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2013年3月5日火曜日

「待合室にて」




「アタシャネエ世田谷食品のグルコサミンを飲んでいるから膝は大丈夫なの」
「今日は先生にどこを診てもらうの」
「膝が痛くて仕方がないの」
「だって世田谷食品のグルコサミン飲んでるから大丈夫っていったじゃない」
「あんたあれは舞の海なんて元相撲取りがコマーシャルでウソ付いているだけ?」
「じゃあ飲まないで先生の指示通りにした方がいいよ、おばあちゃんいくつ」
「アタシャネエ今年で満87です」 
「膝以外どっかよくないの」
「別にどこといってないけどね。ここにこうしていると安心するの、セサミンも飲んでるし、皇潤も飲んでるし、毎朝梅干しと楽京も食べてるし、青汁だって蜂蜜入れて飲んでるし」
「それじゃ病院に来なくてもいいんじゃない」
「そういうけどあんたお兄さん、健康第一だからね。プロポリスだって飲んでるし

 その日私は少し背中の曲がった老婆と病院の待合室で語り合いました。
場所は耳鼻咽喉科であった。

「アタシャこの頃耳が遠くなってね、先生に何回診てもらってもただの老化だっていうんだよ、お兄さんはどうしたの」
「耳の中にジェットが何機も飛んでいる様でありセミが九十九匹位いる感じなの」
「お兄さん変な事をいう人だね、飛行機は空を飛んでるし、セミは木にへばりついているんだよ」
「例え話だよおばあちゃん」
こんな変てこりんな会話を待合室で楽しみました。

「おばあちゃん100歳まであと13年頑張ってね」と声を掛けた時、そのおばあちゃんの名前が呼ばれた。
おばあちゃんの横で無言で週刊誌を読んでいた嫁さんらしき女性がおばあちゃんの両脇を抱きかかえて立ち上がり手をたずさえて診察室に向かった。
膝が痛いらしく引きずっていた。

どうやら世田谷食品のグルコサミンは未だ効いていない様だ?私は今は一切サプリメントとかビタミン剤は服用しない。やめてから様々な数値は改善された。
どんな薬でも肝臓は解毒のために働かなければならない。
痛い、痛い、とおばあちゃんの声が聞こえて来る。先生に膝を触れられている様子だ。
先生の声が聞こえてきた。
世田谷食品のグルコサミンで膝が治るくらいだったらお医者さんはいらないんですよ、私は耳鼻科だから市立病院の整形外科に行くといいですよおばあちゃんといった。


その後おばあちゃんは身長を測る物をみつけると身長を測って欲しいといって台に乗った。1.5センチ低くなったけど心配ないですよと看護師がいった。
アラッ嫌だアタシャ縮んだのかねといって台から降りた。
この機械壊れてるねといっていた。
嫁さんらしき40代とおぼしき女性の目は、全くやってられないといった感じであり、もう何もかもジョーダンじゃないという感じでもあった。
次の日は整形外科に行くといって帰っていった。
このおばあちゃんに先生から処方箋はなかった。

2013年3月4日月曜日

「セントルイス」


※イメージです


ツキはとっておけ。
これはプロのバクチ打ちの鉄則である。


ツキは誰にもやってくるが必ず落ちるものでもある。
 例えば麻雀に例をとるとツキにツイて馬鹿勝ちする時がある。
シロウトの人間は有頂天になりツキに身を任せ何でもかんでも勝負に行く。
ツイている時は気味が悪い程勝ち続ける。

プロはそんな時どうするか、私もずっとそうしていたがツキ過ぎたと思った時は、仮に当り牌が出ても“ロン”といわずあがらない。自分で“ツモ”ってもあがらない。
よほど自分が思い描いていたいい手でない限り。ツキはとっておくのだ。
勝たせる時は相手にトコトン勝たせてツキが落ちるのをじっと待つ。

麻雀を知らない人にはわからない話だが。
小指が一本も二本もない“ジャンゴロ(麻雀のプロ)”相手に高い高い月謝を払ってこそそれは身につく。心の上に刃をつけると“忍”の一文字ができる。


私がいいたい事は、待てば海路の日よりなりで、今どんなにシンドくてもきっとツキが回って来る、誰にでも。人生はバクチと同じだ。
結婚などはバクチの最もたるものだ。
人間はオギャーと生まれた時から“運”まかせとなる。
小石が額に当たって死ぬ人もいればジャンボ機が墜落した時助かった人もいる。


