10月26日(夜)新進気鋭の美人建築家(いずれ世にその名が出る)から、2本の映画をススメられた。1本は韓国映画の「おばあちゃんの家」、1本は中国映画「胡同のひまわり」である。翌日すぐにTSUTAYAに行った。「おばあちゃんの家」はあったが、もう1本は辻堂店、茅ヶ崎店になく、アマゾンで探してもらったら、あったので購入を頼んだ。映画談義は何よりも楽しい。そのなかでいまだ見ぬ映画を教えられると、居ても立ってもいられないことになる。この頃の韓国映画といえば、強烈な暴力とか、猛烈なSEXとか、陰謀渦巻く政治・経済物が多い。かつては韓流ラブストーリーが多かった。私は韓国映画は相当見ていると思っていたが、「おばあちゃんの家」、こんないい映画を見ていなかった。“すべてのおばあちゃんに捧ぐ”とラストに文字がでる。この作品を生んだ監督の自伝的映画なのだと思う。物語は実にシンプルだ。韓国のとある山の中の停留場に、一台のバスが停まる。女が一人の少年と降りて来る。道は砂利道だ。多分一日に、一本か二本しかバスは来ないところだろう。女は小学校4年生ぐらいの男の子に、おばあちゃんは耳が聞こえなく、言葉もしゃべれないからと言う。こんなところは嫌だ、嫌だと子どもは言う。10軒もないであろう、山の中の一軒家におばあちゃんは一人で暮らしている。腰は直角に曲がって杖をついている。顔はクシャクシャのシワだらけ、動く早さはカタツムリのように、ユックリ、ユックリだ。子どもはソウルから来たらしい。一匹の虫がいるだけで恐いとか叫ぶ、殺してと言えばおばあちゃんは、手でつかんでしまう。おばあちゃんが食べ物をつくって出すと、こんなの食べられないと泣き出す。おばあちゃんは無表情でやさしい。水をくみ取りに天秤棒に水桶けをつけて、ユックリ、ユックリと歩く。子どもはゲームばかりしていて、電池がなくなり大騒ぎとなる。おばあちゃんは、かぼちゃをいくつか風呂敷に包んで、やっとこさ街に行き、乾電池に変えてもらう。子どもはケンタッキーフライドチキンが食べたいと、形態模写でニワトリの真似をする。おばあちゃんは庭のニワトリを絞めて、ゆでて足を切って胴体と共に出す。キャーとオドロキ、こんなのケンタッキーじゃないと大泣きする。こんな日々が続く。ある日、縫い物していたおばあちゃんが、なかなか針の穴に糸が通らない。それを見ていた子どもが糸を通してあげる。いつしかおばあちゃんのやさしさが、腕白坊主に伝わり二人の間に固い絆が生まれる。そして別れの日が来る。母親が迎えに来て都会に帰って行く。ガタガタ道を登って来たバス。土ぼこりの中迎える母親、見送るおばあちゃん、美しい山並み、田舎の高貴な風景、ほとんど文明のない家。言葉を出せないおばあちゃん、かわいくてならない孫。古い型式のバスは動き出す。後部座席から大きく手を振る孫。小さく、小さく手を振るおばあちゃん。静かな映画は静かに終わる。直角に腰の曲がったおばあちゃんは、生きてもう腕白坊主に会うことはないだろう。ユックリ、ユックリと山道を歩いて登って行く。それはまるであの世へ向かうようだった。生と死の行き来を暗示する名作だった。我々は急ぎすぎている。
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