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2013年9月17日火曜日

「無銭飲食(?)」


イメージです


おっこんな処に、えっまさかこんな処に、ウッソー信じられないこんな処に。
誰でもこの経験がある筈です。野球の球、テニスボール、ゴルフの球やビー玉。
丸い球は思いも寄らぬ処に隠れてしまう。

球を目で追う人は、ああきっとあそこ辺りにあると思って行くと無い。
どこだ、どこだと探しまわる。大騒ぎしていると、木の枝に挟まっていたり、木の葉の中に沈んでいたり、公園の外に出た球が坂道を転がりとんでもなく遠くにあったりする。

その人はノドに何かが詰まっている気がする。
一日中うがいをしたり、ゴホッ、ゴホッと異物を除こうとする、それが何日も続いたのでその人は医学書やネットで調べまくった。
私と会った時にはきっと癌じゃないかと勝手に思って酷くしょげていた。

それってもしかしたら「神経球」かもしれないよと言った。
かつて私も同じ様な経験をした。イソジンでうがいしたり、トローチを舐めたりしたが毎日気になって仕方なかった。忙しくて医者に行く事ができなかった。
無いのに有る気がするのだ。

ある日、ひょんな事で医者の人たちと隣り合わせになった。
神谷町にあった◯☓福祉会館(今は無いかも)のレストランで。学会をしていたらしい。
昼のランチで一緒になった。

ノドの症状を言ったら中年の医者がそれって「神経球」ですよと云った。
気になると無いのに、有る気がするんですよ、あなたは見たところ未だ若いし、声もかすれてないし、すこぶる元気そうだしと云われた。
へえー、あっそうと思っている内になんだかノドのつっかえが消えた気がした。
そして忙しい毎日を送っている内に忘れてしまった。
その人にその話をするとみるみる明るくなっていった。

この話はどこか「禅」の教えと似ていると思いずっと記憶している。
「無」こそ「有」を生むのだ。「有」は「無」に向かう。
人間は其れに恐怖を感じずっと「有」であり続けようとするのだと思う。
人生はローリングストーンズ、転がる石だからどこへ行くかわからない。

イタリアの世界的巨匠、エルマンノ・オルミ監督の最新作を岩波ホールで観た。
現代の黙示録だった。むかし、むかし、世界は素晴らしい庭の様だった。
樹々は果実を実らせ、花には蜜が溢れ大地の豊かな恵みは心を幸福に満たし見るもの全てが美しかった。

そして今、私たちは何処にいるのか、何処へゆこうとしているのか。
この映画は地球という球の中で生きている人間に問いかけるのだ。
あたかもイエスキリストが目の前に現れた様に。

その夜一人の友人と会った。
外資に占領された大会社はアベノミクスなど全く関係なくリストラを加速している。
友人は「無」を怖れていたのだが、ある提案をしたら少しばかり希望を感じたのか元気を取り戻した。太巻き寿司を大きな口を開けて食べ始めた。

友人は元気が出たついでにこんな事を云った。
無銭飲食をする人っていうのも同じだな。きっと無いのに有る気がするんだよな。
今日は無いからゴチになるよ、と…(?)私の方からの相談には無料で応じてくれた。

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