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2019年5月16日木曜日

「退職代行」

「典型的自己利益追求」。人間関係を損か得かだけで進めて行く。これはこれで至極分かりやすい。当世の現実的生き方だ。「退職代行」に依頼殺到という大きな記事が5月14日の東京新聞にあった。会社を辞めたい。でも言い出せない。もうどうしよう。そんな悩みを抱えている人に代わり、退職の意思を伝え、必要な手続きをするのが「退職代行」だ。私のような欠点だらけ、圧力的(そう感じる人が多い)アレを調べてアレを買って、アレはどこへ行った。一日中ワサワサしている人間、今言っていたことがすぐにコロコロ変わる(君子は豹変する)。このバカ面倒見切れない。そんなところに退職願いなどはない。「アバヨ、サヨナラ」で終わる。在職1年ぐらいの人は社内でイロイロ買って来て送別会、2年以上になると外でやっている。私は一切出ないことにしている。最後ぐらい嫌な顔を見させないという気遣いなのだ。「退職代行」を頼む年齢は10代から60代、とくに20代から40代が多く、会社の規模も従業員数千人の正社員が多いという。会社がホワイトでもブラックでも上司が退職願いを受理しないケースもあるという。大企業ともなると退職手続きも面倒くさいようだ。料金は5万円ぐらいが相場のようだ。その点小さな会社はメール1本で「辞めます」というケースが多いようだ。近々この国もアメリカと同じになり、“朝出社して昼には終わり”というようになるだろう。アメリカのビジネス街では、上司に高級ランチを誘われたら、ほぼアウトという。もっとも慣れたもので、あっそう。じゃすぐライバルの会社へと行くのが、日常茶飯事なのだ。日本もこうなって行くだろう。私は私へ退職願いを出せないでアクセク働いている。いつものグラスに酒を入れ、シラス干しと明太子で一杯飲みながら映画を観た(アイルランドの作品「ローズの秘密の頁」)。生まれたばかりの子を殺めたのは(?)、おへその緒を切るためか否か、子の親は神父かそれとも英国兵士か。40年間精神業院に入れられ続けた。老女が聖書の中に書き続けた真実とは。アイルランドの空は鉛色に重い。人間の過去のように。



2019年5月15日水曜日

「谷口浩さんという凄い人」

私は高校に2年とちょっと在籍した経験がある。そのうちほとんどサボッていた。1年生のとき、中野の中学から来たひとりの男がいた。この男は野球部にいて、背は高く体もゴツイ、かなり美男であった。高校を卒業後、大学へ進み日本テレビに就職し、プロデューサーとしてドキュメンタリー番組の名作を手がけた。三里塚の闘争では民家を借り、そこにこもり何年も取材を続けた。ガッツがありヒューマニストであり、正義感の塊で、名幹事でもある。今でも彼の労によって年に何回かクラス会みたいなものをやっている。金を賭けない麻雀とか、落語の会とか、仲間の別荘に集まって温泉気分を味わうとか、とにかくキャプテンシーがある。彼はFAXとか手紙でいろんな人を紹介して来る。過日1冊の本が送られて来た。著者は谷口浩(タニグチヒロシ)さんだ。1972年福井県生まれ。この人の人生は、まさに劇的で凄絶で希望に満ちている。谷口浩さんは本の帯にこう書いている。「『自分探し』を否定する人がいますが、僕は、やりたいことを見付けようとジタバタする人を下に見るという風潮が嫌いです。必死で生きるということは何かとジタバタするものではないでしょうか」。彼は今ステージIVの末期癌と闘っている。その中でフィジーで奇跡の語学学校を運営している。すでに2万人以上が卒業している。天国に一番近い島で理事長を務め、フィジーで上場も果たし、ジェットコースターのように資金集めに命をかけている。定期的に慶應病院に診察のために日本に帰って来る。副作用とのすさまじい闘いは、死ぬよりつらいのだ。だが、彼の教育への起業家精神は後退することなく、絶えず前へ前へと向かう、フィジー共和国は7人制ラグビーのW杯で優勝した国だ。ラグビーの鉄則「GO! AHEAD(前へ)」が徹底されている。五体満足のチンタラ人間にぜひ読んでもらいたい。中央公論新社「FREE BIRD 自由と孤独」。近々、診察に来るので友人がぜひ会わせたいと計画してくれている。1日中PCにへばりついている人間ばかりになってしまったが、こんな行動的な日本人もいる。それにしても抗癌剤の副作用とは、生き地獄に等しい。人間は少々金を貯め込み、守りに入ると天はそうさせじと必ず不幸の連鎖を荒波のように押し寄せる。今、日本中で起きている凄惨な身内同士の数多くの事件は、ここに原因がある。近親憎悪なのだ。人のために使ってこそ金の価値がある(私はもうスッテンテン)。金持ちはフィジー共和国へぜひ投資してほしい。アメリカのユダヤ人成功者は天を恐れ寄付活動をする。谷口浩(タニグチヒロシ)氏に会える日を楽しむにしている。癌と闘いながら世界で2番目に大きな語学学校を設立した革命家だ。きっと癌も克服するだろう気力を、本を読んで確信した。

