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2019年11月28日木曜日

「この道」

日本という国は私たちが想像するよりもはるかに美しかったはずだ。それだから「万葉集」は生まれた。和歌は歌による写実だ。また、すばらしい民謡や童謡が生まれた。童謡には美しい山々があり、美しい花畑や田畑があった。四季折々に風景を変化させた。日本国津々浦々、オラが故里の自慢の風景が、人の心をキャンバスにして写り込んだ。風景とは絵筆だとも言える。昭和初期、愛国主義者は、外国からこの風景を守れと、軍国主義に姿を変えてしまった。美しい風景は戦火によって破壊されてしまった。「国破れて山河があり」と言えば聞こえがいいが、国破れて、数百万人数千万人の感情が破れた。戦死者とその家族たちの中には、きっと多くの北原白秋がいたはずだ。この頃、民謡は生まれず、童謡も生まれない。近代化のあとに残ったものは、感情とか感性の消失だった。その結果が現在の拝金主義である。金こそがすべての時代に叙情詩も叙事詩もない。人々が幼き頃見た美しい山々や河の輝き、美しい湖や川のさざ波やせせらぎ。あぜ道でおにぎりを食べ合う農夫さんたち、隆々たる肉体で網を上げる漁師さん。おとちゃんのためならエンヤーコラ! おかあちゃんのためならエンヤーコラ! と、家を建てる大工さんたち。目に入るものがみんな詩になった。そして歌になった。この道はいつか来た道、あ〜あ そうだよ また戦争への道だよとならないことを願う。昨日夜、北原白秋と山田耕筰を主人公にした「この道」という映画を見た。二人は戦争に向かう国に対して、僕たちはもう童謡をつくれない。軍歌ばかりしかと語り合う。そのうち人工知能AIが童謡をつくるのかも知れない。進化しすぎて手にしたものは便利すぎるという不都合と、情報過多による、人間関係の断裂を炎上だ。風景は見るものではなく調べるものになってしまった。北原白秋は人妻と関係を持ち姦通罪で投獄されたりした。与謝野鉄幹・晶子夫妻から、いい加減にせよとたしなめられた。天才は色を好むものなのだ。少年と少女が同居しているような人だったのではと思う。詩の中にはたくさんの木の名が出る。花の名が出る。そこに純粋があった。「無口な男には注意しろ。彼は人が話す間観察し、行動する間計画を練り、いざ相手が休んだとき襲いかかる」。こう言った賢人がいた。テロリストはこう言う人間が多い。さしずめ北原白秋は、こと女性に関してはテロリストの如くであったのかも知れない。あまりにも無惨な税金を使った桜を見る会。北原白秋が今の世を見たら、どう表現するのだろうか。

カラタチの花

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