「いよいよ師走」
11月25日は何の日だったか、と言えば会社勤めの日は“給料日”と応えるだろう。これがフツーである。三島由紀夫の命日じゃないかという人がいれば、よく憶えているね、そうだったんだと思い出される。少なくとも私のまわりにいた人で、11月25日にそのことを言った人も、書いた人もいない。作家の影響を受けた人たちによる、何かしらのイベントはきっとアチコチであったはずだ。天才的作家を語るには、あまりにも身分不相応なので、多くを語れない。人間は死んだら忘れられるということだ。昨日、大勲位こと元総理大臣中曽根康弘が101歳で死去した。その功績をニュースは流す。しかしその話題も一日か二日で終わる。人間の死とはそんなものである。ならばどうするかと言えば、今日一日、生きていれば明日まで生きて行くだけのことを、することでしかない。生まれてまもなく失う悲しい命があれば、いくらブチノメしてもしぶとく死なない悪い命もある。戦中戦後、大震災、大災害を生き抜き不死身の命だねと言われた老人が、朝起きたら大渋水に飲み込まれ大海へと流されてしまう命もある。この地球で唯一、絶対ということは、誰もが一度必ず死ぬということだ。若かれし頃、何度も死にかけて来たことを思い出す。きっとお天とうさまは、もっと生きて四苦八苦を味わって、若気の至りの罪を償えと、命じているのではと思い、今日まで来た。四苦→4×9=36、八苦→8×9=72。36+72=108の苦を味わえと命じられているのだ。108は煩悩の数と同じだ。すでに108を味わった気もするが、未だ未だ足りていないのかも知れない。故高倉健の歌う「唐獅子牡丹」に♪〜つもり重ねた 不幸のかずを 何と詫びよか おふくろに〜♪ という一節があるが、まさにそんな日々なのである。今の絶対権力者たちも、等しくそう先くない間に、あの世に旅立つ。そして忘れられる。身内ですら、あ〜これでやっとこ楽になれると、つい本音を言う人も多いだろう。実に正直な言い分なのだ。私のような大迷惑人間はジ・エンドとなったら頼んで祝杯をあげてほしいと思っている。バンザーイ、バンザーイと。葬式無用、戒名無用、献杯無用、ただひたすら乾杯、乾杯をしてもらいたい。健康オタクが人間ドッグに行って、入念に検査してもらい、大丈夫どこも異常なしですよと言われて外に出たら、クルマにハネられてあの世へという話もある。無目的に生きていたら命に対して申し訳がないだろう。生きたくても生きられない人の命のために、何かをしなければならない。安いラーメンで有名なある店が、10円でラーメンを提供したら大行列。寒風の中の風景だ。故金子正次の名作「竜二」という映画で、新宿のヤクザ者が堅気を夢見て足を洗う。全身に刺青があるのだが、女房子どものためにトラックの運転手の助手の仕事をする。一晩のバクチで大金を動かしていた幹部の男が、アパートに帰ると、女房は家計簿をつけている。苦々しい気分になる。ある日、仕事が終わり家路についていると、商店街に主婦や子どもたちが行列をつくっている。竜二が見ると、そこは肉屋さんで、女房と子供が並んでいる。安売りのセールをしている。竜二は安売りで女房が買って帰ったコロッケを食べるのかと考える。やっぱり俺は堅気の世界でやって行けない。竜二は家とは逆の新宿の街に帰って行く。金筋のヤクザ者にとって、見栄は絶対に張らねばならないのだ。ナリ(身なり)も見栄の内と言う。こんな話を思い出す。ある日私は無性に吉野家の牛丼が食べたくなって、夜銀座にある吉野家に入って牛丼を食べて外に出ると、むかしなじみのプロデューサーに会った。えっ、吉野家の牛丼を食べるんですかと聞かれた。そいつは私が落ち目になって銀座の吉野家で牛丼を食べていたと知り合いに吹いた。バカヤロー大好きだっていうの、その男がどうなったかは……。いよいよ師走だ。一年中でいちばん嫌いな12月だ。ちなみに私は行列には並ばない(春木屋のラーメンは別)。
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