 


2019年5月14日火曜日

「ケ・セラ・セラ」

新聞業界の凋落が激しくなってきている。一応信用できる協会として一般社団法人日本ABC協会というのがある。それによると新聞発行部数ダントツトップの読売新聞の部数減が激しい。2月だけで前月に比べて15万部近く減った。前年同月比では43万部近いマイナスで直近の1ヵ月で年間の3分1を減らしたことになる。販売店へのいわゆる押し紙を入れると実数はもっと減少しているはずだ。かつて読売ジャイアンツ、朝日インテリ、毎日ノンポリ、産経右翼と言われていたが、人はそれぞれ新聞を読んでいた。新聞のレイアウトや紙面づくりは、読売がいちばん上手い。また、コラムに使う写真は秀逸である。先週末「チワー、スミマセン。新聞ですけど夕刊だけでも3ヵ月取ってくれませんか?」と、洗剤やら何やらを持って来た。「オレンチは“アカハタ”だから」と言うと大抵「そうすか」と言って引き下がる。これは逃げ口上。職業柄、読売も産経も読む。朝日、日経、東京は定期購読をしている。私のお世話になっている広告代理店の社長が、すかいらーくやガストなどのグループで無料で読売新聞が読めるサービスを考えて大成功した。ビッグアイディアである。人間の知識向上にも大いに役立っている。新聞は一部勧誘するにも大変な時代となっている。スマホやiPadで十分だと言う人が多い。ルノアールというサラリーマンのオアシス的な喫茶店がある。客のほとんどが新聞と煙草を楽しんでヒマつぶしをしている。一種独特の雰囲気があり、女性には入りにくい。私はルノアールのミックスサンドが大好きで時々入る。マッタリしたムードの中で食べるミックスサンドは格別によくできている。一度ぜひ立ち寄ってください。ルノアールは上場企業だが、主語のない文章の世界、主役のいない映画の世界、無気力と怪しげな金儲けの、独特の世界が観察できる。サラリーマンからは、ケ・セラ・セラのように感じる。そんな虚無感を肌で感じる。そして裏社会の人たちがどんよりした目を光らせている(見ればすぐ分かる)。喫茶店「ルノアール」と絵画の巨匠「ルノワール」は、えらい違いなのだ。今朝「ケ・セラ・セラ」を歌ったドリス・デイが死去したニュースを見た。アメリカファーストの代表のような歌手&俳優だった(97歳没)。


