツの重ね着、ボタンを3つ外してVゾーンをつくり、ベストを着てバッチリのファッション、そしてロングブーツ。この男のセンスは抜群だ。いつ見てもステキだと感動した。箱根駅伝予選会のニュースをNTVで。つくば市である仕事のお手伝いをさせてもらっているので、筑波大学に注目していた。予選会はわずか1秒にドラマがある。オッオッオー! 筑波大学が26年ぶりに箱根駅伝へ。最下位で通過したかつて駅伝の王様だった中央大学(6連覇している)26秒差で涙を飲んだのだが、「麗澤大学」だった。泣き崩れている若者たちの姿に感動した。スポーツは1秒が生死のドラマを生む。「一生懸命一秒」。そんなコピーを思い出した。まい日ヒマつぶしみたいに生きていては、一度の人生を与えてくれたお天とう様に申し訳ない。27日の日曜日は、午後12時から大尊敬する山形県鶴岡市出身の「麻生哲郎画伯」の画集ができあがり、六本木でパーティ、ご招待を受け出席する。
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