大切な事はツキが読めるか否かだ。
幸と不幸は次々と行ったり来たりする。
運の無さを嘆いてはいけない、その原因はきっと自分自身が作っているはずだ。
幸運に身を任せていてはダメだ。運は人に分けて上げたほうがいい。

ボランティア、チャリティ、寄附、形は様々にある。
シコシコ貯めこんで通帳を見てニヤニヤしていると、どーんと悪い運がやって来る。
昔お笑いで売れた確かセントルイスとかというコンビのギャグで“田園調布に家が建つ”とか、“定期預金に残はない” というのが流行った(そのコンビもツキが落ちて今やいない)。

アベノミクスとかで安倍晋三はすっかり大流行の様子だ。
本人もツキにツイている運も実力の内だとその気になっている。
だが予算委員会で質問を受けている最中にトイレに行く回数が増えてきたのがアチコチで報じられ始めた。持病が“調子”に乗るなと怒り“腸子”が落ちてきたのだろう、運と違う“ウン”を出すためにトイレに座っているのだ。
軟便はナンベンも出るという、今年の風邪は腸に来るらしい、油断を禁物にしよう。

2013年3月1日金曜日

「そうだ・・・行こう」




私のよく行くお寿司屋さんご一行がある年に社員旅行で京都一泊の楽しい嬉しいルンルンの旅に出たのです。

なんで京都かと尋ねれば“そうだ京都、行こう”なのですという。
テレビCMで見た南禅寺の桜を観たいのだと。私はいいました。
あれはあくまでCMなのでコンピュータ・グラフィックで誇張しているからな、まあ広告表現上の許される?嘘だと。

今年もまたCMでそれはそれは見事な桜が描かれている。
画面の片隅に小さな文字でCM上の表現をしていますとちゃんと書いてある(ほとんど読めないけど)このCMは見る者を旅に誘う強い美力がある。
長塚京三らしきナレーションもよい。とてもよい。

で、お寿司屋さんご一行は旅から帰って来ました。
どうだった南禅寺の桜はといえば、一行はだんまりです。
主人が出てきてこんにちは、お池にはまってさ~大変の気分の様で。


CMにだまされました、いわれた通りの桜でした。
CMはだましてはいないんだよ。
きっとこんな気分になります、その気分を拡大誇張して表現しているんだからな。
札幌の時計台へ行ってみな、小さくて通り過ぎちゃうよ。
土佐の高知の播磨屋橋なんておもちゃと同じだよ。
名物に美味しい物なしと同じだなという事で店内はしんみりとなったのです。

瓢亭のとんでもなく高い朝粥なんて食べに行かなかったろうなといえば、主人は行きました。でどうだった、店は良い感じでしたが肝心のお粥があまり熱くないので、関西の温度なんだよ、関東の田舎者には京の御所風の温度はもの物足りないのかもなという事になった。

“そうだ京都、行こう”と“そうだ京都へ行こう”とかなりの差があるのだ。
騒がしいCMが多い中で大人の財布を開ける格調がずっと好きである。
おっと観たいドキュメントが始まる。“そうだトイレ行こう”


2013年2月28日木曜日

「まま族と共に」




なぜかその週の内三日間位頭の中が吉野家の牛丼になっていた。
突然牛丼を食べている自分が現れよし行くぞと決めて新橋南口というか一番浜松寄り改札口近所の店に入った。
時計は午前十一時四十八分二十八秒であった。

コの字形のテーブルに20人が座れる。
16人入っていた。
全員男ばかり、少し太めで目のキツイ小柄な女性が目の前に立った。
胸章に「高」と書いてあった。多分中国人か韓国人の女性であろう。
オッキャクサンナニシマスとぶっきらぼうだ。

ということは中国人だなと思った。
牛丼特盛とお漬物を、とオーダーした。
フェーイキュートントクモリと声を発した。

男たちは黙々と食べている。
豚丼の男、カレー丼をスプーンで食べる男、牛丼並盛つゆだく(つゆがいっぱい)を食べる男、牛鍋+豚汁+コールスローを食べる男、みんなひどくダークな感じだ。暗い、早い(食べるのが)、重い。オーバーコートを着ながらとか、黒い革ジャンを着たままとか、分厚い半コートを着たままとか。