2019年5月11日土曜日

「三色のボールペン」

「ウルセイ!! いい加減にしろ」と言いたいことが列車の中では起きる。人間は単調な同じリズムや音をずっと聞いていると、「ウルセイ!」と言いたくなる。例えばメトロノームをずーっと聞かされる。柱時計の音をずーっと聞かされる。イビキやハギシリも同じだろう。成田離婚の原因の一つに、新婚旅行のイビキとハギシリがあるという(?)。昨日朝8時半頃、私は東京へ向かっていた。10時までに届ける大切な提出物があったからだ。朝刊2紙を持ってグリーン車に乗った。この時間は混む。空いていた席になんとか座れた。窓際に345歳の大柄の会社員風の方が、目の前にあるデスク板を引き出し、ボールペンを忙しくノート上に動かしていた。男は黒、赤、青の三色のボールペンを使っていた。何を書いているのか、大学ノートにポチッと黒、ポチッと赤、ポチッと青を繰り返す。はじめは全然気にならなかったが、じっと聞き出すと、そのピッチは実に速い。ポチッ、ポチッ、ポチッと続く。藤沢、大船、戸塚あたりになると、そのポチッ、ポチッ、ポチッが気になって、気になって仕方ない。チョコッとノートを見ると、三色を使って几帳面に何やら写し書きをしていた。横浜、川崎まで来ると、私はもう我慢の限界に来ていた。「ウルセイ!」と思い、実は何も言わず空いた席に移動した。私はかなり成長をしていたのだ。だいたい朝の列車の中でいかにも仕事をしているような奴は、使いものにならないのが多い。私も三色のボールペンを使うがこれからは気をつけようと思った。知人の精神科医が言っていた。まっ白い部屋に椅子一つ、それに座らせて一日中同じリズム、同じ音を聞かせ続けると、10日間くらいで気が狂い出すという。海外では思想犯を拷問するときに使うと言っていた。まっ白い空間というのは、人間を情緒不安定にする。キレイ過ぎる空間も同じらしい。無頼派と言われた小説家、故坂口安吾の有名な写真。書き損じた原稿用紙の雑然とした中で、ペンを持つ姿が憧れであった。キレイな部屋の一室で、パソコンを打つ小説家を私は買わない。


2019年5月9日木曜日

「夢の離婚(?)」

5月7日(火)、東海道線の終電に品川駅から乗った。10連休明けで混んでいると思ったが意外にもすいていた。4人掛けに私ひとり。隣を見ると278歳の女性が完全に熟睡していた。窓際に第三のビール、本麒麟の赤い缶が置いてあった。友人の小説家と一日一回しか上映しないドキュメンタリー映画を渋谷で観た。品川まで一緒に行き駅で、「そんじゃ、また明日よろしく」と言って別れた。キップを買って改札口に向かうと、旧知の友人が「オー、オー、オー、久しぶり」と言って近づいて来た。「オー、オー、オー、何やってんだよ」と言った。「年金暮らしだよ」と言った。終電まで1時間ほどあったので、ちょっと一杯飲むかと、駅の脇にある大衆食堂みたいのに入った。かつてCM界のヒットメーカーだった共通の友人、故市川準さんの思い出話となった。あの人は、はにかみ屋であった。世田谷に立派なコンクリートの邸宅を建て、その前で子どもと記念写真を撮り、写真ハガキを送って来た。一行独特のふんわりした文字で「ボクには似合いませんよね」と書いてあった。何しろ売れに売れ、ほとんどをヒットさせた。年金暮らしの元演出家は「今、オレは年金暮らしで何も仕事をしていないんだ。ずーっと連休、ずーっと毎日が日曜日、家にずーっと居ると女房の目が恐いんだよ。市川準さんの『亭主元気で留守がいい』女房の目にそう書いてあるんだ。だから毎日、『ぶらり途中下車の旅』をやっているんだ。今夜はその仲間と京急巡りをしていたんだ。一日は長いね。仕事をやっているときは、あっと言う間の一日が、何しろ長いんだ」。ふたりでフライドポテトとチーズを食べた。CMの世界はどんな売れっ子も、死んだりしたら48時間でほぼ忘れられる。「オッもうすぐ終電だ。また会おう。メールは?」と言うから「全然できない。携帯に電話をくれ」と言った。ある説によると、夫が毎日家でゴロゴロし、シャワーも浴びず、髪も整えず、パジャマのままでオナラしながら新聞を読み、テレビのバラエティを見ていると、99.9%の女性は一度は夢の離婚を考えるらしい。午前1時半頃家に着きテレビをつけ、服を脱いでいると、夢の離婚(?)をずっと考えているヒトが階段から降りて来た。「結婚へは歩け。離婚へは走れ」という格言がある。夫はつらいよなのだ。友人と観た映画は『チカーノになった日本人』。いずれとんでもない人生の姿の詳細を書く。



