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2021年5月14日金曜日

つれづれ雑草「無用の用」

孫子はその兵法の中で、ドンパチやり合うほど愚かな戦さはない。戦わずして勝つべしと教える。即ち人の心の中を読む。人はその立場によって、心が揺れ動く。高い立場にいれば、さらにその上を目指す。あるいはその立場を守らんとする。孫子はその心を知略調略によって摘めよと教える。昨夜「その住人たち」というスペイン映画を見た。主人公の男は広告会社の重役であった。CM制作担当である。(クリエイター)家族の幸せ感や、人間の幸せ感を表現した作品をつくり、業界で名を成していた。高級レジデンスに住み、窓から外界を見下ろしていた。妻と娘がいる。こんなシーンから映画は始まる。とある大手広告会社で自身の作品を見せながら就職活動をしている。つまり失業中なのだ。面接をする相手は、その名をよく知っているが、あなたはもう古いのですよ、そんな対応をされる。一社、二社、どこでもそう言われて職につけない。主人公は、今の生活を維持して生きたい。妻との間にはスキ間風が吹いている。かつてアルコール依存症だった。失業が続く中引っ越しをする。安い住まいでの生活の中で、一人の男と出会う。そこは断酒会の場であった。男がどこに住んでいるかを調べる。そこには国内で二番目の大手運送会社の夫婦が一人娘といた。広大な庭園では庭師が日々手入れをしている。大きなプール付き。主人公は、一つの考えを持つ。この家族をそっくり手に入れてしまえばいいのだと。つまり邸宅の夫婦の間もうまくいっていない。出会った男は妻の父親の会社にいるので、ストレスが多くアルコール依存症になっている。暴力をふるったりして妻を傷つける。主人公は戦わずしてこの家族を手に入れるべき、調略をめぐらす。自分たち夫婦の関係を解消させ、狙った相手夫婦も解消させる。その妻の再婚相手は自分だ。この映画はシナリオが実に良い。役者の名は知らないが、いかにも策略家の味を出す。遠くから見ると幸せの見本みたいで憧れの家族も、ひと皮めくれば憎悪の館、殺意の館なのだ。変態の庭師はそれを知っている。もの凄く後味が悪く面白い映画だ。シェイクスピアの「オセロ」は、イアーゴのたったひと言の告げ口で、嫉妬の炎を燃やし亡びてしまう。人間とは業の深い生き物である。シェイクスピアの変わらぬ主題だ。現代社会では、ネットという告げ口が主流だ。姿が見えない分、イアーゴよりタチが悪い。「ブロークン・シティ/インフェルノ」という映画も見た。NYの市長選がらみの夫婦憎悪劇だ。アメリカ社会は全て、カネ、カネ、カネ、ワシントン・ポスト紙がIOCの連中のことも、そう書いていた。又、ニューヨークタイムズ紙、シカゴの有力紙も、日本のオリンピックは、非科学的なので、もう中止せよと書いている。私はすでに中止した場合、ぼったくりのIOCや、スポーツマフィア、ユダヤ系資本家たちと、落とし前の金額交渉を進めているのではと推測する。孫子の兵法を読んでいる知略家が政府にいるだろうか。コロナ禍の中で「ところ天」をすする機会が増えた。私はところ天という存在に声をかける。君はそばでもなく、しらたきでもなく、くずきりや、はるさめでもない。主義思想や、実存の哲学を感じることもない。君がいなくても世の中に影響はない。栄養もなく見栄えもよくない。きざみのりをまぶし、酢にひたし、黄色いカラシをそえる。ところ天にヌルヌル感を持ちながら、箸でかき混ぜて、ズルズルとすする。カラシが鼻にツーンとして、目に涙がたまる。効きすぎだ。君は実に知略に富んでいる。自己を捨てて、自己を活かす。相手に合わせて、相手を拒否する。“無用の用”のような存在の価値創造をする。私はところ天に大いに学んでいる。深夜映画を見ながら、ズルズルとした世の先きを知る。大リーグで大谷選手が、大活躍をしている。すばらしいが、必らず大怪我をする。何か見世物にされているようで私はツライ。才能が有りすぎる不幸がある。元横浜ベイスターズの筒香選手が大リーグで活躍できず、横浜ベイスターズに帰ってくるとか。うれしいようでツライ。日本で最多安打を打っていた、秋山選手も活躍が全くできない。やはり大リーグの壁は厚く高い。日本のプロ野球は元大リーガーとかドミニカなどの外人選手だらけになってしまった。一昨日の夜、横浜ベイスターズが5対3で勝っていた。九回ツーアウトだった。辻堂駅に降り家に着いたら、エ~5対5の同点で終わっていた。筒香選手が必要なのだ。野球はアタマでするスポーツともいう。横浜ベイスターズの監督のアタマはリーゼント。オールバック、何か関係あるのだろうか。進めない成績に。絵に描いたような幸せな夫婦は、この地球上に一つもない。何かモメたら、ドンマイ、ドンマイだ。コロナ禍は拡大の一途だ。オリンピックは“ガマンピック”だったと忘れよう。選手たちにはツライ。親愛なるアカギ君、横浜ベイスターズは、これから大前進だ(?)。「1922」というアメリカ映画を見ると、夫婦憎悪の極限を知る。スティーヴン・キング原作だ。ネズミ年生まれの人には、オススメだ。(文中敬称略)