なんとなく「まま族」が沈んでいるのであった。
吉野家に付き物の紅しょうがの赤色が丼ぶりの上でやけに目立った。

私といえば牛丼を無言でドンと置かれ、お漬物をポンと置かれやっぱり中国人らしいなと思い仕方なしと許してあげる(中国人にはサービス精神はない)。
早い、うまい、安いが売りの牛丼であった。

初めて食べたときは正直感動した。
が、今回はガックリ度100%であった。
肉が硬いし玉ねぎはグッタリくたびれていた。
牛肉の色は薄暗い、赤い牛肉の色が全くない。
吉野家の秘伝はつゆに赤ワインをいれるところにあったはずだが値下げ競争のために入れなくなったか少なくしたのだろう。

味にコクがない。
牛肉をサッと入れてパッと熱々のご飯に乗せていたはずなのに煮込みすぎて何もかも台無しだ。これじゃ吉野家の売上がどんどん落ちる訳だ。
頼んだ以上仕方なく食べたが紅しょうが以外はかつての吉野家ではなかった。
お漬物は白菜なのだが広々としたものでなく細々としたものだった。


(半分以上残した)なんとか四分の三を食べ終えて、あーなんだったんだこの三日間は、牛丼が夢にまで出たのにと過ぎ去った時間を悔やんだ。
徹夜、徹夜で仕事をした日々、仲間と交代で牛丼を買いに行ってみんなで食べた発泡スチロールの入れ物の中でも熱々の牛丼がエライウマカッタ。

吉野家からテイクアウトが流行し始めた時、由紀さおりの“夜明けのスキャット”や石田あゆみの“ブルーライト・ヨコハマ”が流行っていた。
四日間一睡もしなくても生きていられる若き日々であった。

オッキャクサンオツリヨアリカトサンと「高」さんはいった。
私は吉野家と別れる覚悟を決めた。愛情が深かったばかりに店の外に出た私は牛歩の様に足取りは重かった。そうか、ずっと見ていた夢はあの頃の若い時分だったのだ。
牛丼イコール徹夜イコール自分だったのだ。


2013年2月27日水曜日

「アル体操」





国民栄誉賞が何程の賞かは分からない。
最近は政治的利用に使われている。

長嶋茂雄も力道山も石原裕次郎も受賞していない。 
Why何故?大鵬は死んでからだ。

 レスリングがオリンピック競技から外されるとなりそうで協会は慌てふためいている。
ロビー活動(金で接待漬け買収工作)が不足していたなんておよそオリンピックの精神からかけ離れた事が公然と叫ばれている。
オリンピックが既に商業化、巨大利権化している事を協会全体で認め大騒ぎとなっている。早い話国から出る強化費という名の利権が入らなくなるからだ。

私の見解ですがIOCの連中が日本に来てホテルかなんかでTVを見た、何を、それは♪〜イチニンサンシアルソックと歌いながら吉田沙保里選手や伊調選手が試合着風なのを着て不気味な踊りを踊る(アルソック体操というらしい)IOCの連中の一人かなんかが、なんだこりゃ、金メダリストが何やってんだ、品位のカケラもねえじゃねえかといったのでは?日本の協会はALSOKをつけてなかったのか防御体制が不足していた。

もしレスリングがロビー活動でオリンピック種目に選ばれたらIOCは公然とロビー活動を認めた事になってしまう。という事で私はレスリングは選にもれると思う。
油断大敵、またロビー活動とは深く静かに潜水艦の様でなければならない。
日本国の最大の弱点は情報戦に全て弱い事だ。国民栄誉賞なんてもう“えーよ”(サブー)



2013年2月26日火曜日

「自分へのごほうび」




静かなプロフェッショナルたちがいる。
一人ひとり自分の仕事を丹念に長年の技で無言でこなして行く。

私が四十年近くお付き合いをいただいている会社に東洋羽毛工業株式会社さんというのがある。羽毛ふとんの製造、販売会社だ。
世の中に偽物と本物というのがあるがこの会社は全身本物の会社である。

世間になじみは無いが本物の羽毛ふとんの世界のリーダーカンパニーだ。
悪質な羽毛ふとんは粗悪な羽毛、杜撰な精毛、洗浄、縫製により安価を売り物に世に放出する。
トラブルがついて回るのはそのせいである。
眠って起きたら周りは羽毛だらけ、部屋の中は異臭が出たりする。

