過ぐる日、私は一軒のラーメン屋さんに感激、その店のメニューを借りて帰って来た。
おじさん今度来た時に返すからねと言って店を出た。
そのメニューはいつもカバンの中に入れておいたのだが、その機会に恵まれずにいた。
何故メニューを持ち帰ったかといえば、その店が原宿にしては余りに美しくなく、安く、そして昔の味がしんみりしていたからだ。
九時閉店というのもラーメン店にしては早い。
赤い旗竿に「本場長崎ちゃんぽん」という白ヌキの文字が目に入ったからだ。それと店名が「昭和軒」というのも気に入ったのだ。
私が後輩と入ったのは八時を過ぎていた。
ポコンと腹の出たおじさんがたっぷり汗を吸ったヨタヨタの白い(黄色に変色中だった)Tシャツで、一人で何役もこなしていた。
いつからやってんのみたいな私の質問に、おじさんは五十年前から、私は二代目ですと人のいい顔をして少しだけ笑った。
この店には何かがある、私の読みは当たっていた。
六月一日(日)フジテレビ、午後一時四十分〜二時三十五分。
アホでバカな事ばかりの番組を作るフジテレビ唯一の良心的番組といってもいいドキュメンタリー番組で、あの「昭和軒」を取り上げたのだ。
この番組のチーフプロデューサー味谷和哉さんは絶えず弱者や、時代に取り残された者や、数奇な運命を背負った人間たちの喜怒哀楽を丹念に追い求める、日本を代表する作り手だ。実は今から六年前にも「昭和軒」を取り上げていたのだった。
概略を記す。
明治通りから少し中に入る、通称裏原宿。
かつては原宿三丁目といった。現在は神宮前、宿場町の名であった原宿の町名は消えた。先代夫婦は新潟より上京した。東京オリンピックの頃は四人の従業員がいた。
お客はジャンジャン入った。バンバン収入もあった。
陽気な先代はやがて糖尿病を悪化させて片足を切断し義足となる。
長男、長女、次女に恵まれる。八十五歳で無くなるまで夫婦は仲良しであった。
長男は小学校の教師をしていたが辞めて店を引き継ぐ、四十代の頃離婚する。
地下一階、地上二階の小さなビルを先代は建てた。
地下は食材の倉庫、お客さんに喜んで貰えばと手製の漬物を作る。
一階が店で二十名ほど入る。二階は先代夫婦の生活の場だ。
店は家族全員で切り盛りする。
と、ここまではそんなに珍しくないのだが、これからが実にいい話なのだ。
バブル全盛の頃、この小さなビルに売ってくれ、売ってくれという業者が群がる。
何しろ表参道の直ぐ側という超一等地、三億円出すとか五億円出すといって迫られた。
新しくビルにすれば家賃収入は二百万円は入ると言われた。
先代も体の不自由もあり売ってしまおうかと迷うが、この店は家族の場だと思い断る。
バブルは弾ける。また表参道や原宿には様々な飲食店が出来る。お客は激減する。
先代を亡くした長男は、もう辞めようと思い長女や次女に相談する。
長女は八十歳となった母を思っていう。店を閉めたらお母さんが辛いと思う。
それに家族でやる仕事がなくなってしまう。次女もそう言う。
二代目は口を真一文字にし、目をキョロキョロして悩む。
お腹はボッコリと出ているのだが、この人は実にかわいい。
もうすぐ六十歳になるけどお母さんのためにこのままやりますかという。
長女の顔はほころぶ、やりましょ、やりましょと。家族の意見は一致する。
祭りの日、次女は大好きなお神輿を担ぐ、二代目の祭り半纏の背中には「原三」の文字がある。かつて原宿三丁目だったからだ。
お金より安定収入より、父と母の思い出を守る人間に心打たれたのだ。
というわけで「昭和軒」のメニューは返さない事にした。
家族愛の証として大切にする。二代目に白いTシャツをプレゼントしようと今デザインを考えている。サイズは多分トリプルLだろう。
番組の題名は「昭和軒のオリンピック〜表参道ラーメン人生〜」であった。
あの時、三億、五億で店を売っていたならば、きっと家族はバラバラとなり不幸の渦の餌食になっていただろう。ガンバレ!「昭和軒」フレー、フレー「昭和軒」。
代々引き継がれて来た、とろみのある名物ラーメンは今、外国人たちの人気メニューとなっている。この番組を見た人たちは東京オリンピックのある六年後まできっと通い続けてくれるだろう。
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