2021年5月10日月曜日

つれづれ雑草「運砂利」

 「お流にする」。表ではない社会の人間が使う言葉だ。おりゅうにすると言う。この話は水に流して無かった事にしようとか、いままでの関係は無かった事にしようとかの場面で使われる。水に流すという意味だ。オリンピックはお流にしよう。国民の70%近くが中止又は延期を望んでいる。17日に来日予定のIOC会長バッハが来日延期となった。米国の有力紙は、バッハ会長をぼったくり男爵と評した。やらずぼったくりの人間だと。IOCなどは今ではスポーツマフィアである。世界中のネットワークや、マスコミはユダヤ資本が殆ど仕切っている。外交力が著しく不足している日本国は、何から何までやらずぼったくられて来た。優秀な外交官を育てて来なかったからだ。国際的歴史観も、語学力も無い。外交術を持っていない。それ故ダフネゴシューターがいない。江戸時代の幕閣の人間の方がはるかに優れている。外国人は相手が弱腰だと見ると、怒鳴り、机の上を拳で叩き、顔面を紅潮させる。タフでないと、ブルッテしまう。相手はそれを見逃さない。で、次々とやらずぼったくりの要件を突きつける。私は外人相手は得意中の得意だった。外人が怒ったら、こっちは日本語でさらり、さらりと話をする。そして腹を切るポーズをしてニタッと笑う。外人はこれで静かになる。長引くコロナ禍の中で運動不足解消にと、毎日シャドーボクシングをやっていたら、足腰がパンパンになり筋肉を痛めてしまった。体は正直でありバカな行為を許さなかった。でもってスパーリングはお流にした。過日(10日位前)新聞に次の総理大臣は、菅総理でいいじゃないのと、安倍晋三前総理が語ったとかの記事があった。総選挙で勝ったらの条件がついていたようだが、コロナ禍という火中の栗を拾う人間は誰か。クリント・イーストウッドの映画「運び屋」では、引退した老人が麻薬の運び屋をやる。河野太郎ワクチン担当大臣は、それを見たのか、下手なジョークで、自らを運び屋と言った。語学が達者な政治家らしいが、人間力が達者ではない。発言が日々コロンコロン変わる。変節漢である。次の総理大臣の人気NO1とか。絶句である。シタタカなワクチンマフィアは、日本の足元を見て値をつり上げる。相手が求めれば、小出しに売るという、商人の定法通りでやりたい放題にされている。国内ワクチンの開発費を大幅にカットしたために、日本でワクチンは開発できなくなっている。(安倍政権下でカット)日本の科学者は優秀なのに才能が発揮できない。ウイルスはこれからも続々と現われる。すぐにでも手を打つべしだ。「学のある馬鹿は、無学の馬鹿よりお馬鹿さんである(モリエール)」。目が死んでいるリーダーの軍には、勝機は来ない。どこで覚えたのか、やたらエビデンス、エビデンスと我が国のリーダーは言うが、目が死んでいる。眼光が無い。ここで一発目を光らせて、オリンピックはお流にします。責任は私が取ると言えば男一代、名は末代となる。ワクチンが入手できても打つ手がいない、なんて話を聞いていたよからぬ人間たちが、打つ手なんて、なんぼでもおるわい、シャブ中はみんな注射を上手に打つけんのオ、なんて言っているやも知れない。夜うめき声がした、何んだこりゃと思ったら、洗濯機が古くなって労働に耐えられなくなっていた。冷蔵庫も一日中むせび泣いている。やはり古くなっているからだ。テレビを見ていると突然画面が無になる。どうやらアンテナが塩害でやられているようだ。友人たちの個展が多く中止になっている。ギャラリーがどうしても開催してくれと言われて開催しても、観に来てくれる人は少ない。人流なんて言葉があったのを知らなかった。人の流れと言ってほしい。小泉信三さんと言う高名な人の言葉を大切にしている。「人生において、万巻の書を読むより、すぐれた人物に一人でも多く会うほうが、どれだけ勉強になるか」。学校や学問、読書が苦手な私にはこのお言葉が支えであった。しかし大切な人とお流にした人生である。今、奇蹟の命を守り、支え、愛し続ける。海よりも深い親子愛の物語を読んでいる。15年余に及ぶ日記のようなものだ。沖縄にいる友人と、ドキュメンタリーの映画にしたいと思っている。いずれ有志をとお願いする。「愛」このフツーの一文字が、実は人間社会において、いちばん形にできないのだ。オリンピックは、人類愛を求めている。ならば今、お流にすべきだろう。開催すればコロナ禍は拡大の一途となるだろう。オリンピックの選手に変な意見を突きつけてはならない。選手も国民の一人に過ぎないのだから。うんざりという言葉を漢字で書くとどうなるのだろうか。運砂利はどうだろう。運は一握の砂の如くであり、利は得られない。小さな努力を積み重ねよう。(文中敬称略)



2021年4月24日土曜日

つれづれ雑草「赤いタオル」

何やってんだ! 立つな! 寝てろ! 倒れてろ! ボクシングの世界では、タフ過ぎるという選手は、セコンド泣かせだ。強烈なパンチを一発浴びて、ズドーンと倒れて、テンカウントをリング上で寝たままで、あるいは両ヒザをついたまま聞いて、(聞こえない場合も多い)ノックアウト負けをレフリーから告げられる。この場合選手のダメージは余程のメガトンパンチでない限り、試合後の選手の回復は早いケースが多い。ボクサーはリング上で闘っている時は孤独だ。頼れるのは自分しかいない。だが信じられるのがセコンドだ。セコンドは回を終えてかえって来る選手を、励まし、1分間(インターバル)の間に、ワセリンでの傷の手当てや、体をもみほぐしたり、水をふくませては出させる。(飲んだらダメ)その間アレやコレや作戦を選手にアドバイスする。タフなボクサーは殴られても、殴られても倒れずに相手に向っていく。ダウンするも立つ。立っては殴られ続ける。そして再びダウン(1R3回ダウンで負けのルールもある)。顔は変形し、両目は殴られてふさがり、鼻血で息もできない。そこに強烈なパンチがアゴに当たりダウン。セコンドはもう駄目だと白いタオルをリングに投入する(これをされると終り)TKO負けとなる。ボクサーは後ろに倒れたり、横向きに倒れている時は、立つ可能性があるが、前へ倒れるとまず立てない。TKOとはテクニカルノックアウト。タオル投入はボクサーにとって屈辱なのだ。超タフなボクサーは差別語的言葉で表現される。殴られ過ぎて引退した後にパンチドランカー、即ち廃人同様になってしまうからだ。セコンドは選手の命を守る役目と言ってもいい。ファンはあの選手は凄いね、いくら殴られても倒れないと賞賛する。リング上で倒れたボクサーは、失神していない限りセコンドの方を見る。それは救けを求める目であり、もっと闘えるという目でもある。さて、コロナ禍で長引く社会をボクシングに例えると、私たちはコロナウイルスという見えない相手と闘うボクサーである。ボクシングの世界タイトルマッチは12回戦だが、私たちは12ヶ月以上リング上で闘っている。セコンド役は、政府であり、県知事や市町村の首長であり、傷の手当をしてくれるのは、お医者さんや看護師さん、医療従事者のみなさんだ。現在セコンド役の総理大臣、西村新型コロナ対策担当大臣、河野ワクチン担当大臣、田村厚生労働大臣、加藤官房レフリーらの指示は、バラ、バラ、テキトー、ソノバシノギ、ウソ、ホラ、シカト続きである。各首長たちも私たち選手同様、セコンドの指示のバラバラに、ソノバシノギをする。私たち選手はもうダウン寸前、(ダウンしたのも多いが、ウソの統計で誤魔化す)試合を中継するNHKなどは、前田某という元バンカー(ゴルフの砂ではなく銀行家)が、中継アナウンサーに脅しをかけて、政府ベッタリの中継をする。心あるアナウンサーは前田某に飛ばされてしまう。私たちボクサーは殴られ放しで、一人10万円位の涙金で試合を続行となる。バカヤロー税金をがっぽり取られているのにと歯ぎしりをする。中・小・私たち零細企業や、フリーランスはもうタオルをいつ投入されてもOK状態なのだ。(KOではない、TKOだ)。これ以上立ち続けていると、みんなパンチドランカーのように、廃人同様となってしまう。バカヤローな親がいるという新聞記事を読んだ。このコロナ禍の中で、金持ちたちは株投資や持ち株上昇で、使い切れないほどの金を持っていて、都心の億ションを子どもたちに一つ二つと買っているという。又、家の近所にあるフェラーリの店には、バカ親とバカ息子たちが来て、飴玉を買うみたいに、フェラーリを一台二台と買うというではないか。バカバカに殴ってやりたい(リング上で)と思う。コロナ収束まで数年はかかるといわれている中で、ツケヤキバ的対応策しか出せないセコンド陣を退陣させて、キャリア豊富な人材を集めなければならない。あらゆる分野の人材を必要とする。国家百年の計を建てねばならない。私たち市井の民は廃人同様にされてはならない。「アリス」の名曲「チャンピオン」では、 立たないで もうそれで充分だ おお神よ……。と歌う。が、私たちは十分ではない。アリスには悪いが、私たちは不十分なのだ。神も仏もいないのだ。アメリカまで行って、国際電話(?)をしてワクチンを頼んだなどという、セコンドのリーダーに呆然とする。小泉進次郎という環境問題のリーダーが、昨夜あるインタビュアーに、なんで2030年の温室効果ガスの削減目標が46%という数字なんですか(?)と聞かれると、パッとひらめいたんですと応えた。大丈夫かいこのアンチャンはと思った。否、大丈夫じゃない、国家全体がグロッキーになっているのに(最大の借金国家)スットコドッコイのセコンドばかりだ。ボクシングの聖地後楽園ホールへ行ってセコンドとは何かを学んで来いと言いたい。私のチンに、ジョーに、テンプルに、ボディに、キドニー(ボクサーが攻める急所)にパンチが当って来る。チクショー、チクショーと立っているのだ。私はあしたのジョーではなく、今日のジョーなのだ。リングに立ち続けるのは、男の意地なのだ。負けてたまるかだ。皆コロナ禍の中でもがんばろう。白いタオルを殴られた血で赤いタオルにしてもだ。(文中敬称略)

「チン」はアゴの先、「ジョー」は、アゴ、ボディは腹(水月➡︎みぞうち周辺)、キドニーは、両方の横腹周辺。





2021年4月18日日曜日

つれづれ雑草「ノマド」

 「無能無芸の私にできる事は二つ、二つしかない。」自分の足で歩くこと、自分の句を作ること。私は流浪する外ない。私は今、過去のすべてを清算しなければならないのである。昭和5年頃一人の男が、行乞(おもらい)の旅に出た。「分け入っても分け入っても青い山」など1200余りの句を作り、昭和151011日酒に酔ったまま愛媛県松山の小さな草庵でぽっくり往生した。(享年43歳)男の名は「種田山頭火」山口県西佐波令村(現在の防府市)に生まれる。生家は大地主であった。しかし父親があちこちに女性を囲っていた。本名は種田正一、9歳の時に母親が井戸に身投げする。正一はその姿を見る。やがて上京して東京専門学校高等予科(現在の早稲田大学の文学部)に入学するも、退学して帰京する。生家は酒造会社を経営するが、正一33歳の時に破産する。大学を退学した原因は、うつ病であった。母の死を目の前にしたのが大きなトラウマとなっていたのだろう。又、弟も自死した。再び上京して図書館などに勤務するも、うつ病で退職する。ある年泥酔して路面電車の前に立ち、急停車させる事件を起こす。その電車の乗客の中に一人の人物がいて、正一をある寺に預ける。出家得度し座禅修行をする。「燃えあがる火山」という意味の俳号「山頭火」は、関東大震災にも遭遇し命の無常さを知る。種田山頭火の句は、五・七・五の決まりのない、自由な句であった。行乞の旅の目的は松尾芭蕉のように日本中を歩くことであり、理想的終りは旅先でぽっくり死ぬことであった、と思われる。それは清算したくて出来ない過去を、背負ってのものだったのだろう。「行乞の旅」とは働かずに人から食べ物や、いくばくかの金銭を恵んでもらいながら放浪する旅である。時代が行き詰まり、人間の心が行き場を失った時、山頭火が静かなブームとなり、書店でその句集が売れ始めると言う。今、私たち人類は長引くコロナ禍、終りの見えないコロナ禍の中で、人類とは何か、人間とは何か、会社とは、街とは、市とは、村とは、家族とは、親子とは、夫婦とは……。など答えのない方程式の中にいる。あるノーベル賞受賞者は、人類の究極の敵は、ウイルスであると言う。コロナウイルスがインフルエンザ化しない限り、コロナ戦争に終りはないのだろう。故小松左京さんが書いた「日本沈没」を基にした映画のラストシーンは、日本列島を失い生き残った日本国民が、ある国の大地の中を走る貨物列車の中にいた。それはかつて戦争で敗れた故国日本に、引き揚げて帰って来て、故郷に帰る日本兵を乗せた、ギューギューの列車に似ていた。私たちの国、日本は過去からの清算が出来ない国なのだ。過日、本年度アカデミー賞の有力候補作「ノマドランド」を観た。コロナ禍の中でも、日比谷シャンテの大きな映画館に8割位の観客がいた。ノマドとは、放浪の民という意味だ。喫茶店や公園や、どこかの空き場所などで、パソコンを使いながら仕事をしている人々をノマドと言う。アメリカ映画のノマドの主人公は、会社をリストラされても呈しく生きて行く中年女性だ。監督は中国出身の女性、クロエ・ジャオ。古ぼけたキャンピングカーに暮らしながら放浪する人々には皆、清算できない過去があり、過酷な現実がある。(中にはあえてノマドを選ぶ人々もいる。)深い悲しみや喪失感、孤独との戦い、世の不条理や理不尽が、広大な荒野の中にある。本来は青い空、白い雲、爽やかな空気が流れているはずの、アメリカ西部にそれらは全くない。灰色の空、重そうな雲、どんよりした空気。徹底的に青色と緑色を表現しない映画は、世界中の現代人(金持ち以外)の心の風景だ。バケツで用を足す女性は、そんなものには決して負けないぞと、日銭を稼ぐための仕事を探して旅をする。時々ありついたインターネットのamazonの倉庫の中で黙々と荷物を処理する女性の姿に、資本主義社会のその先を見る。そこには、青い空はなく、緑の樹木はなく、美しい花々もない。石川啄木が「雲は天才だ」と言った。白い雲もない。あるのは、ただ荒廃だ。日本の総理大臣が、アメリカのバイデン大統領に、初めて会ってもらった、国のリーダーだとして、大喜びだったが、ランチミーティングに出ていた食事メニューは、好物のパンケーキではなく、ハンバーガーのみだった。これはアメリカにとって、君は好きな人物ではないよの意思表示だった。アメリカ人は食事と使う食器で、メッセージをする。ハンバーガーのお返しは、きっと高額なメニューだ。私は、仕事という生きる糧を求めてノマドを続けるのだ。但し山頭火のような句才はない。             (文中敬称略)3/28 日経新聞別刷りより一部引用有り