2019年5月7日火曜日

「令和の先に」

令和初の400字のリング。休み中にインプットした作品。向田邦子のドラマシリーズ「いとこ同士」、「終わりのない童話」、「空の羊」、「響子」、「風を聴く日」、「小鳥のくる日」、「華燭」、「風立ちぬ」、「あ・うん」、映画は「黙秘」、「猟人日記」、「ファウンダー」、「検察側の罪人」、「女神の見えざる手」、「二重螺旋の恋人」、「目撃者」、「上意討ち」、「赤ひげ」、「ヘル・フロント」、「イコライザー」、「ハンニバル・ライジング」「フューリー」、「泣く男」、「ゲットアウト」、「告白小説、その結末」、「LBJ」、「ファーナス」、「ミッシングレポート」、「項羽と劉邦」、「遠雷」をこの休み中にみた。目標に5本足りなかった。政治的に画策された10連休。雨で始まり、雨のち晴れで終わった。令和、令和であった。この国はいつでも戦前に戻るなと思った。憲法記念日の新聞やマスコミが、平和憲法について詳細に触れてなかった。(特にテレビ、東京新聞は大きく扱っていた。)衆参同時選挙が決まった瞬間、橋下徹一色になると予感した。通販で買った「映像の昭和」全10巻、その中のヒトラーの演説を見ていたら、そう思った。橋下徹はブームを呼びきっと入閣するだろう。国民のアンケートによると、憲法改正に肯定的な数字が多い。ジワジワと改正への道を広げている。五木ひろしのヒット曲に「ふりむけば日本海」というのがあるが、「ふりむけば日本壊」だ。平和ほど大切なものはない。このあたり前のことが世界で唯一の被爆国である、日本にとって、〝あやふや〟となっている。この連休中に学んだことは、人間という動物は「分からない」。この単純な事であった。そして、人間は果てどなく争い続ける。蛇とマングースのように。(文中敬称略)

この二本の女性は恐い。

                                               





2019年4月25日木曜日

「10連休前、最後のリング」


現代社会の発展(?)の楚であるアダム・スミスは、「神の見えざる手」を論じたがSNS社会を予言していなかった。マーシャル・マクルーハンの方が遥かに予言していた。先週末土曜日から月曜日午前四時にかけて、11本の映画を借りて来て見た。3本は大いに裏切られ、2本は予想通り裏切られた。残った6本の中に、カンヌのパルムドール(最高賞)を受賞した「万引家族」があった。友人がプロデューサーとして参加している「スマホを落としただけなのに」。これは怖かった。友人とは星野秀樹氏。久々にスマッシュヒットを生んだ。万年映画青年である。外国人から見た三船敏郎のドキュメンタリー映画が良かった。ナレーターはキアヌ・リーブスであった。かつて人が眠っている間に働いている店は潰れないと言われていた。お豆腐屋さん、パン屋さん、新聞配達所、牛乳屋さん、などである。先週近所に住む義弟、七十一歳のパン職人が家の周りが工事中でクルマを入れられず、夕方から夜中の1時まで眠りに来た。義弟は目覚まし時計を1時にセットし、愚妻の作った手料理を食べて熟睡した。お礼にと、売れ残りのパンをサンタクロースの袋のようにして持って来た。家中にパンの山ができた。パンは粗利がよく特にバケットは儲かるのだと、しかし24時間営業のスーパーやコンビニの出店ラッシュで、全然売れなくなった。パン職人の労働時間は毎日14時間だ。義弟はまるで煮干しのように、脂気がなく痩せ細っていた。だがプロの職人魂は健在で、おいしいパンのために働き続ける。「万引家族」は、出色の作品であった。安藤サクラとリリー・フランキーは特筆すべき演技力であった。この物語も24時間営業のスーパーやコンビニが生んだ悲喜劇である。万引き行為はその中で生まれた。家という入れ物の中にいるのが〝真の家族〟とは言えない、ずっと前〝山岸会〟なるものがあって、家族でない家族が共同生活をしていた。(現在もどこかにあるらしい)自給自足が原則だったから、万引きはしない。したとしたら家族という厄介な関係を万引きしたようなものである。アダム・スミスは資本主義の進化を語ったが、「家族の資本」というものが、やがて家族主義を破壊することは、予知していなかった。「スマホを落としただけなのに」は、一個のスマホを落とし忘れ、それを拾った者が異常なハッカー(?)スマホの万引き屋であった。異常が生むのは当然大異常であり、その人の過去、周辺の知人、友人の過去を全て手に入れてしまう。「家族の資本」である。SNS社会が人間の心身を異常にして行った。バーチャルの中でこそ自分の存在があつた。(孤独な凶器を生んだ)ヒットゲームを生む天才プログラマーは30歳〜45歳前後にその仕事を離れ、多くはその世界に戻らないという。人間の頭脳は前頭葉の退化によって、認知症を生む、物事を考えなくなった人間はやがてアルツハイマーのようになり、記憶が定かでなくなる。「殺人者の記憶法」という韓国映画を見たが、自分がいつまで自分で何人殺したか、今も人を殺しているのに、自分が誰だか分からない。正常なのに異常を演じていた映画「カッコーの巣の上で」主人公ジャック・ニコルソンは、前頭葉を手術で切り取られてしまい、本当の異常にされる。さて我々は、本当は誰なのか、これから何をしでかすのか、記憶法を見つけねばならない。権力者は貯め込んだ財産を失う恐怖に慄き自己分裂をする。一族が争うシェークスピアの「リア王」のようになる。400字のリングは本日より休筆する。10日間×24時間、つまり240時間を有意義に使いたいと思っている。最後に「三船敏郎」は、日本映画界が生んだ最大の役者である。あの黒澤明監督も三船敏郎には、演技を付けなかったという。何故なら、ミフネはクロサワを超越していたのだ。ふたりは二人でこその存在だった。三船敏郎は黒澤明の映画以外では、ただの役者であり、黒沢明監督も三船敏郎と別れてからの作品は、絶対的な精彩を欠いた。ファインダーを覗きながら、あ〜三船だったらと思い続け鬱状態となってしまった。人がヒトを必要とする時代に戻りたい。人間が今より人間的であった。皆さん良い連休を。いい映画を見てください。(文中敬称略)

2019年4月19日金曜日

「薫風」

人の名前には、その人でなければならないという名前がある。「葛西薫」氏もその一人だ。名は体を表すと言うが、この人ほどピッタリの人はいない。日本の広告界、世界のグラフィックデザイン界、タイポグラフィーデザイン界、パッケージデザイン界、そのすべてで横綱の位置にいる人はいない、浅葉克己氏、副田高行氏、井上嗣也氏が、四大横綱と言える。その名の「薫」の通り、どの作品にも葛西薫氏独特の〝薫風〟がある。常に新しいものに挑んでいる。大胆かつ繊細、冗舌にして寡黙、斬新にしてふるさとの薫がする。人格も逸品、穏やかで柳の木の如く、サワサワとユラユラとしている。現在日本にいるデザイナーたちで、葛西薫氏を学んでいない人はいないだろう。若者たちのいわば静かなるカリスマだ。過日芝白金の画廊にて、葛西薫さんの知人である詩人とのコラボレーション展があった。私は2点を買い求めた。故熊谷守一先生に匹敵するこれ以上ないシンプルな作品である。葛西薫さん独特の中間色が素晴らしい。その作品が届き、仕事仲間が額装してくれた。その作品を見ているだけで鎮静剤の役をしてくれている。もうかれこれ40数年のお付き合いをさせてもらっている。日本の広告界、デザイン界、コピーライティング界に、スターが生まれなくなった。我々は広告代理店のコンビニエンス(便利屋)になってしまっている。しかしみんな生きて行かねばならない。あと5年経ったら新しい個性や創造力のない広告代理店は、人口知能AIの発達により、ほとんど消えて行くだろう。その人でないとできないものを持った。クリエイターでないと、人工知能にはかなわない。葛西薫氏はいつも変化をし続けている。ご丁寧な手紙をいただいた。それ自体が作品であった。日々学ぶ者だけしかクリエイターとして生き残れない。自分にもっと投資せよ。


 

