日本の映画界はそこそこお客が入っているという数字が出ている。
洋画にヒット作がないのも一因だろう。観客の数字と作品の質は正比例しない。
あえて作品名は記さないが興行収入100億とか、70億とか、50億
といった作品も誠にもって観るに耐えないものが多い。
昨今の映画作りは先ず資金を出す側が、劇画で売れていたか、本屋大賞をとっているか、直木賞をとって
いるかが基準となる。あるいはミステリー大賞やベストセラーまたはそれに近い売上をあげている原作かだ。
早い話しが単純一次方程式の様なもので、例えば100万
部売れていればそれを買って読んでくれた人の◯△%は必ず見てくれるというものだ。
結局、親殺し子殺し、いじめ殺し、生徒殺し、皆殺しみたいな作品ばかりとなる。
かつての人殺し作品には文学的、哲学的、詩的なものが多かった。
文学とは言語による合法的殺人的行為でもあるのだから名作の類はほぼ人殺しが表現
される。私も殺しの作品を作っていた。人間の中には殺人願望が多いのだろう。
原作もシナリオも読まない人たちによる映画が生まれている。
はじめに売れているネタか。後はそれに売れている監督をくっつける。
それをテレビ局に持ち込むと、売れているタレントや役者を当てるという寸法だ。
こんな安易な作品が出来
上がる。勿論殆どは目論見を外す事となる。
久々にカンヌ国際映画祭で是枝裕和監督の作品が審査委員長賞を受賞したのはうれしいニュースであった。ドキュメ
ント畑で鍛えた感性が家族と向き合う作品に丹念に生きている。ドキュメントは限られた予算の中で粘り強い作り手だけが生き残る限界集落の様な世界だ(NHK以外は)。
日活ロマンポルノの世界から幾多の素晴らしい作り手が生まれたのはやはり低予算と限られたスケジュールの中で鍛えられたからだろう。
日本映画の中にも秀作は多い、が単館でしか上映出来ないからヒットは生まれない。
宣伝やPRもゼロに等しいからだ。
私もこれはと思う本(シナリオ)を知り合いの映画関係者に渡しているが相手のいないキャッチボールの様なもので投げてもその球はほぼ
行方不明となる。
土日に見逃していた日本映画を見た。
「のぼうの城」「悪の教典」「北のカナリア」だ。
いずれも原作が売れた作品であった。明け方に3本
見終わってうーむ、と言葉を失った。
よし今日は日曜だ、野球の試合だと、あと一本「終の信託」を見た。
周防正行監督は自分の妻であるバレリーナ、草刈民代 を丸裸にして作品を作った。
この奥さんはかなり露出好きなのか丸裸にされて写真に撮られる事をバンバンする。
きっと夫婦の芸術的刺激策なのかもしれない。
見終わってからうーむ、なんだか、うーむ。なのであった。
そのまま起きていて小学5年生の孫の野球の応援に行った。
4対5でサヨナラ負けであったがこちらは大興奮、大感動であった。
私の見ている前でビデオを撮っているピッチャーで3番の選手のお母さんが大声援!打てるよ、打てるよ、勝ったら焼肉だよーと叫び続けた。カァーンと打球は左中間を抜いた、しかし打ったけど負けた。
さて焼肉に行ったのだろうか。
2番を打つ孫は三打席一四死球、2三振一得点であった。
悔し涙を流していた。ドンマイ、ドンマイ次頑張ろうぜであった。
我が家はその夜ケンタッキーフライドチキンパーティーとなった。
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