2021年4月11日日曜日

つれづれ雑草「ヨイショな報道」

その奇異なシーンを朝見ると、嫌な気分になる。羽鳥慎一モーニングショーのラストに、MCの羽鳥慎一以下コメンテーターたちが、今日も見てくれてありがとうございましたと、深々と頭を下げる。こんなシーンは他のニュース・バラエティ番組でも見られるが、深々さの姿は羽鳥慎一がいちばんだ。最も腹の中で舌を出しているやも知れない。奇異なのは本来時の政権の批判勢力であるはずの、朝日や毎日がトゲ抜き地蔵さんに、全てのトゲを抜かれてしまったのかのように、腰の抜けた記事ばかりなのである。両紙共に部数が激減し経営状態も赤字だ。そのためリストラを加速している。しかし経営状態と批判精神は同列にはできない。貧すれば鈍するでは、せっかくの有能な記者(?)たちのペンも、宝の持ち腐れとなってしまう。朝日、毎日が大スクープなどという話は、とんと聞かない。安倍政権以来新聞、テレビ等マスコミの言論のチェックを厳しくして、気に入らないMCやコメンテーター、学者の首を取って来た。久米宏(朝日系)故岸井成格(毎日系)田勢康弘(日経系)後藤謙次(共同通信系)星浩(朝日系)国谷裕子(フリー)古舘伊知郎(朝日系)御厨貴(学者)大越健介(NHK)などたくさんいる。最近では有馬嘉男(NHK)が「ニュースウオッチ9」のMCから外された。この国の報道の自由度は、北朝鮮に接近している。講談社系の夕刊紙「日刊ゲンダイ」が徹底的に反政権の姿を貫いている。週刊文春と赤旗がスクープをとばす。“夜討ち朝がけ”の新聞記者なんざぁ、最近いねえじゃねえかと麻生太郎に言われる始末だ。オリンピックをやらねばならない政権を援護するように、福島原発の“汚染水”を“処理水”と言い換えて海に流し出す。その決定を後押しするかのように、安全です、安全ですと記事は書く。漁師たちは、風評被害で食べて行けなくなると大反対する。いつの間にか総務省の接客問題はウヤムヤになった。私たちの業界を代表するトップクリエーターの新社長(東北新社)は、さらし者の役だけをやらされた。私たちの業界はナメられているのだ。たかだか映像業界じゃないかと。国会で深々と頭を下げる姿と、羽鳥慎一がダブって見えた。銀座四丁目の和光の隣りにある“キムラヤのパン”の三階に、古くからのレストランがある。人を待ち合わせするのには、丁度いいのでよく行く。午後二時四十五分に着席、窓側の二人席。ジンジャエールを頼んで人を待つ。窓からは銀座の人の流れが見える。ここで何かを食すと、いろんな種類のパンが食べ放題だ(無料)。大きなバスケットにパンを入れたのをウェイトレスが、パンはいかがですかと何度も席に来る。ある強者は、シーザーサラダのみオーダーして、パンを20個近く食べたとか。人はパンのみにて生きるを実践したのだろう。MOTOKIと「田屋という銀座の顔のような洋品店が、コロナに負けず並んでがんばっている。かつて銀座のMOTOKIや「田屋」で買うのが夢だった時代があった。五十年以上銀座を庭にして来たので、マスク、マスク姿のファッションのない銀座は、つまんない街となっている。午後三時半頃、待ち人来たる。18歳の若者である。映画の道に進むので、その専門校に3年通う。映画・制作科。スーツを一着持っていたほうがいいとプレゼンする。かつて社歌をプロデュース(作詞阿久悠さん作曲小林亜星さん)したり、社長とイタリアにロケに一緒に行ったりして、お世話になったAOKIさんに行った。京橋店の店長さんがとても親切に対応してくれて、二着で半額セールをすすめてくれた。映画界は最も食べていけない世界だが、ガンバレよと応援する。東京駅でそれじゃと別れてホームに行くと、やけに人で混んでいる。丁度会社帰りの時間だから20分以上列車が遅れると。ホームの上はマスクをつけた人で密集する。こりゃヤバイ、座れないと思いグリーン券を買いに戻る。スイカというのを持っていないと、ホームの上では買えない。で、戻ると未だ列車は来ていなかった。やっと来た小田原行きに乗るとグリーン車も座れない。仕方ないと座っている人の横に立つ。腰はパンパン、両足はジンジンしびれていた。臭いな、なんだこの嫌な匂いは。ウルセイ、な、なんだこの音はと、座っている男を見ると、年の頃は36、7歳、チャコールグレーのスーツに、茶色の革靴、足もとに黒い鞄、メガネをかけていて、ヒゲが濃いような顔。臭いとウルサイ原因は、“じゃがりこ”のLサイズだ。これをポリポリ、カリカリと、いつ終わるともなく音高く食べる。ウイスキーのハイボール缶を左手に持ちながら。それにしても何本入っているのだろうか。ポリカリ、ポリカリと横浜に着いた。どどっと人が出て行った。男の横、窓側に座っていた人が降りた。つまり空席ができた。よかった座れると思うと、男が足もとの鞄を取って両手で抱きかかえ、(じゃがりことハイボールを窓のところに置き)私にどうぞ空きましたよと言い、男はズルズルと窓側に移動した。なんだ臭くてウルセイけど、いい奴じゃないのと思い私は座った。余程声をかけて、君じゃがりこ何本食べたのとか、何本入ってんのとか聞きたかった。男の顔をよく見ると、いわゆるおちょぼ口であって、一本一本食べる時に、バリバリ食べれずカリカリ、ポリポリと口の動きが多いのだろう。男は戸塚でスミマセン降りますので、と言って降りた。私は降りやすいようにと立ってやった。ビニール袋の中にキチンと飲み干したハイボールのロング缶と、食べ尽くしたじゃがりこが入っていた。男はそれを持って降りて行った。スミマセン、アリガトウゴザイマスと言って。さて、日刊ゲンダイを読むかと夕刊紙を出した。“五輪強行、人殺し”みたいなでっかい見出しが踊っていた。(文中敬称略)



