ページ

2018年7月10日火曜日

「防災学を義務教育に」

人間の命とは、その大切さを大自然は教える。戦争により何百万、何千万人殺しても、英雄と言われる者共が歴史にその名を残す。タイの洞窟の中にいる13人の少年の命を守るために、人はありとあらゆる努力をする。梅雨は例年より3週間も早く終わったと気象庁が宣言したと思ったら、とんでもない間違いで、未曾有の大雨による大災害が起きた。私が生まれた地である所の名がニュースで続々と出る。岡山、倉敷、矢掛、 小田川、高梁川、そして真備町などである。戦争を生き抜き、やがて極楽へと向かうことができたであろう90代の人々が泥の中で死ぬ、川に流されて死ぬ、岩などの下敷きになって死ぬ。つまり泥地獄の中で生を失ったのである。毎年、毎年繰り返される大惨事である。国を治めるとは、治山、治水をすることと同義である。地球の温暖化が急速に進んでいるのに、世界の為政者は無為無策、ひたすら地球を痛めつけている。名ばかりの世界集会は自国優先であり、砂漠に水を撒く程度でお茶を濁す。空から見れば誰でも分かる。この国は海に囲まれ、列島のほとんどは山々と森林である。人々は山と海、河川の側に家を建てて住んでいる。ひとたび大雨が降れば山が崩れるのは、毎年証明されている。だが人々は他に住む場所がない。ならば国家が人々を守る策を練り上げて、何より優先して守らねばならない。森林は守られていない。間伐をしないから大雨となれば、無数の流木を生む。無駄な原発を作る予算、アメリカの粗大ゴミのような軍用機や武器の買い上げ予算、何に使われているのか分からない、莫大な ODA 資金。それらを治山、治水に当てれば防げるところは防げる。 E コマースやアマゾンが発達して、ものを頼めば翌日に着く時代、日本中にコンビニがあるにもかかわらず。毎年災害のたびに、水がない、食べ物がない、トイレがない、停電でまっ暗闇、ローソクと懐中電灯、手巻きラジオが頼りということを繰り返す。日本の歴史とは災害の歴史であると言っても過言ではない。防災グッズはいくらでもある。しかしいざという時にはない。なぜかを国家国民で考えねばならない。行動を起こさねばならない。自分には関係ない。山の側でも河川の側にも暮らしてない。火山だって近くない。大変だななどとビール片手にテレビを見ながら、他人事を言っている者共には、大地震という自然の怒りが来るだろう。やるべきことをやる。持つべき物は持つ。買うべき物は買う。災害に学ばない国は滅ぶだろう。“汝の隣人を愛せ”と言うが、いざという時に頼りになるのはご近所さまだ。ふだんからごあいさつ位はしよう。使い捨てトイレの“ポイレット”すぐに組み立てられる“ダンボールのトイレ”私がお世話になっている会社で販売している。避難先の体育館で人々は言う。水がない。トイレが詰まって流れない。汚い、臭い、恥ずかしい。我慢も限界だと。人間どんな恐怖の中でも、出るものは出る。国家は防災のために出すものは出せだ。たった一枚のビニール、たった一枚のダンボールでも人間は防災に役立つ知恵がある。日本は義務教育の中に「防災学」を入れるべしが、私の持論である。
http://www.health-assist.jp/SHOP/toilet002.html

0 件のコメント: