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2019年6月20日木曜日

「鮎と次郎長」

鮎のおいしい季節となってきた。川魚の女王とも言われる。6月解禁されると、釣り人がここぞとばかりに川に入る。時に腰まで入り、急流となると命がけである。鮎は稚魚のころは雑食だが、大きくなると岩肌についたコケを主食にするベジタリオンとなる。キュウリやスイカのような香りがするので「香魚」と言われる。養殖ものはゴツイ顔をしており歯も鋭い。天然ものはすっきりとしていて顔もやさしい。はらわたを抜かず、口の中から尾の部分まで竹の串を通し、たっぷりと岩塩などをかけて焼く。美食家で有名な北大路魯山人などは、釣った鮎をすぐに届けさせてそのままがぶりとやったとか。やけどするほど熱いものに、蓼酢(たです)絞ってかけ、串を左右に持って横腹にかぶりつく。鮎といえば浪曲で有名な「広沢虎造」の「森の石松」を思い出す。“流れも清き大田川 若鮎おどるころとなる……”。こんな一節がある。で、森の石松となればやはり「清水次郎長」だ。この次郎長と清水港であったのが、「杉野はいずこ」で有名な広瀬武夫だ。軍神にまつりあげられたこの広瀬から次郎長にまだ会ってないのか、バカ者すぐに会えと言ったとか。その人は後の子爵、海軍中将「小笠原長生(ながなり)」であった。次郎長はかの山岡鉄舟先生(後の明治天皇の先生)もゾッコンに惚れ込んだ男だ。そして小笠原が会った清水次郎長は容貌魁偉な大親分だった。ドスンドスンとやって来て、「やあ、おいでなさい」と言って現れた。そのとき、次郎長は71歳であった。田舎めいた着物に三尺帯を締めていた。賭場では何が起きるかわからないので、いつも短刀を懐に入れておいたので、腹にたくさんの刺し傷があった。私は善人と戦ったことはない。相手がヤクザ者でなければ逃げたもんだよと言った。だから今でも目覚めの悪いことはないんだと言った。小笠原先生と人物語りとなり次郎長は誰がいちばんの男だと聞くと、そりゃ「新門辰五郎」さと言った。あれほどの男はいない。江戸の町火消し親分である。それといちばん偉いと思った人は、山岡鉄舟先生だ(無刀流の達人)。「勝海舟」「高橋泥舟」「山岡鉄舟」、この3人を維新の三舟と言う。江戸無血開城のために命をかけた。俺は鉄舟先生から「度胸免状」をもらっているんだと、あざやかな筆使いで書かれた「精神満腹」と書かれた額を外して持って来た。次郎長親分は外に出るときは、財布の中にいろいろな金を入れ、道で会った困った人たちに配って回ったという。こんなヤクザ者でないようになってしまった親分を、でやんでえ、オラッチたちはどこまで行っても渡世人、賭場こそ命だ。堅気ぶって行く次郎長をよく思わない子分がいた。「小政」である。この小政を作家「諸田玲子」が「空っ風」という本に書いてある。この本は滅法おもしろいので、おススメしたい。かつては人物と人物が会って、お互いの値打ちを確かめあった。また評判の人物がいれば会いに行ったものだ。昨日の党首会談を見て、この国はもう駄目だと思った。人物がいないのだ。若い人がもっともっと出てこれる環境をつくらねばならない。日本国政党史上、もっとも人物のいない内閣ではないだろうか。麻生太郎という人間の辞書には、「恥」という言葉がないのだろうか。親分がその失敗をみんな子分に背をわせるのが、麻生太郎である。チンピラといわれるゆえんである。「時の氏神」という言葉がある。喧嘩の仲裁をかって出た男である。ある人がイランに仲裁人として行って、まるで相手にされなかった。侠の世界では氏神になれなかったときに、その責任をとって指を詰めて、相手の顔を立てた。さすがに堅気の世界ではこんなことはしないだろうが、仲裁人というのは実に重い役目なのだ。週末、鮎を食しに行こうと思っている。ここ一両日はどういうわけか立っているのもつらい日であった。期待の新人が立派な会社に就職が決まった。大きく育ってくれたら、この上なくうれしい。ガンバレ! 会社は人を育てるためにある。若鮎が川に放たれる。いざ、泳げよ。上流を目指して。(文中敬称略)




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