一輪の花、一曲の歌、一冊の詩集、一杯の酒。
一日の終わりにケジメをつける友達だ。
このひと時、何より大切なのはお気に入りのバカラのグラスだ。
指でパチンと弾けば硬質な独特の音が響く。
先の尖った大きめの氷を入れ、とっておきのシングルモルトやジンを注ぐ。
そのたびにこのグラスをプレゼントしてくれた若き才能の花を思い出す。
きっと世界を相手に名を成せと想う。一流でなく超一流になれと想う。
権威に屈すな、権力に媚を売るな、亜流を嫌悪せよ、妥協をするな、徹底的に自分を研磨せよ、そして恋せよ自分にと想う。
この頃、心底若者たちが羨ましいと思う。
「キラキラするよりギラギラせよ、野心を持て欲望を満たせ」私が若者だった時、尊敬する人から言われた。
また創作者たる者は、「詩」を読めといわれた。
すべてのクリエイティブの源泉は「詩」の中にあるのだと。
その人の名はパルコを創った故増田通二会長だ。
私はランボーや、バイロン、ハイネの詩集を読んだが言葉の持つ魔性や狂気や熱情が読解不能であった。時が経ち今はグラスの中に人生の言の葉がゆらゆらと浮かんで見えてくる。
グラスの中は果てなき心の置き所だ。
「我思う故に我有り」三月十一日深夜、グラスを片手に東日本大震災の被害に遭った一人の若者の詩を読んだ。
果実作りに生涯をかけた父と母を津波で失った。
若者はきっと果実の花を今一度咲かせると詩に托している。
新聞もテレビもエセヒューマニズムに満ちた論説記事や、金満ニュースキャスター、局の使い走りレポーターたちの一時的箱詰めだ。どこにも誰からも心を打つ言葉がない。
宮澤賢治ならどんな詩を書いただろうか。
石川啄木なら、五・七・五・七・七の三十一文字でどう表しただろうか。
「かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川」その故郷の今を。
三月十一日を決して風化してはならない。
なんとしても「祈」の塔を形に残したい。後一歩なんだが。
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