最高の羽毛ふとんをお届けするために東洋羽毛さんは中国や欧州から良質の原毛を輸入し、精毛、洗浄、縫製まで一貫して自社体制で作っている。
販売先は主に病院や公共機関だ。
病院に勤務する婦長さんや看護師さん、ハードな仕事をする人たちにとって眠る事は何よりの楽しみ、自分へのごほうびなのだ。だから本物の羽毛ふとんを買い求めるのだ。

半ばしゃべるのが仕事の様な私にとって、羽毛ふとんをつくる人々の世界は聖なる職場の様である。無駄口、無駄な動きは一切ない。

ちなみにこの会社に残業はない。
五時半になると全ての仕事は終わる。創業者のモットーだ。
その日の仕事はその日の内にキッチリ終える、それがプロフェッショナルなのだ。
本当ですかという者がいたので、試しにある日五時半に電話を入れると繋がらなかった。

今年で創業六十周年、赤い羽根からヒントを得て生まれた羽毛ふとん会社。
この会社には暖かい布団を生む優しい人々の魂が息づいている。
二代目社長は温厚篤実を絵に描いた様な方であった。
現三代目社長は誠実かつ仁と愛に満ちた姿勢正しい私の最も尊敬する人だ。
会社中に誠実な空気が清々と流れている。

私は三代の社長から大恩を受けている。
現在六十周年を記念する60Pのブランドカタログを作らせていただいている。
羽毛の様に心を真っ白にして。“安物買いの銭失い”という言葉がある。
巷に流れる安い羽毛布団を買ってもきっと後悔するはずだ。

時々ジャパネット高田の社長が頭の先から甲高い声を出して安い羽毛ふとんを売り込んでいる。あろう事か朝日新聞の通販広告で極安の羽毛ふとんの広告が載っている。
朝日の広告審査機能も落ちたもんだ。
で、二月末で朝日新聞はお断りする事となった。

2013年2月25日月曜日

「そうだ山形へ行こう」


イメージです


新杵屋/牛肉どまん中弁当1,100円。
米沢紀伊国屋/米沢牛コロッケ一ヶ210円。
料亭香梅咲/弁慶めし懐石弁当1,200円。
自然食の桃井/青南蛮佃煮630円。
帯谷食品/赤かぶ漬368円。
半澤鶏卵/スモッち500円。
戸田商店/秘伝豆840円。


二月二十四日(日)さいか屋藤沢店で「山形の観光と物産展」を開催しており一人立ち寄った。
藤沢駅ビルに人に会う用があり山形ファンの私としてははやり山形の引力に勝てず大嫌いなデパートで買い物をした。

 かつてデパートの宣伝部にいたのでいつしかデパートの独特の人混みが苦手になっていた。血走った目で特売場や物産展に集結するおばさん達を見ると正直気持ち悪くなってしまうのだ。ウルサイ、クサイ、ダサイ。苦手中の苦手なのだ。

愚妻が金曜から急性ウイルス性胃腸炎で救急車で明け方四時過ぎ搬送、それ故日曜日は冷蔵庫の中はめぼしい物が無い。
朝やっとおかゆが食べたいというので作ってやり、昼は素うどんを作ってやりました。


時々は優しいんです。
会話は一日中15秒位。
食べるか!食べるわ!まあ、これだけ。

藤沢で人に会ってさいか屋藤沢で山形の弁当を買って来るかと一方的にいって家を出る。返事が無いから会話ではない。
新聞の折り込みチラシB4判をたたんでポッケに入れて出たのです。


山形はうまい物ばかりだ。
今年は行くぞ山形へ。いざ月山へ。湯殿山へ。羽黒山へ。鶴岡へ。
旅館はやっぱり“九兵衛”がいいな、藤沢周平の香りがいっぱいだから。
この処救急車づいてる、我が家には車が無いので仕方なしだ。

「誓います」




愛用の眼鏡はついに出てこなかった。
今まで散々あちこちに置き忘れたのだがその度親切な方に恵まれて私の手元に戻って来た。

その日、東海道線辻堂駅のベンチに座り新聞を読みながら列車を待っていた。
やがて列車が来た。私はつい眼鏡を左サイドの椅子の上に置いてしまった。
バッグにゴソゴソ新聞やらペットボトルのお茶を入れたのだ。
乗車して再び新聞を読もうとし、あっと思った。
シマッタ!眼鏡をしまってなかった事に気づいた。

