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2020年2月18日火曜日

第24話「私は日曜」

私は「日曜」である。ずっとずっと昔に「日曜はいやよ」なんていう外国曲があった。ネバー・オン・サンデーである。きっと若い恋人同士が、休むことなく一緒にいたい、という想いだったのだ。男と女は一度火がつくと、オーストラリアの大火災のようにカンタンには消化できない。家庭の外で恋火をつけているヒトは火宅の人と言われる。檀一雄の小説の題にもなっている。文士たちは言う、男子たる者この世に生を受けて、恋愛を数多く出来ないようじゃダメだと。私日曜は思う。そもそも結婚なんてものは、偶然の産物でしかない。一年365日同じ人間と暮らすことは、冷めたスープをずっと飲んでいるようなものだと、お互いに達観したら長続きをする。バブル女子といわれる五十歳前後の主婦の50~60%には、若い恋人がいるとバブル女子、セレブ女子たちから聞いた。若い恋人はアクセサリーのようなものであるらしい。ヒラヒラをくぐったら、もう週刊文春か、フライデー。ヒラヒラとはモーテルに自動車を入れる時にそこにある、ビニールのすだれだ。何故、浮気(不倫・不貞ともいう)をするか、そこに男あり、そこに女がいるからだとなる。男も女も恋愛を感じなくなると、男は色気を失い、女は美しい輝きを失う。恋多き作家と言われた故宇野千代さんは、九十歳位の時のインタビューでこう言った。今日の私は可愛い(?)と。私日曜は最近いろんな芸能人の浮気(不倫騒動)を知ると、少々げんなりする。週刊文春はもう一年半以上買ってない。いまや文春砲という位、有名人、著名人にスクープを恐られている。東京新聞にかつてその文春砲の仕掛人、元編集長のコラムが連載されていた。まるで犯人を追う刑事のように、警察犬のように、つけ狙い、つけ回り、嗅ぎまくる。それらは読者をよろこばすかわりに、人の不幸、家庭の不幸、子どもたちを不幸の底に落とす。男子一生の仕事かと言えばそうではない気がするし、悪徳政財界や官僚退治であれば、よくやったとも思う。モテる男がモテたら仕方ない。仕方ない同士が仕方なくなったら仕方ない。私日曜は少年の野球を応援しに海岸近くのグラウンドによく行く。その途中にベイ・シティ・ホテルというのがあり、大きなビニールのヒラヒラがある。日曜の午後そこにクルマが消えて行く。中には本当の夫婦も多いとか、家にはいつも子どもたちがいる。ゆっくり二人だけになれないからだ。森田芳光監督の名作「家族ゲーム」では、夫婦の会話は外に置いてある車の中であった。受験勉強中の子がいるからだ。テメーラ、コソコソ写真撮ってんじゃネエ、バーロとカメラを取り上げ、道路に投げ捨てたのは、名優ショーン・ペンだった。最近芸能人の結婚ブームは、文春砲とかフライデーを気にするより、とにかく結婚しよう、そうすれば堂々と二人で外に出れる。なあ、そうしよう、そうしようの結果だと思う。私日曜は、雨の日曜日、つれづれなるままに、テレビを見ながら書いている。明治の元勲の中で、もっとも女性を好んだのは伊藤博文であったのは、歴史的に有名である。下半身の事は、武士の情けと言われている。女性であれば風情だろうか。雨の下椿の花が咲いては落ちている。
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