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2010年1月11日月曜日

人間市場 馬と鹿市篇

世に「犬死」はしたくないとか、あれは犬死だという言葉がある。
しかし猫死だとか、鳥死だとか、魚死だとかは聞いた事がない。
しいて挙げると豚死という言葉がある。犬死は美学が見えるが豚死は馬鹿に見える。この馬鹿にしているという言葉も、何故馬と鹿を選んだのか説明してくれた先生や博学の徒もいない。馬の後を鹿が追いかけたという説が幅を効かせている。

拙者、殿への忠心ため腹を切る。待て、早まるな。今お主が腹を切れば相手の思うつぼ、犬死に。これが、待て、早まるな。今腹を切ればお主は豚死だ、となると甚だ緊張感に欠ける。犬は忠心の証しであったのだろう。

犬千代はいても、猫千代、豚千代、鳥千代はいない。猫といえば鍋島藩の猫騒動、猫屋敷、化け猫、猫なで声。不義、不忠、裏切りの証しである。あいつは猫みたいに良い奴だとは言わない。

愛犬家というと海辺を散歩する姿は何かいい感じに見えるが、愛猫家というと少し恐い。犬は化けて出ないが猫は化けて出る。よく犬は人になつき、猫は家になつくという。人間を単純に犬科か猫科で分類すると付き合い方も上手くいく。

ああこの人は猫なで声だな、腹の中できっと舌をベロッと出してるなと判る。犬科の人は正義感が強いが、敵に吠えるその口で味方にも噛みつき困らせるのがいる。忠犬でも悪い例えで言われる事がある。曰く、あいつはまるであの人の飼い犬だ。お手もするし何でも尻尾を振って付いて行く。やだねぇああいうの、ああまでして出世したいかね。こんな風である。逆もある。あいつは偉いね、落ちぶれたけど最後まで恩人に付いて行って自分の人生を犠牲にした、忠犬物語だなとかである。一度自分の回りの人を犬科か猫科に分類してみるといいかもしれない。いや、下らんことかもしれない。


さて、馬鹿は何故馬と鹿か。いずれも悠々たる生き物である。名馬の誉れは数多い、馬は武士の魂であった。鹿といえば優美この上なく都には欠かせぬ生き物である。その角は気高く、誇りに満ちている。馬が武の象徴なら、鹿は雅の象徴である。白馬、白鹿、見事である。それが馬鹿と書かれると途端に切なくも悲しく、淋しいものになってしまう。それに怒ると馬鹿野郎である。こうなるともう、武の象徴、雅の象徴でもない。いつ、いかなる時にいかなる理由で馬鹿という言葉が生まれたか歴史の大きな謎である。博学の友に聞く事としてここは終わる。


あっ、猫が又魚を持って行った。
「コラァー」
あっ、犬が買ったばかりのソファーに又穴を開けた。
「馬鹿め、何してんだ。あ〜あ」
「猫だって犬だっってストレス溜まってんのよ、しょうがないじゃない、絶対ぶったりしないでよ」
愚妻が言った。
「猫は恐いわよ、ず〜っと恨まれるからね。犬だって昔は狼だったんだからガバッと噛むわよ」
お〜よしよし、猫なで声を出し、お〜よしよし、猫を手なづけるのであった。猫は転勤になった義姉の家に仮住まいしている時、義姉が帰ってくるまでお願いねと置いていっていたのだ。お互いに腹の擦り合いが長く続いた。馬鹿という生き物にはまだ会った事はない。何処のペットショップにも売っていない。何か一番仲良くなれそうな気がする。

1 件のコメント:

sakon さんのコメント...

普段何気なく使っている言葉ですが、そんなに深く考えたことはありませんでした。関係ないですが、自分は犬千代、前田利家が大好きです。