2021年4月2日金曜日

つれづれ雑草「額の傷と背中の傷」

「ペレス・プラード」音楽好きの人なら知っているはずだ。マンボの王様である。躁鬱病の大作家で有名なのは、「北杜夫」先生でどくとるマンボウ航海記は人気シリーズであった。天気予報番組で有名だったのは、ヤン坊マー坊天気予報だった。沖縄では今辺野古基地反対運動が続いている。世界一美しいという青い海の中を悠々として游ぐマンボーを殺すなと、一致団結している。何がなんでもオリンピックを開催して政権を維持したい人間たちは、コロナ禍第四波により緊急事態宣言は出したくない。出せばGo To トラベルや、Go To イート解除宣言の解除失敗などを認めることになる。そこで、マンボーなる言葉が一気に流行語大賞へと向い始めた。まん延防止等重点措置略してマンボーだ。人間をだますために東大を出たような官僚たちは、この手のやり方を得意中の得意としている。国民は緊急事態宣言発出と言えば、オリャー政府は何してるんじゃ、菅内閣はドアホーか、同じ過ちを繰り返してばかりだろうが、井筒和幸監督風に言えばこんな風になる。マンボー、マンボー、言うとるがヨオ、ちゃんとペレス・プラードさんとか、北杜夫さんとか、ヤン坊マー坊さん(ヤンマーディーゼル提供だった)、沖縄のマンボーさんたちにヨオ、名前の使用料を払っての、オ、オ、オ、こんなはヨオ(あんたらはとか、お前たちの広島弁・特に呉のヤクザ)ウソばっかりついてんじゃないの、ヨオ、西村、ヨオ田村、ヨオ、河野、(各担当大臣)カバチタレとるんじゃないよ。(ハッタリとか与太話の広島弁)ワクチンなんか来る来るゆうているが、ゼンゼンこんじゃないか! ヨオ、噂じゃヨオ、コロナ第四波が来ない内に衆議院を解散して、総選挙をやるそうじゃないの、アメリカのバイデン政権にスケてもらって(助けてもらって)ヨオ、米軍の経費をたっぷり増額しますと約束するんじゃろうが、思いやり予算とかでな……。久々に深作欣二監督の名作「仁義なき戦い」を見て、すっかり広島弁風となった。官邸はいよいよ選挙モードになっているのは間違いないと思う。何故ならコロナ禍は拡大の一途になる。ワクチンは少しずつしか届かない。オリンピックはやらねばならない。安倍・麻生たちは週刊文春にリークする(これは推理)毎週木曜日の文春砲がボディブローのように効いてきた。あんたら新聞記者だろ、いつマスクが取れるんだよ、麻生太郎が、新聞記者たち相手にヨタッてた。永田町はすでに仁義なき戦いのど真ん中なのだろう。私たち国民はそんな戦いよりも、コロナとの戦いのど真ん中で、ニッチモ、サッチモ、ドッチモ、コッチモ、ちっ息状態だ。イギリスの医学博士がマスクから解放されるのは、どんなにはやくても。三、四年はかかるとか言っていた。マンボーなどと略さずに、総理大臣たる者は、国民に向って何時間かけても質疑応答をする度量がなくてはならない。その上で責任は私がとる。中・小・零細企業や、個人(フリーランサー)経営の人たち、ネオン街の人々へもしっかりとお金を出す、だから守るべき事は守ってほしいと言わねばならない。俠(オトコ)の社会では額の傷は男の紋章、背中の傷は男の恥と言う。正面の傷は戦った証拠、背中の傷は逃げた証拠ということだ。私はこの人とのいい思い出は大切にしたい。それ故このままこの人と付き合い続けたら、きっといい思い出がなくなってしまう。そう決めたら姿を消すことにしている。散る桜 残る桜も 散る桜という。キックボクシングのスーパースターだった。空手家出身沢村忠さんが死去とのニュースを見た。享年78歳「キックの鬼」232勝(228KO)5敗4分け。真空跳び膝蹴りで、巨人、大鵬、玉子焼きよりも人気があった。キックボクシングなんてものに神聖なボクシングという言葉は使わせないと。キックボクシングの生みの親であった。野口ジム会長野口修は、ボクシング協会から除名された。しかし「キックの鬼」沢村忠の登場により、テレビの視聴率は30%以上となり、1973年には三冠を獲った王貞治を抑えて沢村忠は日本プロスポーツ大賞を受賞した。沢村忠はリングネーム、引退後は見事に姿を消した。本名は白羽 秀樹、自動車整備士の資格を取得し、都内で整備工場を経営していたと記事で読んだ。五木ひろしが全く売れなかった頃、沢村忠とリング上で、大ヒット曲となったよこはま・たそがれを歌ったシーンを憶えている。五木ひろしをよろしくと沢村忠は紹介した。野口ジムは目黒にあった。会長の弟は野口恭という、フライ級のいい選手だった。大ファンだった矢尾板貞雄とのタイトルマッチを後楽園ホールに見に行った。私は野球、空手、そして何よりもボクシング少年だった。現在午前三時五十三分五十二秒。これから五木ひろしのよこはま・たそがれを聴く。 よこはま たそがれ ホテルの小部屋 くちづけ 残り香 煙草のけむり ブルース 口笛 女の涙 あの人は 行って 行ってしまった もう帰らない……。作詞山口洋子、作曲平尾昌晃の名曲だ。五木ひろしは何度も芸名をかえても芽が出なかったが、この曲と出会い日本を代表する歌手となった。山口洋子は銀座の超高級クラブ「姫」のママであり、後年直木賞作家となる。一曲の誕生が多くの人間の人生を変える。人生はブルースなのだ。沢村忠さんに(合掌)ヨオ、西村、田村、河野、こんなら額の傷を恐れず、がんばらなゃ、いかんのじゃけん。担当大臣として男を見せい、国民を守るのが仕事じゃけんのオ。(文中敬称略)



