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2019年7月2日火曜日

「高島忠夫さん、ありがとう」

雨、雨、雨、そして雨。ベタベタとした風がへばりつく。不快指数は100%だとニュースが流れる。突発的、衝動的、猟奇的、無慈悲な殺人事件が、続々と起きる。吉本の芸人たちが闇営業という名のシノギで退場を命じられる。芸能の世界では今でいう反社会勢力の許可なくしては何もできないできた。国技である大相撲も同じであった。昔の議員の中には体にモンモン(刺青)をしょっている人もいたという。業界の代表として。雨、雨、雨、そして雨の中、やけにむし暑い中カルロス・ゴーンの記事はベタ記事のように日々小さくなっている。「世の中には、2つの不幸があるという。(1)お金のない不幸。(1)お金がある不幸。 私が東京都杉並区に住んでいた頃、荻窪駅南口、阿佐ヶ谷寄りの片隅に映画館がポツンとあった。「新東宝」である。隣りにビリヤード、その隣りにラーメン屋(たしか丸長)があった。映画館は他にまだなかったので、新東宝の映画は封切りされるたびに全部観た。冷暖房なし、長椅子は石みたいにカチンコチンだった(一人ずつの席ではない)。夏は暑いので大きな氷の塊りを持って行ったり、冬は七輪に品川の練炭(有名ブランドだった)を持ち込み火をつけて暖をとった。支配人が「何やってんだ」と怒ってきた。ラーメン屋さんから出前をとってガラガラの館内で仲間とラーメンをすすった。支配人がすっ飛んできて「何やってんだ」と怒った。その頃の銀幕のスターは鞍馬天狗の「嵐寛寿郎」と「高島忠夫」であった。第一期ニューフェイス、確かハンサムタワー3人衆の一人であった。あと2人は、松竹に移った。「吉田輝男」と東映で大スターとなった「菅原文太」であった。女優はなんといっても「三原葉子」であった。3人衆の中でとび切りのスーパースターが高島忠夫であった。大学生の役などを観て、一度は大学に行きたいと思った。次々と主演していた。映画を観ていると、ビリヤード場から玉と玉がぶつかる音がして、点数を数えるビリヤード場独特のオバサンの声が、けだるく聞こえる。2点、3点、4点〜なんて、中央線の列車が通る音が聞こえる。高島忠夫が正義の男として活躍する。新東宝はアラカンこと嵐寛寿郎と、高島忠夫でもっていた。うつと闘いながらも“イエ〜イ”とやったがつらそうだった。同じ経験がある私には死ぬほどつらいことがよく分かった。でも、これぞ愛妻という寿美花代さんと、才能豊かな父親思いの2人の息子がよく支えた。すばらしい親と子である。私の高島忠夫は、どんなになっても希に見る日本人離れしたエンターテナーだった。イエ~イな存在であった。うつを克服してイエ~イもいい声になった。私を映画の虫にしたのは100%新東宝であり、高島忠夫さんであった。永眠、合掌する。寿美花代さん、政宏、政伸の息子さんに「心からご冥福を祈ります」と言いたい。香港では学生たちが決起している。日本の学生はどうだろう。高島忠夫さんは大学生がよく似合った。時代を大きく変えるのは、いつの時代も若い力だ。(文中敬称略)


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