2019年4月18日木曜日

「運命と宿命」

韓国映画ならこんなシーンがあるやも知れない。調停に及ばず、究極の離婚のシーンである。事件は日本で起きた。去る320日午後、千代田区霞ヶ関にある東京家裁一階玄関で、離婚調停に来た妻の首を、夫が折り畳みナイフで切り付け、失血死させてしまった。夫は逮捕時にケガをしたので治療のためいったん釈放されていたが415日再逮捕となった。ずっと思い違いしていたことを知った。ノートルダム寺院が大炎上してしまった。ノートルダムとは貴婦人の意味であり、寺院の壁の中には「宿命」という言葉が残されていたという。ヴィクトル・ユゴーの原作(だと思う)「ノートルダムのせむし男」という映画が思い出された。アンソニー・クイン演じる「カジモド」という寺院の鐘つき役のせむし男(今では差別的かも)が、ある日街の片隅から、ジーナ・ロロブリジダ演じる美しい女性をみる。カジモドは熱く燃え盛る。確かジプシーだったと思う美しい女性は、一人の男を想うがその男に殺されてしまう(出世のジャマだみたいに)。カジモドは女性の遺体を山の中の洞穴に運び入れる。そしてずっと、ずつと、ずっと何も食べず、水も飲まず、死ぬまで女性の側に横たわる。月日は経ち二人の骨は灰となり、風と共に消える。ある日考古学者が学生たちをつれてその洞窟に入る。土壁を手で触っていると文字が刻まれていた。私の記憶では「運命」だと思っていたが、「宿命」だったようだ。中学生の頃か高校生の頃に荻窪のスター座で観た映画なので、記憶が定かでない。週末TSUTAYAで探して観る。離婚調停に来て殺された女性と殺した男。ノートルダム寺院の鐘を狂ったように打ち続けた男と、身分が違うために(?)殺された美しいジプシーの女性とが昨夜シンクロした。共通点は何もないのだが。何か重なった。男と女は運命と宿命から逃れられない。寿命が尽きるまで。愛と殺意は密着している。

2019年4月17日水曜日

「ボーイズ・ビー・アンビシャス」

あなたたち、君たちは普段どこで何をしているのかと素朴に思う。帰宅するとポストに21日投開票の茅ヶ崎市会議員選挙のための候補者の名刺やチラシやリーフレットが何人分も入っている。家の前の公園の横には35人の立候補者のポスターが指定の掲示板に貼ってある。知っている人、ご近所の人、全然知らない人が、ズラリと勢揃いしている。4年に一度のオリンピックみたいに、4年に一度選挙は行われる。25人が選挙枠だから、7人が落選する。1票の重さを証明するケースはよくある、過日行われたどこかの選挙で、開票したら数字がピッタシ同じ、ルールによりジャンケンで決めた。勝ったのは共産党であった。敗けた無所属の議員は、ガックリと放心状態であった。辻堂駅、茅ヶ崎駅にはたすきをかけ、「本人」と書いた〝のぼり〟を運動員が持ち、「本人」がひたすら頭を下げて、行ってらっしゃい、おかえりなさい、と言っている。オッ、相変わらずバカかとフーテンの寅さんみたいに声をかけた男は釣りバカである。オッ、この間孫の卒業式にきていたな、ガンバレよ、この男はスポーツインストラクター。無投票はイケナイ。政治に無関心が広がっている。立候補者「ゼロ」という町長・市長選も多くなっている。誰でもいい、政治に参加せよと言いたい。オッ、ずっと前いろいろ制作物をつくってやったのに、お金を払わなかった(本人はボランティアと思ってましただと)男が四角い顔をして駅前で演説していた。女房、子どもを見捨てた(あるいは見捨てられた)男が次の市長候補だと言う。東京都の職員だった当時20代中頃だった男が、当時の都知事(確か石原慎太郎知事)に、北海道の夕張市が財政破綻をしている、行って市長になって再建して来いとなり、がんばった。今回北海道の知事選で勝って、広大な北海道の知事になった。もっとも若い知事だ。若者よ挑戦せよ。この国の未来は君たちにかかっている。リスクを背負ってこそ人生だ。若い頃の苦労は買ってでもしろと、古人は言っていた。どの政党でもいい、無所属でもいいんだ。ミカン箱の上にのって。ハイコロ(自転車)に乗って。頭なんか下げまくることはないんだぞ。「頭を一度も下げない唯一の候補者になれ。」逆にヨロシク頼むぞと頭を下げてもらえるような演説をしろ。私なら絶対にそうする「政治とは、言葉だ」オッ、酒癖の悪いオッサンが小さなクルマの中から手を振っている。今度は落ちるぞと大声をかけてやった。笑って手を振っていた。きっとボケているのだ(?)