岡山県倉敷に行く。
倉敷は戦国大名宇喜多秀家の夢の跡である。
終わり近き豊臣秀吉の時代五大老がいた。
徳川、上杉、毛利、前田、そして宇喜多である。
関ヶ原で敗戦後、秀家は八丈島に流刑となる。
八十三歳まで生きたというからあの時代ではすこぶる長命といえる、秀家は死ぬまで貧窮に泣いたと伝えられる。
川幅10メートルほどの倉敷川一体は秀家の時代に干拓工事を完了させ、広大な新田が誕生した。秀家が整備した良港が、蔵米などの海上輸送の集積基地として活気を呼んだ。
現在倉敷川には観光用の渡し船が行き来する。
多くの蔵屋敷に囲まれるその地は美観地区と呼ばれ倉敷の人気の場所だ。
秀家追放後徳川一族は倉敷を天領とした。明治維新後新政府はこの地を接収した。
代官所の跡地に地元の大地主がお金を出して倉敷紡績(現クラボウ)を設立した。
二代目社長の大原孫三郎がポケットマネーで建てたのが「大原美術館」なのだ。
当時の資本家は桁違いに財力があったのだ。そしてその財力を文化事業につぎ込んだ。
倉敷がB29に空襲されなかったのは、大原美術館が所蔵していた世界的絵画を米軍は知っていて焼失させなかったという説もある。
宇喜多秀家は武略、知略に富んでいたので徳川家康は五大老の中でいちばん恐れていた。名門であったので殺すことが出来ず、八丈島で生き殺しとした。
八丈島で腹ペコペコの生涯を閉じさせたのだ。
倉敷に行ったらやはり「ママカリ」を食べたい。
コハダみたいな小さな青魚だ。
刺し身よし、照り焼きよし、酢漬けよし、あんまり美味いのでごはんがすすみ、足らなくなったのでお隣にママ(飯)を借りに行ったので「ママカリ」の名がついたというので定説の魚だ。
宇喜多秀家もきっと死ぬまでに一度だけでも、ママカリでたらふくご飯を食べたかったのだろうと思う。
小さな魚に戦国時代を見る。
戦国といえば米国とベトナムが第二のベトナム戦争を始めるという。
それは「ナマズ」の養殖戦争のこと。ナマズはウナギや白身魚の代役を期待されているのでベトナムで盛んなのだが、TPPで市場開放を迫る米国はナマズを狙っている。
TPPは米国のシナリオ通り、日本は実はずっと蚊帳の外であった。
アトランタのホテルのロビーをウロウロし、仕方なくコーヒーを飲み、ホテルの一室では農水族がひたすらヤキモキしている内に、えっ!何!そんなバカなという結果で終わり、甘利明大臣以下余りに重い宿題を与えられて帰国して来たのだ。
米国は本当にタチの悪い日本国のヒモなのだ。
倉敷の話からすっかり外れてしまった。
ナマズはキャットフィッシュ、始めてニューオーリンズでそのフライを食べた時、白身魚のフライと全く同じで旨かった。クアーズのビールにバッチリであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