2021年3月28日日曜日

つれづれ雑草「私の花見大会」

ヤァ~イ、ヤァ~イ、ザマーミロ。コレミロ、アレミロ、ソレミロと昨夜は花見三昧だった。それも独り占めだ。コロナ禍が第四波に向っている中でも、日本人は花見にどっと出る。私はゴディバのチョコをチョコッと口にしながら、奈良・吉野山、京都・大覚寺、埼玉・幸手権現堂桜堤。東京・目黒川、北の丸公園、池上本願寺。岩手・北上展勝地。福島・三春滝桜、会津若松鶴ヶ城。石川・金沢城。青森・弘前城と花見する。各地の桜は美的言語となり、無常を語りかけ、儚く、切なく、散り去り花筏となり、桃色の風となる。私の深夜の花見大会は天才・中野裕之監督が八年の歳月をかけて、日本中の自然美を映像作品としたピース・ニッポンで見たのだ。小泉今日子さんと東出昌大さんの解説付という贅沢さだ。ザマーミロ、コロナめなのだ。私の好きな決め言葉の一つに、故萬屋錦之介が演じた「破れ傘刀舟悪人狩り」というドラマの中で言う、てめえら人間じゃねえや! 叩っ斬ってやる!というのがあった。今の世の中は、そんな言葉を放ってブッタ斬ってやりたいことばかりだ。地球規模で悪事千里を走るなのだ。ある賢人は全てを疑えと言っていた。中野さんの作品を見ていて、信じられるのは自然の永遠なる営みだけだと思えてしまう。「明日地球が滅びるとも今日リンゴの木を植える」そんな言葉を書き残した人に会いたかったと思う。マスクをしながらお産をしたという話を聞いた。このまま人類が進化していくと、マスクをしたような赤ちゃんが生まれるかも知れない。不気味なオリンピックの聖火リレーを見ていて、駄ジャレが浮かんだ。聖火死か昨年お世話になっている歯科医の方の独立記念に、2枚のポスターを制作してプレゼントした。一枚のキャッチフレーズは、生か歯科。もう一枚は、歯医者復活戦であった。先生もスタッフも大ヨロコビで、現在もバ~ンと待合室にある。歯医者さんは全国に約6万、コンビニが約4万5千位、むかしは歯医者さんがいちばん儲かると言っていたのだが、今は次々と閉じている。正に2枚のポスターで表現した通りなのだ。自然の美しさ以外は、すべてを疑えなのだ。「ブラック・リスト」という海外ドラマシリーズ(シーズン「7」まで見ると一ヶ月以上かかる)を見ると、何もかも信じられない。すべての事が悪事千里を走るなのだ。コロナウイルスもきっと人為的に作られているのだ。そしてワクチンで大儲けする奴等がいる。今、米中激突となる、あるいは日米韓EU vs 中露北朝鮮の構図となっているが、中国という人海戦術の国には勝てないだろう。物事を100年単位で計画実行する中華思想は、その場その場主義では制することはできない。世界中どの国にも、大なり、小なりチャイナタウンは必ずある。つまり情報の陣地があるのだ。ついこの間まで何も無かった海に、今では飛行場まで埋め立て作られている。もっとも、ブラック・リスト的に見れば、米中は密かに握っているのだろう。あ~嫌だ嫌だ、せっかく中野さんの作品を見てクリーンな気分になっていたのに。佐賀出身の柔道家古賀稔彦さんが53歳で亡くなった。三四郎もタチの悪い癌には勝てなかった。残念無念だ。古賀稔彦さんの一本背負いほど美しい勝ち方は、もう出ないだろう。先日全日本剣道選手権をテレビで見ていたら、な、なんと選手たちは防具の中にマスクをしていた。剣道の一本は気合いの入った掛け声がないと認められないという。昨日は昼から朝まで映画漬け。まずはドキュメンタリー映画「ファッションに教えられて」映画「プラダを着た悪魔」の主人公のモデル、ヴォーグの伝説の編集長アナ・ウィンターのドキュメント。アナは絶対的な存在いわば教皇であったという。決断の達人、名人、超人であった。人間の価値は決断力に出る。「閉鎖病棟」を見る(三度目)。鶴瓶師匠は実にすばらしい演技派だ。河瀬直美監督の「朝が来る」。その演出力と編集力に、改めてその才を認める。河瀬作品の中でいちばんいいと思った。「許された子どもたち」という映画は、監督も出演者もすべて知らなかったが、秀作だった。現在の少年法、少年審判の在り方に対して、問題を提起している。友人殺しの悪ガキも、ヤル気のない審判(少年は裁判でなく審判)のおかげで、無罪放免となり更に悪ガキになって行く。監督は内藤 瑛亮さんだった。注目すべし。みなさん花見は中野作品でしてください。そして外は明るくなりつつある。今日は日曜日だ。もう二本見ることにした。ずっと昔の西部劇の名作「リバティ・バランスを射った男」。ジョン・フォード監督の作品。主演は当然ジョン・ウェインだ。ジェームズ・スチュアートとリー・マーヴィンが共演する。真実と伝説とどちらが大事か、小さな町で新聞記者たちは……。主題歌はバート・バカラック作曲、ジーン・ピットニーが歌って大ヒットした。(映画の中では使われていない)悪役を演じた、リー・マーヴィンはこの映画で大スターへの道を進むこととなる。今の日本に真実はあるや、なしや。もう一本は今村昌平監督作品、カンヌ映画祭の最高賞受賞作「うなぎ」だ。何度も見ているが、好きな作品だ。夜釣り好きの平凡な会社員が、その日いつもより早目に釣りを切り上げ家に帰ると、妻が男とヤッテはいけないことをヤッテいる。男は台所の出刃包丁で男を傷つけ、妻を刺して殺す。殺人犯となり八年で条件付の仮出所して、刑務所で習ったと思う理髪を活かし店を出す。うなぎは刑務所内で育てていたもので、出所の時に持たせてもらったのだ。さて一度血を知った人間は……。すっかり朝が来ていた。(文中敬称略)




