映画の題名は「武曲(MUKOKU)」、昨日五反田イマジカ本社試写室で観た映画だ。
原作を読んでいないのでこの映画が原作に忠実なのか、大胆にシナリオ化したのかは分からない。
熊切和嘉監督は今までにない映画を生んだ。
本来映画には物語がある。時間経過がある。主題に対し主語があり、主体がある。
が、この作品にはそれが一切ない。
まるで劇画を1ページずつめくるように映像は過去と現在をめまぐるしくフラッシュバックする。剣道が物語の主体なのだと思うがそれは表現の素材である。
何故剣道かは語らない。鎌倉のとあるお寺の住職(柄本明)は高校の剣道部の師範代でもある。かつて一人の剣士(小林薫)を弟子としていた。
その剣士は幼い一人の息子に殺意を持って鍛える。
いつの日か母親は死んでいる、その経過説明はない。
息子は中学生位になった時、母親に父を殺すと言う。
高校生のラッパー(村上虹郎)がライブで熱唱する。何故か水の中に浮かぶ。
その後かつて洪水で溺れたことを話す、がその説明はそれ以上しない。
アパートに母親と暮らしているのを見ると、洪水で父親を失ったのかもしれない。
ある日下校していたラッパーは道端にたむろしている、剣道部の竹刀を足にかけてしまう。剣道部の部員と喧嘩になる。ラッパーは一本の木を握り数人と戦う。
その時ある構えをとっさにする。それを一人の住職が見ている。
足の運びと闘争心に剣道の才能を見る。やがてラッパーは剣道部に入る。
ある小料理屋にアロハを着たアル中がいる(綾野剛)、父親を剣の戦いで殺している。小料理屋の女将(風吹ジュン)はかつて父親の愛人だったらしい、アル中はその女将に襲い犯そう(?)とするが、何すんのこんなおばさんにといなされる。
女将の髪は乱れ着物ははだける。アル中はボロボロになった自分の家に帰る。
若い女がいる(前田敦子)傷んだ玄関で女に抱きつきスカートをめくる。
白いショーツが妖しく見える。
鎌倉腰越あたりの海、遠くには江ノ島の灯台、サーファー。
剣道の道場での激しい練習、生々しい感情と過去の心象風景が短いカットで次々と描かれる。なんで急に強くなったとか、なんでアル中が急に正気になって剣士となって道場に立っているかは、観る側が整理し推理する。
母親の目の前、庭で殺したはずの父親が、ベッドで植物人間になっていたりする。
映画全編がラップだったんだという事を終わりに近づきやっと分かる(私の判断だが)。村上虹郎扮するラッパーが時々ノートにラップの歌詞を書いていたシーンを思いだす。
やがてアル中から立ち直った剣士と、ラッパーから剣士になった者が殺すことを目的に戦いだす。
これ以上は必ず映画を観に行って下さい。
二人の剣士、その裸の筋肉が肉体言語として画面を支配する。
そうか、これはホモセクシャル的映画でもあることを知る。
住職→剣士の父→その息子→ラッパーから剣士の五人が剣道を通して連結する。
ラストに住職の柄本明が二人の戦いにふと微笑する。どちらかの死を待っている。
プロデューサーは星野秀樹、「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバーフェンス」次々と名作を出している。凄い!すばらしいの一語である。外国の映画祭はきっとこの映画に日本人の狂気と日本人の伝統美に多くの賞を与えるだろう。
神風特攻隊の原風景をその肉体に感じるだろう。出演した俳優さんは絶品だった。
イマジカロビーで一緒に行った出版社の編集長に小林薫さんを紹介された。
思ったよりガッチリとした体で大きかった。眼光が鋭かった。
声は大好きな番組「美の巨人」のナレーションそのものだった。
あ~、お金が欲しいよ、映画作りたいよと思ったが、今は他にやらなければならない大事なことがある。
この映画のシナリオを書いた高田亮は、日本の映画に新しい刃を突きつけた。
賛否が割れるだろうが、私は大いに支持をする。六月から一般公開となる。
(文中敬称略)
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