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2012年8月27日月曜日

「伝説の応援団長」




私が中学、高校生(1.5年のみ)だった今から50年前の頃、学校対学校の喧嘩が絶えなかった。
大なり小なり毎日の様に繰り返していた。

日本人学校対日本人学校でいがみあっていた者に共通の天敵がいた。
それは朝鮮中学、高校であった。南と北に分かれていた。彼等もまた日々争っていたが、相手が日本人学生になると団結した。その団結力は固い。日本人学生と大きな争いになると100人、200人が集まり相手の学校を取り囲んだ。

東京池袋の方にあった(J)高校などは学校を完全に取り囲まれて学校が手配したバスで生徒を下校させ大きな問題となった。戦争中、日本人が朝鮮の人々を過酷な状況に追い込み差別した結果だ(親の恨みが子に移りだ)。
今なら分かるが当時の少年たちには分からなかった。
彼等は日本人学生狩りをし、日本人学生は朝鮮人学生狩りをした。何人か死人が出て国会で問題となった。
当時の社会党がその急先鋒であった。
私の友達、先輩、後輩が何人も病院送りとなった。私も生傷が絶えなかった。
そして相方の代表が話し合う事となった。今はなくなったが新宿コマ劇場前のカドーという喫茶店であった。
二階はギッシリ50人位の学生で埋まった。番長の上の総番長、その上の大先輩が集まってこのままではイケネェーからもうヤメルベェと話し合った。

しかし血気盛ん、相方何人も鑑別所や少年院送り、また病院送り、話はつかない。
1回、第2回と行った。ヤクザ者の世界では抗争があった時その仲裁人として現れる侠客がいる。
それを時の氏神という。この氏神様は仲裁に失敗すると、器量不足だったと自らの小指を詰める。
それでもって相方手打ちとなる(ならない事も多いが)私たちの氏神様は伝説の応援団長だった。

東都大学の(S)にいた。
空手、剣道、少林寺拳法全て有段であり、その応援スタイルは見事であり、東京六大学の応援団は必ず見る事が決められていた。第3回も不調に終わった後、朝鮮系の伝説の総番長とその人(K)さんが話をつけ合う事となった。
そして2人は新宿の花園神社で一対一の戦いとなった。その結果(K)さんが相手の右腕をボキッボキッと折ってしまった。(K)さんは鼻骨を折った。

戦いが終わりトップリーダー2人が手を握りこれからは仲良くしようという事になり新宿警察に報告した。
それから当分の間喧嘩は消えた(日本人VS朝鮮人)

なんでこんなつまんない過去を今書くかというと、米国組系、日本組組長野田佳彦と韓国組組長李明博が、少年少女のラブレターじゃあるまいし、送っただの、受け取らないなどとやりあっている。

親書もつくづく地に落ちたもんだ。
松下政経塾では喧嘩の仕方、そのケジメの付け方をカリキュラムに入れていないのだろう。
まるで現場に弱い玄葉外相では話にもならない。

さて時の氏神は親分米国のはずだがあちらも跡目争いの真最中で子分同士の争いにかまっている場合でない。先日歌舞伎を観た後からではないが、おのおの方、サア、サアどうする、どうするだ。
どこぞの国から大器量の侠客が現れて腕の一本か二本を差し出して争いを止めてほしいものだ。

私が今でも憧景の念を持ち続けている伝説の応援団長(K)さんは、27歳の時ヤクザ者同士の争いの仲裁に入り、19歳の若者に斬られて死んだ。わざと斬られたのだ。新宿武蔵野館という映画館前の路上であった。

男と男がとことん勝負する事を、どこまでも踊るという。
さて日韓はどこまで踊るのか。アジアはやがて戦局を迎える。
だが待てよ、これは米国日韓共に跡目争いの中、手の込んだ合作のヤラセかもしれない。
シナリオは勿論親分米国CIAだ。これくらいは朝飯前だ。戦争ほど支持率をあげるものはない。
戦争ほどの不況対策はないからだ。

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