2021年3月24日水曜日

つれづれ雑草「眠れぬ夜のあれこれ」

「友よ答えは風の中を舞っている」。ボブ・ディランは歌った。午前三時三十三分二十四秒目覚し時計を見る。午前二時過ぎにゴロンと横になったが、答えは次々と脳内で飛ばされ、散々に砕け去っていく。連日の打ち合わせが困難を極める。久々の経験、私は打ち合わせは最長2時間位と決めて来た。プロが2時間かけていいヒラメキが出ないはずはない。私に才能がないのだ。新しい話を振られた時、直感がほぼ決める。眠れないので今村昌平監督の映画を見る。「赤い殺意」。五社英雄監督が東宝ではじめてヤクザ映画を撮った「出所祝い」を見る。高橋竹山の津軽三味線が荒海に流れる。五社英雄監督独特の情念の世界がある。文学作品のようであった。確か少年の頃に荻窪東宝で観た。「赤い殺意」は何度見てもすばらしいの言葉しか見つからない。夫の出張中、空巣に入られて犯された主婦が、日々定規で計ったような生活の中で、肉体の中に隠れていた性を、空巣に呼び起こされ目的地のない逃避行へと向う。夫に抑さえつけられて来た女性には、理性も知性もない。あるのは本性である。すっかり目が覚めた。薄いコーヒーを入れてパウンドケーキを食べる。脳内が答えを求めてクールダウンしないのだ。それじゃ歌でもと聴く。北原ミレイ「石狩挽歌」「ざんげの値打ちもない」、天才なかにし礼と天才阿久悠の詞が凄い。長山洋子の「じょんから女節」。大好きな三味線の大競演だ。ちあきなおみの「紅とんぼ」、郷鍈治との死別以来プッツリ歌を消している。美空ひばりと同じ位、すばらしい歌唱力だ。矢吹健の「うしろ姿」「あなたのブルース」、次に仲宗根美樹の「川は流れる」。これも大好きな曲だ。北島三郎「風雪ながれ旅」、国宝級にすばらしい。美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」、もう神の領域だ。守屋浩の「僕は泣いちっち」。そしてケイ・ウンスクの「すずめの涙」、松島アキラの「湖愁」を聴いた。すっかり一時間が経った。次にモダンジャズを聴いた。マイルス・デイビスのドキュメント映画だ。圧倒的な音がケーキを二つも食べさせた。眠気がやって来ない。明日は大切なことがあるのだが、クールダウンしない。 帰っちゃいやと いえないあたし 今夜もくるとは いわないあなた ああ うしろ姿は他人でも ゆうべのあなたは あたしの あたしの あたしのもの……。スリルとサスペンスのないマスク生活は、感性を失ってしまう。黒木憲の「霧にむせぶ夜」を聴く。この曲はいい。霧にむせぶ今の自分を現している。今、この国に答えは舞っていない。先進国で幸福度40位程度の国なのだ。あ~五時を過ぎた。ブルース・スプリングスティーンを聴きはじめた。ミッキー・ローク主演の「レスラー」の主題歌は最高だった(ゴールデングローブ賞でオリジナル歌曲賞を受賞)。作品は主演男優賞と助演女優賞にノミネートされた。このところいい映画を全部見落としている。 涙じゃないよと 言いたいけれど こらえても こらえても まつ毛がぬれる 君より切ない この俺なのさ だから笑顔が ほしいのに さようならが さようならが 霧にむせぶ夜……。花に嵐にたとえもあるぞ さようならだけが人生だ。こんな言葉を思い出す。春はさようならと、こんにちはの季節だ。まだまだコロナの風が吹く。それでも友よ Go Ahead 前へ向って進んで行こう。人生とは終りのない永遠の戦いの道修羅道なのだ。全然眠れないが、相当にいい夜だった。西田佐知子の「灯りを消して」。思い出深い曲で、あの日、あの夜、あの言葉を思い出した。荻窪の教会通りにある「角笛」というBarだった。(文中敬称略)

故人の名は生前のままである。



2021年3月20日土曜日

つれづれ雑草「勝負はこれからだ」

昨夜そのシーンを何度もプレイバックして見た。過去に見た「イノセント・デイズ」というドラマである。故竹内結子、妻夫木聡主演の作品だった。女性死刑囚役を演じていた竹内結子の細い首に、死刑執行の太い縄がかけられた。しっかりとかけられていた。よくこの役を引き受けたなと思った。竹内結子が自死したというニュースを見た時、驚きとともにそのシーンを思い出した。妻夫木聡は幼なじみで、ずっと竹内結子が演じる、主人公を想っていた。月日が経った時、殺人事件を起こした事を知る。絶対に人を殺す訳がないと必死に調べていく。そして無罪だと確信するが、主人公は虚無の状態になっていた。面会をして励まし続けるが、やがて確定死刑囚となる。今思うとその映画の台本を読んだ時、竹内結子は自死を考えていたのではないだろうか。演技の中で、予行演習をしたのではないだろうか、そう思えてならない。人の心の中の闇は、顕微鏡でも何も見えない。26年前私が突然不眠が続きうつ状態になった時(蓄積疲労症候群)、担当の医師が奥さんともう一人身近な人を呼んでくださいと言った。私は会社創業時代から一緒の人間に来てもらった。二人は医師と話をして出て来た。私が医師から自殺に気をつけろ、と言われたんだろうと言ったら、そうですと言った。私は私の中の闇が見えていなかった。猛烈以上に働きまくっていたが、頭と心と体は疲れ切っていたのだ。もうアキマヘン助けてくれと叫んでいたのだ。今、小、中、高生とか、20代の男女の自殺が急増している。コロナ禍が影響していると言うが、果してそれだけだろうか。幸い私は知人や友人、会社の人間のおかげで今日まで生きている。ある事象が起きた時、そういえばあの日、あの時、あの言葉、あの態度、あの後姿がというのがある。今、私の周りにはそんな気がしてならない人が多い。だからあえてこうして書いて、嫌な気配を消したいと思っている。生ある者は必ずいつか死ぬ。必死だ。あ~もう駄目だ。あ~もう嫌だ。あ~今日も夜が怖い、また眠れないから。私はしぶとくなれ、図々しくなれ、自分本位になれ、死ぬまでは生きろと言いたい。借金も財産の内という。聞き直れよと言いたい。心配は尽きない。遠くから近くから、妙な事象がないかを気をつけている。大人は子どもたちを守らなくてはならない。何気に発したひと言に気をつけよう。きっと初恋の女の子だったであろう、主人公の竹内結子を守れなかった妻夫木聡役の男は、きっと生ある限り重荷を背負って生きて行く。能の世界に「恋重荷」というのがある。菊を愛好する白河院の庭で、菊の手入れをする一人の老人が、白河の女御を見て恋心を持つ。女御は老人に私を想うなら、恋の重荷を持って、御庭を百度、千度も廻るならば、今一度、姿を見せようと臣下に伝える。男は必死に恋の重荷をと挑むが持つことができず疲れ切り、そして果てる。子どもたちの悲しい死の裏には、初恋の重荷がきっとある。特に中・高生には気をつけよう。まい日嫌な事件ばかり、汚い事件ばかり、信じられない事件ばかり。さらにぞっとする事件だらけだ。人間が最も危険なウイルスになっている。私たちホモサピエンスが、ネアンデルタール人を絶滅させたのは、狂暴なネアンデルタール人より、悪知恵を身につけたからだろう。私たちの遺伝子の中には、ネアンデルタール人のものがしっかり残っているらしい。その遺伝子はコロナウイルスに敵対してくれるとか。ホモサピエンスは一人ひとりじゃ弱くて、ネアンデルタール人に勝てないので、悪知恵を出し合い、集団でネアンデルタール人を殺していったようだ。今、ホモサピエンスはSNSという狂暴な武器を手にして、ネット上で殺りくをしている。小・中・高生、20代の男女の自死の裏にネット上の見えざる暴力があることは言うまでもない。テメエラを引きずり出してブチ殺してやりテェ。そういう時代なのだ。いつの日かそれが許される法律が出来るかもしれない。武士社会に仇討ち法があったように。正常な人間であれば、人間は大なり小なりうつ状態を経験する。医学的には責任感が希薄な人間と、夢も希望も持たない、アンチロマンチストや、現実主義者はならないらしい。私が食を得ている世界のトップリーダーである、天才二人が酷い状態になっている。一人は中島信也さん、一人は佐々木宏さん。クリエイターとしての功績は計り知れない。多くの人材も育てて来た。比類なき才能と言ってもいいだろう。テレビを見ていると同じ業界人として実に悔しい。いろんな事情も分かるし、いろんな背景も分かる。人間は成功するが、失敗もする。日本人の悪い所は人の残して来た功績や貢献を、瞬時にして忘れ徹底的に叩きまくる。そして敬意を忘れる。お二人にはこれからもいいクリエイティブを世に出して欲しいと思う。何しろ世界中のクリエイターが認める比類なき才能だから。勝負はこれからだ。(文中敬称略)



2021年3月13日土曜日

つれづれ雑草「薄切りの男」

日露戦争の時、二〇三高地の激戦があった。乃木希典将軍が率いる日本軍は、無策を極めただひたすら高地を目指し、ロシア軍の機関銃の餌食となり、次々と、続々と、バタバタと討ち死にした。作家司馬遼太郎は乃木希典を余程好まなかったのか、痛烈にその無策ぶりを書いた。元帥大山巌はこのままじゃイカンデゴワスと、陸軍の至宝といわれた児玉源太郎を戦地に行かせた。野球でいえば、先発投手乃木希典がメッタ打ちにされて、投手交代となったのと同じだ。リリーフに立った児玉源太郎は、現地に着き怒り心頭となった。指揮官たちは前線からずっと離れた安全地帯にいたからだ。バカ者戦況が見えずに作戦が立てられるかと、怒られた連中は伊地知たちである。乃木と児玉は長州、大山、伊地知たちは薩摩である。天皇も心配した戦いは、リリーフ児玉の作戦遂行によって、あっという間に終った。児玉は機関銃の陣地に大砲をバッカンバッカンと打ち込んだのだ。災いのもとを断つこの極めて単純明快な作戦を大号令をかけてやった。乃木希典は明治天皇の崩御とともに、妻と自死して軍神となった。私はコロナ、コロナの今、この二〇三高地の事を思う。次々と、続々と、バタバタとコロナは拡大する。国家の大将とその部下たちには作戦立案能力がない。その下の部下たちには、さらに能力がない。二〇三高地の指揮官たちが、失敗の罪をなすり合ったように、同じ失敗を繰り返す。敵のワクチンはブラジル型とか、イギリス型とか、アメリカ型、南アフリカ型と新兵器で攻めて来る。その間、文春砲なる爆弾が大将とその息子、息子の会社、それを管轄する総務省に着弾、さらに大将のお気に入りのくの一広報官(女忍者)にも命中、さらにさらに、NTTの親方にまで命中した。ドンペリあり、シャトーマルゴーあり、牛肉のしぐれ煮(お土産)からアワビの姿焼き、海鮮フル料理、超貴重な牛肉のステーキなどなど。タクシー券まであって、もう演歌チャンチャカチャンの大騒ぎだ。どーして文春はこんなに詳しいのか、調べろとなっているはずだ。答えはカンタン、いちばん身近だった人間が、週刊文春にリークしているのだ。ちなみに銀座の超一流クラブで、ドンペリだ、シャトーマルゴーなんてコースは、一人七万円なんてありえない。座っただけの値段だ。Tチャージ、Cチャージ、Sチャージと一人ひとり変わる女性の分だけ、チャージは加算されていく。これが銀座の掟だ。さらにアフターチャージとなると、もう私でも想像がつかない。ペヤングソースやきそばにブルドックソースと、紅しょうがをかけて食べながら、ずっと昔の(バブルの頃)銀座の夜を思い出した。二〇三高地は高級将校の頭の中では勝っていた。第二次世界大戦も同じだ。2021年の文明社会において、この国には注射器がないという。日々色違い柄違いの派手なマスクのワクチン担当大臣は、コロンコロン言う事が変わる。おそらく現在の陣立てでは、コロナ戦争は大敗北となるであろう。国家の大将が大胆に総取っかえの器量が必要だ。(自分も含め)経験豊富なリリーバーが必要なのだ。野党の力を借りる位の器量も欲しい。午後八時四十分発品川駅から湘南ライナーに乗車すると空席は少ない。オッあったと座る。そこには牛タンの袋詰めをつま味に、缶ビールを飲んでいる、オッサンがいた。これが臭い。ペチャクチャ噛む音が気になる。牛タンは仙台で食えと、ノドまで声が出かかる。品川駅では五分ほど停車する。席を変るかと見渡すと、街中では飲めない、食えない人々が、我こそはと飲みかつ、つま味 or 駅弁などを楽しんでいる。私にとっては地獄列車であった。牛タンはこれ以上薄く切れないというほど薄切りであった。男のスマホの画面にはマンガが映っている。窓側の男の左足が、私の縄張りに広げて入って来たので、踏んづけた。そしてニラミを効せた。警察用語でニラミというのがある。取り調べで調書をとった人間が、裁判所で私はやってませんと言わせないために、法廷に入って来た容疑者にニラミを効かせるのだ。暗黙のオドシである。にもかかわらず、取調べが拷問みたいにキツくてやってないのに、やったと言いました。こう言われると、大失態で出世は出来ないことになる。本来国家権力にニラミを効かすべき、大マスコミは、たっぷり国家にゴチ(ごちそう)になっていて腰抜けとなっている。薄切りの牛タンみたいに、ペランペランのヘナヘナだ。男は実はもう一つ薄切りを持っていた。タコ酢の薄切りだった。これが鼻にツーンと来た。ロボットが切ったのだろう。これ以上なく薄い。タコの肉感はなくやはりヘナヘナヒラヒラであった。もう一度左足を踏んづけたが、すでにいい気持ちになっていて無反応だった。列車は横浜駅を通過していた。(文中敬称略)