次の藤沢駅で降り、下りの列車を待って乗った。
辻堂駅のベンチに行くと眼鏡はない。
改札口に行って若い駅員さんに眼鏡は届いていませんかと聞いたが調べた結果無かった。あーあ、ついにやってしまった。
つくづく物を大切にしないズボラな自分を叱った。

“反省だけならサルでもできる”という名人のコピーが頭をよぎった。
私はサル以下なのだ。バッグの中の革のケースからリザーブの眼鏡を出した。
この眼鏡は臨時用で1800円の品。忘れた眼鏡は28,400円の品だった。

その昔、“眼鏡は顔の一部です”というこれまた名コピーの広告を思い出した。
私は顔の一部を駅のベンチに置き忘れそして失ったのだ。
黒いウェリントン型の眼鏡です。左目は乱視対応のレンズがはいっています。
届けていただければ心ばかりの御礼をいたします。

これからは物を大切にする事を誓います。
でも、駅員さんに聞くと眼鏡の届け出は少ないとの事、使い道があるからだそうです。


「大切な教材」




あるコラムを読んでいて私と同じ見方をしている人がいる事に心が和んだ。
コラムはイラストレーター沢野ひろし氏であり彼の“え”が描いてあった。


それは中国の映画「初恋のきた道」についてであった。
張芸謀(チャンイーモウ)監督が未だ新人の頃の名作だ。
主役の少女がチャン・ツィーである、何がこの映画の良さかというと、悪人が出て来ない映画なのだ。

父の死を聞いて故郷に帰ってきた息子が、両親の馴れ初めを思い出す。
町から村にやって来た若い教師の18歳の村少女が恋をする。
チャン・ツィーが何しろ一途で美しくかわいい。
華北のひなびた村の秋から冬の風景が心を打つ。村と町をつなぐ一本の道は結婚する前、町に連れ戻された人を来る日も来る日も待ち続けた道なのだ。


悪い人が出て来ない映画はこの頃殆ど無い。
小学生の頃いい映画を観る授業があった。
ぜひそれを復活させてほしいと思う。

先生と生徒が一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に感動する。
ぜひ「初恋のきた道」を教材にしてもらいたい。

情操教育をしないのがこの国をギスギス育ててきた。
山の子は海へ、海の子は山へ河へそして村へ、里山へ。


































2013年2月20日水曜日

「犬だって」




雑誌アエラ(AERA)を読んでついに、ここまで現代社会は来たかと思った。
それは「犬」が心の病といわれる「鬱」になっている。
 
犬がなんと抗うつ薬を飲んでいるという驚きの記事があった。
勿論原因の殆どは飼い主にある。
ベタベタした過度の接し方、人形ではあるまいし着物やドレスを着せる等の過剰な愛情?服従させるのがしつけとばかりに命令を下し更に暴力を加える行為。
また、室内犬を外に出さずに家の中を牢の様にしてしまう間違った生活。
犬は言葉を出せないから、常同行動をしてストレスを示す。
自分の尾を噛んだり、お腹を傷つける自傷行為を繰り返す。
中には幻覚を感じたり、無気力になり一日中ぐったりしてしまう。
獣医に来る犬の鬱患者が増加しているという。

ある新聞記事によると、飼い主にとってある時は「うちの子」であるが、ある時は「ただの物」にしてしまうという。
例えばある夫婦が離婚する事となった。
さあ、愛犬をどうするか、夫は君が持っていけと言い、妻は私はいらないわとなる。

更にこんなケース、夫が転勤になった、行き先では犬が飼えない、それじゃどこか遠くへ行って捨ててしまおう。

そんなこんなで昨年だけでなんと25万頭の犬が捨てられ殺処分となった。
ネグレスト(育児放棄)が遂に犬社会まで及んできた。

先日、私の会社の社長の犬が病に勝てず家族に看取られ13年の人生(犬生かな)を終えた。家族同然であったのだから意気消沈している。それが正しい飼い主の姿だ。
亡くなった犬君もきっと幸福でしたといっているだろう
犬や猫を飼う人、ペットを飼う人は十分な覚悟が必要なのだ。


福島県の犬は放射能が恐いといって外に出してもらえない。
当然殆どの犬が鬱状態なのだろう。犬たちも脱原発なのだ。