人間はたった一言、一つの誤解で仲違い(なかたがい)をする。モンゴルのことわざにこんな言葉がある。「逃げた馬は捕まえられるが、口から発せられた言葉は捕まえられない」。ガキの頃、“バーカ、バーカ、チンドン屋、オマエのカーサン、デベソ”などと言っては殴り、殴られをした。人間は一家一族の悪口や、人種的差別用語や、身体的なことに対して、侮辱的な言葉を言われたら、ヘラヘラと笑ってはいられない。私はどれだけ暴言、放言、失言、苦言を言ってきたか分からない。きっといずれ落ちる地獄のエンマ大王に舌を切り落とされるだろう。たった一言で長い友情は断ち切られ、親子の関係も断ち切られ、祖父や祖母と孫の関係も断ち切られる。しまいには流血、殺人となる。いわんや親類縁者、会社の上司や同僚、金の貸し借りをした先輩、後輩も、たったその一言で絶縁したり、絶交をする。聖書にあるはじめに「言葉あった」というのは、人間同士が言葉によって支配され、言葉によって救われるということかも知れない。週末5本の映画を見た。奥歯がズキンズキンしていたが、ロキソニンをボリボリかじって水で流し込んだ。「判決・ふたつの希望」。レバノン映画であった。とてもいい映画で主演の役者は、2017年のベネチア国際映画祭のコンペティション部門でプレミア上映され、男優賞を獲得した。アメリカ映画「華氏119」、ルーマニア映画「特捜部Qカルテ番号64」、スウェーデン映画「ドラゴン・タトゥーの女 第3作目」、韓国映画の「代立軍」である。この中でレバノン映画の「判決・ふたつの希望」が実に良かった。レバノンの住宅街、安いアパートメントの2階に住む46歳のレバノン人の男と、身重の妻、1階で自動車の整備工場を営んでいる。そこにそのアパートメントが違法建築なので、修繕しにパレスチナ人の現場監督が何人か連れて来る。そのときレバノン人はベランダにある植物にホースで水をまいていた。その水が下で働くパレスチナ人にかかってしまう。そのとき老パレスチナ人現場監督が一言、暴言を発する。ドリルでガリガリと壁に穴を開け始め、そこに排水管を入れていると、レバノン人の男が、ハンマーでその排水管を壊してしまう。そして一言、暴言を発する。老パレスチナ人はその言葉に怒り、レバノン人の肋骨を2本折ってしまう。もともとの原因は、水がかかったときに老パレスチナ人が発した言葉に対して、レバノン人が謝罪しろと言ったのに、謝罪をしなかったことが原因であった。レバノン人は老パレスチナ人を訴え裁判となる。このことがネット上で拡散して、大きな問題となる。そこにはレバノンに移民して来たパレスチナ難民たちとの根深い民族問題があったからだ。事は重大関心毎となり、民族の争いとなる。シナリオが抜群によくできていて、レバノン映画恐るべしと感じた。「ただ謝罪をしてくれればよかったんだ」という男と、その一言は暴行せずにはいられなかったという男の内面を静かに描く。3人の裁判官、主判事は女性。「暴言」と「暴行」は、いかなる判決になるか。それが女性判事によって実にすばらしい裁きとなる。過日、ある記事を読んでいたら、定年後ずっと家にいる夫と、ずっとその夫を見ている妻との、言葉の言い争いのはじまりの一言が書かれていた。(1)脱いだ靴を揃えてよ。(1)トイレットペーパーの紙を取り変えろよ。(1)お風呂を使ったあとが汚いぞ。(1)枕が臭い。布団が臭い。なんだか臭い。そして決定的な一言が、「オマエ、ババアになったな」「アナタ、スッカリジジイになったわね」。こうなるともう“綾小路きみまろ”みたいな話だが、案外数多く起きている殺人事件の原因は、たった一言にあるのかも知れない。私の家はほぼ会話をしないので、喧嘩にならない。要件があればメモパッドに書いて置いておけば通じる。何人かの人と言葉一つのやりとりで、別れ別れになってしまったが、これも人生だ。レバノン映画に改めて言葉の恐さを知った。「この頃は、皆怒りっぽくなっているからな」。仲裁に入った請負会社の社長の言葉が、現代社会を現わしていた。世界中がカルシウム不足なのだろう。昨夜はヒジキ、コウナゴ、シラスおろし、カツオ節など鉄分とカルシウムを多く食した。新サンマは細々として脂気がまったくなく、マイワシをショーガで煮て食した。これは旨かった。夫婦喧嘩をしないコツは会話をしないこと。古人の教えである。売り言葉は、買い言葉になるからだろう。
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